みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#460 神の法序論

2019年11月28日 | 神の法
序論
法の方向
 
p13~
The Direction of the Law
INTRODUCTION
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

聖書律法の最初の例に戻る。

盗んではならない。

新約聖書は、ザアカイが不法に税金を取り立てていた罪の正しい解決は償いであると教える。
(ルカ19:2~9)。

彼が不正に奪い取ったものをすべて償いますといった後で彼は救われたと宣言された。

償いは山上の説教の中ではっきりと語られている。
(マタイ5:23~26)

ある学者によれば、 エペソ4章28節において、パウロは、償いの原理がどの様に発展しているかを示している。

泥棒であったものは盗みをやめるだけではなく、不正に奪い取ったものを償うため自分の手で働かなければならない。

盗んだ相手が見つからない場合には、弁償金は貧しい人々に施さなければならなかった。

神との関係で、償いとか回復の事実は3通りに述べられている。

第一に、神の至高の律法が宣言され、律法が正しく回復される。

バプテスマのヨハネは、彼の説教によって、神の民の生活に律法を回復した。

イエスはそのことについて次のようにいった。

「エリヤがきて、すべてのことを立て直す。しかし私は言う。エリヤはもうすでに来たのである。しかし彼らはエリヤを認めようとせず、…」(マタイ17:11~12)。

第二に、万物をキリストに服従させ地上に神の秩序を築き上げることによってやってくる回復が存在する(マタイ28:18~20、第一コリント10:5、黙示録11:15)。

第三に、キリストの再臨のときに、完全な最終的な回復が実現する。

歴史はこの再臨に向かって前進しており、再臨は、「万物の回復のとき」(使徒3:21)の唯一の出来事ではなく、総合的な、そして回復が最高に達したときの出来事。

神がアダムと結ばれた契約は、アダムが、神の下で神の法に従うことによって、地上に正しい支配を行い、地を従える(創世記1:26~)ことを要求した。

人間と神のこの関係は契約であった(ホセア6:7)。

聖書全体は人間がいつも神との契約関係にあるという事実の土台の上に立っている。

パラダイスにおけるアダムに対する神のお取扱はすべてこの関係を前提としている。

神はアダムと語らい、ご自身を彼に顕し、日の風の中でアダムは神のご臨在を感じた。

救いは、常に神の契約の確立と実現としてある。

この契約関係はなにか偶然によるものであったり、ある目的のための手段であったり、協議によって決定された関係ではなく、アダムが神の創造によって神の御前に立った基本的な関係。

その契約的関係の回復はキリストの御業であり、ご自身の選びの民に対するキリストの恵み。

契約の成就は彼らの偉大な任務。

万物とあらゆる国民をキリストと彼の御言葉に服従させること。

創造命令とは、人間は地を従え、その上に正しい支配を実行すること。

この命令が廃棄されたことを示す箇所は聖書の中でどこにもない。

この命令は実現されなければならないし、また実現されるであろう。

イエスによれば、聖書は破棄されるべきではない(ヨハネ10:35)。

それを破棄しようとするものは、自分自身が滅ぼされてしまうことになる。

コメント:

使徒3章21節を見ておきたい。

例によって、まずは原典。

使徒3:21
ον δει ουρανον μεν
δεξασθαι αχρι χρονων
αποκαταστασεως παντων
ων ελαλησεν ο θεος
δια στοματος παντων αγιων αυτου προφητων
απ αιωνος

YLT訳を利用しつつ、さらに原典に近づけていく。


whom a heaven indeed needs
to receive till times
of a restoration of all things
of which God spake
through the mouth of all His holy prophets
from an age.

