肩肘を 吹き払いたり 秋の空
梅士 Baishi
この世はとかく肩肘を張り、不都合は他人のせいにして
無責任がはびこる世の中である。
権力上位はルールの治外法権、あつかましく肩肘を張る。
しかし、それもちんまいコップの中の利権のこと、うんざり
とする。
とはいっても、コップの集合体が国家になるのであれば、
コップの中が正されなければ病変はなくならないというのが
理屈であろう。
この世の権力に、あの世に淵源する権威を立てなければ
なるまい。
これが、政教一致、正義を明らかにすると言うことであ
ろう。
だから、さじを投げてはいけないのだ。
人間の獣的においは嫌いだが、本来は神聖な資質が生命
の本質なのだから。
その意味で、多少問題のある宗教信者であっても、「神」に
帰依しない者よりも高等なのだと思う。
邪教というのは、実は、神の名を騙りつつも、人間の自
我・我欲に心地よいすり替えをしている。
正義が分からないところが邪なのであるが、それでも、
この世ならざる権威を認めるだけでも、唯物思想よりも筋が
いい。
人間というのは、神に悪態をつきながらも離れがたく神を
求めている未熟な存在なのだと思う。
未熟とは、存在の根拠と発展のベクトルと言うべき未来の
ビジョンが見えない盲目的状況を言う。
抽象論に見えるかもしれないが、抽象とは、具象に含ま
れる普遍的真理を描こうとした方程式の創意なのだ。
アングルをぐ~っと引いた鳥瞰図というべきであろう。
抽象とは、複数の動的具象の動的交点の軌跡である。
非難される抽象とは、具象に依拠しないごまかしを言うの
である。
観察なくしては抽象もまた、ないということだ。
しかして、観察とは物事に対する温かな関心である。
その点、マスコミ的関心は、他人の不幸を探そうとする
悪魔的関心である。
マスコミとは他人の不幸を獲物とする悪魔である。
その意味では、CMや広告は、育てようとする宣伝である
からマスコミの悪魔体質に対する抗体というべきであろう。
ところが、それさえも、支配の道具とされている。
言うことを聞かないと、只で悪い報道をするぞ、という脅
しである。
マスコミを叩き潰すには、育てる報道であるCMを悪魔的
マスコミ本体から切り離して自助努力の報道力を構築す
るべきであろう。
企業組織としての報道チャンネルを持つことだ。
それが、これから可能となる。
報道の信頼性とは、独占ではなく、ニュースソースにな
ければならない。
マスコミは、ニュースソースを秘匿する。
しかし、秘密情報にどれほどの信頼性があるだろうか。
それならば、個人の発信する暴露記事でよい。
個人報道も複数の個人報道の交点を結べば信用が出る。
それがブログメディアであろう。
まずは、打倒、NHKである。
かならずや、民営化させる。
必ずや、獅子身中の虫をあぶりだす。
そうすることで、「市民団体」と称する反日左翼の共産党、
社民党、民主党勢力を撃退することになるであろう。
彼らのスポンサーこそは、マスコミであり、韓国、朝鮮で
あり、北京政府である。
これを解体することが、わが生きがいである。
邪悪を成敗したい。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
梅士 Baishi