みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#5 進化論 形質の発展は偶然の飛躍の重合によって生まれた?

2023年12月08日 | 進化論

 

人間の身体の中には分泌物を出す器官だけではなく、それを身体の外に排出するための出口もある。

例えば、脳の中にある液体(髄液)は分泌されるだけではなく、それを排出する穴が開いている。もしその穴がふさがっているならば、頭蓋骨の中の圧力が高まって生命にとって危険な状態となる。

唾液もただ分泌されるだけではなく、それを排出する穴が口の中にある。

さて、進化論が正しいならば、分泌物を出す器官だけではなく、それを排出する穴とそれが最後に汗や尿となって体外に出るまでの仕組みがすべて偶然にできたと考えなければならない。

これは非常に難しいことである。

なぜならば、例えば、脳の液を排出する穴が開いている突然変異体が生まれたとしても、穴が開いているというだけでは生存に有利であるとは言えず、それが体外にうまく排出されるすべてのシステムが同時に揃わねば、環境に適用した強者は生まれないからである。

穴ができただけで管がない個体は死滅し、管が揃った個体が生存した?そして、管だけではなく、その管を通して排出された液体がうまく静脈の血の中に老廃物として流れ込む仕組みを持った突然変異体が生き残った?

しかし、(1)「穴が開いているだけのもの」と、(2)「その穴に管がついているだけでそれが液の排出に貢献していないもの」との生存能力の差は存在しないはずである。なぜならば、(1)と(2)のどちらの器官も(3)「実質的に液を排出する」という役割を果たしていないという意味において「生存寄与度」は同じだからである。

ということは、(1)から(2)の段階を踏んで(3)に至ったと結論することは必ずしも必須であるというわけではなく、むしろ、(1)から突然(3)に移行したと考えることが十分にできるということになる。

つまり、突然変異と淘汰によって進化が進んだというならば、生存に寄与しない中間の形質というものがあったということを必ずしも前提にはできないということになる。なぜならば、中間形質が「淘汰」に役立たないからである。

例えば、羽が生えていない動物が羽を獲得して空を飛べるようになったという進化の過程において、十分に空を飛べるだけの機能を持っていない羽を持つ動物と羽が生えていない動物との間に生存能力に差はない。いや、むしろ、足でもなく羽でもない前肢を持つ中間の動物は、邪魔なものをつけているので生存がしにくかったであろうと想像できる。

だから、生物の進化の過程は、徐々に形質を獲得していったというよりも、「生存能力において十分に貢献する機能を身につけた個体」から「生存能力において十分に貢献するさらに高度な機能を身につけた個体」へ飛躍したと考える以外にはない。

例えば、(1)地蜘蛛→(2)糸を出す器官を身につけたが巣を作る本能を持たない蜘蛛→(3)糸を出す器官と空中に巣を作る本能と備え、昆虫を捕獲できる能力を持つ蜘蛛 というように変化したのではなく(なぜならば(1)と(2)に生存能力に差はないから)、(1)から(3)にジャンプしたとしなければ、「淘汰」による説明は不可能になる。

そうなると、「果たして遺伝子のランダムな変化だけによって、(1)から(3)へジャンプすることがはたしてありうるのだろうか。」という疑問が起こってくる。

すでに何度も述べているように、ティラノザウルスの1本の歯の片側にはギザギザがついている。このギザギザの一山が偶然に、このように、歯の片側だけに同じものが約30個も揃って並ぶ確率はきわめて小さなものだ。 

山が偶然にできたとしても、同じものが隣に並ぶ確率はきわめて小さい。しかも、それが30も40も並ぶということになれば、実質的に不可能である。こんな単純な形質の形成ですら不可能ならば、生物の身体を構成している様々な有機的な仕組みが偶然に整ったと考えることはきわめてナンセンスである。

くどくなってしまったが、私が言いたいのはこういうことだ。

中間の形質が生存に寄与しない場合に、『淘汰』による進化の過程で、その中間形質は存在意味がないため、進化の説明においていかなる意味もない。つまり、進化があったと主張するならば、この場合、形質は『役立つもの』から『役立つもの』へとジャンプしたと言う以外にはない。しかし、偶然によってある『生存に役立つ形質』が整う確率はきわめて小さなものでしかない。それゆえ、このような奇跡の連続を主張しなければ成り立たない進化論なるものが極めて非現実的であると言えよう。 

 

 

 


#4 進化論 ミスが積み重なって進化した?

