坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

『己に願いはなくとも 願いをかけられた身だ』(藤元正樹)

2006年09月29日 | 坊主の家計簿
 9月29日

 食類    加ト吉さぬきうどん4      352円
       発泡酒             175円
       豆腐               69円
       うどん玉             18円
       豚バラ             242円
       キャベツ            168円
       ピーマン             65円
 レンタル  男たちの大和          105円

 合計                   1189円
 9月累計                82486円

 思い出した!27日の謎の200円は昼飯に喰った『たこウニ飯』や。
 あ~、よかった。これですっきりした。思い出されへんかったら「任天堂DCでも買わなあかんかな?」とは全く頭をよぎらなかったのだが、タマにやる『すれ違う車のナンバーを合計する』っちゅうやつを、もっとやらなあかんかな?っちゅう事も全く頭をよぎらなかったのだが。。。いや、ボケてまんな。
 頭が若干痛く、胃が荒れ気味。明け方寒いし気を付けんとあかんな。
 と、いう事で、今日も仕事終わって寝て→阪神。
 野球のナイター中継を観るのは久しぶり。なんせ大阪は今大変なのだ。奇跡を待つ日々なのだ。
 だいたい、今年の阪神は大変だったのだ。なんせ『阪神』がもうすぐ無くなるのだ。阪急と合併してしまうというやな、もの凄い出来事がある中での今年の阪神の活躍なのだ。まあ、経済効果とかからすると今年だけは阪神に優勝させておいた方がエエでっせ。
 まあ、そういう意図があるのかどうか知らんが、この時期になり道場洋三が復帰し、今日はなんと川上に勝ち、今岡の決定的な復活劇があった。勢いは止まりまへんなぁ。。。優勝でっせ。
 しかし、福留ってあんなに怖いバッターになってたのか?日本人であんなに怖いバッターっちゅうのは城島以来だ。もう、バッターボックスに立ってるだけで「すんません。。。打たんといて下さい」と頼みたくなるくらいに怖い。しばらく観ない内に凄い打者になっててんなぁ。福留、PLやろ。阪神に来い。お前が中日に入団した時とは球界の事情が変わっとるねんや。阪神に来い。
 落合。お前もお守り返してもらいたかったら福留と交換でどうや。あれは間違いなく阪神ファンの犯行やろ。盗んだ犯人も福留との交換なら納得して自首して来よるぞ、きっと。
 等と思いつつ野球観戦。

 『男たちの大和』をようやく観る。え~。。。うちのテレビは14インチでして。。。やっぱし大画面で観るべき映画やな。映画館に行くべき映画であった。
 映画は日本の戦争映画としては『二百三高地』以来のマイヒット。強烈な戦争というの現場を描き出した映画。
 多分、あの『男たちの大和』という『男たち』には、下らん男根信仰みたいなものを表現したかったのかも知れない。っちゅうか、私はそう観た。

 あの人は、なんという船に乗ってたんだろうか?よく行く寺でマイクを持つと必ずと行っていい程戦争の話をしてたお爺ちゃんは。もう亡くなられたが。
 あのお爺ちゃんも戦争中に船に乗ってた。見事な軍国少年だったらしい。でも、船が沈没して命かながらに海で漂ってた時に
 「クソ!天皇めが!!!」
 に成ったらしい。
 私は当然、戦争が終わって50年ぐらい経った時からしか知らないが、見事な反戦、反天皇バリバリの運動家。あのお爺ちゃんはいっつも同じ事を喋ってた想い出がある。

 個人を大事にする。
 戦争は大義名分だ。『御国の為』でも『アジア諸国の解放の為』でも。

 『拉致被害者の人権の為』『弾圧されている北朝鮮民衆の人権の為』。

 戦艦大和が出航した直後ぐらいなんだろうか?米軍がもはや遥か上空から大和の写真を撮ってた。
 日本にも偵察衛星に使えるような衛星があり、当然米軍にはバリバリある。北朝鮮は持って居るのだろうか?

 『拉致被害者の人権の為』『弾圧されている北朝鮮民衆の人権の為』。
 人権の為に戦争に行く準備をする。人権を守る為には、人権を奪って構わないのだろうか?
 日本は、アジア諸国で大量虐殺したが、同時に米軍によって大量虐殺された。アジア諸国での出来事は他国の出来事であるが、米軍にやられた出来事は生々しい記憶が残って居る。それ等の事を北朝鮮の人達にしてイイのだろうか?

 人権を守る為に、人権を奪う。と云う事は論理的におかしい。どう考えてもおかしい。
 だが、『自国民の人権』と限定されるなら『他国民の人権』は犯してもよい事になるのだろう。
 あるいは高尚な『人権思想』でもって、『人権思想カルト』とでも云うのだろうか?『人権思想』を生身の人間から切り離せば、その『人権思想』の為には『犠牲もやもえず』になるのだろう。
 人類がこれから進むべき道である『人権思想』を生身の人間から切り離せば、『人権思想』の為に『個々の人権』は奪ってよい、という論理になるのだろうか?

 違うと感じる。
 人権思想とは、それぞれの個人個人が、それぞれの生活現場で様々な苦悩や限界を感じながら生きて居られる事を、まず第一義に感じるべきではないのか?
 何か一つの思想、例えば日本仏教思想の中で『穢れ』とされて来た方々も『生きて居られる』と感じられる事が人権思想の第一義ではないのか?
 新たに作り出された思想ですら、解放を求める思想ですら、所詮生身の人間が作り出す思想でしかなく、限界や問題性を抱えた思想ではないのか?
 そんな思想に囚われ、自分の思想から観た相手でなく、様々な『私』の価値判断を超えた世界に『居られる方々』に気づいて行こうとする事が、真の人権思想の第一義ではないのか?

 【すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。】(ダンマパダより)

 【己に願いはなくとも 願いをかけられた身だ】(藤元正樹)

 『私』が願い、価値を見出す事が出来なくとも、すべてのいのちある存在は、願いがかけられた存在である。
 私が面倒なので、『罪』など感じたくないので、一つの思想や、『私』に閉鎖して見出そうとしないだけの話だ。
 
 だから善人の状態では
 「何もしないなら口を出すな」
 等と閉鎖する。
 善人状態を守る為、『聖』の座に居座る為に閉鎖する。
 「己に願いはなくとも 願いをかけられた身だ」(藤元正樹)