すぶんろこ!のジャパニーズドリーム

■『すぶんろこ』とは、コロンブスの逆転の発想

■日本国独立宣言!「日本国憲法」無効宣言、日本軍再構築宣言!

+ 精霊舟の鐘・・・ 信仰告白 「キリスト教」と「幸福の科学・仏教」  信仰の喜びと悲しみと

2006年08月15日 20時45分30秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

長崎駅前電停



 郷を去る   精霊舟の   鐘は鳴り

      馬糞 Bafun  

 

 

 

 

 老いてゆく両親を見るのは心が痛む。 

 両親はクリスチャンである。

 老いて、信仰を深くするのは自然のことである。

 聖書に平安を求めることは、それでよいと思う。

 形骸化したキリスト教ではあれ、神は愛であり、人間は

神の子であると説いている。

  だから、お祈りをするときは、「天にましますわれらが

父よ・・・」に始まる。


 普遍の法というべきであろう。

 

 しかし、信仰を異にし、国家観も異なると、親子とは

言えども、辛くなる。

 信仰は、親子の縁よりも上位にあるのだ。

 

 

 

 

 

信仰告白


 キリスト教は、洗礼の儀として、信仰告白をする。

 これを認められて初めて洗礼を受けることができるの

である。

 その柱となるのは、「父と子と精霊」の三位一体説で

ある。

 不可解な説であるが、とりあえず三位一体説を信じま

すというのが、大前提である。

 

 厳格な一神教であり、他の宗教に対しては排他的であ

る。

 日本神道など、認める余地がなかった。

 神社への初詣につきあうことさえも、うしろめたかっ

た。

 

 ところが、学生の頃属した親・共産党の教会で、宗教

者平和協議会に参加したことがある。

 神道、日蓮宗妙法寺などの仏教とも交友があった。

 国学院の学生からは、神道にだって、教えはある、宇

宙観を持っていると聞かされた。

 仏教者からは、「われわれはキリスト教も宗教の柱だ

と認めている」と本音の気持ちを聞かされた。

 

 共通している絆は愛と慈悲に入り込んだ反安保、反政

府共産主義であったと思う。

 今にし思えば、亡国の思想と行動であった。

 神、仏の下にありながら、何ということであったろう

か。

 

 それで、三里塚闘争のシンボルであった仏舎利にも行

った。

 団扇太鼓の列について行進したのだった。

 キリスト教としては、珍しいことであった。

 

 

 ところが、縁あって幸福の科学の「内村鑑三霊示集」

「太陽の法」を読んだ。

 途端に長年の疑問が氷解し、かたくなな心が氷解した。

 幸福の科学に、約束された仏陀の再誕を確信したのだ

った。

 

 修行論と「空」の哲学に優れた原始仏教とギリシャ的

繁栄の精神の融合、そして、文明の過去と未来をみた。

 

 それは、キリスト教をはるかに超えた新しい世界宗教

の姿であった。

 奇跡というべき現成の仏陀との出会いを確信したので

ある。

 信仰とは、唯物論にはない悟りの世界の確信である。

 

 その後、私の宗教観は広がり、キリスト教も武士道も、日本神道も、

その所在を得て融合することができた。

 学生の頃の左翼的考え方の間違いに気づくことができ

た。

 そして、愛国者転じた。

 

 自分の国を愛せない者が、自分の国に責任を取れるは

ずがなく、他国を愛することもまた、できようはずもな

いではないか。

 

 愚かで、失敗の人生ではあったが、霊的人生観に希望

を得て、再び志を持って生きることができている。

 その精神の安定はいかばかりかと思う。

 

 キリスト教に育った信仰心は、それが仏教に発展しよ

うとも、筋金貫いている。

 

 私の愛する主は今でもイエス・キリストである。

 そこに、自分らしさの至高を見るからである。 

 しかし、風化したキリスト教に帰依することはできな

い。

 ましてや、共産主義的なキリスト教牧師の説教など聞

くにたえない。

 

 組織に親しまなくとも、最大の主は、再誕の仏陀にほ

かならない。

 それが、愛の偉大さであり、智慧の偉大さであり、権

威の偉大さであろう。

 

 人間にとって、信仰ほど大切な人生目的はない。

 信仰とは、神への忠義でもある。

 それ故に、誤った偽宗教の罪は深く、重い。

 

 「宗教」の善悪を知るには、やはり、上質の教育と教

養がいる。

 

 信仰に至らない者も多い日本の中にあって、父母から

信仰の縁をいただいたことは最大の感謝であった。

 

 盆は、母の誕生日である。

 賑やかな精霊舟の鐘や爆竹の壮絶を目にすることもな

く、長崎をにした。 

 仲良く、安らかに長生きしてもらいたい。

 素朴な願いである。

                          

                                 梅士 Baishi 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

+ 八百万の神・・・ 戦没者慰霊と戦争責任

2006年08月15日 20時05分44秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 


 

 八百万   神 靖国の   夏に耐え

 

   馬糞 Bafun  

 

 

 

 

 

 

 

 61年目の8月15日、敗戦記念日に、小泉純一郎首相が、靖国参拝

を果たしてくれた。

 

 胸がすっきりとした。

 贔屓の力士が優勝決定戦で勝ってくれたような爽快感である。

 胸の痞えがとれた。

 

 

 戦没者の慰霊は、日本の伝統宗教の職責であり、純粋文化であり、

日本人としての精神的根幹にかかわる問題である。

 

 これに対して、チャイナや韓国は、宣戦布告的干渉を続けている。

 なぜそれができるのか。

 日本のマスコミが仕組んだ反日キャンペーンだったからである。 

 いわば、マスコミによる外患援助罪(がいかんえんじょざい、刑法

82条)に限りなく接近する国家反逆行為と言わざるを得ない。

 

 

 靖国問題は、民主主義の許容範囲を超えている。

 放送の独占は公益責任を負っているということが前提で認められ

ている。

 民主主義の前提たる言論の自由とは、国益を害する非国民的言

論を許すものではない。

 おのずと報道の責任がある。

 重い表現責任である。

 

 

 

 

 

 

 

 『民主主義』といえども、その目的は、国家安寧、国益増進にあり、

その責任と権限が国民にある。

 なぜなら、それが主権者たる国民の職責だからである。

 首相の記者会見におけるマスコミ批判はそれを示唆している。

 


 もはや、主権者の責任として、言論統制を要するであろう。

 言論には重大な責任を伴うのである。

 ましてや、日本人が事実を歪曲してまで他国からの攻撃を招くとは、

許されない重罪というべきであろう。

 

 そうしたマスコミ規制法は早急に立法するべきである。

 

 

 純粋に国内問題として、靖国参拝のあり方を問題にすることは大い

に結構であろう。


 そのときに、超A級戦争責任の所在は、日本の神々と、その取次ぎ

である天皇陛下にある。

 その責任を問うとはどういうことか。

 国民の責任とは無関係だといえるのか。

 矛盾しているとは思わないか。 

 『国民の戦争責任』はないのかと問いたい。



 さらに、政教分離がどうのというが、政教分離は正当なのか。

 

 そもそも、天皇制は、神道の原点として成り立っている伝統である。

 神道とは、日本の国柄であり、伝統なのである。

 それを廃棄せよというなら、決着をつけねばなるまい。

 内紛ともなりかねない重要問題である。

 

 糞ハエのような「ブンヤ」の類が、戦争の傷口によってたかる汚らし

い光景を、自民党政治家よ、いつまで許すつもりなのか!

 

                                梅士 Baishi 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする