最近BSでは歌謡曲、それも演歌を中心に聞かせる番組がいくつかあります。このままでは演歌は無くなってしまうといった危機感が政治家にもあり、そうした空気とテレビを見るのは高齢者が多いといった空気から、歌謡番組が復活してきたのかと思います。これだけテレビチャンネルが増え、人々の好みも多様化したことから、国民的歌手といった芸能人は今後出現しないでしょうが、演歌という歌のジャンルは民謡のようにマニアしか聞かなくなるように思います。それはなぜでしょうか。
演歌を聞いていると、まるでかつてのヤクザ映画のようにある種の様式美があるように感じます。その様式美が現代に合わなくなってしまったのです。演歌の主題は、故郷(田舎:都市)、悲恋(水商売の女:既婚の男)、流れる男(女):定住する女(男)、耐える女:捨てる男といったものや、酒、港、漁などがほとんどでしょう。元来演歌とは、風刺や抵抗から始まったはずなのですが、政治に抵触する主題をそぎ落とし恋愛と仕事の歌だけにしてきました。世情に無関心を装うことで芸能としての延命を図ってきとことが、世の動きにうとく独りよがりの世界を構築してしまうことになってしまいました。
女性の演歌歌手の歌を聴いていて思ったのは、江戸時代からの悲恋のシチュエーションの伝承です。江戸時代の悲恋といえば、廓の女と町人の男との道ならぬ恋です。遊郭は大店の旦那がゲームとしての恋愛を楽しむ場なのに、若者が本気で花魁に恋をして、どうにもならない間柄を心中という形で成就するというものです。結ばれるための障害が高ければ高いほど、悲恋の度合いも高まって人気度が上がる。それが近代、現代に舞台を移せば、水商売の女と既婚の堅気の男となります。成就するはずのない恋に涙を流す女の心情を歌い上げる。ある面、男の作詞家の作り出した男を気持ちよくさせる場面設定を、いつまでも引きずり続けました。若者からそんな歌が好まれない、若者の心情に全く訴えなくなってしまったのです。はっきりいいます。演歌は滅びます。しかし、演歌のメロディーは残ると思うのです。演歌で恨みの歌、抵抗の歌を作らないですかね。
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