みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#161 終末預言 by R.C. Sproul

2022年09月30日 | 終末預言 

The Triumphal Entry (Mark 11:1–11)

訳出時間枠:21分04秒から25分27秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、マルコ福音書から改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇


ユダヤ人にとって、それはホロコーストのようなものであり、オリーブ山をすっかり取り囲んでいた。

そして、書いてあるように、イエスはこの旅を開始しました。

人々は木から葉の茂った枝を切り取って道に敷いた。

毎年パームサンデーの日には、必ずシュロの枝を振ります。

そして、人々は「ホサナ。主が私たちを救って下さる。主の御名によって来られるお方に祝福あれ」と叫ぶのです。

「主の御名によって来る者に祝福あれ。」

さて、興味があるなしに関係なく、もうひとつ小さな技術的なポイントがあります。

死ぬ前にイエスがエルサレムで過ごした時間をマルコは短縮したと言う研究者がいます。

私たちはパームサンデーを皮切りに聖なる週を祝います。

それから、金曜日に十字架があり、日曜日には復活があります。

しかし、実際に、ヨハネの福音書によると、十字架に付けられる前4か月間、イエスはエルサレムにいたという記載がされています。

恐らくマルコはこの出来事を短縮し、春ではなくて、仮庵の祭りの時期である秋にこの出来事が起きたとしたのではないか。

仮庵の祭りの時期である秋に、人々は特別な祭りの祝いとしてシュロの枝を手に取るのが恒例だったのです。

しかし、確かなことは分かりません。

いずれにせよ、福音書4書いずれも次のように書かれています。

人々は勝利のシンボルであるシュロの枝を手に取り、「ホサナ。主が私たちを救って下さる。主の御名によって来られるお方に祝福あれ」と叫びながら、空中でシュロの枝を振り回すのであります。

彼らの王が身を低くして子ろばに乗ってやって来る時に人々が歌った歌が、最初に歌う三聖唱(サンクトゥス Sanctus)でした。

サンクトゥス 

ほぼ日曜毎に、ここ聖アンデレの地で、私たちが歌う歌であります。

「来られるお方に祝福あれ。高きところに、ホサナ。主の御名によって来られるお方に祝福あれ。」と歌います。

ところで、マルコ伝には極めて奇妙な点があります。

「主の御名によって来る私たちの父ダビデの王国に祝福あれ。いと高きところにホサナ」の次の11節、イエスはエルサレムへと入り、そして神殿に入った。

彼がすべてのものを見回した時、時間はすでに遅かったので、弟子12人とべタニアへと出て行った。

このエピソードに関するマルコの結論は、クライマックスとは真逆であります。

「イエスはエルサレムへ入城し、神殿へ行き、見回して、家に帰った、べタニアに戻った」ということです。

まるで重要なことは何も起きなかったように聞こえます。

いや、違う。

わずかな内容ではあるけれども、この出来事はイエスの生涯において大変重要なことなのです。

人々はイエスがエルサレムに到着することを長い間待っていました。

エルサレムにとっての火打石のように、ご自分の顔をしっかりとエルサレムに向けた。

苦しみ、そして死ぬために、その聖なる町へ入城することを弟子たちに宣言していた。

しかし、エルサレムはイエスの最終目的地ではなかった。

そこは第2の目的地だった。

彼の目的地はその町ではなかった。

彼の目的地は神殿だった。

彼は神殿に行くつもりだった。

代々いけにえが捧げられていた場所に行き、見て回るつもりだった。

幕屋に取って代わった神殿に行くつもりだった。

その構造および用途において、そこは来たるべきメシアの生ける預言そのものだった。

 

 

 

 


#160 終末預言 by R.C. Sproul

2022年09月29日 | 終末預言 

The Triumphal Entry (Mark 11:1–11)

訳出時間枠:15分35秒から21分04秒まで
◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、マルコ福音書から改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇


