みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#413 神の法第三戒

2019年09月18日 | 神の法
第3戒
誓約と社会
 
p111~
The Oath and Society
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

建国当初、大統領就任宣誓をはじめ合衆国におけるすべての就任宣誓は、第三戒の下にあると考えられていた。

第三戒は、問題が起こった場合に訴えるべき最終権威であった。

宣誓者は「神がご自分の御言葉に対して忠実であられるように、自分の言葉や義務を忠実に履行します」と誓った。

宣誓違反は神の裁きと律法の呪いを招く行為であった。

汚職は後を絶たなかったが、まじめに政治家の責務を果たそうとする人々もかなりいた。

神を敬う人は誓いを真剣にとらえる。

十分の一税の強制徴収を主張していたジョージ・ワシントンは、誓いの持つ意味を大変重視していた。

離任演説の中で彼は、「フランス及びフランス革命の影響から懐疑主義・不可知主義・理神論・無神論が忍び込んでいる。大変遺憾なことである」と述べた。

彼の目には、不信仰がアメリカを荒らし回っていると映った。

不信仰は、まず第一に、誓約のバックボーンを形成する信仰を破壊することによって社会から安定性を奪う。

政治的繁栄に導くあらゆる資質や習慣の中で、宗教[すなわちキリスト教]と道徳は絶対不可欠の支えである。

人間の幸福を支えるこれらの偉大な柱、すなわち、人間と市民の義務を支えるこの最も強固な支えを倒そうと企む者たちがいる。

彼らは愛国者として人々から尊敬されたいと願っている。

しかし、その願いが適うことはない。

これら宗教と道徳を尊び、その教えに服従しなければならないのは、なにも信仰者には限らない。

一介の政治家もこれらに敬意を払うべきである。

宗教や道徳が、個人的及び公共的幸福にどのような影響を与えるかについて、いちいち文字で書きあらわすならば、とても1冊の本には収まりきれないだろう。

それゆえ、われわれは次のように尋ねるにとどめよう。

誓いが正義の法廷における調査手段となっている以上、もし誓いから宗教的義務の感覚が取り除かれるならば、一体われわれはどのようにして己の財産や、名声や、生命を守ったらよいのだろうか、と。

「宗教がなくても道徳は維持できる」という仮定を用心しつつ立ててみよう。

よく準備された教育が個性豊かな心に対してなにがしかの影響を与え、そのような影響にどのような評価が下されるにせよ、理性と経験はわれわれに次のように命ずる。

「宗教的原則を排除すれば国民の道徳は向上するだろうとの空しい期待を捨てよ」と。
 
誓約の軽視・乱用・冒涜は、法と秩序全体及びすべての法廷や公職の効力を否定する罪であり、アナキズムや革命罪にも匹敵する重罪である。

これを通じて、冒涜事件と冒涜者の処刑を扱うレビ記 24:10~16 がよりよく理解できる。





#412 神の法第三戒

2019年09月16日 | 神の法
第3戒
誓約と社会
 
p111~
The Oath and Society
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

第三戒と第九戒の間には密接な関連がある。

第三戒「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない」
(出エジプト記20:7)

第九戒「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」
(出エジプト記20:16)

いずれも口から出る言葉に関する規定。

一方は神に関する発言であり、他方は人についての発言。

この2つの戒めと法との関係について、イングラムは大変優れた解説を施している。

第三戒は「荒っぽい言い方や下品な言葉遣いを避け、礼儀正しく語ることを教えている」と考えられているが、その真意は「偽証、異端、虚言の禁止」

すでに見たように、みだりに神の御名を唱えることは猥褻と同罪。
 
第三戒の要諦は、それが法体系に基礎を提供するという点にある。

いわゆる市民的係争を含め、あらゆる法的手続きの原則は第三戒の中にはっきりと述べられている。

したがって、刑法の領域においても第三戒は重要となるに違いない。

就任宣誓、証言の信頼性、真実の尊重を基礎とする社会の安定、聖職者の任職宣誓への忠実、夫婦の結婚の誓いへの忠実等はすべて、宣誓の神聖性に基づいている。

真実を軽んじ、誓約事項を守る気もないのに誓約書にサインをするような安易な風潮は、秩序を崩壊させ、社会を堕落させる。

神への恐れがないため、宣誓や誓いから尊厳が失われ、社会の土台は真実から虚偽に移されている。

今日、法廷において偽証はごくあたり前のように行われているが、偽証者が起訴されることはまれである。

しかし、イングラムが指摘するように、第三戒は「この点に関して人間がどのような態度を取ろうとも、神は御名をみだりに唱える者をけっして無罪のままに放置し給わない」と宣言している。


