<わたしの大伯母に、何に対しても “ノー” と言っていた人がいる。九十八歳で処女のまま亡くなったが、彼女のことでいちばん興味深いのは、その死だ。死ぬ間際、彼女はこう言ったのだ ―― “私は何を考えていたのだろう”。 以来、わたしたちはそのことを考えている。>ミネット・ウォルターズ成川裕子訳「悪魔の羽根」P229より
大叔母は 無欲、内向に過ぎた、主張/挑戦/関与/加担/参画の機会を逸した、人生だった ということだろうか?
知人に、現役時代の手柄話を 繰り返す方がいる。これも “私は何を考えて(して)いたのだろう” との自己弁護の一つの反応だ とみています。
過去の選択肢を振り返るメリットは、失敗例を後輩に伝えることでは?
ウォルターズ氏のこの記述で ウェイトのあるのは ”私は何を考えていたのだろう” ではなく、 ”わたしたちはそのことを考えている” の部分でしょう。
わたしたちは大伯母の “私は何を考えていたのだろう” のそのあとに続く言葉が なんであったかを考えている、でしょう。