「旧約聖書において最悪だった王は誰か」と問われて、討論が必要でしょうか。

迷いますか。

筆頭に挙げられる名前か、それに次ぐ名前はありませんか。

アハブ王と妻のイゼベル。

何と、彼らは過激な異教とイスラエル宮廷に偶像を持ち込みました。

何と、アハブは預言者エリシャの命を絶えず付け狙いました。

アハブの邪悪はあまりにも酷かったため、ついに神はそのことにうんざりした。

アハブを取り換えるであろうことを神はエリシャに伝えた。

神の命令に従って、エリシャは1壺の油を取り、預言者の息子のひとりに渡した。

そして言った、「エフーの家に行きなさい。アハブの代わりにエフーを王に任命すると主が命ぜられた。」

預言者はエフーのもとに来て、神のことばが命じたことを彼に告げた。

エフーには王となる野望はなかったが、神のことばに従った。

預言者が彼の頭に油を注ぐと、エフーに付き従っていた者たちはみな叫んだ、「エフーが王となった。」

それから、彼らは上着を脱いで、エフーの通り道に敷いた。

彼は部下たちの上着の上を歩いた。

人々は上着を脱いで、イエスの前に敷いた。

王を任命する際の同じ原則がここでも使われています。

この行進、すなわちこの勝利の入城へとイエスが踏み込んでいく時、それがベタニアから始まるということに注目したい。

べタニアはオリーブ山があるところにありますが、オリーブ山とはやや違います。

オリーブ山の頂上にべタニアという小さな村があります。

その村は、ケデロンの谷を横切った山の斜面、エルサレム方向へ下った途中にあります。

オリーブ山はエルサレムよりも274m高く、ちょっとした高い丘です。

それは大きな氷山のような山ではありません。

行進はべタニアから始まります。

どういうこと。

オリーブ山の上から。

どういうこと。

エルサレムの崩壊とバビロン捕囚が起きたBC586年にさかのぼる。

神は預言者エゼキエルに幻を与えた。

その預言とは、エゼキエルが彼の心の目で見ることができたもの。

エルサレムと神殿、その幻の中で、エゼキエルは神の栄光が神殿から立ち上がるのを見た。

神の栄光はエルサレムの東側から出て行き、274m上昇して、オリーブ山へと下った。

私がエルサレムにいた時、この聖なる街を一望できるオリーブ山に滞在した。

ホテルのテラスにいた時のことをいまでも覚えています。

あらゆる光がエルサレムの城壁を照明し、その光の群れがケデロンの谷を横切るのを私は見ました。

以前に話したと思うが、私には忘れられない思い出があります。

自分の子アブシャロムから逃れるために、この古い都を離れるダビデのことであります。

別の夜、私はケデロンの谷を見まわし、エルサレムを覗いていた時のことであります。

エゼキエルの幻を思い出したのです。

私の心の眼で、神の栄光が神殿から立ち上り、空中で停止し、東門から出て、私のいたオリーブ山へと上ってきました。

そして、下りてきて、山に着地したのです。

神の栄光がイスラエルから去った時のイカボデの話しを知っているでしょう。

しかし、今回はイカボデの時よりもはるかに事態は深刻でした。

神の栄光が離れてしまい、人々は捕囚へと連れ去られました。

 

 

 

 


#159 終末預言 by R.C. Sproul

2022年09月27日 | 終末預言 

The Triumphal Entry (Mark 11:1–11)

訳出時間枠:10分58秒から15分35秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、マルコ福音書から改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇


つまり、来たるべきメシアとして、ろばに乗りシオンの山に入城する王の姿が、旧約聖書におけるユダヤ人の意識の中に深く根付いていたことが分かります。

いまそのことが起きているとマルコは伝えているのです。

イエスは弟子たちに指示します、「行って、そこにつながれている子ろばをほどいて私のところへ連れてきなさい。」

さて、イスラエルを含め古代世界では、現代社会よりもはるかに厳しい土地収用権という概念がありました。

王の特権のひとつとして、王が必要とする時は何時でも、荷物運版用動物を徴用することができたのです。

それで、王として、イエスはこの権利を行使し、弟子たちに子ろばを連れてくるように命じたのです。

ここでもうひとつ注目すべきことがあります。

それは、誰も乗ったことのない子ろばであったということ。

楽しみのために、あばれろばに乗るというロデオがイスラエルにあるのかどうかは知りませんが、ちゃんとした荷物運搬用動物になるために、馬と同様に、骨を折っておく必要がありました。

