みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#59 救いの達成 The Battle for the Mind with Dr Steven J Lawson, #15

2024年01月31日 | 救いの達成

The Battle for the Mind Dr Steven J Lawson

46分06秒から49分00秒まで。

◇◇

ピリピ人への手紙4章8節と同じように、この箇所も始まります。

この箇所は、クリスチャンの内輪の話しです。

パウロが兄弟(brethren)と言う時、そのことばの内には、誘惑に落ちている兄弟への嘆願の意味が込められています。

私だけではなくて、と続けて言います。

私だけではなくて、私たちにある生活様式に従って歩む者たちをよくよく見なさい。

私たちを良く真似ている人たちをよくよく見なさい。

あなたがたも同じ歩みをするのです。

これを弟子訓練と言います。

ルカ書6章40節で、イエスは、「十分訓練を受けた者はみな教師ほどになる」と言いました。

そこで、ピリピの人々は、このことを実践する方法が分かったのでしょうか。

自分たちの霊的指導者を観察したこと、見たこと、読んだこと、聞いたことによって、自分たちの霊的生活においてこれを実行したのでしょうか。

なぜ神はそのような高い道徳規準を設けたのでしょうか。

それは、彼らが群れの中の年長者であり、牧会者であるからだと思います。

そして、他の人たちは彼らを見習い、真似るのです。

最後に、この結果はどうなったのでしょうか。

ピリピ人の手紙4章9節に戻りましょう。

結果はどうだったか。

ピリピ人の人々は純粋さが必要だと言われました。

彼らは、第3者による生活様式のかじ取りが必要であると言われました。

あなたがたに平安を楽しんで欲しいと思います。

これによって、あなたがたの人生に祝福がもたらされるでしょう。

自分の考え方が純粋であれば、神は御手を指し伸べますと悪魔は言うでしょう。

(そんなこととは関係なく)、神は御手を差し伸べて下さいます。

すべての木から食べてはならないと神がエヴァに言ったのと全く同じです。

神は憐れみ深かったので、法にかなっていることや神が望むことに止まるなら、霊的健全と繁栄を保全するために他の物に毒を入れることはありませんでした。

それはピリピの人々のためであり、私たちのためでもあるのです。

 

 

 


#191 終末預言 ペテロの手紙第二3章は世界終末預言か NO.3

2024年01月30日 | 終末預言 

How is limited atonement true when Scripture teaches that Christ died for the whole world?

知っていると思うが、John MacArthur師は、典型的なプレミレ教信者だ。

プレミレ信者であり福音派牧師であるJohn MacArthur師が、カルヴァン主義神学の中心的教理のひとつであるlimited atonement(限定的贖罪)について、どのような見解を有しているか大変興味深い。

正しい聖書解釈はひとつしかないことを考えると、結論が完全に一致するのは当然と言えば当然。

参考:

TULIP  
全的堕落(Total depravity)
堕落後の人間はすべて全的に腐敗しており、自らの意志で神に仕えることを選び取れない。
無条件的選び(Unconditional election)
神は無条件に特定の人間を救いに、特定の人間を破滅に選んでいる。
限定的贖罪(Limited atonement)
キリストの贖いは、救いに選ばれた者だけのためにある。
不可抵抗的恩恵(Irresistible grace)
予定された人間は、神の恵みを拒否することができない。
聖徒の堅忍(Perseverance of the saints)
いったん予定された人間は、最後まで堅く立って耐え忍び、必ず救われる。

早速聴いてみよう。

◇◇

彼(主イエス)がこの世の救い主であることは皆知っています。

この世のための救い主は唯御一人しかいません。

世は唯一人の救い主しか持っていない。

しかし、私たちは、イエスキリストの贖いが限定的であることも知っている。

人々が地獄に行くという意味で、贖いは限定的なのです。

山上の説教で、イエスは、「私に対して主よ、主よと多くの人たちが言うだろう。しかし、私は言う、私から離れて行け。不法をなす者たちよ。私はあなたがたを知らない」と言いました。

