みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#423 神の法第三戒

2019年09月30日 | 神の法
第3戒
誓いと礼拝
 
p117~
Swearing and Worship
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

人が堕落した時に、人類にのろいが下った。

人間は、サタンの誘惑に屈し、自分自身が神となった(創世記3:5)。

創世記3:5
あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」 

人間は、自分自身を神と神の御名から切り離し、人間と人間の名によって現実を見直した。

人々が再び主の御名を呼び始めると(創世記4:26)、彼らは神を救い主としてだけではなく、主、創造者としても見るようになった。

・・

コメント:
創世記4:26
And to Seth, to him also there was born a son; and he called his name Enos:
then began men to call upon the name of the LORD.

the name of the LORDにあるnameと訳された単語の原義が実に面白い。

שֵׁם:
shêm
shame
A primitive word (perhaps rather from H7760 through the idea of definite and conspicuous position; compare H8064); an appellation, as a mark or memorial of individuality; by implication honor, authority, character: -  + base, [in-] fame [-ous], name (-d), renown, report.
Total KJV occurrences: 865

名前という意味の他に、記念、名誉、権威、名声、精練、といった意味がある。

当時のイスラエルにとって、主の御名によって祈るとは、主の権威を呼び求めるということ。

・・

彼らは主の御名をみだりに唱えるのを止め、真実に唱え始めた。

神は唯一の救い主、法を与える者、希望であることが分かった。

彼らが主の御名を真摯に呼ぶようになればなるほど、彼らが生活のあらゆるものを神の支配のもとに置くようになればなるほど、彼らはのろいの下から出て、より豊かな祝福の中に入っていった。



#422 神の法第三戒

2019年09月29日 | 神の法
第3戒
誓いと礼拝
 
p116~
Swearing and Worship
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

この戒めと第九戒の間には、明らかに密接な関係がある。

カルヴァンは次のように述べている。

神は、第二の板に記された第五の戒めにおいて、再び偽証を非難しておられる。

つまり、隣人についての偽証を、愛に違反する行為として非難しておられる。

この戒めの目的は第九戒のそれとは異質である。

つまり、神に帰せられるべき栄誉を汚さないようにすること。

我々が神を話題とする時には、常に信仰に基づいて語るべきであること。

我々の間では神に対してふさわしい尊敬が払われねばならないこと。

もし、宣誓と礼拝が互いに密接に関係しており、主の御名や知恵、力、正義、真理、あわれみ、義を、軽率に、または、誤って用いることが冒涜であるならば、われわれは、今日のほとんどの説教は徹底して冒涜的であると認めねばならない。

面白いことに、聖職者の中のある者たちは、”I don’t care a dam.”[訳注:「ちっとも気にしない」の意]という表現を冒涜であると考えているが、自分たちの説教の冒涜的性格についてはまったく脳裏から消え去っている。

”I don’t care a dam.”は、もともとイギリス英語の表現であり(アメリカでは、”not worth a dam”という言い方の方が普通である)、ウェリントン公爵を通じてインドから輸入された言い回し。

damとは、最小額のインド硬貨を指すので、これは、”not worth a sou” と似ている。sou とは、ずっと昔に廃止されたフランスの最小額の硬貨である。

