朝の戸に ジャスミンの香の 待ちわびぬ
梅士 Baishi
四泊五日の旅から戻って、いつもの暮らしに戻った。
朝、戸をあけると、ジャスミンの香りに包まれた。
自分の古巣に帰ったという安堵感が広がった。
ジャスミンの花はうれしそうに香ったのであろう。
四日間も水遣りをしていない。
早速水遣りをした。
植物たちのうれしそうな声が聞こえるようだった。
子供のころから植物たちとは話をしていたような気がする。
しかし、鳥がもたらした山の大木の木が成長していた。
ここに成長するにはバランスが悪い。
仕方なく、新緑の細い木を剪定した。
政治にも、命を削ることがやむを得ないということがある。
天然自然に任せられないのが統治である。
人時所はダイナミックに求められる場面がある。
仕事の準備も切迫しているが、司馬遼太郎の「項羽と劉邦」を
読み始めたら、また夢中になり始めた。
大将軍、英雄には憧れるが、自分がそうなりたいかというと、そ
こまで世話好きでも人間好きでもないと思う。
大きな器は、わいわいとした人間の中を楽しめる太さがある。
無我とはそういう境地にもなるのだろうか。
自分はどちらかというと一匹狼的である。
既に大将、政治家、経営者の器ではない。
宦官政治の臭いが嫌いなので、官僚向きでもない。
かといって、雑多な人間の俗という自由の軽さもあまり好きでは
ない。
ギャーギャーとギャラで騒ぐ芸能番組などは大嫌いである。
特に、明石家サンマの番組は神経に触る。
劉邦であったならば、ああいう芸能人の類も賑わいとして引き
連れたであろう。
それを目指すべきなのだろうか。
実際、地球神はそのようにしているのである。
劉邦はすでに小さな地球のようであったかもしれない。
その劉邦が今は映画監督として宇宙人を引き連れて歩いてい
るような感じである。
中には無頼のエイリアンもいて観客を驚かせるのであるが、そ
れもまた、スピルバーグの子分のようでもある。
教育は必然、私的潔癖では務まらない。
ずいぶんと柔軟になった。
卒業生からも優しくなりすぎていると驚かれたことであった。
愛とは法家を奉じた秦の支配体制のようであっては成り立たな
いものである。
現代の法体系も、秦の支配体制に近いのではないか。
法の支配とは、法が神意に支配されてこその秩序である。
しかして、神はまず愛なのである。
信仰もまた、潔癖であっては愛を見失う。
信仰も法も、適度にフレキシブルである。
幸福の科学の組織も、小さな権力派閥であって、大物が入ると
いう間口ではない。
支部組織はなんのためのものなのかと疑問である。
せめて一流旅館のようでなければならないのではないか。
庶民向けの旅館も必要だろうが、それだけでは英雄を得ること
はできない。
まだまだ、これからイノベーションを必要とする遺構というべき
組織なのだろう。
器ということについても、いろいろと考えさせられることである。
【 ベンチャー事業の大義について 】
事をなすのは組織力である。
組織を結集するのが企業家としてのリーダーシップである。
しかし、大将の器と認められなければ人は力を貸さないし、まし
て命を預けることはない。
器の要素として、出自のブランド、学歴ブランド、経歴ブランド、
神話的ブランドが社会的条件としてある。
それから、ブランド相応の実力、風格、実績が求められる。
小保方晴子さんは、嫉妬されるほどの実績・実力に加えて幸福
の科学によるお墨付きが与えられた。
ガリレオガリレイ、キューリー婦人という過去世の認定が、現在
の実績を正当に評価するブランド効果を持っている。
若くしてノーベル賞を受けうる適格をもったといえる。
もっとも、ノーベル賞に代わるハッピーサイエンス賞を創始する
時が遠からず来るであろう。
幸福の科学は、人類史上稀なる奇跡の教団である。
世間的ブランドを越えた格付けの権威を持っている。
しかし、実績なくして過去世認定を得たところで世の中は、そう
かもしれんけど方便で使われたこともあるからねえと、保留する。
それが、幸福実現党の現状であろう。
誰にでも可能なブランドは、小さな成果をコツコツと積み上げて
行く累積的下積みのブランドである。
これには、誰もが敬意を払う。
日本政治の後継は幸福実現党以外に見当たらないのであるが、
若い候補者たちには世間を納得させるだけの下積みの苦労が足
りない。
小なりといえども、大将の器を自らに問うべきであろう。
何をなすべきかが少し見えてくるのではないか。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・ 梅士党