みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#28 救いの達成:The Narrow Way Dr Steven J Lawson, NO. 14 

2023年09月30日 | 救いの達成

The Narrow Way Dr Steven J Lawson

 

50分46秒から53分50秒まで。

◇◇

門は狭くて、道も狭い。

小さな門は狭き道へと続く。

小さな門は広き道へ通じていない。

もしも今宵広き道の上にいるのであれば、あなたは狭き門を通ってはいません。

広き門は広き道へと通じています。

狭き門は狭き道へと通じています。

如何にその道を全うするか慎重に明示する必要があります。

この狭き道の上を生きるということは、新しい命を進んで行くということ。

それは新しい道であり、新しい命。

それは全く別の命であり、イエスキリストにあって溢れんばかりの命。

それは聖の追及であり、義の追及。

但し、残りの人生において罪を犯さないということではない。

そんなことは百も承知。

狭き道を歩むとは、人生の完成ということではない。

それは、生き方の方向性を言ってるのです。

あなたが今歩んでいるのは、新しい方向を向いている新しい道であります。

罪を犯す時、あなたはその罪を楽しむことができない。

その罪を悔い改めて告白するまで、恥辱と罪の意識が起きます。

14節にあるように、命へと至る道が続きます。

広き道は破壊へと通じる。

その道は地獄へと通じる。

狭き道は命へと通じる。

それは限定的で、あなたを引き留めようとするかもしれない。

引き留めようとするのは、あなたに害が及び、破滅をもたらすから。

神が狭き道へと留めようとすることは大変良いことです。

狭き道に留まるということは、神のみ旨という善のど真ん中に留まるということ。

狭き道に留まるということは、緑の牧草地へと導かれること。

そして、静かな水辺へと導かれること。

神を賛美せよ。

狭き道に留まるということは、この世の汚れに触れないということ。

その道は命へと通じる。

この道の上に留まらなければ、あなたは命を失い、ゾンビのようにさまよい歩く。

心は空虚となり、内に神の霊の事々に関する真実がない。

クリスチャンのふりをして、この世に存在しているにすぎない。

しかし、新生という命がない。

新生させた命とは、神の命であり人の心。

新生された命とは、永遠の命であり、霊的命であり、超自然的な命。

それは、あなたの中で溢れんばかりの命となる。

主イエスキリストにあって生きることの何と素晴らしいことよ。

「私は道であり、真理であり、命である」と聖書に書いてある。

御子を持つ者は命を持つ。

命はほかにはない。

この命こそ正真正銘の命。

 

 

 


#27 救いの達成:The Narrow Way Dr Steven J Lawson, NO. 13 

2023年09月28日 | 救いの達成

The Narrow Way Dr Steven J Lawson

47分10秒から50分46秒まで。

◇◇

マタイ16章25節
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。 

この意味は実にシンプルです。

つまり、自分の命(人生)にしがみつこうとするなということ。

もしそうすれば、永遠に自分の命を失う。

しかし、自分の命をキリストに完全に与えるなら、永遠の命を見出すであろう。

マタイ16章26節
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。 

イエスはこの箇所で仮定の話をしています。

そんな安っぽいつまらないもののために自分の魂を売り払うことはできない。

それをすべて集めることができるなら、全世界を手に入れることができるなら、すべての金銀を手に入れることができるなら、すべての不動産、すべての財産、すべての株式、すべての契約を手に入れることができるであろう。

しかし、自分の命を失うのであれば、それらは何の益になろうか。

高リスク低リターンの買い物ではないか。

自分の命の代わりに、何を差し出せば良いのだろうか。

もしあなたが天の御国に入場したいのであれば、キリストが始まることができるために、あなた自身を終わらせる必要がある。

そして、あなたの命をキリストへと完全に明け渡す必要がある。

片足をこの世に置いている限り、片足を追い越し車線に置いている限り、片足だけはこの世のため自分のために生かしておこうとする限り、イエスキリストの上に両足を置くことにはならない。