イエスは、天国よりも地獄について多くを語りました。

地獄の存在は事実であり、人々はそこに落ちていき、永遠に滅びることを私たちは知っています。

私たちは皆、イエスの贖いは限定的であることを信じています。

全ての人が救われるのではない。

限定的贖いを信じるか、万人救済を信じるか、いずれかしかありません。

万人救済説を信じるなら、理屈上、地獄というものは存在せず、誰も地獄にはおらず、全員天国にいることになります。

非限定的贖いを肯定するのであれば、結局万人救済者と同じことです。

何故なら、もしも実際に主が全世界のために死んだのであれば、全世界は救われているでしょう。

しかし、私たちがそのような立場をとることはあり得ません。

何故なら、実際に地獄は存在し、そこは多くの人で溢れています。

事実、ほとんどの人は地獄に行きます。

つまり、贖いは限定的なのです。

次に、誰が贖いを限定的にするのかという問題です。

私たちですか、それとも神がそうするのでしょうか。

その答えは聖書的に自明の理です。

神が限定したのです。

神が選ばれし人たちに限定した。

或いは、誰を救い栄光を与えるのかを神が決定した。

或いは、贖いを通して神が(選ばれし人々に)栄光を与えた。

次のようなはっきりとしない選択肢もあるようです。

自ら贖いをつかみ取り、神の贖いの一翼を担う人たちもいるというもの。

しかし、神はそのようなことをお許しにはなりません。

というのも、私たちは限定的贖いを信じていることを覚えています。

さて、次の疑問です。

主権者は人か、神か。

神が主権者なら、神が限定したのです。

 

 

 


#190 終末預言 ペテロの手紙第二3章は世界終末預言か NO.2

2024年01月29日 | 終末預言 

第2ペテロ3:9b
・・・あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
 
「ひとりでも滅びる・・」「すべての人が・・」とあるので、この箇所を引用して、ある人たちは万人救済説を唱える。この説を唱える牧師はかなりの数いるようだ。

例えば、このグループ→2 Peter 3 (Part 1) :1-18 • The Day of the Lord
20分45秒あたりから。

メッセージ全体を通して、プレミレ説に則って説教をしていることが分かる。このため、プレミレ説に疑問を持っているクリスチャンにとっては怪訝さと違和感を強く覚える。

彼らの唱える説とその説に至る経緯には重大な欠落がある。

そのみことばが書かれた時代背景や筆者の意図などを一方的に無視し、その個所のみ取り上げて理解しようとするために論点がずれてしまっているのだ。

同1:20
それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。 

このテキスト箇所の序論NO.1を簡単におさらいする。

成立年代は、ネロによるクリスチャン迫害が吹き荒れていたAD60年代で、宛先は、ネロの迫害に戦々恐々としていた小アジアの異邦人(非ユダヤ人)キリスト教徒たち。

この手紙は、小アジアのクリスチャンに宛てた手紙であり、当時、彼らの教会には偽預言者、偽教師が偽教理を教会員たちに吹き込むだろうと書かれている。

同2:1
しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。 

そこで、問題となる箇所だが、

・・・「あなたがた」に対して忍耐深くあられるのであって、「ひとりでも」滅びることを望まず、「すべての人」が悔い改めに進むことを望んでおられるのです

ネロの迫害という外部の危険だけでなく、偽預言者・偽教師たちという内部の危機に晒されている「あなたがた」に対して、道を外さないように神は忍耐深くあられ、「あなたがたのうちひとりも」道を外れて滅びることを望まず、「あなたがたすべて」が再び神の真理へと戻る悔い改めを望んでおられる・・

というように読み解くべきであろう。

主イエス・キリストが語る地獄は絵空事ではない。

 

 