2023年11月30日 | 進化論

 
現在の進化論では、遺伝子のコピーミスが積み重なることによって進化が進んだという考え方をしているが、経験から分かるように、ミスが積み重なって何か優れたものが生まれたと仮定することはできない。

 ミス+ミス+ミス+ミス+…+ミス=混沌

である。

仮に、ゴッホの自画像のコンピュータ画像があるとしよう。

そのデータを操作する際に、ある一定の確率で少しずつミスが生じるとしよう。

その操作を100回加えたら、そこに花の絵が加わったということがあるだろうか。

それとも、ゴッホが描くよりも優れた絵になったということがあるだろうか。

ミスが積み重なれば、ゴッホの絵は崩れて見る陰もなくなるだろう。

ミスが、たまたま全体にプラスに働くのはきわめてまれである。

その大部分は全体をダメにするものだ。

しかも、ミスが次々に重なって起これば、全体は滅茶苦茶になる以外にはない。

演劇において少しのミスは、かえって聴衆を沸かせることもあるかもしれない。

しかし、一つの劇において、ミスがあまりにも頻繁に積み重なればいかがだろうか。その劇は失敗に終わる。滅茶苦茶である。

だから、ミスが積み重なるうちに優れたものに発展しました、という現代の進化論はマヤカシなのだ。

 

 

 


#1 進化論 創造の証拠

2023年11月03日 | 進化論

 「創造の証拠を見せろ」と言われることが多いが、これはきわめて簡単である。

 進化論がありえないということを示せばよいからである。

 進化じゃなければ創造しか選択肢はないのだから。

 進化論がありえないということを示すのは簡単である。

 なぜならば、例えば、ある単細胞生物に新しい機能が偶然追加されたとしても、その機能を生成するための遺伝情報が遺伝子に追加されなければ、それは次の世代に伝わらないからである。

 仮に、ある単細胞生物に鞭毛が偶然に加わったとしよう。

 しかし、鞭毛を獲得したこの生物が、同じ形質を子孫に受け継がせるためには、遺伝子においてそれを生み出すための遺伝情報が追加されなければならない。

 これは、ある意味において不可能である。鞭毛が加わることと、遺伝子が変化することは、まったく相互に関係のない独立の事象だからである。

 これが同時に起こる確率は限りなく0に近い。

 これに対して、「いや、鞭毛が加わって、同時に遺伝子に変化が生じたというわけではなく、遺伝子が突然変異によって変化したために鞭毛が加わる。」と主張したとしても、遺伝子の変化は、完全に偶然の作用によるのであるから、うまく鞭毛を生み出すように遺伝子の変化を期待することは不可能に近い。

 鞭毛一本の構造はきわめて精緻かつ巧妙であり、とても偶然に付け加わるようなものではない。それは、鞭毛を研究している人間なら知っていることだ。

 ATGCという4種類の塩基の組み合わせが偶然に、鞭毛なり葉緑体なり何らかの器官を生み出すために並ぶ可能性は限りなく0に近い。

 鞭毛が追加されるために必要な塩基配列がAATAATTTCTAGCTTAATAATTTCTAGCTTCAATTAATTTCTAGA

ATTTCTAGCCTCTAGCTAGCCAATTAATTTCTAGAATTTCTAGCC

TCTAGCTAGCであるとしよう(こんなに少ないわけはないが)。この100個の塩基配列に至るには、4の100乗回=10の60乗回の試行錯誤が必要である(特定の組み合わせが起こりやすいことを除いて考える)。

 さて、宇宙の陽子の総数が10の80乗個であると言われているから、このような試行錯誤がありえないことは明らかである。

 100個の塩基からなる配列が偶然に成立することですら、ありえないのであれば、30億個の塩基からなる人間のDNAが偶然に成立することがまったくありえないことは火を見るより明らかである。

 『偶然に』何か有意な器官が生まれ、それが次々と追加されて現在の生物が生まれたなどと考えることがいかにバカげているかこれでお分かりだろうか。

さて、進化がありえないということが分かると、残る選択肢は、創造である。生物を創造した者が存在するということはこれではっきりする。

 

参考:バクテリア鞭毛モーター