坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

おもてなし

2009年04月05日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 初めて行く家での法事。
 法事終了。着替えて帰ろうとしてたら、法事後の食事の準備をしてはった。
 参加者は20名程。テーブルに手作りの『ちらし寿司』が並べられ、タケノコの煮物等の他のもんも器に盛りつけてはった。

 なんか、こういう光景が新しく感じる。
 ほれ、法事いうたら、仕出し屋の出番みたいになってまんがな。「来週法事やから仕出し屋に予約入れとかんと」みたいになってまんがな。だいたいは法事の真ん中過ぎ辺りで「ピンポーン♪」と仕出し屋が料理を届けにやって来る。慣れないうちは「うわ、仕出し屋がやって来た。はよ法事終わらな」と少し焦ったもんだ。
 もしくは「料理屋を○○時に予約してますんで」なんぞとか。

 法事という大切な日だから、仕出し屋や料理屋。でも、それってサボっているだけだと思うのだが。確かに数十名分の料理を作るのは大変。後片付けも大変。だから仕出し屋や料理屋の出番になるのだろうけど。
 でも、私が呼ばれる側なら、仕出し屋や料理屋よりも、その家の手作り料理の方が御馳走だと感じる。

 利休「師よ。今日は師の為に堺随一の料理屋から仕出し弁当を持って来させました。」
 紹鴎「利休。。。そなたはまだもてなしの心が解っておらぬようだのぉ。。。」

 なんぞになると思ってしまうのだが。

 とは云え、やっぱし数十人分もの料理を作ったり、後片付けをしたりするのは大変。食器の問題もあるのだろうし。またその仕事が多くの場合『女の仕事』になっている現実もある。だから、仕出し屋や、料理屋に行くのも『あり』だと思う。
 でも、今はなんとなくの個人的感想なんだが、仕出し屋や料理屋が正しい『御もてなし』で、家庭で作った料理を出す事が『失礼にあたる』なんぞという傾向になっていないだろうか?

 なんぞと、法事の帰りがけに見た料理を見ながら感じた。
 いや、手作りのちらし寿司が美味そうで、美味そうで。

 「亡くなった父(母)が好きだった料理」「亡くなった母(父)がよく作ってくれた料理」「我が家の家庭の味」
 法事で、そうやって手作り料理を食べながら、亡くなられた人を思い出しつつ、亡くなられた人の思いで話をしつつ、「そういやさっきの坊主がこんな事を喋っとったのぉ」なんぞという法事が、なんか好き。

 準備は大変やけど、「これがうちの味です」と。仕出し屋や料理屋の『味』でなく、仕出し屋や料理屋に比べると味に自信がなくとも「これがうちの味です」と。
 なんか、準備の大変さよりも、『うちの味』に自信がないから、仕出し屋や料理屋に逃げている気がしたりする。

 仏前結婚式にばかり気が行っていたので披露宴は圧倒的準備不足だったし、娑婆の論理もあるので無理だったのだが、実はゲストの皆さんに一番食べて貰いたかったのは、うちのオカンの『鮭のおにぎり』だったりする。『塩味の焼そば』だったりする。『煮込みハンバーグ』だったりする。
 互いの家庭の味を、親と新郎新婦が協力して作って御もてなしをする。なんか、そんなのが好き。