坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

宗教的平等

2009年04月22日 | 坊主の家計簿
 ポストに某会からの郵便物。開封してみたら

【新作DVD『承元の法難』堂々完成!!】

 と書かれたチラシが。。。
 http://www.saikyoji.net/jougen.htm
 安いし、婿入り道具に最適なので、購入決定。向こうの寺の住所で申し込んどこ。

 先日の『「僧と俗」意見交換会』でも痛烈に感じたが人間は差別が好きなのだ。『好き』とは言い方が変やな。差別する事が標準セットされている、と言い直した方がエエな。
 「あの坊さんは素晴らしい。それに比べて。。。」なんぞと。単なる能力差別でしかない。その能力差別を問題意識の深さを勘違いしたりする。単純な話である。差別が標準セットされている自分を問題にした事がないから。
 信仰とは基本、個人的なもんである。仏道を歩むのは自分自身でしかない。他人に歩まそうとするから「あの坊主は。。。」になる。僧侶だけが仏道を歩むのではない。誰だって歩めるが故に仏道なんだろう。特に真宗仏教なんぞは。

 奪われていた人権を取り返そうとする人達が多くいる。
 往生成仏の道を絶たれていた人達が宗教的平等を目指そうとした。

【無戒名字の比丘なれど 末法濁世の世となりて 舎利弗目連にひとしくて 供養恭敬をすすめしむ】(親鸞)

 真宗門徒は僧も俗も引っ括めて『名告りのみの修行僧』である。
 真宗門徒が仏弟子である以上、釈尊の直弟子と平等である。当然、法然や親鸞とも平等である。
 当然、『僧』と『俗』も平等でしかない。
 だが、

【聖人 親鸞 のたまわく、いにしえ我が本師聖人の御前に、聖信房、勢観房、念仏房已下の人々おおかりし時、はかりなき諍論をし侍る事ありき。そのゆえは「聖人 源空 の御信心と、善信が信心といささかもかわるところあるべからず、ただ一なり」と申したりしに、このひとびととがめていわく、「善信房の、聖人の御信心とわが信心とひとしと申さるる事いわれなし。いかでかひとしかるべき」と。善信申して云わく、「などかひとしと申さざるべきや。そのゆえは、深智博覧にひとしからんとも申さばこそ、まことにおおけなくもあらめ、往生の信心にいたりては、一たび他力信心のことわりをうけ給わりしよりこのかた、まったくわたくしなし。しかれば、聖人の御信心も、他力よりたまわらせたまう、善信が信心も他力なり。かるがゆえにひとしくしてかわるところなし、と申すなり」と、申し侍りしところに、大師聖人まさしく仰せられてのたまわく、「信心のかわると申すは、自力の信にとりての事なり。すなわち、智恵各別なるがゆえに、信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫、ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も、善信房の信心も、更にかわるべからず、ただひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず。信心のかわりおうておわしまさん人々は、わがまいらん浄土へはよもまいらせたまわじ。よくよくこころえらるべき事なり」と云々 ここに、めんめんしたをまき、くちをとじてやみにけり。】(御伝鈔より)

 法然門下の中でさえも、こういう状況下であった。

 今でも天皇を何か『特別な人間』であると思われている人達も多くおられる。
 また、最近はテレビなんぞを見てても「あの人はもの凄いオーラを持っている」なんぞと平気で云ったりしている。

【今日、私たち真宗門徒自身が、念仏者に対する敬意を忘れてしまっているのではないか。そんな気がしてなりません。念仏する者は、ただそれだけで敬意を払われるべき存在なのです。念仏者という人が尊いというよりも、その人を通して念仏が出てきているという事実が尊い。その尊さは、お念仏が誰の口から出てきても同じで、その人の人格や才能や経験によって左右されない。その価値や意義はそういうことでは少しも異なることはないのです。「南無阿弥陀仏」とその名を称する声となって、法蔵菩薩の精神が私たちの前に飛び出しているのだということです。だから、念仏者に対する弾圧は、法蔵菩薩の精神すなわち菩提心に対する弾圧なのです。】(藤場俊基『親鸞の仏教と宗教弾圧』164ページより)

【目標が平等であることと方法が平等であることは同様に大切なことなのだ。不平等な方法、すなわち、神秘的で近寄りがたいものを持ち出してでないと説明できない平等な尊厳性は、実は「魔」にすぎないのである。「天皇」然り、「私の思いを越えた大いなる存在」然り、「そのために命を捨てることができるもの」然り、である。】(菱木政晴『ただ念仏して』84ページより)

 『僧(聖)』と『俗』が問題になるのは、2つである。
 「僧と俗は明確に区別されるべきである」という宗教的差別を肯定し押し進めて行こうとする考えと、宗教的差別を否定する考えである。

【経典を読誦してもらう側にとってみれば、自分達が経典を読誦するよりは、専門家である方々が経典を読誦した方がより多くの利他を引きだしうるはずだというところにたっているかと思います。そのための布施と供養なのです。そうすると、利他を引き出すということに直接関わる者が専門家であるなら、専門家は回向利益という構造において民衆を支配することが非常に容易だという面がでてまいります。】(平野修『鬼神からの解放』上巻81ページより)

 まあ、『粗悪な僧侶』でも、『粗悪な真宗門徒』でも、オーラなんぞが全くなくても、念仏は念仏。仏弟子は仏弟子。いわゆる高僧と全く変わらん。まあ、世間の倫理では「一緒にするな!」なんだろうが。