*コメント:
いよいよ、この名著の核心に入ってきているように思う。
今後は、著者Rushdoonyの本意を十分に尊重しつつ、時々コメントを加えていこうと思う。
ポストミレに固く立って、神のパワーを駆使し、神の国拡大のために王道をまい進する正統派クリスチャン一同の祝福を切に願う。
ほぼ完ぺきに訳出されている富井師の翻訳を今後も大いに参考にしたい。



#411 神の法第三戒

2019年09月14日 | 神の法
第3戒
呪誓(誓い)と革命
 
p110~
Swearing and Revolution
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

しかし、西洋社会において、そのような呪誓が非常に大きな位置を占め、文学や芸術においてリアリズムを構成しているならば、それは秩序を転覆させ、宗教的な性質を持つものであると言うことができる。

モンタギューはこのような冒涜は健全であると述べている。

英語の health[健康] と salvation [救い](ラテン語で salus, salve は「健康」の意)は同義語。

呪誓は健全な社会的表現。

ジョン・ハリントン郷は、詩集『エピグラム』中の『誓いを否定する詩』において興味深いことを述べている。

モンタギューは、この詩を、誓い(oath)の発達に関する資料として引用している。

 
昔、慣わしでは、
重要な問題に関してミサの名によって宣誓が行われた。
しかし、(老人が気づいているように)ミサが重視されなくなると、
人々は、この同じ・・・の十字架の名によって誓った。
そして、十字架が同じように蔑まれると、
彼らの信仰の名のもとに、宣誓が行われた。
ついに信仰も真理も宣誓の手段とならなくなると、
「神が彼らを罰せられるように。」という呪いの言葉が決まり文句となった。
このように、どの誓いにも飾り言葉が付いていた。時代が進むにつれてその言葉は様々に変化した。
ミサも十字架も信仰も効力を失うと、「神罰の招来」が宣誓の手段となった。

 
ハリントンは、ここに宗教的進展があると指摘している。

この後、事態は大きく変化した。

主は、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならないと宣言された。

この積極的な意味は、あなたの神、主の御名を正義と真実において使用しなさいということ。

消極的な意味は、他の神々や権力者の名を唱えてはならないということ。

どちらの場合であっても、ここには非常に多くの意味が含まれている。




#410 神の法第三戒

2019年09月13日 | 神の法
第3戒
呪誓(誓い)と革命
 
p109~
Swearing and Revolution
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

冒涜は社会の状態を示すバロメーター。

冒涜は革命の進行を暗示している。

社会の腐敗と堕落の度合いを指し示す指標。

冒涜の心理学的な要素は、革命を支持する時代に影響力を持ち続けている。

冒涜は、伝道にも似た熱意をもって支持される。

1960年代初期、俗語や冒涜語の辞典が、高校の図書館向けの参考書として広く推薦されていたが、これは驚くべきことではない。

ヴァン・ティルの的を射た表現を借りれば、冒涜的な世界において、真の教育とは虚無への下方統合(an integration downward into the void)。

今日、学校において宗教教育が禁止され、冒涜の知識が奨励されている。

下方統合を求める社会において、革命はあるべき姿であり、奨励すべき事柄。

冒涜は、この下方向への革命的融合がどのくらい進展しているかを示す指標であり、バロメーター。

モンタギューが述べた、古代において呪誓は、社会的・宗教的な制度を転覆するために用いられたという言葉の意味が明らかになる。

現在においても、呪誓にはそのような性質がある。

あらゆる呪誓は宗教的である。

偽誓は、社会秩序の転覆への衝動が存在することを表す。

すでに述べたように、オーストラリアの原住民をはじめとするいくつかの社会には神に対する呪誓は存在せず、存在したとしてもそれは、単なる下品な言葉、排泄とか性的な事柄を意味する言葉でしかない。

