みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Coffee Break, #91

2017年06月30日 | コーヒーブレイク
ピレモン1章6節
私たちの間でキリストのためになされている
すべての良い行ないをよく知ることによって
あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。

何故このような意味のない意訳をするのか。

原典はこうだ。

παντος αγαθου του εν υμιν εις χριστον ιησουν

極めて単純明快。

παντος αγαθουを直訳すると「聖なるすべて」

του εν υμιν εις χριστον ιησουνはどうか。

τουは冠詞で、男性単数属格。つまり、冠詞の関係代名詞的な用法。後ろにbe動詞があるものとして訳し上げる。

この箇所を直訳する。

ついにはキリストイエスへと至る私たちのうちにある聖なるすべて

「キリストのためになされている」と訳されているが、原典にはそう書いてはいない。
単純にεις χριστον ιησουν。ついにはキリストイエスへと至る。

全文直訳する。

ピレモン1:6
すなわち
ついにはキリストイエスへと至る
我々のうちにある聖なるすべて
を知ることによって
あなたの信仰の交わりが
活発になるように


that the fellowship of thy faith may become working
in the full knowledge of every good thing
that is in you toward Christ Jesus
(YLT)

日本語訳において、「行ない」という恣意訳が文意を台無しにしている。

「あなたの信仰」であり、「あなたがたの信仰」ではないことに注意が必要だ。

上の直訳を見て分かるように

我々がすでに持っている聖が、ついにはキリストイエスのすべての聖と一致するようになることを十分認識して、信仰を通してあなたと神(の国)との交わり(行き来)がさらにパワフルになるように

とパウロは祈ってくれているのだ。




The Believer’s Attitude towards Sickness, #6

2017年06月29日 | 聖書研究・信仰
あなたがたの間に病気の者はいるか。

その者を教会の長老の下へ連れていきなさい。

彼らに祈ってもらい、主の御名によって油を塗って頂きなさい。

主がその者を立ち上がらせるであろう。

その者が罪を犯していたのであれば、赦されるであろう(ヤコブ5:14~15)。

癒しを求めて焦るな。

初めに戻り、神とともに処理せよ。

最初にすべきことは、教会の長老の下へと出向いて、油を塗ってもらうこと。

頭から油を垂らすことは、その者が御体の器官のひとつであることを示す。






he Believer’s Attitude towards Sickness, #5

2017年06月28日 | 聖書研究・信仰
信徒が病気になったらまずすべき最初のステップは、その原因を探り出すことだ。

そうすることによって、癒しのための手立てをいくつか講ずることが可能となるだろう。

その中のひとつが、教会の長老の所へ出向き、祈ってもらい、そして油を塗ってもらう。

これは病いに関して聖書に書かれている唯一の命令。


☞下の記事Coffee Break, #90に若干の修正を加えた。


Coffee Break, #90

2017年06月27日 | コーヒーブレイク
ヤコブ2章18節
さらに、こう言う人もあるでしょう
「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています
行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください
私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます」


この聖句もそうだが、聖書全体を通して、ἔργονということばの意味を確認したい。

これが今回のテーマだ。

ἔργον:
From ἔργω ergō (a primary but obsolete word; to work); toil (as an effort or occupation); by implication an act: - deed, doing, labour, work.

つまり、「働き」「業」という意味だ。これを「行ない」と訳すから誤解が起きる。無意識的に「行ない」を「善行」と解釈してしまうからだ。そのように擦り込まれてしまっている。マインドのリニューイング(刷新)が必要。

ヤコブ書には「行ない」という単語が随所に出てくる。これらをすべて、「しるし、不思議、癒しを行なう業、または主を喜ばせる働き、と言い換えて理解するとすっきりする。

しかし、ヤコブ書2章15~16節に「善行をせよ」と書いてあるではないかと反論する者がいるかもしれない。ここでは「自分の財産を用いて頑張って善行せよ」とは書いていない。我々キリスト者は、神に感謝する祈り、すなわち信仰によって貧乏な者たちの必要を満たすことができる。まさに5千人の給食。これが最も神に喜ばれる方法ではないか。地上に神の国をもたらすことは我々キリスト者と神との共同作業だ。