ユダヤ人の歴史における大原則として、王の馬に乗ることは許されませんでした。

同様に、王のろばに乗ることも許されなかった。

王のみがそれに乗ることが許されたのです。

それで、ここでイエスは明示しています、「誰も乗ったことのない子ろばを持ってきなさい。」

それは王のために用意された子ろばだった。

彼は言います、「なぜこんなことをしているのかと誰かに聞かれたら、主がご入用なのですと言いなさい。そうすれば、その者は子ろばをここに送ってよこすであろう。」

さて、ここで、ある曖昧さがあります。

イエスは、「何をしているのかと尋ねる者がいたら、主(kurios)がご入用なのですと言えばよい」と言いました。

さて、このことばは、単純に、主人(sir、master)という意味であります。

あるいは、人民を統治する君主というより高位の意味を表す場合もあります。

イエスに対してこのことばをマルコが使うのは稀なのですが、ご自身のためにイエスがそのことばを使っています。

私の想像ですが、イエスは単純に「彼らにご主人が必要なのだ」と言っているのではなく、「統治者、ユダヤ人の王がその子ろばを必要としている」と言っているのだと思います。

だから、すぐにその者は子ろばをここに送ってくれた。

弟子ふたりが道すがらを歩いていくと、道路沿いのドアにつながれた子ろばを見つけた。

そこで、彼らはその子ろばの綱をほどいた。

しかし、そこに立っていた幾人かが彼らに、「その子ろばの綱を解いて、何をしているのか」と言った。

そこで、彼らはイエスが命じていた通りに彼らに話すと、彼らは行かせてくれた。

弟子たちは子ろばをイエスのもとへと連れてきて、その上に自分たちの着物をかぶせた。

そして、イエスがその上に座った。

再度、詳細について。

彼らが子ろばをイエスのもとに連れてきた時、弟子たちは上着を取り、イエスのためになるかのように、子ろばの背に置いた。

その続きは、他の福音書においても書いてある通りです。

イエスが行進を開始した時、人々は自分の上着を脱いで、子ろばの通り道に敷いた。

イエスがあの町へと勝利の入城を行なうパームサンデー(シュロの主日)に、人々の着物によって生み出されたかのようなレッドカーペットの上を、その子ろばは歩いていくのであります。

さて、これもまた旧約聖書にルーツがあるのです。

◇◇

賛美:

Glory, Glory

 

 

 


#158 終末預言 by R.C. Sproul

2022年09月26日 | 終末預言 

The Triumphal Entry (Mark 11:1–11)

訳出時間枠:6分15秒から10分58秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、マルコ福音書から改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