つまり、”I don’t care a dam.” は、”I couldn’t care less” と同じ意味である。

さて、今日の説教のほとんどは、Not worth a dam (一文の値もない)とはっきりと言わねばならない。

それは、信仰を否定するか、信仰をつまらない次元に引き下げているため、むしろ、冒涜と称すべき。

多くの説教は、意図においては敬虔かもしれないが、実際には冒涜である。



#421 神の法第三戒

2019年09月28日 | 神の法
第3戒
誓いと礼拝
 
p116~
Swearing and Worship
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

ここにおいて、アレクサンダーは、この律法の基本的な意味を回復している。

神は、万人にとって絶対者であり、主権者。

人間を創造した唯一の創造者、支え主、救済者。

神を真に礼拝するためには、救いに関してだけではなく、その他のすべての事柄について、神に絶対服従しなければならない。

神お一人だけが、教会、国家、学校、家庭、そして全被造物界におけるあらゆる領域において主。

それゆえ、カルヴァンが述べたように、神の御名によって誓うことは、まことに宗教的礼拝の一部分。

カルヴァンは、さらに「主の御名をみだりに唱える」に関する解説の中で次のように述べている。

神の主権を、単に文字・発音でしかないエホバという名前に限定するのは愚かであり幼稚。

たしかに我々は、神の本質を目で見ることはできない。

それにもかかわらず、神は、御自身を我々の前に明らかにし、御自身の印によって自らを啓示しておられる。

そうである以上、神の御名は我々の前に象徴として置かれている。

それは、人間がみな、自分の名前によって自らを表すのと同じ。

キリストは、神の御名は天において、地において、宮において、祭壇において認められると言われた。
(マタイ5:34~37)。

神の栄光はこれらのもののうちにはっきりと見てとれる。

したがって、神の御名は、神の至高の知恵、無限の力、正義、真理、慈愛、義と切り離される時に常に冒涜される。

もし短い定義が好まれるならば、次のように言おう。

神の御名とは、パウロが言うところの、神について知り得ること(ローマ1:19)。

それゆえ、神の主権はすべての現実を支える土台であるという事実を軽んずる時に、人間は、神の御名を例外なく常にみだりに唱えていることになる。

生活のあらゆる領域において、神の主権を軽んじたり、真実を語る義務をないがしろにすることはできない。




#420 神の法第三戒

2019年09月27日 | 神の法
第3戒
誓いと礼拝
 
p115~
Swearing and Worship
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

カルヴァンは、第三戒についての非常に洞察力に富む分析を行っている。

宣誓と礼拝との関係について次のように注意を喚起している。

神の御名によって誓うことは、宗教的礼拝の一種もしくは一部であり、これはイザヤの言葉からも明らか。

イザヤ45:23
わたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことはできない。すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い、 

