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流出雑記 

最近思う事

2012年10月12日 | Weblog

iPhoneのなかに入っている音楽をカラにした。自転車に乗るときシャッフルで音楽を聞いているが選曲がどうもばちっとこなくて、片手でiPhoneを振りながら手動でシャッフルさせているうちに目的地に着いてしまう。選曲が悪いのでなく入ってる曲がなんとなく離れてきていると薄々感じてはいたが、やはりそうでカラにした。次に聞きたい音楽がわからないのでまだカラのまま。

ばら。ディオレサンスの次に買ったアンバークイーンの初開花。名前の通り琥珀色の花が咲く。香りはアールグレイにハチミツを入れたときの如く。ベルガモット、ティー、ハニー。上立ちが飛んだ夕方には緑茶石けんに近かった。

今後のばら計画。ディオレサンスはモーブ、アンバークイーンは黄橙なのだが、ばらでグラデーションを作りたい。モーブより強い紫はディオレサンスと同じデルバール社のシャルトルーズ・ドゥ・パルム。モーブと黄橙の間にベージュ系のこれはずっと欲しいばらエヴァンタイユ・ドール。この4つを並べてみたい。どのようになるかイメージするとこのよう。

 

シャルトルーズ・ドゥ・パルムもエヴァンタイユ・ドールも近所の園芸店に置いてあるのですぐにでもこの計画は実行できるが、手がでないのは値段が高いため。両方買って鉢も買うと1万円飛ぶ。ネットだともっと安いが、今は予約の苗しか出ていない。

あと粉粧楼というチャイナローズ。これは嗅いでみたい。携帯のなかの欲しいばらリストにはもっとたくさんの名前が咲き乱れているけれど。

土を入れ、乾けば水、悪い葉を取り、枝を整理し、時々薬。私がするのはそういう手助けくらいで、それだけで花は咲くという偉業を成し遂げる。 

手はなんの為にあるのか。こういう自分には到底作る事の出来ないものに触れることはその理由のひとつに数えられる。

最近思うこと。

自分が何かを作れると思っていることがとてもおこがましい。やれることはせいぜい既にあるものに手を添えていくことだ。自分が/何かを/というのが決定的に誤りであるように思える。主体は常に自分以外のものになければならないし、それで良く、それがまったく正しいように思う。しかし私というものは無いわけではない。これは何か為そうとするときの「私」という主語の置き所の問題だろうか。

一昔前のある出会い1。大学に入ってすぐ、常に何か作らなければならないし、それによって己を確立すべしと意気込んでいた頃、とある喫茶店で働いていた。そこでであったある女性。少し年上で、間違いなく人の目に止まる群を抜いた美しさをもった人だったがとても控え目で、まるで早すぎる隠居を決め込んだような彼女は、日々薄暗い喫茶店のウェイトレスをしていた。芸術にも造詣が深いとみえ、鑑賞するのは好きなようだったが、ある時、私は表現するのが嫌なんです、と言った。その頃の私はそんなことを思った事がなく、むしろ表現することが存在理由のように思っていたので、なぜ彼女が嫌だと思うのか、理解できなかった。理解できなかった理由はいまなら説明がつく。その頃の私が今よりもっと何も知らなかったからだ。

一昔前のある出会い2。大学在学中に出会ったある詩人。言葉で詩を書くだけでなく平面の作品を出した個展などもしていた。そのときの作品。細かいところは正しいかどうか既に怪しい記憶だが、ポラロイドを2枚表同士合わせてどのくらいの期間か置いておく。あるときにその2枚を剥がすと、ゼラチンの部分がひっついて剥がれるので意図しない抽象的な柄が表れる、それを額に入れて飾るというような作品だった。実際に見ると、手で描いたりできない細い稲妻のような線が入っていたり、それ自体魅力的だった。そのとき詩人は静かに笑いながら、僕は剥がすだけ、と言った。 それを聞いてずるいと思った。必死でああでもないこうでもないと塗り重ね自問自答し、作るという意識に急かされたり濁されることのない、剥がすだけ。もちろんそこに至までの道のりが平坦ではなかっただろうことはなんとなく想像される。力を抜くという事は簡単なことではないから。

 

表現するのが嫌なんです  剥がすだけ

 

 

さてどうしたものかと思っているのです。と、思っている者がここにいてしまう。

 


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