みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#25 信仰の防衛:パート1 私の思考パターン

2021年10月29日 | 信仰の防衛
第1章
キリスト教神学

p31~
Chapter 1
Christian Theology
Part One
The Structure of My Thought
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

人は、伝えることができない(incommunicable)神のご性質にあずかることはできない。

人は、自分自身の存在の源には決してなり得ない。

人は、不変たり得ない、永遠たり得ない、遍在たり得ない、単純たり得ない。

それ故、これらの属性は、神の超絶性(transcendence)を強調する。

言い表すことのできる属性の下で、われわれが知っていることは

霊性。神は霊(ヨハネ4:24)
不可視性。
全知。

ある永遠の振る舞い(act)におけるもっとも深いところまで、神はご自身の存在を知っている。

神が到達したことのない程の隠された深淵はない。

ご自身に関する神の知識は、この上なく「分析的」と言える。

緩慢な処理によりご自身を分析するという意味ではなく、最も重点を置くべきところに重点を置くということ。

つまり、神はご自身の知識の付与のために視野を広げる必要がないということ。

創造された世界という事実に関する神の知識とは一体何か。

神以外に存在する物に関する神の知識とは一体何か。

われわれ人間の場合、物事を見た後で、それらの物事がそこに存在した後に、そして、それらの物事が一定の時間動いた後で、われわれはそれらの物事を知り、理解しなければならない。

神の場合はどうか。

物事に関する神の知識がまず最初に来る。

それらがそれらの物事になる前に、神はそれらの物事を知っており、理解している。

それらの物事をそれらそのものたらしめる(実体化する)のが神のご計画であり、またそれらの物事の関する神に解釈である。

コメント:

一見難しいことが書かれているが、理解は可能。

神がこの世界を創造する前には、この世界の青写真は神の知識の中にあった。

この世界が創造された次の瞬間から、神の知識でしかなかった物が、われわれ人間にも認識できる物となったということ。




#24 信仰の防衛:パート1 私の思考パターン

2021年09月07日 | 信仰の防衛
第1章
キリスト教神学

p31~
Chapter 1
Christian Theology
Part One
The Structure of My Thought
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

神のご性質(attributes)は、ひとつの単純かつ根源的存在とする以外に考えようがない。

全体は部分部分と一致する。

他方、神のご性質は、神ご自身が次第に獲得してきた特質ではない。

そのご性質は、その存在を根本とする。

各部分が集まり、その全体を形成する。

その全体から、われわれは、神における単一性と多様性が等しく基本的であり、かつ互いに依存していることを知る。

弁証学に関するこの教理の重要性は、次のような事実から知ることができる。

(キリスト教)哲学における課題全体は、単一性と多様性の関係という疑問の中に要約しうる。

いわゆる「一つと多数」の問題は、神の単純性の教理から究極的な解答が得られる。

コメント:

ヴァンティルが言うところの「神における単一性と多様性」とは何か。

脚注を参照にすると、「三位一体」のことを指していることが分かる。

部分とは、聖霊、御子、御父という3位の部分。

神における単一性とは、先の記事にあるように、神は唯一お一人であるということ。

欄外注14(要点):

神の単純性に関する教理は、「神はどのようなお方か」という疑問に対する(改革派神学の)解釈の中心にある。神の単純性に関するヴァンティルの理解は、われわれが三位一体を理解する仕方と類似している。すなわち、神の単一性と多様性の等価の極限が存在する。神の単純性の教理に関する重要な点は、神におけるそのような特質が実際に存在するとは考えられない。以下省略。




#23 信仰の防衛:パート1 私の思考パターン

2021年09月02日 | 信仰の防衛
第1章
キリスト教神学

p30~
Chapter 1
Christian Theology
Part One
The Structure of My Thought
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