>a restoration of all things

とある。

restorationと訳した単語はἀποκατάστασιςで、意味は

ἀποκατάστασις:
apokatastasis
ap-ok-at-as'-tas-is
From G600; reconstitution: - restitution.
この聖句ではrestoration(回復、復元)という訳を採用した。

原義;ἀπο(from)+κατάστασις(climax)

>万物の回復(再建、返還)の時まで


彼(主イエス)を天は留めておく必要がある
万物の回復の時まで
そのことを神は語った
すべての彼の預言者の口を通して
ある時代から

万物の回復がクライマックスに達してから、天におられる主イエスが再臨する

と書いてある。

万物の破滅がクライマックスに達してから、天におられる主イエスが再臨する

とは書いていない。

「万物の回復」と書いてあるが、「全ての預言者たちの口を通して神が語った」という限定付き。

著者Rushdoonyは、万物がキリストに服従し、地上に神の秩序が築かれることによって到来する回復、とする。



#459 神の法序論

2019年11月27日 | 神の法
序論
法の方向
 
p13~
The Direction of the Law
INTRODUCTION
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

ヒューマニズム的な法体系において、償いは可能であり、しばしば存在する。

しかし、それは神の基礎的秩序の回復ではなく人間の状態の回復。

償いは、もっぱら人に対する。

聖書律法は被害者に対する償いを規定しているが、それ以上に基本的なのは神の秩序を回復することに対する要求。

償いに関して有効的なのは法の法廷だけではない。

聖書律法にとって、償いとは

イ)法廷で犯罪者が要求されるもの

ロ)律法全体の目的と志向するところであり、神の秩序の回復、そして、創造者に仕え、そのみ栄えを現す栄光に満ちたすぐれた被造物の回復。

ハ)神の至高の法廷と律法は、どのようなときでも償いのために働き、不従順を呪い、不従順なものたちが企む神の秩序に対する挑戦と破壊を妨げ、神の秩序を回復しようとする従順なものを祝福し、繁栄させる。

われわれの例証に戻るならば、十分の一に関するマラキの宣言は、この事を含んでおり、実に、それをあからさまに述べている。

彼らは神から神の十分の一を奪ったので呪いによって呪われている。

神の回復の目的に反して働くので、彼らの畑は産物を出さない。

神から奪うのではなく、逆に神をほめたたえながら、神の十分の一税を支払うものは神の祝福に溢れんばかりに豊かに満たされる。

「溢れんばかりに」というのは適当な表現。

「天の窓を開き…」という表現は、呪いの中心的な例である大洪水(創世記7:11)を思い起こさせる。

しかし、呪いの目的もまた回復。

呪いは神の秩序を覆そうとする悪者の業を阻止する。

神は、ノアを通して回復の業を開始した。

ノアの世代の人々が神の秩序に逆らおうとしたので、彼らをその悪い思いの中で滅ぼしてしまった(創世記6:5)。




#458 神の法序論

2019年11月26日 | 神の法
序論
法の方向
 
p12~
The Direction of the Law
INTRODUCTION
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

マラキはこの事を明らかにして次のようにいっている。

(マラキ書3:8~12)
人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたはいう。「どのようにして、わたしたちはあなたのものを盗んだだろうか。」それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたは呪いを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物蔵に携えてきて、私の家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。-万軍の主は仰せられる。-わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかを試してみよ。わたしはあなたがたのために、いなごを叱って、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。-万軍の主は仰せられる。-すべての国民は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。

判例法のこの例は、聖書の判例の意味を例証するだけではなく、その必要性をも例証している。

判例法がなければ、神の律法は極端に限定された意味に解釈されてしまう。

もちろんこれは実際にそう解釈されてきた。

十戒から離れて、律法の今日的価値を否定してしまうと、盗みの罪の意味を非常に狭く限定することになる。

彼らの定義は通常彼らの国の市民法に従うものであったり、ヒューマニズム的であり、回教徒や、仏教徒、ヒューマニストの定義とまったく変わらないものとなる。

しかし、後に第八戒「盗んではならない」を例証する判例を分析する際に、この戒めがどの範囲まで扱っているのかについて見ることにする。

律法は、第一に、原則を主張。

第二に、それらの原則を発展させる判例を引用。

第三に、律法は、神の秩序の回復をその目的と方向性を指し示す。

この第三の面が聖書律法にとって重要。

それは再び聖書律法とヒューマニズム的法のあいだの違いを示す。

正義とは主観的存在の間の調整の原理であると唱える学者がいる。

このような正義の概念はただ単にヒューマニズム的であるのみならず、主観的でもある。

それは正義の基礎的な客観的秩序ではなく、単に、正義と呼ばれる感情的な状態しかない。



#457 神の法序論

2019年11月25日 | 神の法
序論
法の方向
 
p11~
The Direction of the Law
INTRODUCTION
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