さて、マタイ7章へと戻りましょう。

この狭き門を通るということは、これまで犯してきた罪を悔い改めること。

罪を悔い改めて、この世やこの世の誘惑や愛着から自分自身を引き離しましたか。

王の王、主の主であるイエスキリストと完全に向き合うなら、それが小さき門から入るということ。

この小さき門から入ることは大変難しいということを知っておいて欲しい。

しかしながら、あなたができることはそれしかありません。

あなたの心を捕え、悔い改めの恵みを授け、救いの信仰を与えてくれるのは、至高の祝福によるのであり、万軍の神の祝福ゆえなのです。

それは大変難しいことです。

針の穴を通る方が易しい。

キリストを信じ、次いでこの小さき門を通ることは、超自然的なわざです。

中でも、新生は神が成す最も偉大なわざであります。

神や神の事々に対して頑固になっている古い石の心を取り除きます。

ご自身の見えない御手をもって、神はあなたの胸の空洞へと降りて来られ、石の心を引きずり出し、命ある肉の心をあなたの中に植え付けます(エゼキエル36章)。

あなたが主の御名のゆえに召し出されたのは、神のみわざによって、栄光に満ち溢れながら救われるためです。

それがこの狭き門を通り抜けるための理由です。

あなたの心において、神はこの御業をなさなければなりませんでした。

それが真実であります。

14節に書いてあるとおりです。

 

 


#26 救いの達成:The Narrow Way Dr Steven J Lawson, NO. 12 

2023年09月24日 | 救いの達成

The Narrow Way Dr Steven J Lawson

43分28秒から47分10秒まで。

◇◇

人前で私を告白するという意味は、単にことばにするということではありません。

私に向かって、主よ主よと言う人がみな天の御国に入るのではないと主は言いました。

キリストということばで空気を満たすだけでは、あなたは救われません。

頭のてっぺんから足のつま先まで全身全霊において、かつ心の底から、イエスキリストは私の命の主であり、主は私の救い主であると認めるなら、私の父の御前で私はあなたを認めるとイエスは言いました。

イエスが父の御前で認めないのなら、あなたは天国に入ることはできません。

33節、しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。 

34節、わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。 

35節、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。

36節、さらに、家族の者がその人の敵となります。

この箇所でイエスが呼び求めていることは、無敵かつ絶対的王権であり、主に対する忠誠であります。

これが狭き門から入ることの意味です。

ただ単に自分の人生にイエスを付け加えるということではない。

今やイエスは私にとってすべてである。

37節、わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

あなたの心の中には、もはやイエスと肩を並べるほど愛する人はいないのです。

この狭き門を通ると、キリストを愛するところへと至ります。

あなたはキリストを切望し、あなたの心と愛、そして感情をキリストへと向けます。

わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

マタイ12章30節。

わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。 

「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者」とは、中立はないということ。

徹底的にキリストの味方か、あるいは徹底的にキリストに敵対する者か、のいずれかしかない。

狭き門を通るとは、キリストに対する忠誠を誓うということ。

つまり、徹底的にキリストの側に立つということ。

マタイ16章24節。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら」とは、だれでもクリスチャンになりたいのなら、ということ。

誰でも私の弟子になりたいのなら、誰でも狭き門を通りたいのなら、自分を否定しなければならない。

あなたは自分を終わらせなければならない。

キリストにあってすべてを得るために、あなたは自分、自分であること、自分というものを否定しなければならない。

そして、自分の十字架を背負う。

それが死の意味。

キリストは(命を)始めるのではなく、まずは終わらせようとする。

まずあなたが死んで、そしてキリストの命があなたの内で始まる。

あなたの内で生きている命は2つではない。

自分のために生きるか、それともキリストのために生きるのか。

 

 

 


