ピレモン1章6節
私たちの間でキリストのためになされている
すべての良い行ないをよく知ることによって
あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。
何故このような意味のない意訳をするのか。
原典はこうだ。
παντος αγαθου του εν υμιν εις χριστον ιησουν
極めて単純明快。
παντος αγαθουを直訳すると「聖なるすべて」
του εν υμιν εις χριστον ιησουνはどうか。
τουは冠詞で、男性単数属格。つまり、冠詞の関係代名詞的な用法。後ろにbe動詞があるものとして訳し上げる。
この箇所を直訳する。
ついにはキリストイエスへと至る私たちのうちにある聖なるすべて
「キリストのためになされている」と訳されているが、原典にはそう書いてはいない。
単純にεις χριστον ιησουν。ついにはキリストイエスへと至る。
全文直訳する。
ピレモン1:6
すなわち
ついにはキリストイエスへと至る
我々のうちにある聖なるすべて
を知ることによって
あなたの信仰の交わりが
活発になるように
同
that the fellowship of thy faith may become working
in the full knowledge of every good thing
that is in you toward Christ Jesus
(YLT)
日本語訳において、「行ない」という恣意訳が文意を台無しにしている。
「あなたの信仰」であり、「あなたがたの信仰」ではないことに注意が必要だ。
上の直訳を見て分かるように
我々がすでに持っている聖が、ついにはキリストイエスのすべての聖と一致するようになることを十分認識して、信仰を通してあなたと神(の国)との交わり(行き来)がさらにパワフルになるように
とパウロは祈ってくれているのだ。
私たちの間でキリストのためになされている
すべての良い行ないをよく知ることによって
あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。
何故このような意味のない意訳をするのか。
原典はこうだ。
παντος αγαθου του εν υμιν εις χριστον ιησουν
極めて単純明快。
παντος αγαθουを直訳すると「聖なるすべて」
του εν υμιν εις χριστον ιησουνはどうか。
τουは冠詞で、男性単数属格。つまり、冠詞の関係代名詞的な用法。後ろにbe動詞があるものとして訳し上げる。
この箇所を直訳する。
ついにはキリストイエスへと至る私たちのうちにある聖なるすべて
「キリストのためになされている」と訳されているが、原典にはそう書いてはいない。
単純にεις χριστον ιησουν。ついにはキリストイエスへと至る。
全文直訳する。
ピレモン1:6
すなわち
ついにはキリストイエスへと至る
我々のうちにある聖なるすべて
を知ることによって
あなたの信仰の交わりが
活発になるように
同
that the fellowship of thy faith may become working
in the full knowledge of every good thing
that is in you toward Christ Jesus
(YLT)
日本語訳において、「行ない」という恣意訳が文意を台無しにしている。
「あなたの信仰」であり、「あなたがたの信仰」ではないことに注意が必要だ。
上の直訳を見て分かるように
我々がすでに持っている聖が、ついにはキリストイエスのすべての聖と一致するようになることを十分認識して、信仰を通してあなたと神(の国)との交わり(行き来)がさらにパワフルになるように
とパウロは祈ってくれているのだ。