福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

四国八十八所の霊験・・・その40

2018-11-09 | 四国八十八所の霊験
52番太山寺へは51番から13キロです。いつも道後温泉街にはいると道がわからなくなります。1回目は町中の187号線をとおりましたが迷いました。2回目のときは散歩中のおじいさんに道を聞いたのですがよくわかりません。ききかえしていると商店街から店の女将さんらしき人が飛んで出てきました。「わからないでしょう。護国神社にでてそこから川に沿ってどこまでもいくのがいちばん分かりやすいですよ」と地図をさしながらおしえてくれました。2回目はこの道案内どおりに町のはずれの疎水沿いにあるくと遍路道の表示もあるし川の両側にお寺が次々でてくるすばらしい遍路道でした。187号線よりこちらがはるかにいい雰囲気です。護国神社から疎水沿いに少し行くと山頭火の一草庵が右手にあります。一草庵は、自由律の俳人である種田山頭火が行乞流浪の旅の果てにたどり着き、昭和15年10月11日に58才で壮絶な人生を閉じるまで暮らしたところです。庵は閑静な住宅街の一角に小春日和の中穏やかにたたずんでいました。「春風の鉢の子一つ」の句碑がありました。たまたま以前NHKテレビをつけると山頭火の特集をやっていたことがあります。この番組によると山頭火は句会の最中に斃れてそのまま他界したということです。山頭火の「四国遍路日記」です「・・とうとうその日――今日が来た、私はまさに転一歩するのである、そして新一歩しなければならないのである。一洵君に連れられて新居へ移って来た、御幸山麓御幸寺境内の隠宅である、高台で閑静で、家屋も土地も清らかである、山の景観も市街や山野の遠望も佳い。京間の六畳一室四畳半一室、厨房も便所もほどよくしてある、水は前の方十間ばかりのところに汲揚ポンプがある、水質は悪くない、焚物は裏山から勝手に採るがよろしい、東々北向だから、まともに太陽が昇る(この頃は右に偏っているが)、月見には申分なかろう。東隣は新築の護国神社、西隣は古刹龍泰寺、松山銀座へ七丁位、道後温泉へは数町。知人としては真摯と温和とで心からいたわって下さる一洵君、物事を苦にしないで何かと庇護して下さる藤君、等々、そして君らの夫人。すべての点に於て、私の分には過ぎたる栖家である、私は感泣して、すなおにつつましく私の寝床をここにこしらえた。」
 山頭火は四国遍路のあと、御利益をいただいて友人からこの一草庵を貸してもらったのです。まさに遍路のお蔭が出たのです。

52番太山寺は、真野長者開基とされます。真野長者は用明2年(587)船で大阪に向かうとき暴風雨に遭い、観音さまに無事を祈願して救われたので、報恩に一夜で間口66尺、奥行き81尺の本堂を建立したといわれています。その後、天平11年(739)に聖武天皇の勅願で行基菩薩が十一面観音像を彫り、胎内に真野長者の小観音像を納めて本尊にしています。孝謙天皇(在位749〜58)のころは、七堂伽藍と66坊を数えたとされます。大師は晩年の天長年間(824〜34)に訪れ、護摩供の修法をされて、それまでの法相宗から真言宗に改宗しています。のち、後冷泉天皇(在位1045〜68)後三条、堀河、鳥羽、崇徳、近衛の6代にわたる各天皇が、十一面観音像を奉納されており、いずれも本尊の十一面観音像とともに国の重要文化財とされ本堂内陣の厨子に安置されているといいます。なお現本堂は長者の建立から3度目で、これも国宝です。
澄禅「四国遍路日記」には「昔は三千石の寺領なれども天正年中に無縁所となる。今も六坊存す」とあります。江戸初期にはさびれていたと思われます。
頼富本宏「四国遍路とはなにか」には「17世紀寂本の「四国徧禮霊場記」には「五社明神(熊野・金峰・山王・白山・石鎚」の記載がある。臼杵の石仏を造立したとされる真野長者の遺跡との伝承がある。熊野摩崖仏と同様、臼杵の石仏も熊野の影響を受けたものである)とあります。
境内には「みちゆずる ひとおがみゆく 秋遍路」の正岡子規の句がありました。

17年秋は本堂に達筆の聯があるのを扉の間から垣間見ることができました。(その後は扉をしめています。)お大師様の般若心経秘鍵「夫れ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。真如他に非ず。身を棄てていづくにか求めん。迷悟我にあれば、則ち、発心すれば即ち到る。明暗他に非ざれば則ち信修すればたちまちに証す。」のなかから「信修すればたちまちに証す」のところを雄渾な筆で書いています。
これは
要約すれば「仏法は自分の外にあるものではなく中にあるものである。迷いは自分が迷っているにすぎないのであるから人々のために尽くそうという気持ちをおこしさえすれば自分の中の仏性が出てきてそのまま仏になる。悟りも迷いもじぶんの中にあるものだから仏様の教えに従いほんのちょっとみかたをかえ自分をなくすことさえできればその瞬間に間髪をいれずそのまま仏になっている」ということでしょうか。