#25 救いの達成:The Narrow Way Dr Steven J Lawson, NO. 11 

2023年09月21日 | 救いの達成

The Narrow Way Dr Steven J Lawson

39分18秒から43分28秒まで。

◇◇

個人的にキリストへと至るために、群れとの関係を断つ必要があります。

群衆との関係を断つ必要があります。

マタイ9章9節を開いて下さい。

この狭き門を突破した2人の人物のことと、この小さき門を通り抜けることについてイエスが語る必要があったことなどを紹介しようと思います。

私が今夜話したいことは、イエスが話したこと以上に、この門を広げようということではありません。

その門は小さな門。

マタイ9章9節。

こちらへ歩いてきた時、イエスはマタイという名の男が取税所に座っているのを見た。

彼はこの世を心において愛していた。

彼はこの世の富を手にしていた。

財産があるということに関しては何も悪いことはないのだが、財産があるためにすべてがおかしなことになっていた。

マタイが取税所に座っていた。

彼は世を重視しており、世の友であり、世とともに生きていた。

マタイの人生は、肉の欲、目の欲、驕り高ぶりの人生だった。

世のシステムの中にどっぷりと浸かっていた。

9節、イエスは彼に言った。

4つの福音書の中で、最も出現頻度の高い福音への招待がこの箇所。

単純明快、「私に従いなさい。」

イエスに従うために、自分以外のすべてを捨てる必要がありました。

教会に従うのでもなく、人に従うのでもない。

規則に従うのでもなく、道徳に従うのでもない。

私に従え。
あなたの命を私に委ねよ。
私のためにすべてを断念せよ。
その場から立ち上がれ。
信仰によって動き出せ。
あなたの命を預けよ。
私について来なさい。
皆が一つになれ。

この世の何処かに行こうと言っているのではない。

来る日も来る日も、あらゆる瞬間・場面において、私に従えと言っているのです。

これが狭き門から入ると言う意味。

この中には小さな紙があります。

その紙にはこう書いてある。

毎朝起きて、両足を床に付けた瞬間から、その日の目標は私に従うことであり、私を満足させることであり、私について来ることであり、私を愛することであり、私に仕えることになる。

私があなたの人生のすべてだから。

以上のことゆえに、パウロは言うのです「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益(ピリピ1:21)である」と。

キリスト以外の何かのために生きるのなら、死ぬことは損失です。

しかし、キリストのためにのみ(solo Christoph's)生きるのなら、死ぬことは必ずや益となるであろう。

マタイ10章32節。

御国に関する説教を宣べさせようと、イエスは弟子たちを送り出します。

その説教において、イエスは必要なことを説明し始めます。

今日それは私たちにも伝わってきますが、この説教の意味が弱められることはありません。

この説教に応答する人が狭き門から入る人です。

それ以外の人は、クリスチャンのふりをしているだけです。

次、32節。

マタイ10:32
ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。

 

 


#24 救いの達成:The Narrow Way Dr Steven J Lawson, NO. 10 

2023年09月19日 | 救いの達成

The Narrow Way Dr Steven J Lawson

34分15秒から39分18秒まで。

◇◇

現在視聴中のSteven J Lawson師によるメッセージは、以前に取り上げたR.C. Sproulによるメッセージ(以下)と内容がよく似ているので、参考にして欲しい。

A Wolf in Sheep’s Clothing - Theological Liberalism: The Classic Collection with R.C. Sproul