しかし、このように批判する人たちが見逃していることがある。

イエスは現在の高速道路に沿って旅をしたわけではない。

ローマ道路に沿って旅行したのです。

マルコが述べているように、ローマ道路が通っていたということが分かっています。

これは的を得ていない議論の好きな人のための余談であります。

いずれにせよ、彼らはオリーブ山までやって来てイエスは弟子のうちのふたりを送り出した。

彼らに次のように言った、「向こう側にある村に入りなさい。村に入るとすぐに、誰も乗ったことのない子ろばがいる。なわを解いて連れてきなさい。」

この時点でイエスが弟子たちに与える指示を聞くことができる。

「次の村へ行きなさい。」

この村とは、熟していないイチジクの家の近くにあるベテパゲのこと。

そして、イエスは言った、「その村へ入りなさい。そうすれば、まだ誰も乗ったことのない子ろばがつながれているのを見るだろう。ほどいて私のところへ連れてきなさい。」

これは奇妙に聞こえるかもしれない。

まるでイエスが自分のためにろばを盗んで来いと言っているように聞こえる。

しかし、そうではない。

イエスが続けてやっていることとは旧約聖書預言の成就なのです。

来たるべきメシアは、ろばに乗ってエルサレムに入城すると旧約聖書の預言が1回以上なされています。

他の福音書記者はパームサンデー(シュロの主日)に何が起こるのかをはるかに克明に記録しています。

シュロの主日に関しては、物事を大急ぎで処理しようとするマルコ福音書が最も短い記述となっています。

ゼカリア9章を例に取ると、こう書かれている。

「喜べ、エルサレムよ。あなたたちの王が頭を低くして、ろばに乗ってあなたがたのところへやってくる。」

来たるべき王の到来を待ち望んでいる人々の間で、この預言は良く知られていた。

古代の多くの王たちは大きなsteed、すなわち見事な馬に乗っていた。

アレキサンダー大王しかり、しかしユダヤ人の王はそうではなかった。

ユダヤ人の王はろばに乗ってやって来ようとしていた。

ゼカリア書に見られるこの預言は、旧約聖書の中でもかなり早期にその起源を有しています。

そのことについて少し触れておきたいと思います。

そこで、今朝私は若干flipperになろうと思います。

時に人々がこう言っているのを聞きます。

「先週あの説教者の話しを聞いたんだけど、彼はflipperだと思う。」

flipperとは、聖書のさまざまな章をパラパラめくり続けて、皆さんを混乱させる人のことを言います。

さて、創世記49章をちらっと見てみましょう。

ヤコブが自分の息子たちのために宣言した家長の祝福が書かれています。

彼の長子はルベンだったが、彼が犯した罪ゆえに、家長の祝福から除かれました。

同様に、シメオンとレビも拒否された。

次に、49章8節において、偉大な家長の祝福に話が及ぶと、ヤコブはこう言いました。

「ユダよ。あなたは兄弟たちが称える男。あなたの手は敵の首元に置かれている。あなたの父の子らはあなたの前でひれ伏すであろう。なぜなら、ユダは獅子の子だからだ。」

それから以降、来たるべきメシアはユダの獅子と呼ばれるようになった。

続けます。

「ユダは獅子の子。わが子よ、あなたは獲物によって成長してきた。獅子のように、彼は身をかがめる。彼を獅子として目覚めさせる者はいるだろうか。シロの時となるまで、セプターすなわち王位の印はユダから決して離れず、また法の制定人も彼の足元から離れることはない。民は彼に従うであろう。彼はろばをぶどうの木につなぎ、そのろばの子を極上のぶどうの木につなぐ。彼は自分の服をワインで洗い、自分の衣服をぶどうの血で洗った。」

◇◇

賛美:

The Church's One Foundation

 

 


#157 終末預言 by R.C. Sproul

2022年09月25日 | 終末預言 

The Triumphal Entry (Mark 11:1–11)

訳出時間枠:最初から6分15秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、マルコ福音書から改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇


今回はマルコ福音書11章1節から11節にご注目お願いします。

みことばを朗読しますので、一同ご起立お願いします。

さて、エルサレムの近く、エルオリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤまで来た時、イエスはふたりの弟子を送り出した。彼らに、「向こう側にある村に入りなさい。村に入るとすぐに、誰も乗ったことのない子ろばがいる。なわを解いて連れてきなさい。どうしてそんなことをするのかと聞かれたら、主がご入用なのだと言いなさい。そうすればすぐに、その子ろばを送ってくれるだろう。」そこで、ふたりは道を進んでいくと、通りに面したドアにつながれている子ろばを見つけた。彼らはつなを解いた。すると、そこに立っていたある人たちが彼らに言った、「子ろばを解いて何をしているのか。」イエスが命じた通りに彼らに話すと、彼らは行かせてくれた。それで、彼らは子ろばをイエスのもとへ連れてきて、その上に自分たちの着物を投げてかぶせた。イエスはその上に座った。多くに人たちが道に自分らの着物を広げた。木から葉の茂った枝を切り取り、道に広げる人もいた。先に進んでいた人たちも、後をついてきた人たちも叫びながら言った、「ホサナ、主に祝福あれ。神の御名によってやってくるお方に。主の御名によってやってくる私たちの父ダビデの王国に祝福あれ。ホサナ、最も高き所に。」イエスはエルサレムに、そして神殿へと入城した。イエスはすべてを見回した。時はすでに遅かった。十二弟子たちとともにイエスはベタにアへと出て行った。