 高野山奉賛会の会長も務めていた岸信介の書でした。岸信介は昭和の怪物とも謂われた人ですが、こういうお大師様の奥深い教えを書道家よりも素晴らしい字で奉納するとはかなりの人であったのかもしれません。ほかのお寺にも岸信介の謹厳な字体の般若心経の写経の碑を信者が寄進していました。氏は写経を日課にしていたということを雑誌で見たことがあります。深い仏縁があったのでしょう。人の上に立つ人はこういう深い徳をつんでいなければ大変なことになります。歴代の総理や大企業のトップを見ても浅はかな人生を送っているトップはそれなりの結末を迎えています。

52番太山寺から53番円明寺は2キロくらいですぐです。53番円明寺は縁起によると天平勝宝元年、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像、勢至菩薩像を彫り、七堂伽藍を建立したのがはじまりとされています。当時は、和気浜の西山という海岸(今の堀江湾でしょうか)にあり「海岸山・圓明密寺」と称したといいます。
のち、大師が諸堂を整備し、霊場の札所として再興されましたが、鎌倉時代に度重なる兵火で衰微、元和年間(1615〜24)に土地の豪族・須賀重久によって現在地、松山市和気町1-182に移されたそうです。さらに、寛永13年(1636)京都・御室の覚深法親王(後陽成天皇第1皇子仁和寺第21世門跡)からの令旨により仁和寺の直末として再建され、寺号もそのとき現在のように須賀山 正智院 円明寺に改められています。澄禅「四国遍路日記」には「・・寺主は関東辺にて新義を学したる僧なり」とあります。江戸初期は新義の僧が珍しかったのかもしれません。 圓明寺はまた、聖母マリア像を浮き彫りにしたキリシタン灯籠があることでも知られるとされますが私はまだみていません。ここは、アメリカの人類学者フレデリック・スタール博士が大正十三年に八十八ヵ所を巡拝の折、円明寺本尊厨子に打ちつけてあった鋼板の納札の歴史的価値を高く評価したといわれています。この納札は慶安三年(一六五〇)京都の家次と云う人が巡拝中打ちつけたものだそうです。

次の54番延命寺までは34キロくらいです。途中お会いしたいと思っていた手塚妙絹尼の鎌大師堂があるのですがついにいけないまま手塚妙見尼はなくなってしまいました。時期を逃すということは取り返しのつかない損失をすることになります。
 歩くときは大体途中のビジネスホテル来島というところに泊まります。学生時代の友人の名前と同じだったので印象にのこっているのです。
翌日は距離が近いので数寺一挙に廻れます。54番延命寺55番南光坊56番泰山寺57番栄福寺を1挙に回ります。此の日は本堂と大師堂にそれぞれ座してお経を上げますから一日に計十回つ゛つ、理趣経と般若心経をあげることになります。

54番延命寺は、養老四年に聖武天皇の勅願により、行基菩薩が不動明王像を本尊として近見山上に開創、弘仁年間(810〜24)に大師が嵯峨天皇の勅命をうけ再興、「不動院・圓明寺」と名づけられたということです。その後、再三火災に遭い堂宇を焼失していましたが、享保12年(1727)に現在地の近見山麓へ移転しました。この間、文永5年(1268)には華厳宗の学僧・凝然がここで、八宗要綱を著しています。寺にはまた、四国で2番目に古い真念の道標が残されています。この「圓明寺」の寺名は、五十三番・圓明寺(松山市)と同じで混乱するので明治になり俗称としてきた「延命寺」に改めています。2回目の18年12月31日には朝早くおまいりしましたことを覚えています。本堂の縁側には扉を細くあけた前に遍路が座ってお参りできるよう畳が1畳おいてありました。ここに座り寒さにふるえつつ懐中電灯で経本を照らしつつ1時間お経をあげたことを覚えています。

54番延明寺から4kmで55番南光坊です。ここ55番南光坊のご詠歌「このところ三島の夢のさめぬれば別宮とても同じ垂迹(すいじゃく)」は「ここ南光坊に参詣して夢がさめると三島明神(大山祇神社のこと)も仏が衆生済度のために垂迹されたものと分かった」という意味でしょうか。 55番南光坊すぐ手前には大山祇神社があります。文武天皇(在位697~707)の勅願を受けて伊予の大守越智玉澄(おちたまずみ)が、今治沖の大三島に大山祇(おおやまずみ)神社を建立、24の別当寺を建立しましたがその中の一つが南光坊です。