リベラルを離れよ。

◇◇

13節の終わりに、大変ショッキングなことが書かれています。

広き門は広い道に通じていて、広い道は永遠の破滅へと通じています。

13節の終わりに、そこから入る人は多いとイエスは言います。

人々がそこから入る理由とは、彼らが自分を騙しているからです。

15節にこうあります、「羊の皮をかぶって近づいてくる偽預言者に注意せよ。
内は貪欲な狼。彼らは偽の福音を宣べ伝える。」

あなたが信じたいことを信じることができるように、生きたいように生きることができるように教えます。

この広い道へと誘導し、騙し、誘惑します。

あなたの耳をくすぐり、言ってもらいたいことを言います。

あなたのエゴをなでつけて、望むものはすべて手に入ると言います。

この世を捨てる必要はない。

罪をやめる必要はない。

この広い門を通り抜けなさい。

次々にやってくる人の群れがこの破滅の道へと吸い込まれていきます。

そして、地獄の中へと導かれていき、そこに永遠に留まるのです。

今宵この集会において、多くの宣教師たちが集まり、彼らが皆救われることを願ったのですが、それは叶いませんでした。

今夜ここに私たちと集うことのない人々に救いの道はありません。

神はあなたがたをご自身の意図をもってここに集めて下さいました。

ご自身の善によって、神はあなたの仮面を取り去り、あなたの心がさらけ出されます。

あなたは今、破壊へと向かう広き道にいます。

今夜神はあなたの心へ直接話しかけたなら、狭き門を通り抜ける必要があります。

今が応じるべき時です。

今日が救いの日です。

今日神の御声を聞いたのなら、心を頑なにしてはならない。

語っておられるお方を拒絶してはならない。

14節に、それとは対照的なことばが書かれています。

その宗教は救わない。

その教会生活は救済しない。

天国に行けない。

14節でイエスは真理について語っています。

真の救い、真の転向、真の新生について説いています。

あなたが人生において獲得すべきこと、心において実体験すべきことがこれです。

これが実感できないのなら、他のことが正しいかどうかはどうでもよいことです。

あなたの魂は行き場を失い、あらゆることがさまよっているからです。

探し求める者や失われし者を救うために、イエスは遣って来られた。

イエスが遣って来たのは、私たちが余すことなく命を得るためでした。

非難するためにではなく、さまよえる罪人に救いをもたらすためでした。

14節に、その門は小さいとあります。

これが真の救いであります。

これがイエスの語られたことばです。

その門は小さいという意味は、その門は狭いということ。

強固であるということ、圧縮されているということ。

故に、見つけにくいということ。

街角で喧伝されていることをいくら聞いても、この門のことを聞くことはない。

ラジオ番組をいくら聞いても、この門のことを聞くことはない。

クリスチャンストアにあるどの本を開いても、この門のことを聞くことはない。

クリスチャン向けラジオ番組やテレビ番組をいくら見ても、この門のことを聞くことはない。

その門は小さくて、見つけることが難しい。

それ故、全身全霊でそれを探し求める必要があります。

ひとたびそれを見つけるや、ひとたび真理を聞くや、イエスキリストの福音の真理がいかに素晴らしいかが分かります。

その門はとても小さいので、通り抜けるために相当な努力が必要です。

その門を見つけ出して、この門に向かって真っすぐに進んで行こうとする人は大勢います。

しかしながら、この世の因習にしがみついていたい、この世の罪の習慣にしがみついていたい、それらを手放したくない、それらをあきらめられないために、彼らはこの小さな門を通り抜けることができない。

その門はそれほど小さいのです。

 

 

 


#23 救いの達成:The Narrow Way Dr Steven J Lawson, NO. 9 

2023年09月14日 | 救いの達成

The Narrow Way Dr Steven J Lawson

30分27秒から34分15秒まで。

◇◇

13節にこう書かれています。

門は大きく、道は広い。

さらに幅を広げるドミノ効果が始まる。

広き門は必ずあなたを広い道へと誘導する。

その道が広い理由は、きちんと定義がなされていないことにある。

サイドラインのないグランドでサッカーをしているようなもので、決してライン外ファールにならない。

あなたは好き勝手に生きることができ、一方の足をこの世に置き、他方の足を教会に置くことが可能。

いる場所いる場所でいつも気楽な気分でいられる。

この世の友になれるだけでなく、同時に教会の友となれるほどその門は広い。

その門は大変広いので、生きたいように生きることができる。

この町にもこの地域にも教会がいくつもあります。

あなたは信じたいものを信じ、生きたいように生きることができる不気味なほどに願いを叶えてくれる教会があります。

犯したい罪は何でも犯すことができ、兄弟姉妹とともにいられる大変心地の良い教会。

それは宗教的に広い道であるが、彷徨えし道。

人生に全く変化をもたらさない宗教。

悔い改めのない宗教。

約束の地へと向かっていると信じながら、栄光の門へ入場していると信じながら、屠られる羊のように、この道をどんどんと下って行く。

しかし、注意せよ。

その道は破滅へと通じている。

破滅とは地獄に関連し、最後の日の最後の審判へと向けられる。

実行されるはずの刑が施行され、永遠の地獄へと落ちていく。

23節で、イエスは次のように言います。

マタイ7:23
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』 

「私はあなたを知らない」という意味は、「私はあなたと何ら関係がない」ということ。

私はあなたを個人的に知らないということ。

神は万人について万事を知っておられる。

イエスは認識可能な事実について話しているのではない。

あなたの髪の毛一本さえも数えられている。

あなたが言う前から、神はあなたが言おうとしていることを知っておられる。

あなたが生まれる前から、あなたの人生はすべてかの書に書かれている。

あなた以上にあなたのことを、神は知っておられる。

あなたの心は全く当てにならないが、神はあなたについてすべてを知っておられる。

広い門から入る人々に、神は「私はあなたを知らない」「私はあなたと何ら関係がない」と言います。

自分が行なっているその場に留まっていればよい、あなたがしゃべっているその場に留まっていればよい。

あなたの言動には実際がない。

最後の日、あなたは神の御前に立ち、命の書が開かれます。

そして、その子羊の命の書に、あなたの名が書かれていないことを知ります。

世界の基が据えられる前から最後に至るまで、あなたはこのジェスチャーゲームをひたすら生き続けてきました。

 

