民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

夏の終わりに

2013-08-24 11:19:00 | その他

秋雨前線が発生して、昨日は久しぶりの雨で今日は曇り。盆明けで夏の名残を感ずるこの時期、いつもブルーな気分になります。それは、夏休みは終わるというのに手つかずの宿題が山のように残っていて途方に暮れる、といういやな気分の連続から大人になっても抜けだせないで、この歳までなってしまったということなのです。今も覚えているのは、押し花を作るという宿題です。休み帳の宿題にそんなのがあることを、休みが明日にも終わるという日に気が付きました。いったいどうしたらいいのだ。やってませんといえばいいのに、それをいうのがいやで、なんとかならないものかと、それこそ泣きの涙でした。結局親になきついて、近所から集めてきた植物を新聞紙にはさんで板の間に置き、上から大きな重い石を乗せて、2日ほどで即席の押し花を作ってもらいました。夜中までかかってその他の宿題は終わらせ、何とか登校するという毎年の夏休み明けがトラウマとなり、今もこの時期には暗い気分になってしまうのです。では、在職中に夏休みの宿題は全廃すればよかったのですが、できるだけ家庭に返して宿題は少なくとお願いするのが関の山で、担任の先生方へのお任せでした。それどころか今は、夏期講習とかいって宿題のほかに、塾の勉強とかもやらされる子どもたちは、本当に気の毒です。

盆明けのブルーな気分の上に、落としどころがはっきりしなくて、原稿の執筆もなかなか進まないことが、落ち込む気分に拍車をかけています。ゆうべ見たNHKの、死者に会ったという番組も重いものでした。亡くなった人に思いがとどまり、どうして会いたいという心に固まってしまうことは、未来を生きる力を奪ってしまうのではないかとも思われます。しかし、精神科医が、自分たち以上に死者が生者を癒しているといっていましたので、ある時期亡くなった人を真剣に思うことが、生きるエネルギーを養うことに繋がっているのかと思います。亡くなった人が現れ、恨み言をいうのではなく自分は大丈夫だから心配しないでと告げて去ってゆくのは救われます。遠野物語にある、死んだ妻が以前につきあっていた男と海岸を歩いていくのを見た話は切ないものですが。多分、死者が「私は大丈夫」と伝えた話と同じくらい、「何で助けてくれなかったの」という話は埋もれているのかもしれません。この世とあの世とが合わせ鏡のような世界であったら、死者の想念で空間は満ちているのかもしれず、それよりは死者は仏となって全く別の世界にいく、あるいは別のものに命を与えるなどと考えた方が、生きる者の心は平安でいられるのかもしれません。


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