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2007年01月20日 15時22分07秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

  ストーブと   バッハの波に    書を浮かべ


      馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 バッハの旋律には神の光が射してくる。

 音楽は霊的である。

 普通には精神的というのだろうが、現代の精神は脳みその電気信

号らしいのだ。

 そうであれば、精神的という言葉はバッハに失礼である。

 音楽はすっかりCD化されてしまったが、豊かな時間を感じるには、

アナログなレコード針がよい。

 

 ヨーロッパでは再びレコード人気が高まっているらしい。

 アナログには伝統の儀式のような豊かさがある。

 デジタルは粒子であり、アナログは波である。

 どちらも光の性質である。

 

 ならば、今後、微細な光学的アナログ波のレコードとその波を拾う

光ピックアップの針を開発すれば、光のレコード針で温かなアナログ

の音楽を楽しむことができるのかもしれない。

 

 

 

《自由のゆくへ》

 人生を左右する岐路では、信じるか信じないかという選択を迫ら

れる。

 学校の選択も、職業選択も、結婚も、そして信仰も。

 選択をするのは、その人の価値観、人生観である。

 すなわち、「自由」とは選択であり、その本質は信仰のごときもので

ある。


信じる力、それが人生を左右する。




 目に見えて証明しなければ存在するとは言えないとして、目に見え

ない世界を葬るのが科学信仰である。

 すなわち、現代の科学認識は、物理的現象世界に閉鎖された視界

に過ぎない。 

 

  しかし、科学論理や現象は所詮現象にしか過ぎない。

 それは、物事の本質を意味しない。

 目に見えない本質の手がかりが実証的に捉えられることがあると

いうに過ぎない。


 目に見えない本質の原因もまた、目に見えない世界にその端を発

しているはずである。

 科学は唯物論の呪縛を解くことにこそ最大の課題があるというこ

とに気づかなければならない。

 自由の本質もまた同じである。

 

 たしかに科学技術は多くの便利を提供してきた。

 さまざまな事象の仕組みの一端を認識させてもきた。

 しかし、善悪の観念や美意識を見失わせてもきた。

 唯物論の罪である。

 仏神を排除する罪ということである。


 目的合理主義の「目的」そのものが問われているにもかかわらず、

方法論の合理主義ばかりが先行した。

 

 

 

              朝もやの橘湾

 


 自己中心の自由、これが、現代社会の重い病気である。

 しかも、その自己とは、肉体我の欲望である。教育の実態でもある。

 「美しい国日本」とはおよそ違った方向の「自由」がまかり通っ
てい

るのである。

 

 唯物的自由とは、肉体我を束縛しないことである。

 権力によって束縛されないこと自体が人権としての価値だというの

である。

 その結果、「信仰の自由」とは信じない自由を含むという。

 同様に、「学問の自由」も学問をしない自由を含む。

 「職業選択の自由」にしても何を選ぶかの自由だけではなく、
職業

を選ばない自由、経済活動をしない自由(ニートの自由)も人権とし

て国家は尊重しなければならない。

 

 これが憲法学者の唱える人権論の論理的帰結になる。

 倫理道徳なき国家論が前提の人権論が展開されている。

 


 なぜ信仰なのか。

 信仰が人間の幸福にとって本質的な価値だからであろう。

 信仰なくしては倫理道徳も人生の試練も不合理なものとなるであ

ろう。

 

 なぜ学問なのか。

 学問が人間の幸福の資源となるからである。

 学問なくしては心の豊かさは得がたいものだ。

 大切なものであるからこそ人権の項目に上がっている。

 人権とは、「幸福」に本質的なものとして尊重されるのである。


 

 では、幸福とは何か。

 それは、人間関係としての幸福にほかならない。

 他人に喜んでもらえることの幸福と言ってもよいであろう。

 そのために人は己を磨き、役に立つ人間になろうと努力する。

 

 ところが、憲法学者の幸福論は、個人としての幸福論、欲望
の幸

福論である。

 ただし、他者との利害関係でやむなく制限されることがあるという

論理である。

 もらうことの幸福、奪うことの幸福、それが現代人権論である。

 実に醜悪である。

 美しくないのである。

 だから、憲法制定には、憲法学者にとらわれてはならない。

 


 人間は神、仏の子であろうと思う。

 創造する権限を与えられているからである。

 しかし、小さな神様が無数に産み落とされた。

 そこに、善悪の起源がある。

 子供たちがその偉大なる親を知って、力を合わせて新しい繁栄を

めざすところに善という観念がある。

 堕落すること、傷つけること、嘘をついて裏切ることは悪である。

 

 確かに人は、堕落することもできる。

 犯罪人になる選択もできる。

 しかし、その選択を人権として国家が保障するとはいわないであろう。

 裸の自由には、選択可能性という意味はあるが、その選択が正し

いことを意味しない。

 選択には、必ず責任を伴うものである。

 

 好ましくない選択に対しては非難され、制裁されることがある。

 それを、自由権の保障というのは、言葉の意味として適切ではない

であろう。

 正しい選択を示唆することが憲法としての人権論でなければなら

ない。

 項目だけの人権論に学問としての価値はないであろう。


 

 新しい、日本国の憲法を制定するに当たり、人権の本質に「善」

という観念が必要である。

 「人間関係としての幸福を探求するところに人の道がある」とい

倫理道徳の観念が必要である。

 人の支配ではなく、『王といえども、主権国民であろうとも、まして、

マスコミ権力であろうとも、神と法の下にあり』。

 『立憲民主主義』の本旨である。

 

                        馬糞 Bafun 

 

 

 

 

 

                諏訪の池の鴨

 

 

 

 

 

 

 

 


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