#58 救いの達成 The Battle for the Mind with Dr Steven J Lawson, #14

2024年01月26日 | 救いの達成

The Battle for the Mind Dr Steven J Lawson

42分28秒から46分06秒まで。

◇◇

パウロは、ピリピ人のために聖を追及するためのひな型となり、見ることのできる実例となりました。

地方の教会においても同様のことが言えます。

教会の牧師や長老たちは群れの羊飼いです。

キリストに従う程度に応じて、あなたがたは彼らの生き方を見て、そしてそれを真似るのです。

彼らをじっくり見て、よく聞かなければなりません。

神の光栄の範囲において生きる方法を、彼らはあなたがたに示してくれます。

パウロは少し身勝手ではないか、人の行ないを奨励しているのではないか、キリストの前に人を置いているのではないか、と言う人がいるかもしれません。

第1コリント4章16節を見て下さい。

「ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。」

私は熱心に勧めます、嘆願します、懇願します。

私を見習う者になるように嘆願します。

つまり、あなたが従う人の霊的生き方は極めて重要です。

第1コリント11章1節を開いて下さい。

「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」 

この聖句によって、さらにはっきりとします。

私がキリストを見習う者であるように、私を見習う者になりなさい。

キリストに従っている霊的指導者を持つべきです。

生きている様や話す内容によって影響を及ぼす霊的指導者を持つべきです。

そのような指導者に目を向けて、彼らを良い例として従っていく必要があります。

何故なら、彼らは、神があなたに要求していることの受肉であるからです。

真似る者(imitator)という意味のギリシャ語ですが、このことばの中に英語のことばを聞き取ることができます。

μιμητής(ミメーテース)とは、mimic、つまり人のまねをする人(copycat)。

神があなたのために備えて下さった指導者たちの優先事項や情熱、生き方、態度をまねるべきです。

ピリピ人への手紙に戻ります。

ピリピ人3章17節を開いて下さい。

 

 


#57 救いの達成 The Battle for the Mind with Dr Steven J Lawson, #13

2024年01月25日 | 救いの達成

The Battle for the Mind Dr Steven J Lawson

39分36秒から42分28秒まで。


◇◇


ピリピの人々の厳しい目を前にして、パウロはポスターチャイルドになったのです。

これらの特徴ある実行方法の意味とは何でしょうか。

彼らが学んだこととは、パウロがピリピにいた時に、彼らに教えたこと、彼らに宣べ伝えたことです。

彼らが受け取ったこととは、パウロが彼らに書いた手紙のことを指します。

彼らが聞いたこととは、パウロと一緒にいた人たちから、パウロという人物について聞いたことです。

パウロと一緒にいた人たちは、彼の生き方を目撃した人たちです。

パウロがローマでの投獄に如何に反応したか、パウロが逆境にどのように反応したか、不正な苦痛にどのように反応したか、ということを彼らは目撃しました。

神の御手によって、パウロがその地を離れようとした時、彼を罵る執念深い人たちに対して、パウロは祝福をもって彼らに対応しました。

このニュースは野火のように広がり、パウロがローマの獄中にいた時のことや、パウロがどのような人生を送っているか、またどのような身の処し方をしているかといったうわさは、はるばるピリピまで達しました。

パウロは、時に引きずりおろされたり、時には論争の中を突き進んだりしました。

しかし、常に高きところを、そして聖なるところを歩みました。

ピリピの人たちに伝えられることは何であれ、自身を真似ることに一切の疑問を持ちませんでした。

彼らのために、パウロは生き方のひな形を示しました。

彼らが「私パウロにあって」見た事実をパウロは殊更に強調します。

何故なら、前置詞を見てみると、「私にあって(in me)」と書いています。

パウロの人生にあって彼らが見たこと、パウロの態度にあって彼らが見たこと、パウロの行動にあって彼らが見たこと、パウロの歩みにあって彼らが見たこと、パウロの話しにあって彼らが見たことを真似るように命じていることは明らかです。

「私のように生きなさい」とパウロは言います。

いやそれ以上に、これらのことを実行しなさいと言います。

これは命令形です。

現在形であり、パウロに従って生き続けよという動作の継続を意味します。

実行する(practice)ということばの意味は、行なうこと、実行すること、成し遂げること。

パウロは、私パウロと全く同じ生き方、私の教えと全く同じ生き方をしなさいと教えます。

 

 

 


#189 終末預言 ペテロの手紙第二3章は世界終末預言か NO.1 

2024年01月24日 | 終末預言 

第2ペテロ3:1~13
愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。 
それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。 
まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、 
次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」 
こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、 
当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。 
しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。 
しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。 
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。 
このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。 
そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。 
しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。 

◇◇

まず最初に、この手紙が書かれた当時の時代背景等について考察したい。

ペトロの手紙二


この記事の中から重要事項を抜粋する。

成立年代:
真正書簡と見る場合、これを踏まえて、執筆年代はペトロの殉教直前に置かれる。カトリック教会のフェデリコ・バルバロは66年末もしくは67年初頭と推測し[17]、福音派からは66年頃[10]、67年頃[18]、68年頃[19]などの説が出されている。

注1)つまり、ネロによる残虐なクリスチャン迫害が吹き荒れていた時代。
注2)1章14節に、「私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っている」とあるので、ペテロは目前に迫る死を覚悟しながら、この手紙を書いたことが分かる。