法は広範かつ基本的な原則を与える。

聖書律法の第二の性質は、判例法(具体的な判例に関して適用すべき基本原理の例証)。

具体的判例は、その法の適用範囲の例証となっている。

すなわち、最も小さな例を引用して法の正しい運用方法が明らかにされる。

われわれがこの概念を理解し利用しそこなった時、言い訳をさせないため、聖書はわれわれにその法に対する聖書自身の解釈を示している。

その例証はパウロによって与えられ、新約聖書による確証を明らかにしている。

第一に、基本的原則。

第二に、判例。

第三に、パウロによる法適用の宣言。

という順に聖書律法が理解され、適応される。

1、盗んではならない(出エジプト20:15)。
基本法。原則の宣言。

2、穀物をこなしている牛にくつこをはめてはならない(申命記25:4)。
基本法の例証、つまり判例。

3、というのは、「穀物をこなしている牛にくつこをはめてはならない」とモーセの律法に書いてあるからである。いったい神は、牛のことを気に掛けているのだろうか。それとももっぱらわたしたちのためにこのように言われたのだろうか。もちろん、わたしたちのためにこう書いてあるのである。なぜなら、耕すものが望みをもって耕し、脱穀するものが分配を受ける望みをもって仕事をするのは当然だからである。…同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます(第一コリント9:9、10、14、9:1~14)。
(パウロによる律法解釈)

いうのは、聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」また、「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからである。(Iテモテ5:18、参照17)

この例証は、長老すなわち教会の牧師が『尊敬』または『2重の尊敬』を受けるべきであることを支持するために書かれている。

これらの文は、「盗んではならない。」という戒めを、具体的判例を用いながら、その判例の適用範囲を指し示すことによって例証している。

テモテへの手紙の中で、パウロは判例によって「働き手が報酬を受けるのは当然である。」ということを事実上宣言している律法に言及している。

その言及する箇所は、レビ記19:13「あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない」、そして申命記24章14節「貧しく困窮している雇人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない」(参照15節)

この律法はイエスによって引用されている。

働く者が報酬を受けるのは、当然だからである(ルカ10:7)。

牛を騙して糧を奪うのは罪であり、人を騙して賃金を奪うことも罪。

これらはどちらも盗み。

もし、盗みが動物に対する罪のリストの中に入っているとすれば、まして、神の使徒や牧師に対する罪ともなることは明らか。

そして、さらに神から盗む罪はもっと致命的。




#456 神の法序論

2019年11月23日 | 神の法
序論
法の方向
 
p10~
The Direction of the Law
INTRODUCTION
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