さて、the works of God(神の業)と言われると何を想像するだろうか。

まず最初に思い出すことは、言うまでもない「天地創造」だろう。

では、the works of Jesus Christと聞いて思い出すことは何か。

しるし、不思議、奇跡、癒し、死者を蘇らせる祈り、などではないか。

「神の行ない」とか「キリストの行ない」と言うことはできない。ἔργονを「行ない」と訳出することはできないのだ。

ἔργονとは、奇跡を行なうことができる働き或いは業であって、人の小賢しい空っぽな「善行」などではない。

この聖句も、そのように理解すると見えてくる。

直訳する。

ヤコブ2:18
・・略
あなたは信仰を持っている
私は業を持っている
私に見せてくれ
あなたの信仰を
あなたの業のない
私はあなたに見せよう
私の業から出てくる
私の信仰を

 
パウロは続ける。

信仰だけなら悪魔でさえ持っている。

業(または、働き)の伴わない信仰は空っぽだと断言する。

→この聖句、信仰の定義(ヘブル11:1)の裏返しとなっている。実に面白い。 







The Believer’s Attitude towards Sickness, #4

2017年06月27日 | 聖書研究・信仰
キリスト者なら、癒しは神の手の内にあることは知っている。

癒すお方を信頼することを学べ。

旧約聖書にこうある。

主の特別な御名。

「私は主、あなたの癒し主(出エジプト記15:26)」

主を見よ。

この癒しと言うご恩寵において、主はご自身の民に対して大変慈しみ深くあられる。





The Believer’s Attitude towards Sickness, #3

2017年06月26日 | 聖書研究・信仰
病いによって得られる教訓は何であれ、受け入れて学びなさい。

神の取り扱いを持てば、問題は直ちに解決するはずだ。

病いはある罪に由来、または自分の落ち度から来ることが分かる。

罪を告白して、赦しを乞うなら、神の癒しが期待できる。

主との歩みを進めていくと、このことに噛んでいるのが敵の攻撃であることが分かる。

神の弟子化という点が不健康と関連している可能性もある。

神は病を用いて、我々をより聖に、より柔軟に、より従順に変えていく。

主の御前で種々の問題を取り扱う時、我々は病気に対する正確な理由を見出すことができる。

時に神は、少量の天然由来、或いは医薬品による助けをお許しになる。

一方、そのような助けを使うことなく、神は瞬時に我々を癒すこともある。





Coffee Break, #89

2017年06月25日 | コーヒーブレイク
ヤコブ2章1節
私の兄弟たち
あなたがたは私たちの栄光の主
イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから
人をえこひいきしてはいけません

この聖句もまた、属格と対格の問題が含まれている。KJVなど信頼性の高い英語訳は属格か、
またはfaith in Christ Jesusとかfaith in Godと訳されている。

要するに、主体が誰なのかが問われている。人なのか神なのか。邪魔しているのは彼らの魂学。

実際に原典に当たってみる。

まずは

あなたがたは私たちの栄光の主
イエス・キリストを信じる信仰を持っている

と訳された箇所について。

英語に直訳する。

you have the faith
of our Lord
of Jesus Christ
of the glory

となる。3つある属格が何を修飾するのかは正確には不明だが、順次後ろから修飾しているとすると分かりやすい。

あなたがたは
栄光のイエスキリスト
我らの主の
信仰を持っている

*信仰とは、望んでいることをこの世に現出すること、またはそれを可能にする能力。

次に

私の兄弟たち。人をえこひいきしてはいけません

と訳出された箇所。

英語に直訳する。

My brethren, do not be in(by) partiality

私の兄弟たちよ、えこひいきの中にいるな。

My brethrenは呼格で使われている。呼格とは呼びかける時に使う表現法。

否定語μη(not)のある位置からすると、掛かっているのは省略されているbe動詞ではないかと推定するのが一番分かりやすい。また、持つという意味の単語ἔχωは2人称複数命令で使われている。

not~but構文と考えて、再度訳出を試みる。

My brethren!
Do not be by (the) partiality
but have the faith of our Lord
Jesus Christ of the glory