成立地:
使徒ペトロ自身の著作と見る場合、自らの殉教が間近に迫っていることを予見していることや第一ペトロ書との関係から、殉教した地であるローマが想定される。

宛先:
この手紙が第一ペトロ書の続きであることが仄めかされているため(3章1節)、実質的な手紙の受け手は第一ペトロ書を知っている人々、すなわちその宛先となっていた小アジアの異邦人(非ユダヤ人)キリスト教徒たちが想定される。

注)ネロの迫害に戦々恐々としていた小アジアの異邦人たちに、2000年後、3000年後の未来に起こることを書き送るだろうか???

内容:
この手紙は全3章で構成され、その執筆目的は、キリストの再臨(*)を嘲笑する人々を批判し、信仰を堅く守り、正しく生きるように勧めるものであったと言われている。

*注)正しくは、再臨(second coming)ではなく、(裁きのための)来臨。

序論において、すでに結論は出ていると思われるが、さらに追及していく。

 

 

 


#56 救いの達成 The Battle for the Mind with Dr Steven J Lawson, #12

2024年01月23日 | 救いの達成

The Battle for the Mind Dr Steven J Lawson

36分58秒から39分36秒まで。

注)最後の文章を訂正した。

◇◇

受け入れるくらいなら、青酸カリを点滴される方がましです。

コップ一杯の水の中に、青酸カリを数滴たらして飲む方がまだ良い。

それは、あなたの体を破壊するでしょう。

真のあなたは、あなたの体の中の魂です。

心を見張りましょう。

何故なら、早晩私たちが考えているようになってしまうからです。

次に、続く型について。

私たちはこれをどのように実践するのでしょうか。

これはどのようなことでしょうか。

9節にご注目下さい。

8節と9節は切れることなくつながっています。

9節がどのように始まっているか見てみましょう。

8節で、パウロがどのようにこれらの事々に関してどのように結論しているでしょうか。

8節から9節へと橋が架けられています。

大変有名な注釈者の一人であるピーターオブライエンは、次のように書いています。

8節と9節の間にくさびを打つことは適当ではない。

8節の事々(the things)と9節の初めにある (the things)の間には直接的結合がある。

オブライエンはさらに付け加えます。

9節は前節と密接に結合している。

つまり、ピリピの人々は、パウロを熱心に見習う人々であるということ。

9節を見て下さい。

私において、あなたがたが学び、受け取り、聞き、見た事々、これらの事々を行ないなさい。

つまり、8節に掲げたことについて、自分を見習い、そして自分の例に従うようにと、パウロはピリピの人々を奨励しているのです。

そして、パウロが彼らに書き送ったこと、語ったこと、パウロ自身の生き様を真似るように奨励しているのです。

9節を見て下さい。

彼らが行うべき事は4つあります。

学んだこと、受け取ったこと、聞いたこと、見たこと。

これが、彼らピリピ人が8節を実行する仕方であります。

 

 

 


#188 終末預言 フル・プレテリズムとパーシャル・プレテリズム

2024年01月22日 | 終末預言 

R.C.Sproul師もその一人であるが、partial preterismを信じているクリスチャンは世界的にみても極めて少数派だ。

日本では、dispensationismより誘導されたPremillennialismを信じている人たちが圧倒的多数を占めている。

partial preterism以外はどれも信頼性に足る教理とは思えないのだが、何故かそうなのだ。

dispensationismは進化論から派生してきた神学であり、それに慣れ親しんでいる人たちにとっては受け入れやすい教理なのだろう。

さて、終末論を議論そして理解する上で欠かせないのがpreterismという神学概念。

以下、要点を掲げておくので十分に理解して欲しい。

◇◇


フル・プレテリズム(再臨や新天新地も含めて、聖書とくに黙示録の預言のすべてが紀元1世紀に起こった)は、パーシャル・プレテリズム(聖書とくに黙示録の預言のほとんどが紀元1世紀に起こった。再臨や新天新地は未来に起こる)が歴史的信条に頼る有様を、「母なる教会」への依存と称しているようです。たしかに、歴史的信条にだけ頼ることは間違っているでしょうが、フル・プレテリズムは聖書から見ても異端と証明できるように思われます。これからじっくりと考えていかねばなりませんが。

