第3戒
誓約と社会
p111~
The Oath and Society
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony
◇◇
建国当初、大統領就任宣誓をはじめ合衆国におけるすべての就任宣誓は、第三戒の下にあると考えられていた。
第三戒は、問題が起こった場合に訴えるべき最終権威であった。
宣誓者は「神がご自分の御言葉に対して忠実であられるように、自分の言葉や義務を忠実に履行します」と誓った。
宣誓違反は神の裁きと律法の呪いを招く行為であった。
汚職は後を絶たなかったが、まじめに政治家の責務を果たそうとする人々もかなりいた。
神を敬う人は誓いを真剣にとらえる。
十分の一税の強制徴収を主張していたジョージ・ワシントンは、誓いの持つ意味を大変重視していた。
離任演説の中で彼は、「フランス及びフランス革命の影響から懐疑主義・不可知主義・理神論・無神論が忍び込んでいる。大変遺憾なことである」と述べた。
彼の目には、不信仰がアメリカを荒らし回っていると映った。
不信仰は、まず第一に、誓約のバックボーンを形成する信仰を破壊することによって社会から安定性を奪う。
政治的繁栄に導くあらゆる資質や習慣の中で、宗教[すなわちキリスト教]と道徳は絶対不可欠の支えである。
人間の幸福を支えるこれらの偉大な柱、すなわち、人間と市民の義務を支えるこの最も強固な支えを倒そうと企む者たちがいる。
彼らは愛国者として人々から尊敬されたいと願っている。
しかし、その願いが適うことはない。
これら宗教と道徳を尊び、その教えに服従しなければならないのは、なにも信仰者には限らない。
一介の政治家もこれらに敬意を払うべきである。
宗教や道徳が、個人的及び公共的幸福にどのような影響を与えるかについて、いちいち文字で書きあらわすならば、とても1冊の本には収まりきれないだろう。
それゆえ、われわれは次のように尋ねるにとどめよう。
誓いが正義の法廷における調査手段となっている以上、もし誓いから宗教的義務の感覚が取り除かれるならば、一体われわれはどのようにして己の財産や、名声や、生命を守ったらよいのだろうか、と。
「宗教がなくても道徳は維持できる」という仮定を用心しつつ立ててみよう。
よく準備された教育が個性豊かな心に対してなにがしかの影響を与え、そのような影響にどのような評価が下されるにせよ、理性と経験はわれわれに次のように命ずる。
「宗教的原則を排除すれば国民の道徳は向上するだろうとの空しい期待を捨てよ」と。
誓約の軽視・乱用・冒涜は、法と秩序全体及びすべての法廷や公職の効力を否定する罪であり、アナキズムや革命罪にも匹敵する重罪である。
これを通じて、冒涜事件と冒涜者の処刑を扱うレビ記 24:10~16 がよりよく理解できる。
誓約と社会
p111~
The Oath and Society
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony
◇◇
建国当初、大統領就任宣誓をはじめ合衆国におけるすべての就任宣誓は、第三戒の下にあると考えられていた。
第三戒は、問題が起こった場合に訴えるべき最終権威であった。
宣誓者は「神がご自分の御言葉に対して忠実であられるように、自分の言葉や義務を忠実に履行します」と誓った。
宣誓違反は神の裁きと律法の呪いを招く行為であった。
汚職は後を絶たなかったが、まじめに政治家の責務を果たそうとする人々もかなりいた。
神を敬う人は誓いを真剣にとらえる。
十分の一税の強制徴収を主張していたジョージ・ワシントンは、誓いの持つ意味を大変重視していた。
離任演説の中で彼は、「フランス及びフランス革命の影響から懐疑主義・不可知主義・理神論・無神論が忍び込んでいる。大変遺憾なことである」と述べた。
彼の目には、不信仰がアメリカを荒らし回っていると映った。
不信仰は、まず第一に、誓約のバックボーンを形成する信仰を破壊することによって社会から安定性を奪う。
政治的繁栄に導くあらゆる資質や習慣の中で、宗教[すなわちキリスト教]と道徳は絶対不可欠の支えである。
人間の幸福を支えるこれらの偉大な柱、すなわち、人間と市民の義務を支えるこの最も強固な支えを倒そうと企む者たちがいる。
彼らは愛国者として人々から尊敬されたいと願っている。
しかし、その願いが適うことはない。
これら宗教と道徳を尊び、その教えに服従しなければならないのは、なにも信仰者には限らない。
一介の政治家もこれらに敬意を払うべきである。
宗教や道徳が、個人的及び公共的幸福にどのような影響を与えるかについて、いちいち文字で書きあらわすならば、とても1冊の本には収まりきれないだろう。
それゆえ、われわれは次のように尋ねるにとどめよう。
誓いが正義の法廷における調査手段となっている以上、もし誓いから宗教的義務の感覚が取り除かれるならば、一体われわれはどのようにして己の財産や、名声や、生命を守ったらよいのだろうか、と。
「宗教がなくても道徳は維持できる」という仮定を用心しつつ立ててみよう。
よく準備された教育が個性豊かな心に対してなにがしかの影響を与え、そのような影響にどのような評価が下されるにせよ、理性と経験はわれわれに次のように命ずる。
「宗教的原則を排除すれば国民の道徳は向上するだろうとの空しい期待を捨てよ」と。
誓約の軽視・乱用・冒涜は、法と秩序全体及びすべての法廷や公職の効力を否定する罪であり、アナキズムや革命罪にも匹敵する重罪である。
これを通じて、冒涜事件と冒涜者の処刑を扱うレビ記 24:10~16 がよりよく理解できる。