 

 

 


#22 救いの達成:The Narrow Way Dr Steven J Lawson, NO. 8 

2023年09月10日 | 創世記

The Narrow Way Dr Steven J Lawson

26分39秒から30分27秒まで。

◇◇

新生のないただの宗教がこの門の正体だ。

それは肉に訴える宗教。

それは、神について語り、キリストについて語り、天について語り、救いについて語る宗教。

唯一の問題は、その門がかの地へと導いてくれないということ。

箴言14章12節にこうあります。

箴言14:12
人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死である。 

容易に信じることができるこの門は、あなたがあなたのままでやって来て、あなたのままが入ることができる門。

何も断念する必要がなく、何も捨てる必要がなく、何も告白する必要がない宗教。

悔い改めのない宗教。

キリストの主権に対して服従する必要のない宗教。

自分自身の人生を謳歌できる宗教。

自分の心の赴くままに生きることのできる宗教。

己に対する死のない宗教。

背負うべき十字架のない宗教。

己を否むことのない宗教。

何も犠牲を払う必要がなく、何も必要とせず、ただ立ち寄るだけの宗教。

手を挙げて、あなたが入るためのカードにサインしよう。

天国に行くのか。

否、地獄に落ちるのか。

結果は自ずと知れている。

彼らは自ずからを騙そうとしている。

彼らの目にはベールが掛けられている。

救いの道に入ったと信じている。

しかし、かの日地獄の炎の中で目が醒める。

マタイ7章21節
わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 

この広き門から入る人々。

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではない。

彼らは会話をする。

彼らは主よ主よと言う。

彼らは讃美歌の歌詞を知っている。

彼らは聖書研究会に出席する。

彼らは専門用語を知っている。

しかし、彼らは主を知らない。

マタイ7章22節
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 

最後の日に、多くの人たちは主よ主よと言う。

その日に、自分たちの働きぶりについて話すだろう。

多くの宗教活動を行ない、主の御名によって預言をし、主の御名によって悪魔を追い出し、主の御名によって多くのしるし不思議をなしたと言うだろう。

しかし、かれらはそのようなことはしなかったのです。

ただ単に、そうしたと思い込んでいるだけ。

自分を騙した。

彼らは主の御名によって預言をしたと言っている、これが神の言っていることだと言う。

違う。

神はあなたに話しかけてはいない。

悪魔を追い出した、奇跡を成し遂げたと言っているが、自分を騙している。

それは真実ではない。

救いに関して自分を騙している。

宣教に関して自分を騙している。

不正な宗教活動に関して自分を騙している。

あなたの全人生は見せかけ。

一度でよいからその覆いを下げてみたらよい。

真の自分を探ってみるがよい。

神がどのようにあなたを見ているか考えてみるがよい。

広き門があなたをどこに導くかに注意せよ。

それはあなたのための宗教であり、教会に対する異常な愛であり、教会ごっこ。

あなたはそれが大好きであるがゆえに広き門へと導かれてしまう。

 

 

 