ただし、日本においては、プレ・ミレ(黙示録の預言はほとんど未来についてである)が主流であり、プレテリズムそのものにも達していないので、この議論がわきおこるのはかなり先のことにはなると思います。

チルトンなどを読むと、聖書が第1世紀の読者をターゲットにしているということがヒシヒシと分かります。マタイ24章や黙示録は、紀元1世紀のイスラエルの人々に向けて書かれており、そのようなものとして解釈すると、きわめて理に適った解釈が可能になります。

例えば、プレ・ミレの人々のように、マタイの24章を未来の患難時代に関する預言と解釈するならば、ユダヤの神殿がもう一度未来において建設されなければならないということになります。もし神殿が再建されるならば、キリストの贖いは一体どうなるのか、それは空しい出来事だったのかという問題が起きます。たとえそれがユダヤ教徒によって建設されるにしても、プレ・ミレの人々が未来の再建された神殿を指すとしているエゼキエルの神殿では、動物によって贖いが実現するとされているわけですから、問題が起こります。

また、イスラエルの潤った地の羊の群れから二百頭ごとに一頭の羊を、ささげ物、全焼のいけにえ、和解のいけにえのためにささげ、彼らのための<贖い>とせよ。…(エゼキエル45・15)

つまり、「未来の神殿においては、動物が犠牲とされる。そして、その犠牲は「贖い」として有効である」と解釈せざるを得なくなってしまうのです。

この点は、プレ・ミレのマタイ24章の解釈の決定的な弱点であり、恐らくこれを合理的に解決できる人はいないでしょう。

マタイ24章は、明らかに、紀元1世紀の患難について述べていると解釈するならば、「この神殿は未来のものではなく、イエスが目の前にしていた神殿のことである」と解釈でき、無理がありません。イエスの預言のとおりに、紀元70年に神殿は崩壊したわけですから。

黙示録13章の「獣」も、プレ・ミレの人々は、「未来においてヨーロッパに現われる世界統一の独裁者」と考えますが、プレテリズムの立場から見れば、「ローマ帝国及びネロ帝」と理解できます。プレ・ミレに従うと、「なぜ、ヨハネは、手紙の直接の読者である紀元1世紀の地中海諸国に住むクリスチャンたちが理解できもしない『未来の反キリスト』について、『警告』したのか。」という解決できない疑問が沸き起こってしまいます。

このように、プレテリズムの立場に立つと、今日聖書の終末預言と言われるものが、きれいに解釈できるのです。

しかし、プレテリズムの立場に立つ人々の中は、さらに進んで、聖書のすべての個所が、紀元1世紀に起こったと解釈する人々が現われました。つまり、再臨や新天新地、最後の審判すらもすでに起こったというのです。

たしかに、新天新地について、私たちは、「これは、最後の審判の後に起こる、永遠の御国を指す」と考えがちなのですが、イザヤ書において、それは、明らかにイエスの初臨から始まる「キリストの王国」を指しています。

見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。 だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。 (イザヤ65・17-20)

「死ぬ者」がいるわけですから、ここで言われている新天新地は、最後の審判の後、新しい肉体を与えられた後に続く永遠の御国を指すのではありません。これは、キリストの来臨にはじまり、世界において教会を通して拡大するキリストの王国を指すと考えられます。

では、黙示録20章の新天新地も、このキリストの王国を意味するのか、という疑問が起きます。これに対してイエスと答えるのがフル・プレテリストであり、ノーと答えるのがパーシャル・プレテリストです。

海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。また私は、<新しい天と新しい地>とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、{また彼らの神となり、}彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録20・13-21・4)

ここで新天新地は、死者の肉体的復活、最後の審判、不死の世界の到来の後の出来事であることは明らかなように思えます。

ですから、この新天新地すらも、すでに起こった出来事であると解釈するのは、釈義的にも不可能に思えるのです。

ここは、歴史的に教会が取ってきた立場を尊重して、未来の出来事と考えるのが正しいと思います。

◇◇

先に考察したように、

これまでの膨大な考察から

現代は、黙示録20:7が成就している時代

黙示録20:7a
しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、・・ 

と推察する。

もうひとつ付け加えると、われわれクリスチャンの最後の敵はク〇ーバ〇ズム(共産主義)ではない。

われわれクリスチャンの最後の敵は「死」(第1コリント15章)。

 

 


