民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

不良少年の暴走

2016-08-30 09:18:24 | 教育

8月が終わろうとしています。長野県では夏休みは、盆が終わるとすぐに終わってしまいました。とことが、今年は全国中学校体育大会の会場が北信越で、いくつかの競技の会場となった地域では、大会運営に合わせて夏休みが延長されたようです。それにしても、もう2学期は始まっています。全国的には、9月1日から2学期が始まる地域が多いでしょう。そんな夏休みが終わろうとしている今、いじめによる自殺や、不良少年グループによる暴行殺人という、痛ましいニュースが告げられています。

不良少年に対して、最近は「やんちゃ」な子どもだという婉曲な表現がなされますが、売春を援交といいかえるのと同じで、いやな感じがします。触法行為を繰り返す若者は「不良」なのです。それを「やんちゃ」などというと、あたかも誰でもが通り過ぎる思春期の大人への反抗のようにうけとられますが、そんな高尚なものではありません。彼らは暴力による序列をすぐつけ、弱いと見たら徹底して食い物にします。そして、自分が助かるためには平気で嘘をつくし仲間を売ります。そのくせ、仲間を抜けようとする者には容赦しません。取り調べる生活安全課の警察官など、友達だとおもうくらい馬鹿にしています。顔見知りになるくらい補導されているのです。では、刑事課の刑事ならおそれいるかといえば、全くそんなことはありません。慣れない刑事が、少年だから追求していけば真実を話すはずだ、などと楽観的によんでいたら、完全に裏をかかれて、みんな言うことが違って袋小路に入ってしまいます。予断を排して事実を積み重ねる以外にないことは、少年事件も一般の刑事事件も同じことです。少年の更生はその先にあります。人権から入っていくと、事実は明らかにならないと私は思います。

いじめによる自殺にしろ不良少年グループの暴行殺人にしろ、日本人の同調圧力のなせる業だと私は思います。それは、不倫の当事者を完膚なきまでに叩きのめさなければ満足しないマスコミと視聴者のも現れています。高畑さんも、被害者に謝る以前に自らが叩かれるかもしれない視聴者に謝りました。なんの被害をこうむったわけでもない視聴者に、何でまず謝らなければいけないのでしょう。芸能人が何かするとすぐに非難し、それがどんどんエスカレートしていくのと、不良少年グループがターゲットと定めた弱い者に加える暴力を、死ぬまでエスカレートさせていくのは同じ構造です。


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