そのような社会において、呪誓は秩序の転覆を引き起こすものではない。

というのも、その社会の性格全体がすでに後退的で、低い水準にあるから。




#409 神の法第三戒

2019年09月12日 | 神の法
第3戒
呪誓(誓い)と革命
 
p109~
Swearing and Revolution
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

冒涜の方向性は、年々下の世界へと向かっている。

20世紀中盤以降、新しい冒涜の言葉が好んで使われるようになった。

これは、明らかにアメリカ黒人の考案であり、母親との近親相姦を暗示している。

その後、この言い回しは敬意を表す意味合いを持つようになった。

その後、ホモセクシュアルを意味する新しい冒涜的な言葉がもっと人気を博するようになった。

倒錯性行為を表す言葉も流行るようになった。

三位一体の神に対する信仰が失われると、革命宗教やカオスに価値を置く新興宗教がそれにとって代わることになる。

人々はバイタリティーやパワーや力を下の世界に求めている。

冒涜の言葉は力の獲得を目指しており、力は下の世界に存在すると考えられている。

冒涜はますます宗教的な意味あいを強めている。

冒涜は神を無視するだけではなく、排泄や性に関する言葉を引き合いに出し、倒錯的な性行為にも言及するようになっている。

冒涜はさらに宗教的になり、単に言葉の上だけではなく、社会に対しても実際的な影響を及ぼしている。

冒涜的な社会は、神ではなく、非合法、猥褻、倒錯の世界を求め、それを現実の世界に呼び出している。

言葉に出されたものは、行為として具体化される。

社会が下に向かっているのは、新たなエネルギーを求め、新しい力とバイタリティーを下の世界から引き出そうとしているからにほかならない。

白人男性は、ツキを変え、一時的な成功を収めるため、バイタリティーや力を求めて、有色人種の売春婦のもとに通う。

下へと向かうことによって、彼らは上へと向かうエネルギーを蓄えようとする。

言葉による冒涜の流行は、社会的な冒涜が進展していることの証左である。

言葉による冒涜が下の世界へと向かえばむかうほどに、行動面において社会もそれに追随していく。



#408 神の法第三戒

2019年09月11日 | 神の法
第3戒
呪誓(誓い)と革命
 
p108~
Swearing and Revolution
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇


ナボテは、ステパノ(使徒6:11)やイエス・キリスト(マタイ9:3、26:65~65、ヨハネ10:36)と同じように、涜聖の濡れ衣を着せられた(第一列王記21:10~13)。

キリストの奇跡を、本来それが神の霊によるものであるのにもかかわらず、サタンの力によるものであると述べたことが聖霊に対する涜聖であるとされた(マタイ7: 22~32、マルコ3:22~30)。

モンタギューによると、近年この悪習に染まる女性が多くなってきた。

英語を話す人々の集まるスラム街において、女たちが互いに極めて品性の劣る冒涜の言葉や猥褻な言葉を交すことがあった。

どのような種類の悪い言葉でもタブー視される風潮がヴィクトリア時代さながらの厳格な掟として残っていた文明的な英語圏の村落において、そういった言葉を耳にすることはめったになかった。