#21 救いの達成:The Narrow Way Dr Steven J Lawson, NO. 7 

2023年09月08日 | 救いの達成

The Narrow Way Dr Steven J Lawson

22分54秒から26分39秒まで。

◇◇

続いて、次のことに注目して下さい。

これは今宵ここに集う皆さんに対する神の命令です。

あなたはこの命令に従うか、それとも逆らうのか。

他に選択肢はありません。

続いて、イエスによる警告。

13節に書いています。

これは、狭い門を通り抜ける時の重大な警告です。

そのまさに隣りに別の門があるのです。

それは極めて簡単にアクセスできる門。

それは極めて簡単に通り抜けることのできる門。

それは大きく開かれている門。

そして、その警告とは何か。

間違った門に入らないようにしなければなりません。

その門から入ってしまうと、全く違うところへと連れていかれます。

そこへは行きたくはない。

7章13節を再度見てみましょう。

狭き門から入れと言った後、イエスは警告します。

その門は大きく、その道は広く、破滅へと向かう。

そこを通りぬける人は多い。

空港に行くと、隣り合わせに2つの搭乗口があることに似ています。

空港には2つのゲートがあり、ひとつはニューヨーク行きと書いてあり、もうひとつには

東京行きと書いてある。

2つのゲートは隣り合わせにあるが、行き先は全く逆方向。

ひとつのゲートは天国行きであり、他方は地獄行き。

一方は罪の赦しと祝福をもたらし、一方は有罪判決と破滅をもたらす。

正しい門から入るために余程の注意が必要。

13節において、イエスはそのことについて話し始めます。

もうひとつの道は、異なる目的地に至る道。

私たちの魂が間違って、騙されて、違う門に入っていかないように、意図的かつある目的をもって、イエスは語っています。

このことを、イエスは、かつて地上で暮らした信心深い全世代に対して語っているということを覚えて下さい。

また、その日集まった大勢の群衆のみならず、パリサイ人、律法学者、サドカイ人に対しても、イエスはそのことを語りました。

最初に広き門に着目して見ていこうと思います。

13節において、イエスはこう言います、「その門は広い。何故なら、それは広くて、簡単に見つかり、見栄えが良く、大きくて、心誘われ、魅力的で、容易に近づくことができて、まるでゴルフボールが太平洋ほどある巨大カップに入った時のような気分となる。」

この門に近づいたら、決して見逃すことはない。

簡単に通過してしまう。

新生のないただの宗教がこの門の正体。

 

 


#20 救いの達成:The Narrow Way Dr Steven J Lawson, NO. 6

2023年09月07日 | 救いの達成

The Narrow Way Dr Steven J Lawson

18分45秒から22分54秒まで。

◇◇

信仰の最終段階である一歩を踏み出す必要があります。

キリストにアクセスするだけでは十分ではない。

その門を称賛するだけでは十分ではない。

他の人々がその門を通って行くのを見るだけでは十分ではない。

その門の存在を信じるだけでは十分ではない。

その門に驚嘆するだけでは十分ではない。

あなたの意志の証しとして、自分を明け渡し、この世を離れ、暗闇の王国に背を向け、光の国へと入城し、神の愛する御子の中へと入る最終段階を選択しなければなりません。

これが今宵の神の召しであります。

いまだ御国の外にいるあなたがたが、この招待に耳を傾けるためにここに集っていることを大変うれしく思います。

この福音を通して、神はあなたがたを召し出しておられます。

あなたがたが信仰によって応答し、狭き門を通り抜けるためです。

ルカ13章24節で、イエスは、「努力して、狭き門に入れ」と言いました。

この狭き門を通り抜けるために、苦難することになります。

そのために、心の探求が必要となる。

そのために、深い確信が必要となる。

そのために、多大な犠牲を払う必要がある。

そのために、この世を放棄する必要がある。

そのために、自分を否定する必要がある。

努力して、狭い門から入れ。

あなたがたの多くは、入ろうと探し求めるだろう。

しかし、入ることができない。

浅はかとなり、軽薄となるだろう。

努力して、狭き門から入ろうとしないからだ。

誤解なきようにしたい。

語られているご自身のことばを通して、招待状が発行されているのです。

神のことばが、今宵この時イエスのことばを通して発出されています。

あなたがたを召し出しているキリストの声が聞こえるだろうか。

マタイ11章28節、「弱り果て、重荷を背負っているものはみな、私のところに来なさい。私があなたに安息を与える。私のくびきを取り、私から学びなさい。私はへりくだっていて心が低いので、あなたがたの魂のための休息を見出すであろう。というのは、私の荷はやすく、私のくびきは軽いからです。」