55番南光坊本堂の反対側に向かい合って大師堂があります。
昔の案内書には「出入り自由の大師堂」とありますが今は締め切ってあり、縁側に座して読経しました。
55番南光坊境内には川村驥山(きざん)の筆塚があります。ご子息の龍洲師には書を教えていただいたことがあり懐かしく写真に収めました。
川村驥山(きざん)は、昭和25年に書道家としては初めて、芸術院賞を受けた人です。 彼は昭和29年より令嬢をともなって遍路行。 その時に被っていた菅笠には「応無所住而生其心」(おうむしょじゅうにしょうごしん)と書かれており南光坊に保存されているといいますが拝見できていません。これは金剛般若経にでてくることばで「まさに住する所無くしてその心を生ずべし」と読みます。 「 この世のものは無限の過去から無限の縁により生じ無限に変化し続けてやまないものなのだ。従って一つ一つの目の前の出来事に心がとりついているのはつまらない。本来こころは現象を越えていて宇宙よりも広大無辺なものである。」とでも言うことでしょうか。

55番南光坊のご本尊は88所中唯一の大通智勝佛で御真言は「オンマカ ビジャニヤジャニヤ ノウビイブウ ソワカ」です。
しかし本堂にはご真言は「南無大通智勝佛」と書いています。大通智勝佛は法華経傾城喩品にでてくるほとけさまで、お釈迦様の遥か昔に出現され16人の王子と共に法華経を説かれたとされています。この中の王子の一人がお釈迦様でした。
納経所の人は20年前に廻った時作った私の納経帖をもう一人の中年のお遍路さんに見せ「懐かしいなあ、この字は先代住職の字です」などと解説します。そのお遍路さんは「ほー」と声をあげました。そしてこのおじさんは誰に言うともなく「年末始に自分の年と同じ番号の札所をお参りする人も多いですよ」といいました。長くなりそうなので早々に退散しましたがあとで歩きながら考えるとまさにこの時の、2008年1月1日は自分の数え年と同じ61番の香園寺に泊ろうと予約していたのでした。まったく気がつきませんでした。 不思議なことを気付かせてもらいました。
満60の厄年をむかえる正月にお遍路ができ、しかも元旦に期せずして数え年と同じ61番の香園寺の宿坊にとまることになっていたこと気がつきました。ありがたいことです。そしてなおもありがたいことにこの4年後、高齢出産の愚息夫婦もここの61番香園寺の子安大師様に祈願したお蔭で無事玉のような男の子を授かることができたのです。その時も直ぐにお礼参りにいきました。このような有難い日がこようとは以前は思ってもみませんでした。お参りを続けていると思ってもみない有難いことが起きます。

55番南光坊の隣は高野山今治別院です。ここの前身は蔵敷八幡宮(いまはない)境内にあった須弥山妙観院正福寺で、慶長7年(1674)、今治城築城のために蔵敷八幡宮が遷座した際、別当寺として創建されたとされます。明治の神仏分離で廃寺になった後、明治16年(1883)高野山より弘法大師の御尊像を迎え、高野山出張所として再建、大正2年(1913)現在地に移転、同11年(1922)高野山今治別院と改称しています。鉄筋コンクリート造りです。 境内にはよく幟がたっておりいろいろ仏事をとり行っている様子です。境内には日切地蔵様や弥勒菩薩、ぼけ封じ観音、慈母観音様などがおまつりしてあります。いつもこれらの仏様を拝んでいきます。

56番泰山寺へは簡単な一本道なのですがよく迷います。1回目も迷ったので2回目は南光坊の塀までもどり納経所で教えられたとおり塀に沿ってまっすぐいきました。3キロ位で次の泰山寺へ着きます。
56番泰山寺に掲示してあった縁起です。
「この一帯は、その昔、近くの蒼社川がたびたび氾濫して多くの人命が奪われていましたがある時、お大師様がこの地を訪れ、堤防を築き、土砂加持の秘法を修したところ、満願の日に延命地蔵が空中に現れました。 大師は地蔵尊を刻んで本尊とし、寺を建立し、寺名を延命地蔵経十大願の中の第一『女人泰産』からとって泰山寺と名付けました」とあります。。(十大願とは女人泰産・身根具足・衆病疾除・寿命長遠・聡明知恵・財宝楹溢・衆人愛敬・穀物成熟・神明加護・証大菩薩です)
境内の「不忘(わすれじ)の松」はこの時、大師が記念に植えられた松であると伝えられていますがいまは何代目かのまだ若い松でした。
泰山寺の「塔の元」という場所は、鎌倉時代の学僧で、『八宗綱要』を撰述した凝然の誕生地とされています。
昭和56年発行の朝日新聞「ふらり巡礼」には当時の56番泰山寺では「他のおおくの寺が宿坊を廃止するなか、 100人は泊まれる宿坊を続けている。」とか「住職もお遍路をしつつお遍路さんに「同行新聞」を発行している」という趣旨のことが書かれています。
いまはどちらもやっていませんでした。しかしそんなことは我感知せずとばかりに年末の閑散とした境内に若い夫婦らしき遍路が来ました。
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