クリスマスイヴの朝、神ご自身から私たちのもとへ届けられることばを聞くことができて、大変うれしく思います。

お座りください。

お祈りしましょう。

私たちの御父であり、われらの神よ。われらの主の命にあって、この意義あるひと時を理解できる心を与えて下さい。また、今日の私たちにとってそれがどのような意味を持つのか理解できる心を与えて下さい。これらのことをイエスの御名によってお願いいたします。アーメン。

11章開始にあたり、マルコの福音書の最後の3分の一を学び始めることになります。

この箇所において私にとって最も興味深いことのひとつは、マルコ福音書におけるこの1/3にあたる部分がイエスの生涯の最後の7日間にフォーカスを当てているということであります。

同様に、ヨハネ福音書において、最初から最後まで説いてみると分かるように、その半分がイエスの生涯のうちの最後の週に焦点を当てています。

何故なら、イエスがエルサレムに到着し、死んで、よみがえり、昇天するまでの間に何が起きたのか福音書記者はよく理解していたのです。

救いという神の約束のために使われた全エネルギーはこの短かい時間に集中しました。

さて、今日はクリスマスイヴの朝であり、この日は、伝統的に、いわゆるイエスの降臨、すなわちこの世界へのイエスの到来つまり出現を祝うことになっています。

赤ん坊としてイエスがこの世界に来られた時、彼は王としてお生まれになりました。

だから、幼子キリストの足元いっぱいに広がる素晴らしい贈り物について語るのです。

そして、いと高きところからやってきた挨拶、、ひとりの王ユダヤ人の王が生まれ、ヘロデが深く怯えているという天使たちからの知らせについて語るのです。

30年を経てダビデ王の町への王のアドヴェント(降臨)。

この世界へとキリストのアドヴェントと、幼子キリストの王預言の成就を目的とするエルサレムへのキリストのアドヴェントとの間の関係を知るのです。

では、聖書テキストを見ましょう。

「エルサレムの近く、エルオリーブ山のふもとの接するベテパゲとベタニヤまで来た時、イエスはふたりの弟子を送り出した。」

ある技術的なポイントは、最初にベテパゲに言及しているということです。

ベテパゲとは、「熟していないイチジクの家」という意味、また、ベタニヤとは、「悲しみの家」という意味です。

まるでエルサレムへと向かう彼らの旅を占っているかのようであります。

彼らはベテパゲを最初に通り、それからベタニアネへと向かいます。

北部からエルサレムへと入る今日の道路の交差点を見て、次のように聖書批判する研究者がいる。

エルサレム近傍地図
  

「順番が逆ではないか。エルサレムへ行くには、最初にベタニアを通って、それからベテパゲを通る必要がある」と彼らは言います。

 

 

 

 

 


#18 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年09月24日 | 基礎教理

John MacArthur: Who Is Jesus?

訳出時間枠:57分05秒から最後まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇


「彼は徹底的に抑え込まれ、ひどく苦しんでいた。しかし、口を開くことはなかった。ほふり場へ連れていかれる子羊のように、毛を刈る人の前で静かにしている羊のように、彼は口を開かなかった。抑圧と裁きによって彼は取り去られた。私の民の罪のために、生ける者たちの土地から切り除かれたと彼の時代は思った。彼らにとって、その一撃は当然だったのであろうか。彼の墓は邪悪な者たちとともにあてがわれた。しかし、死の中で、彼はひとり裕福な人とともにいた。何故なら、彼は暴力を行なわず、彼の口には欺きがなかったからだ。」

これが従順な身代わりであります。

傷だらけの身代わりは、十分な身代わりとなり、従順な身代わりとなり、主権を有する身代わりで終わるのであります(10節)。

それがどのように流れていくのか見ていきましょう。

「主はご自身の時代を長くするであろう。」

これは復活のこと。

「主の喜びは、彼の手の中で反映するであろう。」

ご自身の魂の苦悩の結果として、彼はそれを見て満足する。

彼の知恵によって、義なるお方、私のしもべは多くの人を義とするであろう。彼が彼らの罪を担うからだ。それ故、私は、その偉大性ゆえに、彼に一部を割り当てる。彼は、その力ゆえに、戦利品を分配する。」