#55 救いの達成 The Battle for the Mind with Dr Steven J Lawson, #11

2024年01月21日 | 救いの達成

The Battle for the Mind Dr Steven J Lawson

33分37秒から36分58秒まで。


◇◇

これに反する性質はどれもこれも、思考に対する正しい食物ではない。

このテストに合格しないものは皆的外れのものばかり。

それはクリスチャンにとって進入禁止区域。

さて、われわれクリスチャン側にも問題はあります。

第1の問題とはこうです。

この世において、私たちの回りには数多くの刺激があり、数多くの機会があり、これとは相反する数多くのメッセージがあります。

私たちは不正と言う汚水溜めの中で泳いでいます。

それは、文明が決して遭遇したことのないもの、道徳的堕落への入口、前例のない不道徳への出入り口であります。

携帯電話を持ち歩くだけでどんな情報でも引き出すことができて、あなたの知性の中へ誤った情報が飛び込んできます。

ケーブルTVやネットサーフィンも、数百もの情報を自由に選択できます。

警戒しなければなりません。

自分の回りにファイアウォール(火の壁)を築く必要があります。

さもなければ、私たちは燃え尽きてしまいます。

他の方法を考えることができるほど私たちは賢くありません。

なぜ子供たちが逸れていくのか、なんでそうなってしまったのか分からない親御さんがいます。

何故そうなったのか。

それは知性の堕落が原因です。

どこか得体のしれないところから来たのではありません。

知性から始まったのです。

いつの間にか、何処からか、邪悪で、粗暴な、生のままの考え方が知性の中へと入り込んできたのです。

不道徳という収穫として、それは帰っていきます。

恵み、恵み、恵みと、恵みを強調する人々が私のそばへと近づいてきます。

もちろん、私は神の恵みを愛しています。

しかし、言っておくが、あなたがたは燃え尽きてしまうでしょう。

そして、それらの邪悪な記憶はいつまでも残り続けます。

知性は強力です。

つまり、これら8つの特徴は皆、常に心に留めておくべき事柄です。

自分自身の中に、キリストのことばを豊かに留めていますか。

主イエスについては真実です。

主は、これらのことばの受肉であり、実体であります。

心をキリストにおきなさい。

キリストを見よ。

心を尽くして主を愛しなさい。

日々の生活において、これらのみことばに合致することは何であれ、受け入れなさい。

世において、これらのみことばから離れていることは何であれ、受け入れてはならない。

 

 


#5 宗教と現代思想 キリスト教に王道はない

2024年01月20日 | 宗教と現代思想

社会に出ると、まず耳にするのが、「結果がすべてだ」という脅し文句である。

つまり、どんなに頑張っても、結果として成果を上げることができなければ、何にもならない、ということだ。

学生時代は、努力は賞賛されるが、社会では結果だと。

たしかに、商品を買って、フタを開けたら不良品ならば、金を返せといいたくなる。顧客にとって、生産者がどれだけ努力したかはあまり意味がない。受け取った商品が実際に役立つかどうかが問題だからだ。

同じように、会社に雇われている人間が、きちんと仕事をしなければ、どんなに御託を並べても、相手にされないのは当然である。

仕事が失敗したら言い訳はできない。そういう意味において社会人には大きな責任があるのだ。

さて、このような結果を厳しく問うという気風は、世界の常識かと言えば必ずしもそうではない。おおむね、世界の諸国は日本よりも結果に対する責任をそれほど厳しく問わないようだ。

商品を注文したのに届かない。カウンタに預けた荷物が他の便に混じってしまい、受け取ることができない。電車やバスは時間どおりに来ない。ブッキングしていたホテルが満室で追い返された…。

このような不手際は、海外を旅行すれば頻繁に耳にする。

ロシアでは、大学の行事で遠足に行った帰りに、観光バスの運転手に「もう勤務時間が過ぎたのでここで降りて欲しい」と言われて途中で全員降ろされた記憶がある。さすがに労働者の天国だと納得したものだ。

日本人ほど、パーフェクトな仕事をする民族はめずらしい。アメリカでも商品の誤配なんてよくある話である。

しかし、このような日本人の長所も行きすぎると有害である。

結果にこだわるあまりに、実利に直結しない思想とか学問に関心を持たないことが多い。日本においてキリスト教が広まらないのは、キリスト教を信じて具体的にどのような利益があるかが見えにくいからである。