聖書律法を理解するために、聖書の持つ基本的な性格を理解する必要がある。

第一に、ある広範囲に渡る前提、すなわち原則が宣言される。

これらは基本法の宣言。

十戒はこのような宣言をわれわれに与える。

したがって、十戒は法の中の法ではなく、基本法。

その基本法に対して、諸法律は具体的判例として位置付けられる。

そのような基本法の例は、出エジプト記20章15節(申命記5章19節)。

盗んではならない。

この戒めを分析すると、次の点を確認する必要がある。

イ)これは、肯定的な意味で、私的財産の確立であり、否定的な意味で、財産に関する犯罪への刑罰を規定する。

このように、十戒は生活の基本的な領域を確立し、保護する。

ロ)この戒めに関してさらに重要な点は、私的財産が確立されるのは国家や人間によってではなく、至高かつ全能なる神によってであるということ。

十戒はすべてその起源を至高の主としてご自身の領域を支配するために法をお定めになった神に置く。

よって、次のように言うことができる。

ハ)神が律法をお定めになったので、その法に対する違反は全て、神に対する違反である。

法は、それがどの様な領域に関するものであれ、例えば、財産、人格、家族、労働、資本、教会、国家、etc.…を対象とする法であっても、まず神との関係が重要。

全てのものと全ての人間は神の被造物なので、本質的に、法を破ることは神に対する反逆。

ダビデは、自分の姦淫と殺人の行為に関して次のように宣言した。

あなたに、ただあなたに対して私は罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。
(詩篇51:4)

これは、次のことを意味する。

ニ)無律法は罪。

社会に関することであれ、家族に関することであれ、教会に関することであれ、どの様なことに関しても、不従順は宗教的罪。

神に対して従順であるためにこれらに関して不従順でなければならないのであれば話は別。

コメント:

日本語訳において、「律法」と訳された単語には細心の注意が必要。

再度確認しておきたい。

第1コリント9:20
και εγενομην τοις ιουδαιοις ως ιουδαιος
ινα ιουδαιους κερδησω τοις υπο νομον
ως υπο νομον
ινα τους υπο νομον κερδησω

YLT訳を利用しつつ、さらに原典に近づけていく。


and I became to the Jews as a Jew
that Jews I might gain to those under a law
as under a law
that those under a law I might gain

νόμοςはいずれも無冠詞で使われている。

従って、モーセ律法、聖書律法と解釈することはできない。


私はユダヤ人たちのために、ユダヤ人のようになった
ユダヤ人たちを得るために
ニセ律法の下にある(者たち)のために
ニセ律法の下にある者のように
私がニセ律法の下にある者たちを得ることができるように

当時のユダヤ人の中に、ニセ律法(私的解釈が施された疑似律法)に閉じ込められていた人たちが多数いたということが分かる。

新改訳を見てみる。


ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました
それはユダヤ人を獲得するためです
律法の下にある人々には
私自身は律法の下にはいませんが
律法の下にある者のようになりました
それは律法の下にある人々を獲得するためです

>私自身は律法の下にはいませんが

とあるが、原典にこのような意味を有する文は存在しない。

日本語訳の異常性が実に良く分かる聖句。






#455 神の法序論

2019年11月20日 | 神の法
序論
啓示と条約としての律法
 
p10~
The Law as Revelation and Treaty
INTRODUCTION
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

2人の改革主義の学者は、国家に関する論文の中で次のように断言した。

国家はわれわれの利益のために神の僕とならねばならない。
国家は正義を行わねばならない。
そのため、剣の権威を帯びている。

しかし、彼らはカルヴァンにならって、聖書律法を拒み、諸国民の普通法を採用した。

もし国家が神の僕であるというならば、どうして同時に神の法を無視できるのだろうか。

もし、国家が正義を実行しなければならないというならば、諸国民によって、または神によって、正義はどの様に定義できるのか。

宗教の数だけ正義の定義も存在するのか。

問題は、国家にとってどの様な法が相応しいのかということ。

実証主義的法だろうか。

諸国民の法であろうか。

相対主義的法であろうか。

デ・ヨングステとヴァン・クリンペンは、国家に『正義』を行うように求めた後で、次のように宣言した。

すべての時代に有効な固定した立法など不可能である。よろしい!では、聖書の戒め、聖書律法はどうであろうか。「殺してはならない。」「盗んではならない。」はどうか。これらの律法はあらゆる時代に、またあらゆる政治秩序にとって有効たるべく定められたのではないのだろうか。聖書律法を捨てることによって、これらのプロテスタント神学者たちは道徳的・法的相対主義に陥ってしまった。