クリスチャンになるのは難しいという人がいます。

あなたの人生において最も重大なことは、クリスチャンになることです。

罪人の道は険しいと聖書には書かれています。

あなたにとって難しいことは、片足をこの世に置き、もう一方の足を教会に置くことです。

両者から漁夫の利を得ようとするのだが、それは難しい。

結局、罪の種を蒔き続け、苦々しい収穫を刈り取ることになります。

友よ。

自分をあきらめ、イエスキリストに自分の命を委ね、主に対して永遠の服従を宣言することは栄光であり、素晴らしいことであり、驚嘆すべきことであります。

渇いている者を私の所へ来させ、そして飲ませなさい。

その者の最も深いところから、生ける水の川が流れる。

イエスキリストの福音を介する神の召しがあなたの心へと届けられています。

その召しに応えますか。

このメッセージを聴きながら、不安を抱いたり心配になる人もいるでしょう。

二つの見解の間で揺れ動いているからです。

そのような葛藤をつねに感じることになります。

われらの主イエスキリストにある安息を見い出すまで、あなたの魂に休息はありません。

 

 

 


#19 救いの達成:The Narrow Way Dr Steven J Lawson, NO. 5 

2023年09月04日 | 救いの達成

The Narrow Way Dr Steven J Lawson

14分40秒から18分45秒まで。

◇◇

神の国とは無関係に、私たちはこの世に生まれて以来、各々自分の人生を生きています。

私たちは外部からの見知らぬ者として入ったのです。

それ故、イエスは狭き門から入れと言ったのです。

クリスチャンの家庭に生まれることは十分ではない。

教会に出席することは十分ではない。

信心深いことは十分ではない。

狭き門を通り抜ける信仰の一歩がなければならない。

イエスキリストご自身がこの狭き門であることを知って欲しい。

ヨハネ10章7節で、イエスは「私は羊の門」と言いました。

ヨハネ10章9節で、イエスは「私は扉。私を通して入る者は救われる」と。

御国へと入城できる他の方法はないということを知って欲しい。

狭き門Aではなく、御国に入ることのできる狭き門Bに関する条文Bなるものを知っていますか。

他のいかなる方法も神の国に入ることはできません。

天はすぐそこにあるということではない。

この山を登る曲がりくねった多くの道があるということではない。

御国へと入城するための異なる方法がいくつかあるといういうことでもない。

ただ一つの道しかないとイエスは言われた。

神の国へと入る道は一つしかないのです。

イエスご自身が、通るべき狭き門、入場門なのです。

使徒ペテロ曰く、「イエスの御名以外に救いはない。」

天の下には、主の御名以外に人が救われる名はありません、

「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ誰も父の下に来ることはできない」とイエスは言われました。

使徒パウロ曰く、「唯一お一人の神がおられ、神と人を取り持つ唯お一人の仲介者がおられ、そして、すべての人の代価としてご自身を献げ、相応しい時期に生まれ、証しをされた人間イエスキリストがおられるのです。」

これが狭き門であるという事実は、罪の悔い改めを要求する。

自分の荷物を手放すことを要求する。

罪を愛し、この世を愛し、そして自己を愛する心を手放すことを要求する。

イエスは言いました、「私に従いたい者は、自分を否定し、十字架を担ぎ、私についてきなさい。」

あらゆる自己満足と独善を脱ぎ去りたいのなら、この狭き門以外に方法はない。

へりくだり、幼子のように天の御国へと入城せよ。

唯の一度、そして唯一人で通るのがこの狭き門である。

集団で通ることはできない。

集団から離れる必要がある。

包みから取り出される必要がある。

家族から離れる必要がある。

唯の一度、唯一人で、主であるイエスキリストの下へ来るのです。

これは命令であることに注意して下さい。

狭き門から入れと主は言います。

これは現在命令形、すなわち命令であり、招聘(召し)。

現在の自分、現在の居場所、今の自分そのものから離脱するための招聘であります。

直ちに主の下へと来て、狭き門を通るように招聘している。

福音とは命令であると理解する必要があります。

このキリストの招聘に従って生きるのか、それとも背いて生きるのか。

福音に応答しないことは、天に対して最も重大な罪を犯すことになります。

福音に応答しないことは、主イエスキリストの貴重な血潮を踏みにじること。

それはまた恵みの霊を辱めること。

キリストの福音に対して、「ノー」ということは、天に対して最も重大な罪を犯すことになるのです。