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+ 「東の国」に梅かおる・・・ 国家に冠すべき神聖  『立憲・民主主義』の論理  

2007年01月28日 11時30分53秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 梅栄り   東の国の   風ゆきぬ

   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 今年は特に早いのだろうか、東公園の梅が早くも紅梅

梅に咲き始めた。

 梅の花は日本人がこよなく愛してきた花である。


 早春の寒風の中に凛として気高く、寒青の空に映えて

紅梅白梅に咲き分ける。

 日本人が日本の伝統と共に見失ってきた気高さの香り

である。

 脂臭いアメリカ文化にはない美意識に咲く花である。

 

 仏陀が入滅のときに語った仏陀再誕の地「東の国」や

まとの春の香りが北風に乗っている。

 

 

 

 

 同様に、日本人が見失ってきた美意識に、「神聖」と

いう言葉がある。

 聖業という職業観も見失われた。

 聖なるものを、隠れキリシタンのように隠し持たなけ

ればならないような社会に堕落した。

 それが現代日本である。

 

 本来、職業は聖業である。

 尊い働きである。それが、プロフェッショナルの精神

である。

 その代表が教職であり、医療職であり、政治家の仕事

あった。


 現代の青年たちに、聖職ということが分かるだろうか。

 

 憲法学者らに「民主主義の根幹である」と賞賛される

マスコミ業であるならば、「マスコミ業は聖業である」

と書いてもよさそうであるが、誰しも違和感を感じるで

あろう。


 憲法学者がどんなに権威化しても、「聖業」という品

格ある働きはしていない。

 むしろ、他人の不幸で食っているといえる側面が強い。

 スキャンダルといえば、マスコミが生み出す村八分の

暴力ではないか。


 

 なぜ、聖業が姿を消したのか。

 「大衆」の職業観に信仰が失われたからである。

 世の中の評価基準が、美意識から欲望の満足度に変わ

たからである。


 これが拝金主義である。

 企業は大衆の欲望に迎合することによって儲かる。

 芸能も芸術も、大衆の欲望満足に迎合するほど著作権

収入が増える。

 マスコミも政治も同様である。

 

 人間中心主義が集まると大衆中心主義になる。

 大衆中心文化、大衆中心資本主義、大衆中心メディア、

大衆中心民主主義・・・

 

 大衆とは、すなわち、多くの者が努力せずして楽しめ

る欲望に他ならない。

 それは多数決によって正当化される。

 

 企業がマスコミに求めているものは視聴率であって、

正しさや品格や愛国心ではない。

 

 「商人に愛国心は関係ない」というだろう。

 結局、品格のないマスコミ権力を支えているのは、そ

のスポンサー企業であり、大衆迎合の拝金主義に他なら

ない。

 

 同様に、大衆中心民主主義は聖なるものを否定こそす

れ、聖なる価値観はない。

 それが、憲法学者の人権観であり、民主主義観である。

 

 政治もまた正式なやくざ家業でもあるかのように国家

の政策論議の場で悪口雑言を尽くして罵り合っている。

 およそ、聖業の姿ではあるまい。

 そのように、マスコミに「報道」されている。

 

 マスコミばかりの責任ではない。

 テレビで討論しても、共産党、社民党、民主党そろっ

て、悪口雑言の域を出ないのだから。

 

 

 

 

【立憲・民主主義の論理】

 政治は神聖でなければならない。

 「王とえいども神と法の下にあり」という法の支配の

原理が、権力の正統性には不可欠の根本原理である。

 

 

 「民主主義といえども神と法の下にあり」。

 これが、立憲民主主義の理念である。

 政治とは民意である前に、神の心に適うものであるか

どうかが計られなければならない。

 神の心を推し計るもの、それが法の精神である。

 憲法が問うべき法源である。

 

 政治家もまた、神の意を代弁するものでなければなら

ない。

 それなくして国民の意思を反映すれば、欲望の政治、

弱肉強食の政治にならざるを得ない。

 

 大衆民主主義とはおぞましい政治である。  

 

 人の上に神の意思というべき法がある。

 立憲民主主義というべき考え方が大切である。

 そこにいう「憲」とは、神の意思である。

 神を見失えば、人は傲慢になり、欲望に堕落する。

 

 『民主』の本義は、権力者のための政治であってはな

らないという戒めである。

 国民は国家に対して責任を持てという理想でもある。

 国民という名の利害を代表せよというのであってはな

らない。

 

 現代の民主主義は、欲望の民主主義、無責任な「世論」

治に堕している。

 しかも、愛国心を拒絶する非国民が教育を蝕んでいる。

 もっとも警戒すべき大衆民主主義という病気である。

 

 「民主」を冠しても、人の上に仏神への畏敬がなけれ

ば、人の支配に他ならない。

 

 人の支配は、社会主義国家に見るように、いかに理想

を掲げようと独裁を生み、恐怖政治を生む。

 民主主義は独裁へのブレーキを踏みながら走る制度で

あるが、いずれ堕落か独裁かに陥らざるをいない。


 『立憲』とは、『神聖な』という意味である。 

 人の上に、仏神とその法がある。

 神聖日本国を新生日本の本源としてほしい。 

                      

梅士 Baishi

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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