ロ-マ・カトリックの学者たちは「自然法」を提唱する。

この概念の起源はロ-マ法とロ-マの宗教にある。

聖書の世界において、自然に存在する法など存在しない。

なぜならば、自然は堕落しており、規範にはならないから。

法源は自然ではなく神でなければならない。

法は自然の内にあるのではなく、自然を越えて存在する。

即ち、神の法。

実証主義的法も自然法も罪と人間の背信を映し出しているにすぎない。

啓示された法こそキリスト教的社会の必要とするところ。

また、それは特権でもある。

「神の下で支配せよ」との創造命令を実現するための唯一の手段。

啓示された法をさしおいて、人間は神の権威の下にいると主張できない。

むしろ、神に反逆している。




#454 神の法序論

2019年11月18日 | 神の法
序論
啓示と条約としての律法
 
p7~
The Law as Revelation and Treaty
INTRODUCTION
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

クラインは、ヘブル人への手紙9章16、17節を分析する際に、契約的経倫に関して次のように述べている。

提示された図の中で、キリストの子どもたち(参照2・13)がキリストの宇宙的支配を永遠のゆずりとして相続している様子が描かれている(9215b、次も参照のこと1・14、2・5以降.、6・17、11・7以降.)。メシア的な仲介者=遺言者の不思議は偉大なものであった。子どもたちが継承すべき王の相続は、本来王の死後にはじめて有効になるはずであるが、この場合は、生ける遺言者との共同摂政政治によって管理されるのだ!というのは、(この翻訳のヘブル9章16、17節が提供する象徴学的指示に従えば、)イエスは、死んだモーセと相続者ヨシュアの両方の役割を演じているからだ。名実共に「復活した」王なる仲介者イエスは、復活の力と昇天の栄光によって神の王朝を受け継いだ。

神はアダムに、地を支配せよと命じられた。

この命令の目的は、神の継続的契約の言葉の中に残った。

人間は、神の似姿として造られ、神の御名によって地を従え、地を支配するように召された。

それゆえ人間は、贖われ、再生した時に、この任務と特権に再び召された。

(聖書)律法は、クリスチャンとキリスト教社会のための法であるということができる。

クリスチャンはどのような種類の法を持とうと構わないといった見解ほど致命的で、怠慢なものはない。

カルヴァンは、この点においてその古典的ヒューマニズムに毒されている。

国家の法と市民政府について彼は次のように述べている。

国家はどのような法を神の御前で敬けんに用いることができるのか、また、国家はどのような法によって人々の間で正しく治められ得るのか短く述べてみたい。もし、「多くの人々が危険な誤謬に陥っているのは実にこの点においてである」ということを知らなかったならば、私はこのことすらも行わずに黙って通り過ぎたことだろう。というのも、モーセの政体を無視し、諸国民の普通法によって治められている国家が、うまく成り立っていることを否定する者が中にはいるからである。この意見の持つ危険かつ煽動的な性質については他の人々の研究に委ねることにする。私としては、それが誤りであり馬鹿げたことであることをはっきりさせるだけで十分であると思う。

この様な考えは、カルヴァンとルターの群れ、そして、ほとんどすべての教会が共通に信じている。

それは異教的ナンセンス。

カルヴァンは「諸国民の普通法」を好んだ。

しかし、彼の時代の諸国民の普通法は、(ロ-マ法によってかなり薄められてはいたが)聖書律法であった。

そして、この「諸国民の普通法」は、新しい宗教「ヒューマニズム」を次第に証言するようになった。

カルヴァンはキリスト教の確立を目指していたのであるが、実現できなかった。

聖書律法によらなかったために、ジュネーブでの彼の改革は長続きすることはなかった。

コメント:

改革派神学の第一人者であるカルヴァンが、人間教(の前身)に毒されていたという事実はかなりの驚きだ。




#453 神の法序論

2019年11月13日 | 神の法
序論
啓示と条約としての律法
 
p7~
The Law as Revelation and Treaty
INTRODUCTION
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