全世界の国民が純粋な宗教に献身するようになると予言した際に、彼はこのように述べた。

すなわち、「わたしは生きている、と主は仰せられる。それゆえ、すべてのひざはわたしに屈み、すべての舌がわたしによって誓う」と。

引用された聖句イザヤ45章23節の全体を表示すると次のようになる。

「わたしは自分自身によって誓う。言葉は義のうちにわたしの口から出、そして、取り消されることはない。たしかに、すべてのひざは私の前で屈み、すべての舌は誓う」

つまり、歴史は、全世界が神を礼拝する時にその絶頂に達する。神的宣誓はすべての社会の基礎であると神が宣言しておられる。

アレクサンダーはこの意味を次のように解説している。

最後の部分にある屈膝と宣誓は、尊敬と忠義と忠節の行為であり、通常、同時に行われる(第1列王記19:18)。

第1列王記19:18
しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である」 

屈膝と宣誓の行為には、相手を主権者と厳粛に認めるという意味が含まれている。

パウロによって、キリストを表すものとして二度引用されている(ロマ書14:11、ピリピ2:10)。

ロマ書14:11
次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる」

ピリピ2:10 
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、

パウロは、この個所を通じて、キリストが王、裁き主、主権者であるということを証明している。

しかし、万人が回心して神に立ち返ることを予見していない。

ここで使用されている言葉が、自発と強制の両者の意味を含んでいるから。

自発にせよ強制にせよ、キリストが正当な主権者であることを認めることになるであろう。




#419 神の法第三戒

2019年09月25日 | 神の法
第3戒
誓約と社会
 
p114~
The Oath and Society
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

イングラムは、異端とこの命令との関係を強調しているが、これは大変真実をついている。

異端の教えを受け入れ、バプテスマや任職の誓いを否定する教会員や教職者は、自分が立てた誓いに違反している。

さらに、異端者は、実に高慢にも、私には間違う権利があると主張する。

今日、多くの国々で、また、いくつかのアメリカの州で、就任宣誓文や証人宣誓文の中から神の御名が削除されている。

このことは、宣誓就任する人はその役職の本質的職務や法律を守る責任を神に対して負わなくてよいということを意味する。

彼の厳かな誓いは神に向けられているのではなく、己に向けられている。

そうすれば、法律を変えた方が自分にとって都合がいいとか、法律より自分の意見の方が優れていると感じた場合にそれを守らなくてもすむ。

アメリカの政体の重大な変化は、合衆国憲法に基本的な変更が加えられなかった時期に起こった。

これは、法律の文字と精神よりも、人々や党の政治的意思の方が重んじられていることを意味している。

今日でも、証人は真実を残らず語り尽くさなければならない。

ただし、それは神と何らの関わりも持たない真実である。

このことは、「真実」の定義は自分勝手に変えることができるということを意味する。

事実、「真実」には恣意的な定義が与えられている。

神の御名によって誓う誓いは、神が万物の源、万物における唯一まことの基礎であることを法的に認めることにほかならない。

そのような宣誓によって、国家は、神の権威の下に、また、神の法の下に堅く立つ。

宣誓文から神の名を削除したり、宣誓を軽い気持ちや不誠実な心構えで行うことは、神からの分離・独立を宣言することに等しい行為であり、新しい神々、つまり、背信的人間とその全体主義的国家の名において神に宣戦布告することにほかならない。

現代のアメリカにおいて、宣誓は、神と無関係に存在し、実用主義(今日の学校が教え、国家と連邦政府が支持している信仰)に基づいて解釈されている。

実用主義において、真実とは「役立つ事」でしかない。

このような「真実」しか持ちえない社会の行く末は、革命か無政府状態しかない。

これは神に対する戦いを意味するだけではない。

万人が自分の周囲の人々に対して戦わなければならないということを意味する。




#418 神の法第三戒

2019年09月24日 | 神の法
第3戒
誓約と社会
 
p114~
The Oath and Society
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

偽の誓いを神がどれほど憎んでおられるかは、詩篇 109:17~19 にはっきりと記されている。

詩篇109:17~19
彼はまたのろうことを愛したので、それが自分に返って来ました。祝福することを喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました。彼はおのれの衣のようにのろいを身にまといました。それは水のように彼の内臓へ、油のように、その骨々にしみ込みました。それが彼の着る着物となり、いつも、締めている帯となりますように。 

マタイ5:33~37 においてキリストは軽々しく誓うことを禁じておられる。

マタイ5:33~37
さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。 

このキリストのみことばは、民数記30章から引用されている。

民数記30:1~16
モーセはイスラエル人の諸部族のかしらたちに告げて言った。「これは主が命じられたことである。人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。もし女がまだ婚約していないおとめで、父の家にいて主に誓願をし、あるいは物断ちをする場合、その父が彼女の誓願、あるいは、物断ちを聞いて、その父が彼女に何も言わなければ、彼女のすべての誓願は有効となる。彼女の物断ちもすべて、有効としなければならない。もし父がそれを聞いた日に彼女にそれを禁じるなら、彼女の誓願、または、物断ちはすべて無効としなければならない。彼女の父が彼女に禁じるのであるから、主は彼女を赦される。もし彼女が、自分の誓願、あるいは、物断ちをするのに無思慮に言ったことが、まだその身にかかっているうちにとつぐ場合、夫がそれを聞き、聞いた日に彼女に何も言わなければ、彼女の誓願は有効である。彼女の物断ちも有効でなければならない。もし彼女の夫がそれを聞いた日に彼女に禁じるなら、彼は、彼女がかけている誓願や、物断ちをするのに無思慮に言ったことを破棄することになる。そして主は彼女を赦される。やもめや離婚された女の誓願で、物断ちをするものはすべて有効としなければならない。もし女が夫の家で誓願をし、あるいは、誓って物断ちをする場合、夫がそれを聞いて、彼女に何も言わず、しかも彼女に禁じないならば、彼女の誓願はすべて有効となる。彼女の物断ちもすべて有効としなければならない。もし夫が、そのことを聞いた日にそれらを破棄してしまうなら、その誓願も、物断ちも、彼女の口から出たすべてのことは無効としなければならない。彼女の夫がそれを破棄したので、主は彼女を赦される。すべての誓願も、身を戒めるための物断ちの誓いもみな、彼女の夫がそれを有効にすることができ、彼女の夫がそれを破棄することができる。もし夫が日々、その妻に全く何も言わなければ、夫は彼女のすべての誓願、あるいは、すべての物断ちを有効にする。彼がそれを聞いた日に彼女に何も言わなかったので、彼はそれを有効にしたのである。もし夫がそれを聞いて後、それを破棄してしまうなら、夫が彼女の咎を負う」以上は主がモーセに命じられたおきてであって、夫とその妻、父と父の家にいるまだ婚約していないその娘との間に関するものである。 

