坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

『執著する存在』である、人間不在の人権教育

2006年09月28日 | 坊主の家計簿
 9月28日

 食類   発泡酒           175円
      オレンジジュース      100円
      ウーロン茶         100円
      納豆3P           78円
      カニかま3         180円
      梨2            168円
 外食   雲呑麺シソ餃子W      808円

 合計                1614円
 9月累計             81297円

 彼岸法要→原始仏教→教団問題サンガ論→在日問題の夜出まくりの連続が終わってダルダルの日。ああ、よう寝た。阪神も勝ったし(中日も逆転勝ちしやがったが)気分もエエ感じや。

 差別とは人間の問題である。するのも人間だし、されるのも人間。生身の人間。なので当然『関係』
 例えば『差別される側の人』が『差別される側だけの人』と云う事ではない。『差別される側の人』が違う関係においては『差別する側』だけに居るわけでもなく、また当たり前の話なんだが、解放運動家も人間であり、間違いをおかす事もある。当然ながら。
 こんな事件も(http://koreanshr.jp/court/)もあるわけだし。また、確かこの裁判をやってる人達の一人は私の知人であるはずであって、その在日のおっさんは大阪市大近くの被差別の在日の代表だった人であって、で、どれだけその支部(解同の支部)が在日差別しているのか、を何度も何度も何度も何度も聞いたのだが、だからと云ってその在日のおっさんが『完全なる人』であるわけもない。ただ単に差別を告発する側に立つような状況であっただけの話である。
 
 この辺は非常に大事な問題である。例えば解同という組織を運営するのは当然『人間』であり、『人間』がする事だから当然間違いもあるわな。で、その間違いだけに焦点を当てて『だから解同はダメなんだ』には成らない。何かの事件でもって全てがダメというわけでもない。当然批判されるべき問題であって、批判すべきであるが、全てが間違いであると云う事にはならない。同じように批判する側も『完全なる人』であるわけもない。その辺の混同は危ない。

 大峰山の問題がやはり気になる。
 (http://www.jinken.ne.jp/gender/minamoto/index.html
 で、どうでもエエのだが、釈尊は『尼僧教団』という当時のインドでは非常に気の狂ったような教団を作った。それ以前ではごくわずかな例を除いては女性が宗教に関わるような事はあり得なかったはずだ。『女性の出家者』等と云うのは、尼僧教団等と云うのはあり得なかった。 
 しかし、釈尊は作った。女性の出家者を認めた。
 それは現在からの視点でみるならば当然おかしな部分もあるのだろうが、そういう『働き』があった。その『働き』は出家者 ・在家者・男女関係なくの真宗教団にまで働いて居る。
 限界点を批判するのはありだが、全否定するのは仏教徒を辞めればイイだけの話であって、また釈尊に女性差別の根源があるような事はあきらかな間違いではないのか。
 乗り越えようとして、女性教団を認めたが故に、要するに『被差別者に出会わない限り差別する事は出来ない』のと同じ話だ。

 で、大峰山。
 女人禁制はあきらかな性差別である。差別は妄念妄想であり、偏見である。偏見で迷って苦しんで居られる。と私は観る。
 しかし、それはあくまでも一つの論理での視点でしかない。
 気になっているニュースは2005年11月3日に先に引用した源淳子氏達が大峰山に登ろうとした『事件』である。
 これは元来大峰山が女人禁制であったからである。
 しかし、そういう伝統は、あくまでも『伝統』という机上の論理でなく、『伝統を守って来てこられた方々』が居る。
 ある一つの論理でなら、当然そういう伝統は『間違って居る』。
 その『間違った伝統』を守って来て、大切な事としてきた人達が居る。
 某ホームページを観てたら、なにやら泣き出した地元住民の女性も居られたそうである。そらそうだろう。信仰や、伝統というのは非常に敏感なものだし。しかし、そのホームページには
【住民の半分以上は女性でした。「お願いします。登らないで下さい」と何度も言っていました。中には泣き出す人もいました。排除されている女性たちが、その排除の仕組みを支持するという構造になっています。】(リンクがうまくいかない。。。http://web2.incl.ne.jp/fujiba/mine/mine.htmから)
 と書いてはあるが、『泣かす』くらいに辛い思いをさせた事には触れていない。つまり反省している様子はこれだけを観る限りでは感じられない。
 この言葉を書かれた方は、確か同じ大谷派の先輩にあたる方だと思う。

 この国の人権教育や、大谷派教団の人権教育の結果の一つはこういう事ではないのか?
 例えば裁判闘争ではどうなるのか解らない。例えば大峰山の地元の方々が、特に泣き出すくらいに心的外傷を受けられた方がその後に外傷性ストレス障害(PTSD)に成ったとして、それを裁判に訴える事は可能ではないのか?詳しくは知らないが。その場合に司法はどういう判断を下すのであろうか?
 「元々は、あなた達が守って来ておられた伝統の『女人禁制』自体が女性差別であり、そういう女性差別を告発しようとなされた方々がとられた行動の上での話なので、あなたが外傷性ストレス障害になったとしてもそれはあなたが守って来た偏見で苦しんで居るだけであり、よって訴訟は却下する」
 になるのであろうか?
 つまり正義の為の行動、性差別を解放していく為の行動なら、相手が「「お願いします。お願いですから登らないで下さい」と泣きながら訴えかけようとも、聞く耳を持たないどころか【排除されている女性たちが、その排除の仕組みを支持するという構造になっています。】だけで済むのが人間解放なんだろうか?
 それが人権教育なのだろうか?それが大谷派やって来た人権教育なんだろうか?
 多分、そうなんだろう。
 人間不在の人権教育。
 そしてそれは当然ウケがイイ。相手が泣いて訴えている事すら、相手の涙すら自分の論理でもっと切り捨てる事が出来るわけだし、気持ちがイイだろう。

 【凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと】(親鸞『一念多念文意』より)

 そういう存在である。
 別に『差別を告発する側』の人間も例外では当然ない。間違いぐらいある。ただ、間違いなら頭を下げようとする心ぐらいあってもイイと思うのだが。。。

 差別の問題は、人間の問題である。
 そこに居られる人達を『間』にする事によって『罪』を感じなくさせる。
 『あいつは○○だから』という事で、『罪』でなく、『当然』にする。
 『女性だから家事をするのは当たり前』『女性だから男に従うのは当たり前』等々。
 女性という性をもたれた人は、別に特別に穢れた存在でもなんでもなく、男やゲイやレズ等と同じく唯の「執著する存在」である。
 同じく『差別する人達』も『差別される人達』も、「執著する存在」である。
 なので、当然生きてる中(運動)で間違いぐらい犯す。ただ当然『間違い』は『間違い』である。『罪』は『罪』だ。
 「日本だけが植民地にしたのでない。他の国だってやってたじゃないか!」でも『罪』は『罪』である。