第3に、神の恒久性。

時間に関して言えば神は永遠であり、空間に関して言えば神は遍在(偏在ではない)。

永遠とは、神の存在あるいは神の意識において、時間の始まりと終わり、時間の継続がないということ。

詩篇90:2
山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。

第2ペテロ3:8
しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

一時的な世界の意義に関する疑問全体を包括しているがゆえに、永遠という概念は弁証学において極めて重要。

永遠は、歴史の不変的原理と関連する。

遍在とは、神は空間に含まれている、あるいは空間に存在しないことはないということ。

神は空間を超越しているが、空間のすべての部分に存在する。

第1列王記
それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。 

使徒17:27
これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。 

第4に、神の単一性(unity)。

われわれは、単独の単一性と単純の単一性を区別する。

単独の単一性とは、数値である1に関連する。

唯一お一人の神が存在する。

単純の単一性とは、神は決して先立って存在する部分や側面から成り立つことがないということ。

エレミア10:10
しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王。その怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない。 

第1ヨハネ1:5
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。

--

富井師が凱旋帰国されたようです。
聖書に忠実であるあまり、多くの悪口雑言を浴びせられていた。
神に忠実であるあまり、同様の仕打ちを受けた主イエスと似ている。
神がこよなく愛された「この世」において
われわれクリスチャンが実行すべき数多くの重要事項について
大変分かりやすく解説してくれた師の努力と労力に激しく感謝を申し上げたい。
今しばらくは、御父のもとでゆっくりと休んでいてください。
栄光在主


#21 信仰の防衛:パート1 私の思考パターン

2021年08月20日 | 信仰の防衛
第1章
キリスト教神学

p29~
Chapter 1
Christian Theology
Part One
The Structure of My Thought
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

哲学的に議論をするということは、聖書を抜きにして議論を始めるということではない。

理性的、かつ経験に訴えることによって、まず初めに哲学的に有神論を防衛し、その後に知恵を得るために聖書に立ち返り、キリスト教を防衛するのではない。

われわれは、聖書からキリスト教信仰のみならず、有神論を得る。

聖書が語ることすべてにおいて、聖書は権威があると考える。

そして、聖書は万物について語っている。

聖書が、直接、野球について語り、原子について語っていると言っているのではない。

直接的に、あるいは間接的に、聖書は万物について語っている。

聖書が告げていることは、キリストとその御業のみならず、神はどのようなお方であるか、宇宙はどこから来たのかということ。

それは、歴史のみならず歴史原理をわれわれに与えてくれる。

さらに、これらの問題に関する情報は、解決不能な全体へと織り込まれている。

聖書を神のことばとして受け入れることを拒否する場合にのみ、(例えば、物理学的宇宙など)いわゆる宗教的道徳的教えを、聖書が言っていることから分かつことができる。

それ故、われわれが世に対して提示しなければならないのは、聖書に含まれている真理体系だ。

この真理体系を明らかにするための教義上かつ体系的神学分野があり、いくつかの主要項目から成る。

そこで、これらの諸問題を解決できるように、組織神学(systematic theology)の主題をいくつか取り上げることにする。

例として、ルイス・ベルコフ(Louis Berkhof)教授が書いたマニュアルがある。

その中に、神の教理、人間の教理、キリストの教理、教会の教理、救いの教理、最終事項の教理、に関する議論がある。

いずれの場合にも、改革派の立場は、聖書の教えであることが示される。

ローマカソリック、アルミニウス学派、そして他の見解は、あまり聖書的ではない。



#20 信仰の防衛:パート1 私の思考パターン

2021年07月28日 | 信仰の防衛
第1章
キリスト教神学

p27~
Chapter 1
Christian Theology
Part One
The Structure of My Thought
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

