英の放電日記

将棋、スポーツ、テレビ等、日々感じること。発信というより放電に近い戯言。

名人戦考察 ~こちらとの距離感を見切られていた(行方八段)~ 【補足・羽生将棋について】

2015-06-06 23:17:48 | 将棋
「その1」「その2」の補足です。

 記事をアップしてから、また、Stanleyさんのコメントを読んでから、新たに感じたこと、思い出したことがあったので、もう少しだけ書きます。


 第3局の△5八馬は≪一気に差を詰めようとした≫のではなく、≪取りあえず射程距離で付いていく≫という印象である。
 こう書くと、後の逆転に懸けた勝負的意味の強い勝負手のようだが、①△6九馬②△7六歩を読んだが思わしくなく、消去法で△5八馬を選択しただけのように考えている(「その1」参照)。

 羽生将棋の特長のひとつに、「これまでの将棋の流れは遮断して、断片的に局面を考える」がある。(将棋の流れを遮断するのであって、流れを無視するわけではない)
 例えば、▲2六歩と飛車先の歩を突いた場合、▲2五歩と突いて初めて手の価値が高くなる場合、この羽生名人はこの▲2六歩と突いたことは思考から外して、単に▲2六に歩があるという認識で、局面の最善手を考える。
 また、3七に銀が遊んでいたら、通常、この銀を働かせようと▲4六銀と活用する手はないかとか、後に玉をそちらの方に逃げる可能性を考える。羽生名人も≪この銀を働かせたい≫と考えるものの、それに拘らず、その銀のマイナスはマイナスと評価して、その他の部分でカバーすればよい。3七の銀にこだわらないのである。
 なので、羽生名人の将棋を観ていると、≪えっ!そっちなの?≫と驚くことが多い。この感触については、コンピュータ将棋と対した時に受ける意表の突かれ方と似ている。確かにこの羽生名人の思考法はコンピュータ将棋によく似ていて、過去に「電王戦雑感 その4“羽生将棋とコンピュータ将棋の類似点”」で、述べたことがある。
 もちろん、羽生名人の指し手が死角から飛んでくることが多いのは、それだけではなく、柔軟な思考多角的な視点で局面を捉えるという要素も強い。

 今期名人戦、第3局の△5八馬第5局の△2七銀は光を放っているが、“勝負手”というより“最善手を求めた結果の手”という意味が強い。先日の棋聖戦第1局の対豊島戦の△9二飛も、△7六香と寄せに行くのが危険と自重したのではなく、△9二飛が最善手と考えただけであろう。

 さて、この羽生名人の客観性はどこから来るのだろうか?
 観戦者が指し良いと思っている局面でも、「難しいと思っていた」と羽生名人が感想戦でよく口にするが、正直な気持ちなのだろう。
 羽生名人は「将棋は難しく、簡単には勝てない」と考えている。つまり、「楽をしては勝てない」「怖い変化があるのは当たり前」と、非常に踏み込んだ手を指す。
 結論を急がず、勝負を急がず、最善手を追求する。……これが羽生将棋である!……と言えるかもしれない。
 
コメント (5)
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