ヤコブ2:1
兄弟たちよ!
えこひいきによるな
我らの主、栄光のイエスキリストの
信仰を持て

己れの分別を捨てて、神の司法に委ねよということだろう。

そのためには、薄っぺらい私の信心ではダメ。イエスキリストの信仰が必要。






The Believer’s Attitude towards Sickness, #2

2017年06月22日 | 聖書研究・信仰
だれでも貴重な生活を失うのは怖い。

だから、信仰を通して神にすがるだけでなく、同時に投薬や注射を受けるために医師にすがる。

その者が自分のみで溢れていることを示す証左だ。

日常生活において自分で満ちているなら、病いの時どうして自分を小さくすることができようか。

日頃自分でいっぱいの者たちは、病いになるとすぐに心配になって癒しを求めようとする。

不安はなんの役にも立たない。

キリスト者の癒しは単純ではない。

今回は治っても、次は苦しむだろう。

まずは、神の御前で事態を把握する必要がある。

そうすれば、その体の問題も解かれるであろう。





The Believer’s Attitude towards Sickness, #1

2017年06月21日 | 聖書研究・信仰
信徒が病気なると必ず最初にすることは、なぜそうなったのかを神に問うことだ。

癒しを求めるあまり、神経質になってはならない。

パウロが良い例だ。

自分の弱さを最大限明らかにする方法を示してくれた。

主に従っているかどうか検証する必要がある。

何か罪を犯していないか。

誰かに負債を負ってはいないか。

自然法を犯してはいないか。

何か特別な義務を怠ってはいないか。

自然法違反は神に対しても罪を犯していると知るべきだ。

というのは、宇宙を支配する自然法は神によって制定されたからだ。

多くの者は死を恐れる。

病気になるやすぐに、医者の下へと駆け込む。

治るのかどうか気になって仕様がないからだ。

これはキリスト者の取るべき態度ではない。

まずは、病いの原因を単離するよう試みるべきだ。

辛抱が足らない兄弟姉妹があまりにも多い。

病いに落ちるやすぐに治療方法を探し求めるキリスト者が多すぎる。






Better to Be Healed, #31

2017年06月18日 | 聖書研究・信仰
今なお、多くの信徒が癒しの機会を失い、病いに倒れている。

彼らは、主は自分たちの病を負って下さっているとは思っていない。

この点に関して、もう少し議論したい。

パウロは3度の祈りの中で、自分の弱さに留まることが彼にとっては益であるということを確信した。

パウロのような確信が得られないのであれば、我々は癒しを求めるべきだ。

3度祈った後、パウロは自分の弱さを受け入れた。

そして、主ご自身によって明確に示された。

この恵みは自分にとって十分であり、自分のパワーはこの弱さの中でパーフェクトとなるだろう。

主に自分の弱さを負って欲しいと大胆に求め、病いを取り除いて欲しいと懇願する
時に、その弱さを自分で背負っていくように神が望んでいることを自覚する。

神の子らがこの地上で生きているのは病いに倒れるためではない。

主を賛美するためだ。

病気であることが主に栄光をもたらすのであれば、良いことではないか。

しかし、主に栄光を与える病気は多くはない。

結果、病いにある間、主に信頼することを学ぶ必要がある。

主が我々の病いを負って下さっていることを理解する必要がある。

主は、昨日も今日もそして永遠に同じ主だ。

我々の弱さを主に委ねようではないか。

そして大胆に癒しを求めようではないか。

アーメン。