これが完全なる勝利。

何故から、彼が罪人に数えられたからであり、彼が多くの罪を担ったからであります。

この章全体について最も素晴らしいことは何でしょうか。

それは過去の時制にあります。

拾い上げることができましたか。

十字架の数百年前に書かれた預言であります。

彼は神によって打ち叩かれた。

彼は突き通された。

彼は激しく罰せられた。

彼は抑圧された。

彼は痛め付けられた。

すべて過去形です。

どういうことか。

この章全体は壮大であります。

この章全体は、ユダヤ人の展望に由来しています。

十字架の後、将来において、キリストを振り返って真理を知るのです。

ゼカリア12章10節に何と書かれていましたか。

「彼らは私を見て、私のために悲しむであろう。彼らは刺し通された私を見上げるであろう。」

イスラエルの拒絶によって将来生じるであろうこととは、イスラエルの救いであります。

単にイスラエルの救いではなくて、異邦人の救いです。

誰でも十字架を振り返って、そして真理を知るのです。

清めの泉は人々に開かれる。

「あなたがたは私を拒絶し、刑罰へと入る」と言うことによって、イエスの人生と宣教活動は最高点に達する。

それから、そばにいる弟子たちには次のように言います、「しかし、問題はない。何故なら、私はイザヤ53章を成就させる。そして今この時から多くの魂は振り返る。振り返ってイザヤ53章から十字架の事実を知り、それを信じて受け入れる人は救われる。」

私たちの父よ。天に無数の星があるように、われらのキリストの栄光ある無数の事実に関して、心より感謝申し上げます。主の人生のひとつひとつが眩いほどの光を放ち輝いています。主の栄光ある御業は数知れません。主の荘厳と栄光のわずかの光を私たちは只々拾い上げるのみであります。われらの主を愛していることをここに断言しようと思います。あなたが最初に私たちを愛して下さったので、私たちもあなたを愛することができるのです。私たちの冷淡で無頓着な心をお赦し下さい。心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして、われらの主イエスキリストを愛するようになりますように。私たちが振り返り、主の事実を正しく理解できる者たちの中にあることは何という特権でありましょうか。このご恩寵に感謝します。キリスト尊き御名によって、すべての栄光をあなたに与えることができますように。アーメン。

 

 

 

 

 


#17 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年09月23日 | 基礎教理

John MacArthur: Who Is Jesus?

訳出時間枠:53分15秒から57分05秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

 