私の見解に対する批判への回答であるが、私の一般的思考パターン(structure)を考慮しなければ、大して役に立つとは思えない。

もう一つある。

ダン(Daane)は、私の著作「一般恩恵」を取り上げることにより、私の思考パターンを取り扱っている。

彼の批判を取り扱うためには、私の過去の、そして現在の思考パターンについて言及する必要がある。

私の基本的思考パターンは極めてシンプルだ。

どのような種類であれ、組織神学を研究しようと思ったことはない。

私の仕事はキリスト教弁証学を教えること。

それ故、改革派キリスト教教理体系を前提とする。

人間が必要としているのはまさにこの体系であると学生に教えている。

学生の殆どは私の授業に初めて出席する時、組織神学をあまり知らないので、簡単な調査を行なうことにしている。

私の同僚であるジョンマーレイ教授から組織神学の講義を受けると、彼らは私のところに戻り、キリスト教弁証学を新たに学ぶ。

弁証学に関する私の小講義関連試験であるが、第1章「われわれは何を信じ、何を防衛するのか」という疑問を取り扱う。

われわれは、キリスト教的一神教を防衛しなければならない。

歴史的事実のみを議論することによって、ひとつの歴史上の宗教としてのキリスト教を防衛しようとする試みは不可能であり、役に立たない。

われわれは、キリストは墓からよみがえったと宣言する。

さらに、われわれは、この復活はキリストの神性を証明すると宣言する。

これこそがキリスト教に関する歴史的な議論に勇気を与えてくれる。

しかし、実践的哲学者は、この系統の論理に従うことを拒むだろう。

仮に、現実的にキリストが墓からよみがえったことは許容しても、実践的哲学者は、何か非常に奇異なことが人間イエスに起こったことを示しているに過ぎないと言うだろう。

実用主義者の哲学というのは、この宇宙にある万物はお互いに無関係であり、イエスの復活という事実
(それは事実であると認めるが)は、彼の死後2000年を経て生きているわれわれには何の意味もないと考える。

このことから明らかなことは、歴史的宗教としてキリスト教を真に防衛しようとするであれば、キリスト教が土台としている一神教を防衛する必要があり、それ故、われわれは哲学的な議論へと巻き込まれていくことになる。




#19 信仰の防衛:序論(最終回)

2021年07月22日 | 信仰の防衛
初めに

4.両者の譲歩

p21~
Concessions made
Introduction
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

アダムの現実を、人間に関する単なる一般論まで減ずる必要があるというのが私の立ち位置だ。

しかし、この点に関して、彼ヴァンティルは、アダムの代表者としての役割を個人的現実にまで引き下げている。

もし、人間が人間としてそうであるように、アダムも人間のカテゴリーへと落ち入るとヴァンティルが考えているのであれば、福音は当初のような意義を失うことになるであろうことを認めなければならない。

ヴァンティルの一般恩恵論は、アダムに対して居場所を与えない。

慎重な検討が、あの叫び「アダムよ、あなたはどこにいるのか」に終止符を打つことになろう。

アダムに関する事実に基づく現実を除外するために、私が実存主義的弁証法へと進まざるを得なくなったように、「私は、キリストの初臨も、福音宣言によって生まれる恩恵の瞬間も考慮することはない、否、実際考慮すること不可能」と彼ヴァンティルも言っている通りだ。

結局、クリスチャンになる瞬間とい存在に係る解釈ゆえに、ヴァンティルはイエスキリストの初臨に重大な意義を与えようとしない。

福音宣教によって生みだされる終末論に関する余地がない。

彼の考え方には、再生の時に関する余地がない。

歴史的キリスト教という事実の完全なる消失が、非存在と存在との間の不断かつ不可逆的な関係によって決定されるというヴァンティルの倫理的決定論に依っている。

以下、省略・・。

コメント:

