坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

「僧と俗」の意見交換会

2009年04月20日 | 坊主の家計簿
 『粗悪な僧侶』という事を問題にする真宗門徒が居るならば、それこそ『粗悪』以下の真宗仏教に全く関心のない証明なんだが、今も昔も変わらずエリート志向が必ずある。
 『僧』にだけ期待するのは『俗』の怠慢でしかない。
 人間は人間以上でも人間以下でもない。よって『僧(聖)』も『俗』もクソもない。

 「ああ、あの人は立派な坊さんだ」等と判断するのは、一体、どういう論理での判断なんだろうか?

【「不得外現 賢善精進之相」(散善義)というは、あらわに、かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆえは、内懐虚仮なればなり。内は、うちという。こころのうちに煩悩を具せるゆえに、虚なり、仮なり。虚は、むなしくして実ならぬなり。仮は、かりにして、真ならぬなり。このこころは、かみにあらわせり。この信心は、まことの浄土のたねとなり、みとなるべしと、いつわらず、へつらわず、実報土のたねとなる信心なり。しかればわれらは善人にもあらず、賢人にもあらず。賢人というは、かしこくよきひとなり。精進なるこころもなし。懈怠のこころのみにして、うちは、むなしく、いつわり、かざり、へつらうこころのみ、つねにして、まことなるこころなきみなりとしるべしとなり。】(唯信鈔文意より)

【若し智慧高才を以て、本願と爲したまはば、愚鈍下智の者は、定んで往生の望みを絶たん。然るに智慧の者は少なく、愚癡の者は甚だ多し。若し多聞多見を以て本願と爲したまはば、少聞少見の輩は定んで往生の望みを絶たん。然るに多聞の者は少なく、少聞の者は甚だ多し。若し持戒持律を以て本願と爲したまはば、破戒無戒の人は定んで往生の望みを絶たん。然るに持戒の者は少なく、破戒の者は甚だ多し。自餘の諸行、之に準へて應に知るべし。當に知るべし、上の諸行等を以て、本願と爲したまはば、往生を得る者は少なく、往生せざる者は多からん。然れば則ち彌陀如來、法藏比丘の昔、平等の慈悲に催されて、普く一切を攝せむが爲に、造像起塔等の諸行を以て往生の本願と爲したまはず、唯稱名念佛の一行を以て、其の本願と爲たまへり。】(選擇本願念佛集より)

 っちゅう事で、通夜が終わった後に、タンガクラブでの『「僧と俗」の意見交換会』。