偽りの誓いは律法の中で禁じられている。

深刻な事態でもないのに、個人的な理由から軽々しく誓ったり宣誓することは許されなかった。

いかにそれが真実であっても、自分の言葉に権威を与えるためにみだりに誓いを立てることはできなかった。

神のみ心を行う人の発言は、ただ「しかりはしかり」「否は否」でなければならない。

つまり正直で率直でなければならない(マタイ5:37)。

自分自身の心に対して正直に誓い、証言し、決して己を利するために証言を変えない(詩篇15:7?)。

キリスト者は神のご支配の下にある以上、ある意味でその口から出るすべての言葉が誓い。

ヨーロッパにおいて、誓約を意図的に違反することを偽証罪と見なした社会があった。



#417 神の法第三戒

2019年09月23日 | 神の法
第3戒
誓約と社会
 
p114~
The Oath and Society
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

当時のイスラエルにおいて、みだりに誓うことは大変重い罪と考えられていた。

レビ記5:1~7
人が罪を犯す場合、すなわち、証言しなければのろわれるという声を聞きながら・・彼がそれを見ているとか、知っている証人であるのに・・、そのことについて証言しないなら、その人は罪の咎を負わなければならない。あるいは、人が、汚れた獣の死体でも、汚れた家畜の死体でも、汚れた群生するものの死体でも、すべて汚れたものに触れるなら、それに彼が気づかなくても、彼は汚れた者となり、罪に定められる。あるいは人の汚れに触れる場合、触れた人は汚れる。その人の汚れがどのようなものであっても、そしてそれに彼が気づかなくても、彼がそれを知ったときには、罪に定められる。あるいは人が口で軽々しく、悪いことまたは良いことをしようと誓う場合、その人が軽々しく誓ったことがどのようなことであっても、そしてそれに気づかなくても、彼がそれを知ったときには、これらの一つについて罪に定められる。これらの一つについて罪に定められたときは、それを犯した罪を告白しなさい。自分が犯した罪のために、罪過のためのいけにえとして、羊の群れの子羊でも、やぎでも、雌一頭を、主のもとに連れて来て、罪のためのいけにえとしなさい。祭司はその人のために、その人の罪の贖いをしなさい。しかし、もし彼が羊を買う余裕がなければ、その犯した罪過のために、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を主のところに持って来なさい。一羽は罪のためのいけにえとし、他の一羽は全焼のいけにえとする。 