序論通読中。

内容はめちゃめちゃ面白いのだが、あまりにも難しすぎる。

クリスチャンとノンクリスチャンの間で何が違うのか。
救いとは何か。
一般恩恵とは何か。
等々、いずれもキリスト教(聖書が主張する)中心的なテーマばかり。

理解に支障があるのは、神学と哲学の基礎知識が欠落しているため。

序論における論点だが、ヴァンティルの神学論と彼の聖書解釈に反対する神学者たちとの見解の相違が書かれている。

残すは1ページちょっとだが、以下を飛ばし、次回から本論に入ろうと思う。



#18 信仰の防衛

2021年03月10日 | 信仰の防衛
初めに

4.両者の譲歩

p21~
Concessions made
Introduction
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

f. Daane

Daaneは、私の小冊子「一般恩恵について」を総括している。

彼の論点は、私の立ち位置が論理的にヘーゲル主義、理性主義、実存主義へと通じるということではなく、私ヴァンティルの思考構造が、現代ノンクリスチャンの思考形態によってコントロールされているという点にある。

しかし、ヴァンティルの一般恩恵に関する考え方が理性の欠落した実存主義に近いということでもない。

逆に、ヴァンティルの考え方は実存主義的弁証法に基礎を置き、それを表現しているが故に、非存在(人類はその時はまだ存在してはいなかった)のために、堕落前の人類が、ある一般性(generality)を有していたのと同様に、堕落後の人類においても、その一般性を有しているということを主張できるのだとDaaneは言う。

私ヴァンティルにとって時間とは通常の歴史的な時間ではない、と彼は力説する。

ヴァンティルの考え方は、すべての絶対的思考様式において現れる経時的時間に無頓着であることは明白であると。

ヴァンティルは歴史の初期について語っているが、これが大変な混乱を招いている。

彼が意図しているのは(人類)存在の初期のことなのかと。

Daaneは言う、「わたしが救いの一般提示について述べる時、その提示が非存在の初期の忘却(いまだ未信仰)の時の人々にとって意義あるものであることを意味する。

ヴァンティルの全く非聖書的な恩恵に関する概念は、恩恵とは元々初期段階の恩恵のようなもの、真の存在よりも前の段階の概念なのだ。

◇◇

久しぶりのエントリー。相変わらず難解な内容。

さて、本書のタイトルを再考する。

自己防衛、self-defenseということばがある。無論、この単語の意味を知らない人はいない。

では、本書のタイトルは何か。

The defense of the faith。

同様に、素直に日本語訳すれば、「信仰防衛」となる。今回からこれに変更する。

faithの前にtheが付されている理由は、普遍的信仰、つまり、われわれがともに共有すべき「キリストの信仰」を意味しているからだ。

ことばにはすべて定義がある。

「信仰」も例外ではない。

信仰とは、イエスキリストの信仰、だから、the faithなのだ。

your faithでも、my faithでも、his faithでもない。これらはみな a faith、広い意味での異端。 

The faith is the faith of (または in) Jesus Christ.

信仰防衛とは、聖書に書かれているイエスキリストの信仰を堅持・防衛すること。

人間教や左翼思想、進化論を土台とするプレミレ教を混ぜ込んでいる異端を相手にしている暇はない。

参考:

ワクチンパスポートは終末の印か?





#17 信仰の防衛

2021年01月05日 | 信仰の防衛
初めに

4.両者の譲歩

p18~
Concessions made
Introduction
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

ヴァンティル教授が多くの力点を置いているのは、クリスチャンは、自身の信仰を弁明する時に「理性に依らない事実」(brute facts)に訴える必要はないということ。

これは全く正しい。

しかし、このことが、信仰のための弁明において、事実や現実に訴えることはできないということを示唆するということではない。

できないとすれば、他の何に訴えればよいのか。

難しい点は、未信者の事実に関する知識とその知識を説明していく理論とを区別することができないことに端を発している。

後者においては、「理性に依らない事実」に屈することは不適切ではないのかと考えられている。

しかし、幸いにも、人が行なっていることは言っていることよりも良い場合が多い。

われわれはこの矛盾を利用する必要がある。

e.Van Halsema

以前に言及したように、Van Halsemaは、私ヴァンティルが、クリスチャンとノンクリスチャンは論理に関する哲学が異なっているだけでなく、異なる思考法則に従って思考するという観念に拘っているのではないかと想定している。そして、私ヴァンティルが信仰者と非信仰者の間の「事実性の共有」を否定していると、彼は言っている。彼の批判全体は以下のように要約される。

