手のひらに 野いちごつみし 花群れて
梅士 Baishi
野いちごの花が群生していた。
ルビーのような子供苺がたくさんなるのだろう。
野いちごを手のひらにいっぱいつんで、喜び勇んで家に持ち帰った
子供の頃を思い出す。
2007年の春だったか、野いちごを三粒見つけて、父母に食べてもらっ
た。
懐かしい味がしたはずだ。
白地の花に紅い苺が見える待ち遠しい花であることよ。
【悪魔と天使の裏表】
大川隆法著 幸福の科学出版刊『エクソシスト入門』を読んだ。
幸福の科学では今、活発に公開交霊インタビューをしているらしい。
今回驚いたことに、おそるべき大魔王筆頭のRuと日本の魔王カクを
招霊したのである。
その記録が『エクソシスト入門』に収められている。
魔王というのは元は大宗教家、大リーダーなのである。
チンピラやくざとは格が違うのが分かる。
一体、何が悪魔の本質なのだろうか。
「地上を繁栄させよという神の命を実現したのに、なぜ、地獄に堕ち
なければならないのか」とRは主張する。
「多くの者を救済するために一条思想を説いたのだ。それなのに、な
ぜ迫害され、地獄に封じられなければならないのかとカクは憤る。
確かにその通りであれば、その反論には同情すべきところがある。
しかし、天使と決定的に異なる共通点があるのだ。
それは、地上に繁栄をもたらすために、多くの民を救済するためにと
いうが、本音は五感煩悩に基づく欲望の実現のためにという執着であっ
たということである。
世の為人の為といいつつ、この世における支配権勢欲、名誉欲が中
心だったのではないですか、という実態がある。
だからこそ、恨み心と嫉妬の地獄に堕ちたのではなかったのか。
使命感と欲望が摩り替わらないように、常に謙虚に反省しなければ
ならない。
リーダーの責任の重さ、誘惑の大きさを警戒しなければならない。
一見正論のように見えても、その言葉には明らかに、愛がなく、品格
がなく、恨みと嫉妬の念がその知性や念力を支配しているのが悪魔の
本性なのだった。
愛とはあたたかな心である。
他人の幸福を願う純粋な正義感である。
そして品格とは私利私欲・自己保身を離れた美意識である。
どんなに知識が豊かで頭が良くても、その思いに愛がなければ、悪
魔にもなる。
心しなければならないことである。
権力も地位や権威もない自分には直接関わりない大悪魔のことでは
あるが、戦争を画策し、幸福の科学を攻撃する大悪魔のことである。
その本質を知り、心眼を磨かなければならないと思う。
【不遇を恨まず克服する方法について】
自分が不幸だと思う人がいるならば、自分が不幸だと思うその心根
をこそ反省しなければならない。
自己中心の不満と不安と恐怖に凝り固まった感情が不幸意識に他
ならないからだ。
かわいそうに、と同情すべき不遇はあったであろう。
しかし、それが恨みになったのでは、悪霊悪魔とかわらない。
耐え難い暴力的環境にあるならば、不幸だと嘆くのではなく、その環
境を脱出して救済を求めるなどの対策をとらなければならない。
それは恨み心ではなく、智慧と行動で解決しなければならない試練
である。
家庭の崩壊は、チンピラ小悪魔どもの仕業もあるであろう。
家庭崩壊から子供を救済するために国家救済院を設ける必要はあ
るだろう。
もちろん、公設民営化によるべきであり、幸福の科学に委ねるのが
最もふさわしいことであろう。
駆け込み寺のような施設があればよいとおもう。
全寮制の学校にすればよいのだ。
天使が舞い降りて愛を注ぐであろう。
そうした対策は必要である。
しかし、わが身の報われないことを恨むべきではない。
恨み心を正当化してはなるまい。
ここが修行の難しい正念場である。
恨み心、裁き心、これこそは悪霊悪魔が越えられなかった試練課題
であるのだろう。
温かな心を見失ってはならない。
愛を見失ってはならない。
愛を見失ってはならないのである。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
梅士 Baishi