連休は チューリップなど 明々と
中村 梅士 Baishi
連休が終わって、次の瀬は盆休みなのだろうが、自分
には戦の最中で、盆休みの暇はない。
瀬があるとすれば、それは9月の頃だろう。
何処にも行かなかった連休という印象だが、昨年は志
賀島に渡り、宿の部屋にツバメが何度も入り込んだのだ
った。
ツバメの巣作りが始まっている頃である。
四日続けて走った結果、全身が疲労した。
それから二日間オフにした。
軽く走ってみたが、足の筋肉痛はとれていた。
また明日走るとしよう。
なぜ走るのか。
過栄養による肥満防止と、苦しさを体験できること、
そして、走った後の爽快感とさらさらの血流が心地よい
からである。
同じような効果は水泳でも体験できるのだが、1500m
を泳ぎ続ける水泳体力は削ぎ落ちてしまった。
山歩きもしたいのだが、一日が潰れることが惜しいと
思う。
連休中でも、一日を運動に費やすのは惜しいと思った。
かといって、一日に何ほどの読書ができるものでもな
い。
書中に入ると、いつの間にか夢の中に引き込まれてい
るからだ。
今日は中村敏雄の『近代スポーツの実像』を読んでい
た。
新しい知識や思考に出会うと、連想の異次元に吸い込
まれ、眠っているのである。
確かに、スポーツは世界共通のルールの下に普遍的価
値を持って公平に競い合える運動競技文化だというのが、
教科書的な理解である。
しかし、果たしてチャンスの平等や公平が共有されて
いるのかというと、現実にはそうなっていない。
オリンピックや国際大会にしても、白人の作った競技
ルールの下で、体格において優位性を持つ白人の優越を
有色人種に見せつけるために効果があったといえなくも
ない。
なぜ体格差ができたのかというと、マサイ族とピグミ
ー族の違いのように、遺伝子レベルの影響もあるかもし
れないが、栄養の違いが大きいという。
確かに、最近の日本人の子どもは大柄になっている。
フェアなスポーツ文化を考えれば、バスケットやバレ
ーなどは、身長別の競技にするべきであろう。
ラグビーなども、体重別にするのがフェアであろう。
もっとも、健康のための運動は一人でもできる、歩く、
走る、泳ぐということが基本であって、スポーツ競技で
ある必要はない。
健康のための運動習慣作りが「生涯スポーツ」の中心
テーマでなければならない。
競技はあくまでも交流の楽しみであったり、運動の動
機付けに意義がある。
国には、歩く、走るための、環境整備責任がある。
アスリートスポーツは、「見せるスポーツ」である。
単なる勝ち負けではなく、勝敗の緊張の中に描く精神
性の表現に真価が発揮される。
この点、今年現役を引退したイチロー選手に学ぶべき
ところが多い。
スポーツのジャンルには三つある。
教育としてのスポーツ、健康のための運動習慣、運動
競技としてのアスリートスポーツである。
相互に重なり、影響し合っている部分はあるが、中心
論点はそれぞれ異なることを意識するべきである。
国は健康スポーツに対しては、医療以上の投資をする
べきである。
教育としてのスポーツは、教育の原点として、教育改
革の柱とするべきである。
アスリートスポーツは、単なる娯楽ではなく、国家的
ブランド価値として取り組むべきである。
そのためには、文科省を廃止し、スポーツ庁に統括さ
せるべきである。
「スポーツ」という言葉につきまとう偏見を払拭する
ためには、「運動文化省」でもよいのではないか。
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
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