明らかに、ヴァンティル教授の見解は、クリスチャンとノンクリスチャンの「論理法則」は全く異なり、それぞれクリスチャン用とノンクリスチャン用が存在するとしている。この「事象的」一撃により、ヴァンティルは共通のロジック(すなわち、考え方の共通法則)を否定する。事実性を共有することにより、ある意味で、否定された、弁証論的議論が明らかに不可能となる。

にもかからわず、Van Halsemaも、以下のように譲歩している。

彼ヴァンティルが首尾一貫しているかどうかに関してと同じように、彼の見解が正しい、あるいは彼の記述様式が正解であると確信しているかどうかは、さほど問題ではない。議論の中で欠落している部分や過剰な部分は、ヴァンティルの業績の中で目立つ部分ではあるけれども、それらの中から反対意見を支持する優れた文献を集める必要がある。しかし、このような異論を唱える評価が問題を解決されるために公表されなければ、一方のみに有利な証拠はヴァンティルの著作集において不幸な反論となる証拠にすぎない。その反論とは、最初から最後まで同じ驚きの声だ。

つまり、Van Halsemaによれば、彼がわたしヴァンティルに下した評価のための恐るべき資料が存在する可能性を示唆している。

もちろん、そのような証拠が存在しているとしても、また、私の観念論的嗜好癖に関して、「事実は事実」という私の思考傾向に関して彼が生み出した評価がいままで通りであれば、私自身の見解において自己矛盾があうということが証明されるのだろう。

しかし、少なくともその場合において、私は観念論的あるいは現象論的考えの持ち主ではないと言えよう。

コメント:

ここも非常に難解。

「理性に依らない事実」というのは、文脈からすると(神による)啓示のことのようだ。

クリスチャンとノンクリスチャンの物の考え方やロジックの立て方は根本的に異なるというのがヴァンティルの見解と思われる。

参考:

正義や真理のために苦しむこと

聖書契約の3つの特質

自分を知恵のある者と思うな

宗教右派のクリスチャンは政治に関わる前にまず学ぶべきだ

世界の歴史は、神の霊と悪魔の霊の地上における戦いのそれである




#16 信仰の防衛

2020年12月13日 | 信仰の防衛
初めに

4.両者の譲歩

p18~
Concessions made
Introduction
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

私が描いた見解、つまりkuyperの共通基盤に関する考え方を認める意見は、決して自然神学を暗示するものではない。啓示なしで、人間は神に関する知識を持つことはない。しかし、啓示は間違いなく存在する。カルヴァンが言うところの一般啓示は、正しい考えを持つ人が「神であり創造主なる宇宙の支配者が存在する」ということを確信するために客観的に明白であり、かつ十分。神の存在なしで、野にある花の美しさはあり得ない。
クリスチャンにとって、これは明らかに真実だ。さて、このことが真実であることを未信者である友人に納得させてみよう。まず初めに、そこに花があり、その花は美しいと彼の友人が知っている必要がある。これが共通基盤(common ground)。そこで、クリスチャンである彼は、美の例を説明するために、絶対なる美という原則があるということを証明しようとするかもしれない。このことに対して、彼の友人は同意するかもしれないし、しないかもしれない。仮に、友人が同意したとしよう。かくして、この議論は、聖なる存在、次いでキリスト教の神へと発展するかもしれない。

この議論において、2つのことが分かるだろう。

A)あらゆる点で、クリスチャンは証拠として明らかにされた事実を訴える。

B)神の救いの恵みがノンクリスチャンの思いの中に介入しなければ、彼が心から最終的な結論を確信することはないだろう。

ヴァンティル教授は、やや異なるアプローチの仕方をする。

彼は言う、「キリスト教信仰に関する唯一の決定的議論が、その教えが真理であるという前提にのみ立って、ロジックや記述が実際に真理に触れているということは確かな事実。」

