みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

The Subjective Working Of The Cross, #1-5

2016年08月31日 | 聖書研究・信仰
それぞれの箇所において、主ご自身が魂の活動について語っている。

それぞれにおいて、魂的生き方の異なる側面或いは啓示が触れられている。

それぞれにおいて、主が実にわかりやすく説明している。

人の魂は一方的に、まさに一方的に処理される必要があるということ。

つまり、日々自分の十字架を負って、主に従っていくということ。






The Subjective Working Of The Cross, #1-4

2016年08月30日 | 聖書研究・信仰
ヨハネ12:24
アーメンアーメン私は言う
もしその麦の種が地の中へと
落ちて死なないなら
それはひとつに留まる
しかし
もしそれが死ねば
数多くの果実を結ぶ


ヨハネ12:25
自分の魂を愛する者は
それを滅ぼすだろう
この世界において
自分の魂を憎む者は
永遠の中において
それを救うであろう

ヨハネ12:26
もし私に仕えるなら
私について来なさい
その場所に私はいる
そこに私のしもべはいるだろう
もし私に仕えるなら
あの父が名誉を与えるだろう




The Subjective Working Of The Cross, #1-3

2016年08月29日 | 聖書研究・信仰
ルカ17:32
ロトの妻を思い出しなさい

ルカ17:33
もし自分の魂を救い求めるなら
その者はそれを滅ぼすだろう
もしそれを滅ぼすなら
その者はそれを救うであろう

ルカ17:34
あなたがたに言う
その夜、ひとつのベッドに
2人の男がいるだろう
ひとりは取られて
もうひとりは残される




The Subjective Working Of The Cross, #1-2

2016年08月28日 | 聖書研究・信仰
マルコ8:32
あからさまに
彼はそのことばを言った
そして、ペテロは彼を傍らへ取った
彼に説教を始めた

マルコ8:33
そこで、彼は振り返った
彼の弟子たちを見ながら
ペテロに説教して言った
私の後ろに引き下がれ、サタンよ
お前は思っていない
神の事々を
むしろ、人間たちの事々を

マルコ8:34
彼は群衆を呼び寄せた
彼の弟子たちと一緒に
彼らに言った
誰でも私の後に来ることを望むなら
自分を否定せよ
自分の十字架を取れ
私に従え

マルコ8:35
もし自分の魂を救おうとするなら
人はそれを失うであろう
もし自分の魂を失おうとするなら
私のために、そして福音のために
人はそれを救うであろう




The Subjective Working Of The Cross, #1-1

2016年08月27日 | 聖書研究・信仰
マタイ10:34
考えてはいけない
私は投げるために来た
平和を
地上の上に
私は投げるために来たのではない
平和を
むしろ剣を

マタイ10:35
私は来た
2分するために
男を
彼の父に対抗して
女を
彼女の母と対抗して
嫁を
彼女の義母と対抗して

マタイ10:36
その男の敵(となる)
彼の家の者たちは

マタイ10:37
私よりも父や母を愛する者は
私を受けるに値しない
私よりも息子や娘を愛する者は
私を受けるに値しない

マタイ10:38
自分の十字架を取らない
そして、私の後についてこない者は
私を受けるに値しない

マタイ10:39
自分の魂を得る者は
それを失う
自分の魂を失う者は
私の故に
それを得る




Coffee Break, #50

2016年08月26日 | コーヒーブレイク


Watch out NOT to go into the wide gate and broad way leading to destruction !




The Basis Of All True Ministry, #10

2016年08月23日 | 聖書研究・信仰
ここで、神に奉仕をする際、特に注意を払ってほしいことがある。

肉と魂的命の生来のエネルギーがなす業とはまるで違うということ。

ローマ書7章に書いてある。

経験において知られていることすべてに関して。

主の死がさらに入り込んでいく必要がある一つ或いはそれ以上の領域がある。

その領域に踏み込まずして主のために仕えることはない。

あるとあらゆるこれらの経験に関してさえ、さらなるこの一点が我々の中で確立されなければ、我々は主に仕えるには至らない。

中国に次のようなことわざがある。

12フィートの壁を築き上げながら、同時に15フィートを取り壊しているような無駄な作業。

主によって遣わされている神のしもべは一体何人いるのか。

ある意味において遣わされているのだが、同時に破壊活動をしている。

時に、他のキリスト者の活動さえも台無しにしている。

十字架によって処理されていない何かのゆえに。

主がどのように魂を取り扱っているのか、その着手法を知る必要がある。

その方法がどのように主に対する奉仕という問題に触れているのか、より慎重に知っておく必要がある。




The Basis Of All True Ministry, #9

2016年08月22日 | 聖書研究・信仰
そこで、全く異なる平面がローマ書7章において出現する。

ここでは「命の聖」の問題が取り上げられている。

生きた、個々人の聖だ。

ここに、義に生き神を真に満足させたい神の人を見る。

この男が律法の下に来るや、律法がこの男を見つける。

自分の肉の力を駆使して、神を満足させようとする。

主の十字架が彼をある場所へと連れ出す。

その場所で、この男は「私はそれができない」

「自分の力では、どうしても神を満足させることができない」

我らの主イエスキリストの死の力がこのように働いていることを発見するために、深い海の底を通ってきた者がいるに違いない。




The Basis Of All True Ministry, #8

2016年08月21日 | 聖書研究・信仰
主の死は、さまざまな方法で働き、さまざまな側面を持っている。

いまや我々は、主の死が我々の罪々の赦しに関して如何に働くかを知っている。

我々は皆、罪の赦しは流された血潮に基づいていることを知っている。

そして、主の流された血潮なくして、罪から逃れる術はない。

ローマ書6章において、罪の力に収支を合わせるために、どのように死が働くかを見てきた。

我々の古い人は十字架に付けられ、もはや罪に仕えることはないことを知っている。

主の死は我々の解放についても働いていることを大いに感謝する。

以上のことを踏まえてもなお、自己の意志という問題が起きる。

故に、献身の必要があるのだ。

我々は主イエスの死が次のように働くのを知る。

すなわち、我々の意志が去り、主に従うことの満足が我々の中にもたらされるように。

これが奉仕の出発点だ。

しかし、それでもまだ問題の核心に触れてはいない。

魂が意味することに関する知識をいまだ得ていないと思われる。








The Basis Of All True Ministry, #7

2016年08月20日 | 聖書研究・信仰
旧約聖書に戻ると、同じような事実を見つけることができる。

民数記の17章に見慣れた箇所があるだろう。

アロンの祭司活動のことが論議されている。

人々の間で、アロンが真に神の選びかどうかが問題視されている。

人々は疑いを抱き、次のように言った。

「その男が神に任命されているのかどうか我々は分からない」

そこで、神は、誰がご自分のしもべかどうかを証明し始める。

神はどのようにして証明するのだろうか。

ある証言に対するために、至聖所の中に12本の死んだ杖を主の御前に置く。

そして、一晩そこに置く。

翌朝、発芽し、花を咲かせ、実を結んだ杖によって、主が選んだ祭司が分かる。

このことの意味は分かるはずだ。

芽吹いた杖は復活を予表する。

神が認めた祭司に烙印を押すのが死と復活だ。

アロンの杖が芽生えたので、アロンが真の基盤の上にあるが分かった。

死と復活の基盤を通ってきた者のみを、神はご自身の祭司として認めるのだ。