坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

♪思いを伝えてよ 何も始まらないからね(木村カエラ)

2006年09月30日 | 坊主の家計簿
 9月30日

 外食   酢豚定食           750円
 食類   ハバネロ激辛カレー3     282円
      ハバネロ大辛カレー3     282円
      ノンフライラーメン5     198円
      モカビターチョコ        98円
      カカオ72チョコ       169円
      充実野菜4          676円
      むきエビ           258円
      納豆3             68円
      バナナ            128円
      焼そば麺            18円
      キュウリ4          118円
 雑費   タバコ            300円

 合計                 3425円
 9月累計              85911円

 月末だが、土曜日なので〆は10月2日に。

 仕事が終わって遅めの昼飯。昨日の感動をスポーツ新聞でもう一度&週刊ポストで讃岐うどんの巻頭カラーを観たかったので。
 飯喰ってたらすぐに試合始まる。テレビを気にしつつ新聞・雑誌を読みつつメシ喰らってたら
 「よっしゃ!金本さすがやで。」

 帰りにドンキホーテでジャンク食の買い出し。今日のヒットは、ハウスの激辛と大辛のハバネロレトルトカレー。夏が終わったので安かったしまとめ買い。

 部屋に帰ってテレビの続き。
 「おのれ。。。福留め。。。まあ、ええわ。来年阪神の4番は任せたで」
 なんだが、あかんなぁ。。。中日はやっぱし強いわ。投手もエエし、って、エースクラス何人居るねん。守備もエエし、バッターもエエし、こら、あかんわ。

 
 しかし、安倍の支持率が約70%らしい。その割に私は安倍パッシングの声ばかり聞くのだが、なんでやろ。やっぱし人間関係が偏ってるのかなぁ。。。そういやお参り先の人達と「阪神、奇跡でっせ!奇跡!」とは喋るが、安倍内閣については喋った事がないしなぁ。。。
 まあ、あれはアンケートの取り方で変わるらしいのだが。

 『ヒーローなんて来ない』とは何かで読んだ気がするのだが、完全自殺マニュアルやったけな?
 『救世主なんて来ない』とも読んだ気がする。あれは遠藤周作の『沈黙』に関する書評だったと思うのだが、『神の沈黙だけが人間に自由を与える』とかなんとか。『自由を与える』とは好きな表現ではないが、『責任を与える』というと好きだ。
 『神の沈黙だけが人間に責任を与える』

 まあ、昔から一貫して変わっていないのだろうが、またヒーローブームが来そうな気がする。
 『聖者』。穢れなき存在。
 そんな者など居やしない。

 天皇で浄化する。僧侶で浄化する。
 運動家で浄化する。
 浄化された気分になってるだけだろう。
 故に排除する。
 「解っていない」
 「あの人たちは保守だ」
 等々。

 初期の解同の糾弾論はあくまで差別意識の克服だったはず。『克服』という日本語が正しいかは別として。
 「それは差別である」と。差別意識を持たない人に「それは差別である」と。
 差別された立場であるが故に、その事が『差別』と云う事がハッキリと解る。
 故に『差別隠し』ではない。差別隠しで差別が克服されない事を身をもって感じたが故のではなかったのか。
 しかし、悲しいかな解同自体が懺悔してたはずだが「もの取り主義に陥ってしまった」。

 同じような事が様々な局面で起る。様々に形を変えて起る。

 もう撤去されてしまったが、大阪・天王寺公園には露天のカラオケがあった。当然不法占拠。
 きっと多くの住民には迷惑であっただろう。
 でも、一部の人達には大切な場所。
 でも、法律違反。
 だから撤去された。

 ♪こらえちゃいけないんだ You
  思いを伝えてよ 何も始まらないからね
  (木村カエラ『You』より)

 様々な現場で大義名分は無くとも、間違った人生であっても、様々な現場で様々な人達が声を挙げている。
 それ等の声を、例え如何なる大義名分があろうとも『聞こうとしない』事は、私は間違って居ると判断する。
 軍服を着て戦闘準備して話し合いもクソもないだろうに。
 例えそれが『解放』という大義名分、『人権』という大義名分があろうとも。

 悲鳴に理屈はない。ただ、悲鳴を挙げているだけだ。
 そんな悲鳴をシャットアウトするのが
 「これは伝統だから」であり、
 「これは人間解放だから」等々の大義名分である。

 仏教が一つの思想なら、人権も一つの思想でしかあり得ない。
 思想は人間が作り出したものであり、当然限界がある。
 固定化するわけだし。

【形ばかりの中身のない自分勝手なそんな平安は本当は決して求めてはならないものであるに違いない。それなのに私たちはいつもそんな形ばかりの平安を求めてしまう。そんな私たちをまさしく問いただしてくるものは、悲しいけど唯一「幼な児の涙」という名の被抑圧的な被支配的な被差別的な現実である。
 社会問題に対する関心も宗教問題に対する関心もそういう現実を離れて存在することができない。もしできると強弁するのなら、その人は現実に揺さぶられることによって自分の生活基盤を危うくする職業的宗教人か、あるいは職業的学者先生以外の何ものでもないであろう。】(尾畑文正『親鸞への旅』P104~105より)

 尾畑先生は書いていないが、私は職業的運動家も入れるべきであると思う。
 また、「幼な児の涙」は社会構造だけに治めてしまうべきではないと感じる。特に最近は。
 それぞれの関係性において、ではないのか?
 社会問題だけに特化することによって、個人と個人の関係性が忘却されることは、大義、正義でもって忘却されることは人間不在である。
 で、それが強くなって来ている感がある。
 安倍総理大臣が『伝統文化』を重んじるのと同様に。

 如何なる大義名分であろうとも、その場に居られる方々の涙を無視した運動を支援するような仏教なんぞクソ喰らえ!

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