1節の中で、イエスは2度言います、「私は~の成就である。私は~の成就である。そして、私は罪人に数えられた(イザヤ53章)。」

こうならなければならないのであります。

背教の宗教体系によって起きた最悪の事態が、神のご計画を成就させることになるのです。

「彼は邪悪な手によって殺された、しかし、基本的には限定的評議会と神の先見によって実行された。」

イエスは神の子羊。

イエスは神の子羊。

サタンはイエスを殺したくはなかった。

サタンはイエスを十字架に付けたくなかった。

サタンはイエスを殺したくはなかったが、神がそれを実行した。

何故。

何故なら、誰かが罪人に代わる必要があったから。

「彼は罪人に数えられた。」

心がよじれます。

それがイエスの人生と宣教のクライマックスだった。

イエスは言います、「私はイザヤ53章の成就である。私は成就である」と。

彼は一本の線を置きます、「罪人に数えられた(12節)」と。

この線とは、罪人の身代わりによる同一視について語るこの章のうちのたったの20分の1であります。

この章の中で20回も、そのことについて語られています。

しかし、そのことについては1度だけ。

このことが扉を開いてくれるのです。

「私はイザヤ53章の成就である。」

イザヤ53章は、「ラビたちの拷問部屋」と呼ばれてきた。

このイザヤ53章に進んでこの説教を終わろうと思います。

これは実に素晴らしいストーリーであります。

最後の第4部において、次のことを分析して欲しいと思う。

第1に52章12節、実際には14節。

苦難の代理人について話し始めます。

52章14節、「多くの人々はあなたにひどく驚いた。というのも、彼の外見は誰よりもひどく傷ついており、その姿も人の子らよりも傷ついていた。」

53章2節、「彼は堂々とした姿はなく、彼を見上げる威厳もなかった。私たちを魅了する外見もなかった。」

彼は傷跡の身代わり。

彼は傷跡の身代わり。

苦難のしもべイザヤがやってくる。

彼は傷跡だらけで、外見は傷んでいるであろう。

次に、預言者は語る、「彼は十分な代理である。」

4節、「確かに、私たちの悲痛を彼は背負い。私たちの悲哀を担った。しかし、彼は神によって打たれ、叩かれ、そして苦しんだのだと私たちは思った。私たちの背きの罪のために彼は打ち砕かれ、私たちの不正のために叩き潰された。私たちが幸福になるための懲らしめが彼に下り、彼の内傷によって私たちは癒された。私たちはみな邪悪な道へと入り込んでしまった。私たちはそれぞれ自分の道へと向かっていった。しかし、主は私たちすべての咎を彼に向けさせた。」

彼はそれに満足したか。

彼は私たちの罪を身に受けた。

彼は私たちの咎を身に受けた。

彼は私たちに幸福をもたらした。

私たちは癒された。

彼は十分な身代わりであります。

彼は従順な身代わり(7節)。

 

 

 

 

 


#16 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年09月22日 | 基礎教理

John MacArthur: Who Is Jesus?

訳出時間枠:49分37秒から53分15秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

イエスは振り返って、神殿を見た。

それは、エルサレムの午後遅く、金色に光り輝いていた。

そして、イエスはこのように言います、「あなたがたが今見ているこれらのものであるが、崩れ落ちずに残される石がひとつもない日が来るだろう。」

人々を虐待してきた背教の宗教体系がここにある。

恵み深く憐れみ深い神、救いの神がするように望んできたことと真逆がこの宗教体系だった。

40年後、エルサレムと神殿は打ち叩かれた。

すべての家系図は破壊された。

その犠牲的体系は終止符を打った。

裁きは本当だった。

最後の招待は、最後の有罪判決となった。

第3のポイントについて話す時間があるので、ルカ22章37節を見てみましょう。

これは良くない最後でしょうか。

イエスにとって悪夢でしょうか。

いまや群衆は激怒している。

イエスの最後のことばは何だったでしょうか。

全群衆を前にして、指導者たちに対してマタイ23章全体に渡るスピーチをしました。

イエスは彼らを信用していませんでした。

裁きでもって彼らを一掃した。

彼らの怒りは制御不能となった。

群衆はイエスを捕えようとする。

彼らには手助けするインサイダーがいた。

彼らにはイエスがオリーブ山の何処にいるのか知っているユダがいた。

ユダはそこで群衆に直接指示を出している。

そして、彼らはイエスを十字架に付けようとする。

道徳や宗教について立派な考えを持っている人にとって、これは良くない最後だろうか。

いや、違う。

ルカ22章37節。

木曜日の夜。

彼らは上の部屋にいる。

集まって、最後の公式の法的過ぎ越しを祝う。

最初の主の晩餐。

イエスは弟子たちに警告する、「あなたがたにとって今後容易ではないことが起こるであろう。」

迫害や憎しみ、ヨハネ伝15章16章に書いてあることすべてをイエスは彼らに告げる。

しかし、こう告げる、「問題ない。」

37節、「書かれているこのことは、私において成就しなければならない。彼は罪人に数えられた。というのも、私に関することは必ず成就する。」

これを「最後の実現」と呼ぶことにします。

最後の招待は拒絶された。

最後の有罪判決が宣言された。

しかし、イエスを拒絶した国民に招来する有罪判決においてさえ、救いの目的の最後の実現を神は成し遂げたのです。

その時初めて、自分がイザヤ53章において預言されている人物であることを宣言する。

彼はイザヤ53章12節を引用する。

イザヤ53章12節のみを引き出すのではなく、イザヤ53章全体を大きく繰り広げる。

イエスは53章のドアを開ける。

2回、イエスは言います、「書かれていることは、私において成就しなければならない(節の始め)。」

「私に関することは必ず成就する(節の終わり)。」

 

 

 

 


#15 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年09月21日 | 基礎教理

John MacArthur: Who Is Jesus?