それが良い議論であるというのは確かにその通り。

しかし、それが、唯一かつ最高の議論かどうかは明らかではない。

意味ある記述の事実を示すことによって、キリスト教の真実性を主張するのであれば、偶然の存在という事実を説明するために、創造主の必然性を議論することによって、それが真理であると主張することの方がはるかに適切ではないのか。

コメント:

この箇所も実に分かりにくい。

共通基盤とは、クリスチャンもノンクリスチャンも「在る」と認める事実の共有。この「在る」とは、上の例では、花の美しさ。個別の花の美は分かる。では、絶対なる美が「在る」とすれば、それは一体何なのか。そして、それを存在せしめている存在が神であるという共通基盤を共有できれば、彼の友人を神の救いの恵みへと導くことができるというように話(ロジック)が展開している。

簡単に、かつ乱暴にまとめると、(キリスト教の)真理とは、単純な事実という証拠を積み上げていくと、創造主である神に到達できるということを言いたいのではないかと理解(推察)しておく。但し、そのためには、神の介入が不可欠であるとも。

参考:

1776 in America again





#15 聖書信仰を堅持する

2020年11月30日 | 信仰の防衛
初めに

4.両者の譲歩

p16~
Concessions made
Introduction
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

ここで、Orlebekeは、私の別の一節を引用する。

それは次の通り。

このことに類似しているのが、科学に対するわれわれの態度ではないか。多くの科学者たちの数々の功績を非常に価値あるものと、われわれは大いに評価している。科学が多くの詳細に光をもたらしてきたという事実をわれわれは大いに喜んでいる。しかし、現代の科学者や彼らの方法を、キリスト教的解釈を構築するための建築素材として利用することはできない。われわれは、すべての事実が意味を持つ関連において、具体的普遍性を聖書の神とキリストに献げる。

彼はこのセッションにおいて、次のように結論する。

このことは私のテーゼを確信させてくれるように思う。もしその詳細の価値を否定しないのであれば、ノンクリスチャンによって供給される詳細を、キリスト教的解釈体系の中で変えていくことは困難。類似の事例について、フェニキア人によって加工された材木を、神殿用に合わせるために、イスラエル人が再度切断する必要はなかった。

ここに、一定量の一致すべき尺がある。

未だに存在する相違については後に議論する。

Orlebekeは、われわれに、皆が関心のある問題についてより身近に観察できる方法を提供してきた。

彼の論文の結論において、Orlebekeはキリスト教弁証学について述べている。

コメント:

この箇所も難しいが、次のように理解(推察)しておく。

ここで問題となっていることは、クリスチャンとノンクリスチャンは、common ground(共通基盤)なるものを共有しているのかどうかという点。

科学はクリスチャンにもノンクリスチャンにも、世界の進歩という点では共通して価値があるが、キリスト教的解釈、つまり、神あるいは聖書を正しく理解するためには役に立たない。前提となるのは科学ではなく聖書であるからだ。よって、クリスチャンとノンクリスチャンとの間にcommon ground(共通基盤)はないとする考え方。

一方、フェニキア人が加工した材木を、神殿建設のために、かつてのイスラエル人がそのまま使用したという事実があり、同様のことが科学など他の領域にも存在しているのではないか。つまり、クリスチャンとノンクリスチャンが共有しているcommon ground(共通基盤)が存在するという考え方。

この2つの考え方には接点(妥協すべき点)があるのではないかというのがここまでの論旨のようだ。

参考:

トマス・アクィナスに関して、以前に若干調べたことがあるが、詳細に検討している記事があったのでアップしておく。

トマス・アキナスは「偉大な」神学者だった?

トマス・アキナスは「偉大な」神学者だった?2

トマス・アキナスは「偉大な」神学者だった?3