地を所有される神が、イスラエルをご自身の所有の民とされる(出エジプト19:5)。

選びの恵みと導きの基礎の上に、律法が与えられた。

だから、出エジプト記20章2節には、選びの事実が先ず記されている。

律法において、人間の全的生活が秩序づけられている。

内面的生活と外面的生活の間に大きな区別はない。

人々の聖なる召しはその両方において現実化されなければならない。

聖書の律法(すなわち契約)の第三の特質は、それが神の下における支配の計画を設定している点にある。

アダムは神の啓示、すなわち神の法にしたがって正しい支配を実行するように神によって召された(創世記1:26~、同2:15~17)。

人間の堕落後にも、同じ召しが神の系列、すなわちセツの系列に与えられた。

ノアにおいて、この召しは正式に更新された(創世9:1~17)。

アブラハムに与えられ、続いて、ヤコブに、モーセによってイスラエルに、ヨシュア、ダビデ、ソロモン(彼の書いた箴言は律法を繰り返し宣言している)、ヒゼキア、ヨシア、そして最後にイエス・キリストに与えられた。

聖餐の礼典は、契約の更新。

これは新しい契約を示す私の血。

礼典は自ら、新しく選ばれた民のなかで、律法を再び確立する。
(マタイ26:28、マルコ14:24、ルカ22:20、第一コリント11:25)。

律法の民は今やキリストの民、キリストの贖いの血によって救われ、その至高的選びによって召された民となった。

コメント:

再度確認しておきたい。

聖書律法が与えられた理由は、選びの民であるイスラエルが祝福の中を歩むことができるためであった。つまり、この世から聖別(分離)されるために与えられた契約。

神によって命ぜられた生活の秩序、つまり生活指針。

単純に生活指針であるなら、神と人間を取り持つ仲介者とはなり得ないし、人間が神のみ前で義と認められるための義認の手段にもなり得ない(前エントリー参照)。

現世において神の祝福を受けつつ生物学的生命を満了するために与えられた契約。

従って、(モーセ)律法は義を与えるのかとか、永遠の生命を与えるのかという議論は全くナンセンスなのだ。

*最後の文章に変更点あり。(聖書)律法→(モーセ)律法



#452 神の法序論

2019年11月12日 | 神の法
序論
啓示と条約としての律法
 
p7~
The Law as Revelation and Treaty
INTRODUCTION
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

ペテロは無割礼の異邦人コルネリウスの家に入り、バプテスマを授けて、彼を教会に迎え入れるにあたって(これは「割礼派の人々の」反対を招かざるを得ない行為だったので)、特別な啓示を求めた(使徒10:1-48)。

聖書律法の次の特徴は、それが「条約」または「契約」であるという点。

クラインによれば、律法授与の形式、使用言語、歴史的序言、宗主国に対する絶対服従、神、罪状宣告と祝福などあらゆる要素は、律法は神がその民と結ばれた条約であるという事実を指し示している。

2枚の板に書き記された啓示は、法典というよりも、むしろ、宗主国と属国との間の条約もしくは契約だった。

契約の完全な要約である十戒は、2枚の石の板の1枚1枚に同じ内容が記された。

それぞれが契約の当事者である神とイスラエルにあてられた。

律法の石板は「ひとつの法律が2つに分けて書き付けられた」とか「モーセ以前または同時代に書かれた数少ない有名な古代法典の石碑と同類である」とする意見を支持することはできない。