バークレーは、箴言29:24を次のように訳している。

泥棒のパートナーは自分自身を憎んでいる。何故なら、その者はその呪い(泥棒に対する宣告)を聞いたが、何も言わなかった。

デリッチは次のように述べている。

この誓いは、レビ記5:1にあるように、裁判官が泥棒のパートナーに真実を語らせるために誓わせる誓いであった。

だが、彼は真実を隠し続けた。

その結果、彼は死罪を身に負った。

彼は犯罪を隠蔽しただけではなく、偽証者ともなったからである。

偽りの誓いは、最悪の罪である。

盗みや殺人でさえもその罪の大きさには遠く及ばない。

泥棒はただ一人の人から盗む。

殺人者はただ一人の生命(場合によっては一群の人々の生命)を奪う。

しかし、偽りの誓いは社会全体の生命に対する攻撃である。

偽りの誓いをいかに深刻に受け止めるかは、その社会の堕落の度合を測るバロメーター。

偽誓罪を軽く見る社会は、堕落した社会である。



#416 神の法第三戒

2019年09月22日 | 神の法
第3戒
誓約と社会
 
p113~
The Oath and Society
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

現代人は、政治の面では宗教的[=排他的]である。

つまり、政治的秩序を、最高な宗教的秩序と考えている。
 
政治的不寛容は、現代人の基本姿勢であり、他のすべての秩序を夢物語と決めつける。

また、その気まぐれな体制とは相いれない他のすべての法や秩序をも否定する。

政治的不寛容は、これらすべての秩序を大ウソと見なしているのだ。

一方、聖書は、他の社会秩序に対して限定付きの寛容を示している。

唯一の本来あるべき秩序は、聖書律法の上にのみ築き上げられる。

すべての法は元来宗教的であり、あらゆる非聖書的法秩序は反キリスト的宗教を意味する。

状況を改善する鍵は、革命ではないし、法と秩序の転覆を企図するいかなる抵抗運動でもない。

新約聖書は、あらゆる部分において不服従を警告し、平和を作るように奨励している。

解決の鍵は、新生、福音宣教、人々や国民を神の律法に立ち返らせることにある。

一方で、われわれは現行の法律を尊重しなければならない。

近隣社会の法秩序をも(それが自身の信仰を脅かさない限りにおいて)可能な限り尊重すべきだ。

異教の法秩序はそれを支える人々の信仰や宗教を反映している。

そのような法秩序の下にいるほうが、無政府状態のもとにいるよりも良い。

異教の法秩序にも、神ヤハウエがお与えになった存在の枠組がある。

そのような状況下でも、神ヤハウエの働きは前進可能だ。

現代は、革命的不寛容へと向かっている。

夢物語のような統一世界秩序や恒久的平和のための恒久的戦争へと向かっている。




#415 神の法第三戒

2019年09月20日 | 神の法
第3戒
誓約と社会
 
p113~
The Oath and Society
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

ギンスバーグはこの律法を次のように適切な要約している。

それがどのような神であっても、己の信仰する神をのろうような異邦人は罰せられる。

神をのろったと聞いて気を悪くした同教の信者の手によって、彼はこの罪の罰を負わなければならない。

イスラエル人はその罪の刑罰から彼を救い出そうとしてはならない。

己の神を罵る異邦人などに、他の事柄においても信用を置くことはけっしてできない。

このことが悪い模範となって、他の人々がそれをまねることがあってはいけない。
 
この律法には重要な意味が含まれている。

現代人は、人間は神によって支配されることのない自律的存在であり、宗教は不要であると言う。

しかし、その一方で、彼らはすべての宗教の中に善があるとも主張する。

彼らは、キリスト教とその排他的真理を否定するために、あらゆる宗教に真理があると信じている。

しかし、聖書は、偽りに対していささかの寛容も示していない。

詩篇記者は問題を次のように要約している。

まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった(詩篇 96:5)。

聖書はキリスト教以外のあらゆる宗教を批判している。

そこには妥協はいっさい存在しない。

現代人は、宗教にきわめて熱心であるのに、制度面ではその宗教的原則[=排他性]を適用したがらない。

あらゆる宗教に対して軽蔑の眼差しを向けつつも、寛容な態度を示す。





#414 神の法第三戒

2019年09月19日 | 神の法
第3戒
誓約と社会
 
p112~
The Oath and Society
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

犯人はダン人とエジプト人のあいの子。

ヘブライ語の本文には、これまでほとんど忘れられていた事件の背景が記されている。

古代カルデア訳はこの箇所を次のように言い換えている。

イスラエル人が荒野で暮らしていた時のこと。

彼はダン部族の宿営の真ん中で自分の天幕を張ろうとした。

しかし、回りの者はそれを許さなかった。

イスラエルの掟によって、各人は、それぞれの地位に応じて、家族と共に、彼の父の家の旗の近くに住まなければならなかったからだ。

彼らは宿営の中で互いに張り合っていた。

それで、イスラエルに居留する外国人の女を母とし、ダン部族のイスラエル人を父とするこの男は、裁きの家にひき立てられた。
 
この「ダン人とエジプト人のあいの子」に判決が言い渡された。

彼はその判決にどのように応えたのだろうか。

御名を冒涜してのろった(レビ記 24:11)。

彼はイスラエル社会の全体的構造と、法と秩序の原則を否定した。

その結果、冒涜罪に死刑が宣告された。

彼の罪は、事実上の全体的革命、すなわち、彼の願いを聞こうとしないあらゆる社会からの絶対的分離を主張した点にある。

そのような破壊的行為を許容するならば、社会はけっして長く生き残ることはできない。

神の律法にはきわめて重いウエートが置かれている。

レビ記24:15~16
自分の神をのろう者はだれでも、その罪の罰を受ける。主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。

己の信ずる宗教の誓いを軽んじたりそれに違反するあらゆる異邦人は、その宗教の律法にしたがわなければならない。

彼らは、冒涜やのろいに対して律法が規定するいかなる刑罰をも受け入れなければならない。

それは、信仰の誓いを軽んじることは、自分の神をのろうことにほかならないからである。