ソ連において最近見られる冒涜への嫌悪の傾向は興味深い。

冒涜は、社会の混乱や堕落と密接な関係がある。

違法な呪誓は、その本質において必然的に宗教と結びついている。

違法な呪誓は冒涜、すなわち神とは無関係に、また、神に逆らって行われる行為。

間違った呪誓において、神の御名は非合法的に使用されている。

それは神への敵意に基づき、神の御名を汚す行為。

モンタギューが引用している数多くの古代及び現代の呪誓の多くは冒涜というよりもむしろ猥褻。

現代だけではなく古代の呪誓においても、性や排泄に関する言葉や対象が引き合いに出される。

神の御心に適った呪誓は厳粛かつ重要な宗教的行為。

人は、神の権威の下に服し、神の義に従うために自分の身を整え、神が御言葉に忠実に従われるように、自分の立てた誓いを守る。

神の御心に適った呪誓は一種の誓約(vow-taking)である。

しかし、神の御心に沿わない呪誓は、誓い(oath)や誓約(vow)の目的を意図的に世俗化(profanation)すること。

神の御心に沿わない呪誓は、軽々しい誓いや侮蔑を目的とする誓約。

神への侮蔑心を表わす。

神の御心に沿わない呪誓は、単に消極的・敵対的な役割に留まらず、究極的存在である神を否定。

神の玉座に他の神を究極者として据えることを意味する。

神の御心に適った誓約において、人はその確証と力を天の神に求める。

神の御心に適わない呪誓において、人はその力を下の世界に求める。

この「下の世界」は紛れもないマニ教の概念、つまり物質。

それゆえ、神の御心に適わない呪誓は、その力と下の世界をセックスや排泄物に求める。

神に従わない人々は、聖書に記されているピューリタン的倫理を非難しつつも、性と排泄は、互いに緊密に結びついており、それらは無意識や原始が支配する、

生命に満ち溢れた下の世界のパワー。




#407 神の法第三戒

2019年09月10日 | 神の法
第3戒
呪誓(誓い)と革命
 
p107~
Swearing and Revolution
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

モンタギューは、呪誓を様々なカテゴリーに分類した。

swearing(呪誓)は攻撃的感情を言葉によって表現する行為。強烈な感情を呼び起こす言葉を出すことができなかった場合に発せられる。

cursing(呪言)は、swearing の同義語として使用される言葉。swearing の一種。cursing において、なにか邪悪なものが呼び出され、curseされた対象に襲いかかるということが起こる。この点で、それは swearing と区別される。

profanity(冒涜)は、swearing や cursing の同義語としてしばしば使用。宗教的な人物や物の名前及び属性が口にされる。

blasphemy(涜聖)は、cursing や profanity と同義とされる言葉。尊敬されている宗教的な人物や物を中傷したり、嘲る行為を指す。

obscenity(猥言)は、汚い言葉や文句を使用するswearing の一種。

vulgarity(卑言)は、bloody(血まみれの)など露骨で粗野な言葉を使用。 swearing の一種。

euphemistic swearing(婉曲的呪誓)は、swearing の一種であるが、その中ではもともとの強烈な表現の代わりに、穏やかで、曖昧または堕落した表現が使用される。
 
もちろん、このような区分は聖書的ではない。

聖書において禁止されているのは間違った呪誓や間違った呪言だけ。

聖書では、主の御名をみだりに唱えること、すなわち御名を冒涜的に(バークレー訳)使用することが禁じられている。

あらゆる呪誓や呪言が禁止されているわけではない。

聖書の視点に立てば、あらゆる間違った呪誓や呪言は profane(冒涜)であり、それゆえ、冒涜(profanity)は独立して分類されるべきではない。

profane という言葉はラテン語のpro(前)と fanum(寺院)に由来している。

つまり、寺院の前や外という意味。

それゆえ、冒涜(profanity)とは、神とは無関係に発せられるあらゆる言葉、行為、生活を意味する。

冒涜(profanity)には、汚れた言葉、間違った呪誓や呪言だけではなく、神と無関係に発せられ、神の主権を認めない丁寧で礼儀正しい言葉や行為も含まれる。

正当な呪言の中で、それを行うことがけっして許されないものが一つある。

呪言は、悪者の頭上に神の裁きを下する。

自分の両親がどんなに邪悪であり、どんなに裁きに値する人々であったとしても、自分の父や母を呪うことはできない。

出エジプト記21:17
自分の父や母を呪う(またはののしる)者は死刑に処せられなければならない。

両親に対する尊敬は神的社会の基礎であり、どんなに極端な場合であっても、息子や娘が自分の親を呪うことはけっして許されない。

未成年の子どもは両親に従わなければならない。

成人した子どもはただ両親を敬うことが求められている。

親と意見が一致しないことが時にはあるだろう。

また、そうしなければならない場合もあるかもしれない。

しかし、自分の親を呪うことは、秩序と権威の基本的な原則を冒す行為にほかならない。

涜聖(blasphemy)は、単に神の御名をみだりに唱えることに留まらない。

それは、神に対して発せられる侮辱的で邪悪で、反逆的な言葉。

関連聖句
詩篇74:10~18
イザヤ552・5
黙示16:9、11:21

これは死をもって罰せられるべき罪(レビ記24:16)。



#406 神の法第三戒

2019年09月08日 | 神の法
第3戒
呪誓(swearing、誓い)と革命
 
p105~
Swearing and Revolution
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