「天国に行けます」と言われても、唯物論的な教育を受けた者たちにはぴんとこない。逆に、キリスト教を信じる人の多いアメリカでは、犯罪も多いし、道徳は乱れている…。キリスト教にどんな利点があるのか?と尋ねられる。

ここが難しいところである。つまり、思想というものは、確実に結果を残す運命にあるのであるが、それが目に見える形になるまでには時間がかかるからである。キリスト教を信じている国を見れば、そうではない国よりもはるかに経済的にも文化的にも高いのは歴然としている。GNPで比較してもそれは明らかである。サミット国で歴史的にキリスト教国でないのは、日本だけである。イスラムが経済的に裕福なのは、石油のおかげである。仏教国で経済的に裕福になった国は、西洋文化を取り入れたからである。その前は、日本も中国も韓国も極貧にあえぎ因習に苦しめられていた。

歴史を見れば、長期的に発展した地域は例外無くキリスト教の影響を受けた地域である。なぜならば、キリスト教は「パン種」だからである。パン種はかならず周りを膨張させる。福音が入れば、それは必ず文化に影響を与える。

結果にこだわるのは、市場経済社会において当然のことである。我々は顧客に受け入れられる仕事をしなければならない。

しかし、同じことを思想に求めてはならない。思想が社会に対して影響を与えるのは徐々にだからである。

キリストは、福音は「苗」だと言われた。

「地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」(マルコ4・28-29)

苗が突然実を結ぶわけではない。苗を植えたら、次は穂である。穂をとばして実を得ようとするから、多くの人は失敗する。

我々のモットーは、「まず苗」でなければならない。

今日、教会成長にこだわる人々は、苗を植えたらすぐに実がなるものだと勘違いしている。苗から実を得ようとするのは、ギャンブラーや泥棒と同じである。馬券を買って、すぐに金に変わると期待し、着実な労働を避けて、一夜にして金持ちになろうと人の家に押し入る人と同じなのだ。

キリスト教には王道はないのだ。

韓国のある有名な牧師が、20世紀中に日本の1000万人が救われると預言し、日本の多くの牧師がそれに追随し、多くの伝道集会が開かれたが、預言は外れ、その牧師は「私の責任は終わった」と言って、すごすごと国へ帰ってしまった(偽預言者の特徴は、自分の語った言葉に責任を持たないところにある)。いや、預言が外れるどころか、むしろ、現在、キリスト教はそれを預言した10年前よりも信者の数が(1%から0.6%に)減ってしまった。

そもそも、突然1000万もの人が救われたとしても、彼らをどうやって受け入れて、訓練するのだろうか。神学や教理教育を嫌う牧師たちによって、どうやってそれらの大量の新来者を育てることができるというのか。

彼らは携挙という超自然的な解決を予期していた。彼らは20世紀中に1000万人の人々が救われて、その後時を移さずに携挙があって、新しいクリスチャンは天に携え上げられるだろうと期待していたのだ。

何と、安易なのだろう。何と、無謀なのだろう。

今日のキリスト教は、一発屋なのだ。山師なのだ。

一発屋が、「みんな、見ててくれ。俺は今度のレースで大穴を当ててみせるから。」と言い続けても、次第に人々から相手にされなくなるように、今日のキリスト教界も、すでに、心ある人々から相手にされなくなっている。

「今度の大会で、宣教のうねりが日本に起こるだろう。」とか「日本民族の救霊のために立ち上がれ!」とか呼びかけても、「またか」としか思われなくなっている。こういった掛け声に人々はうんざりしている。

キリスト教は行き詰まっている。

今日の、聖会主義、伝道会主義は、バブル前後の一発屋が跋扈していた時代には通用しても、今日のような実力を問われる低成長の時代には通用しないのだ。脆い柱が地震に堪えられないのと同じように、まがい物のキリスト教も時代の試練に耐えぬくことはできないのだ。

クリスチャンは、この逆境の時代にこそ、本物を見分け、本当の実力をつけなければならないということに気づかねばならない。

神は、着実さを求めておられる。一歩一歩、自分の足で歩み、信仰を鍛えなければならない。表面的で性急なリバイバルに目を留めるのではなく、3世代先、4世代先に、自分の家族や教会が、日本に対して強い影響力を与えられるように、地道な教理教育と訓練に努めなければならない。

我々のモットーは、「まず苗」でなければならない。