訳出時間枠:46分19秒まで49分37秒まで

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聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

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彼女は貧しいやもめだが、相対的に他の人たちよりも多くを投げ入れた。

彼女は持っているものをすべて100%投げ入れた。

彼女の態度に関する記載はない。

「ここにおける献げものの原則とは、どれくらい献げるかではなく、献げた後にいくら残っているかだ」という人がいるかもしれない。

それも書かれてはいない。

少し元気の出ることを言いましょうか。

この記事には原則はないのです。

献げものに関する原則なんてありません。

献金に関するあなたがたが考える説教を取り上げて、献げものに関する話をします。

この箇所の文脈とはこうであります。

突然イエスは話します、「私はあなたがたに裁きを与える。律法学者とパリサイ人には気をつけよ。ところで、小柄で素敵な女性が通り過ぎて、コインをふたつ投げ入れた。もっと献げましょう。さあ、もっと。」

こうして、福音派の献金制度が始まりました。

地獄を宣べ伝えることのできる人がいるのです(笑)。

そして、もし献金について不満があれば、何時でもあなたがたは(献金を)やめるでしょう。そうですね。

さて、イエスは、愛の献金をしようとするバプテスト福音派ではない。

ここには、献金に関する原則は存在しない。

弟子たちも、「主よ、何を言いたいのですか。所持金全部持って、あそこまで走って行けとでもいうのですか。彼女に従います、主よ。さあ、お金を持っているのは誰だ。ユダが持っているはずだが、彼はここにはいない。」

「いや、ユダはまだお金をもっているはずだ。盗んだ金を。ユダ。有り金全部あそこに持って行って、投げ込め。しかし、私たちはそうすべきことでしょうか、主よ。死ぬのか、それとも誰か現れてお金をくれるのか。私たちの重荷を他人に着せるべきか。」

原則なるものは存在しない。

弟子たちは何も質問しなかった。

彼らは分かっていた。

イエスが彼女に命じたわけではない。

彼女のことを誇らしいとは言わなかった。

彼女には善意の心があるとイエスは言わなかった。

彼女には悪意があるとも言わなかった。

彼女の態度は良いとも悪いとも言わなかった。

イエスはこのことについて何も言ってはいない。

イエスが次のように言った、「ユダヤ教はあまりに堕落している。やもめの家を食いつぶす。ここにそのひとつの例がある。」

そう、ここに一例がある。

この貧しい婦人は衣食にも事欠き、神から慈悲を買おうと最後の数セントを捧げるほどに絶望していた。

資産家説教者の始まりがこれであります。

イエスは彼らに地獄を宣言しました。

「忌々しいものよ。貧困に喘ぐ人々や絶望のどん底にある人々を背に、自分らの私腹を肥やす者どもよ。金を献げれば、成功や繁栄、健康や富を約束する者たちよ。」

これは悲惨だ。

そこを離れようとした時、彼らは話し始める。

ルカ21章5節、彼は美しい石や奉納物で装飾された神殿について話していた。

奉納物は誓いと連結して与えられ、それらの誓いは違法な誓いだった。

神に誓いを立てれば、両親が必要な時でさえ彼らにお金を上げなくてもよいという話を覚えているでしょう(マタイ15章)。

その後、彼らは出て行った。

 

 

 

 

 


#14-1 基礎教理 by Administrator

2022年09月20日 | 基礎教理

この聖句の意味とは

本メッセにおいて、ルカ福音書22章37節引用されていたので、前後の箇所を読んで見た。

ルカ22:36
そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。 

>財布のある者は財布を持ち・・

イエスは何を言いたいのか。