かつて、教会や社会において、第三戒は人々の関心の中心事であった。

今日、このことに関心を向ける人々はほとんどいない。

人類学者アシュレー・モンタギューは、その著書の中で、「自分は呪誓(swearing)を支持している。呪誓を擁護する人々の数は増え続けている」と述べている。

モンタギューのこの著書はきわめて有益であり、呪誓の意味についてきわめて率直に語っている。

呪誓は、個人的な目的だけではなく、社会的な目的を明確に定義することに役に立つ。

社会的目的とは何か。

呪誓は、これまで社会的に非難されたり、禁止されたことはなかったのか。

いや、あった。

呪誓は、社会的に非難されたり、禁止されてきた。

古代において呪誓は、社会的・宗教的な制度を転覆するために用いられたからだ。

そのような目的のために神々の名前を唱えることは厳に禁じられていた。
 
きわめて重要であるが、偽りの呪誓は、社会の転覆と密接に関わっている。

呪誓はけっして普遍的に見られる現象ではない。

そのような習慣は、アメリカインディアンや日本人、マレーシア人、ほとんどのポリネシア人にはない。

モンタギューは、他民族における呪誓の習慣(オーストラリアンアボリジニ)の例を挙げているが、それらは、神に対する呪誓ではなく、悪い言葉や汚い言葉である。




#405 神の法第三戒

2019年09月07日 | 神の法
第3戒
律法の否定的性格
 
p105~
The Negativism of the Law
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇ 

法律が肯定的機能を持つ理由は、国民は否定的要素であり、無能で、幼稚であると考えられているから。

そのような国家において、責任ある人々が責任を負わされ、罰せられることになる。

無能であることが明らかな犯罪者が、ある人の家に侵入したとする。

侵入者は法律によって自分の権利を守られる。

自分の生命が明らかに危険にさらされて、すべての逃避の手段が試みられていることが証明されない限り、その侵入者を殺害した責任ある遵法的な市民は、殺人罪に問われる。

ある無法者が柵を乗り越え、門をこじ開けて、ある人の家財を奪う。

途中でふたを閉めていない穴や溝に足を入れて骨折した。

この骨折の責任は、その持ち主にあるという。

否定的性格を失い、肯定的な性格を帯びた法は、犯罪者や愚か者を守り、責任ある人々を罰するようになる。

責任を有するある領域から責任や責務が失われても、それらはけっして完全に無くなってしまうのではなく、単に別の領域に移されるだけ。

もしアルコール中毒者や犯罪者が無責任な人ではなく、単なる病人でしかないのであれば、だれかが彼らを病気にした責任を負わなければならなくなる。

カリフォルニア大学バークレー校犯罪学研究所のリチャード・R・コーン教授は、売春婦は、さらにすぐれた生活様式を求める疎外された哀れな子どもたちなので、逮捕したり投獄すべきではないと言った。

もしこれらの売春婦たちがさらにすぐれた生活様式を求める疎外された哀れな子どもたちにすぎないのであれば、だれか他の人々が彼女たちの状態について責任を負わなければならない。

なぜならば、売春婦たちの意図は健全なものだからである。

そのような責任を社会に負わせようとする人々はけっして少なくない。

しかし、売春婦やポン引き、犯罪者たちは、その一般的な意味における社会の一部を成している。

明らかに彼らは罰を受けずにいる。

責任を負わなければならない社会とは、責任感のある成功した人々であるということも明らかである。

共産主義は、クリスチャンや資本主義者が社会のすべての悪の責任を負わなければならないと主張する。

完全に責任を負わなければならないので、彼らは粛正されなければならない、という。

責任や責務を回避することはできない聖書が教える責任の教理を否定するならば、異教の教えが支配するようになる。

もし聖書が教える法の否定的な性格が拒絶され、肯定的な性格を持つ法律がそれに取って代わるならば、キリスト教と自由に敵対する革命が支配するようになる。

法の否定的性格は、自由への保障であるだけではなく、生命の保障でもある。



 

#404 神の法第三戒

2019年09月06日 | 神の法
第3戒
律法の否定的性格
 
p104~
The Negativism of the Law
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇
 
古代エジプトやバビロンやその他の国々において、医者にはすべての責任が負わされていた。

患者が死亡した場合、医者も死を免れなかった。

たとえ、それが医者の責任によるものではなくても、医者が完全責任を負わなければならなかった。

なぜ医者は完全責任を負わなければならないのだろうか。

患者は自分の意志で医者のところにやってきた。

医者は神ではない。

それとも、医者は神になるべきなのだろうか。

他の異教社会と同様に、ヨーロッパが異教国であった時代に、医学は神々と密接に関係していた。

医者には禁欲的苦行が要求されていた。

その結果、医者は次第に僧侶へと転向していった。

キリスト教の初期の数百年間、ネオプラトニズムの影響と共に、異教の影響によって、医者は苦行者として扱われるようになった。

ピックマンは、ゴール人について次のように述べている。

当時禁欲主義がなぜ大衆に人気があったかと言えば、苦行が苦行者自身に心理的な効果があったからではない。

苦行者のところに救いを求めてやってきた人々に対して苦行が身体的な効果を表したから。

それは、人道主義者たちの強力な武器であった。

それゆえ、僧侶とならない医者は、すぐにも医療行為を禁じられることとなった。
 
西洋がキリスト教化されるにつれて、このような医療に対する異教的な考え方も徐々にではあるが衰微していった。
そして、これとともに、医者を神に見立てたり、苦行者になることを要求することもなくなっていった。

医療関係者に対して国家が統制を加えるようになると、このような過去の要求が復活した。

医者はたえず訴訟に苦しめられることになった。

このような過剰な責任のゆえに、医者が事故現場における緊急治療に携わることが難しくなった。

それには、高いリスクが伴うからである。

もしこのような傾向が続けば、患者が死亡した時に医者が殺人者呼ばわりされるようになる日もそう遠くはないだろう。

スターリンの晩年のソ連において、これと似たような状況があった。


訳者注:
持論を展開するのは完読するまでは控えようと思っていたが、関連する職務領域であるだけに、筆者のあまりに明快で、かつ的を得た指摘に感服してしまい、一筆取りたくなった。

・・

我が国においても、一方的に神や僧侶に祀り上げられて、先生センセイと崇められていた時代があった。

合言葉は「すべて先生にお任せします」

しかし、時代が変わり、緊縮財政の名の下に、小泉・竹中の頃から医療費が削減され始めた。国家による統制の始まりだ。

研修医制度も、大学病院医局からの人事権剥奪という国家統制のひとつ。全て悪いとは言わないが。

予算が減れば質が低下するのは、どの業界でも当たり前のこと。

奈良県では、診療点数1点あたり9円を主張している。
現行点数は1点あたり10円。
国公立病院の7割が赤字経営という現状にもかかわらず、だ。
断行すれば、かの地の医療は徹底的に破壊されるであろう。

また、自由に開業できないようにする案も浮上している。地域医療の安定化と言いつつ、これまた国家統制のひとつ。

ある医療関係者のサイトに依れば、ほぼ毎日新たな医療訴訟が発生している模様。

真夜中にコンビニ受診して何が悪い、誤診したら訴えるぞ、という昨今の医療現場がある一方、医師の裁量権が奪われている。ある意味、医師と医療の奴隷化。

「スターリンの支配下にあった晩年のソ連において、これと似たような状況があった」とあるが、この国の医療現場もまさにその通りになりつつある。

制度は異なるが、本質において、この国の医療はアメリカの後追いをしている。

共産主義化(の、しかも末期状態)であるから、良いはずがない。

歴史を十分踏まえて、明快な解析をしてくれている筆者に敬意を表したい。

要するに、人間教を国家法のバックボーンとして採用している国家本体(の仕組み)を砕かないと、それに帰属する各部署は例外なくこのようになるという警告にも取れる結論、預言と言ってもよいだろう。

実に面白い。