この石板に記されているのは、まさに、天地の至高の主であるヤーウェが、選びの民、贖われた僕イスラエルに賜った契約の要約。

法ではなく契約。

神の啓示全体を偏りなく観察するためには、いろいろな事柄を矛盾無く説明できる大きなカテゴリーが必要。

このようなカテゴリーを定める上で、常にわれわれの念頭になければならないのが、この律法の契約性。

法令の卓越性は、十戒が全体のための部分として用いられているという事実のうちに反映されている。

この種の契約において法令は中心的部分を成す。

神と御民との関係を形式化するために、神はどのような契約の型を採用されたのか。

聖書の強調に沿いつつこの質問を解決するために聖書神学者には様々な指示が与えられている。

その中で、神がイスラエルに実行するように命じた契約において与えられている指示ほど明確なものはない。

この契約は、ご自身の主権を宣言された宣言書。

神が至高者としてお命じになった生活の秩序を通して、御民を御自身に対して聖別する。 

契約とは、至高者としてお命じになった生活の秩序。

至高の主であり創造者である神は、ご自身の定めた法を、至上の恵みとして人間にお与えになった。

それは選びの恵みによる選びの御業であった(申命7:7以降、8:17、9:4-6)。

申命記7:7~26
主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。 しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる、主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。主を憎む者には猶予はされない。たちどころに報いられる。私が、きょう、あなたに命じる命令・・おきてと定め・・を守り行なわなければならない。それゆえ、もしあなたがたが、これらの定めを聞いて、これを守り行なうならば、あなたの神、主は、あなたの先祖たちに誓われた恵みの契約をあなたのために守り、あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたをふやし、主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われた地で、主はあなたの身から生まれる者、地の産物、穀物、新しいぶどう酒、油、またあなたの群れのうちの子牛、群れのうちの雌羊をも祝福される。あなたはすべての国々の民の中で、最も祝福された者となる。あなたのうちには、子のない男、子のない女はいないであろう。あなたの家畜も同様である。主は、すべての病気をあなたから取り除き、あなたの知っているあのエジプトの悪疫は、これを一つもあなたにもたらさず、あなたを憎むすべての者にこれを下す。あなたは、あなたの神、主があなたに与えるすべての国々の民を滅ぼし尽くす。彼らをあわれんではならない。また、彼らの神々に仕えてはならない。それがあなたへのわなとなるからだ。あなたが心のうちで、「これらの異邦の民は私よりも多い。どうして彼らを追い払うことができよう。」と言うことがあれば、彼らを恐れてはならない。あなたの神、主がパロに、また全エジプトにされたことをよく覚えていなければならない。あなたが自分の目で見たあの大きな試みと、しるしと、不思議と、力強い御手と、伸べられた腕、これをもって、あなたの神、主は、あなたを連れ出された。あなたの恐れているすべての国々の民に対しても、あなたの神、主が同じようにされる。あなたの神、主はまた、くまばちを彼らのうちに送り、生き残っている者たちや隠れている者たちを、あなたの前から滅ぼされる。彼らの前でおののいてはならない。あなたの神、主、大いなる恐るべき神が、あなたのうちにおられるから。あなたの神、主は、これらの国々を徐々にあなたの前から追い払われる。あなたは彼らをすぐに絶ち滅ぼすことはできない。野の獣が増してあなたを襲うことがないためである。あなたの神、主が、彼らをあなたに渡し、彼らを大いにかき乱し、ついに、彼らを根絶やしにされる。また彼らの王たちをあなたの手に渡される。あなたは彼らの名を天の下から消し去ろう。だれひとりとして、あなたの前に立ちはだかる者はなく、ついに、あなたは彼らを根絶やしにする。あなたがたは彼らの神々の彫像を火で焼かなければならない。それにかぶせた銀や金を欲しがってはならない。自分のものとしてはならない。あなたがわなにかけられないために。それは、あなたの神、主の忌みきらわれるものである。忌みきらうべきものを、あなたの家に持ち込んで、あなたもそれと同じように聖絶のものとなってはならない。それをあくまで忌むべきものとし、あくまで忌みきらわなければならない。それは聖絶のものだからである。 

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ガラテア2章16節原典
ειδοτες οτι
ου δικαιουται ανθρωπος εξ εργων νομου
εαν μη δια πιστεως ιησου χριστου
και ημεις εις χριστον ιησουν επιστευσαμεν
ινα δικαιωθωμεν εκ πιστεως χριστου
και ουκ εξ εργων νομου
διοτι ου δικαιωθησεται
εξ εργων νομου πασα σαρξ


YLT訳(KJVより原典に近い)を参照しながら、さらに原典に近づけていく。


having known also that
no man is justified out of works of a law
if not through faith of Jesus Christ
and we into Christ Jesus did believe
that we might be justified out of faith of Christ
and not out of works of a law
wherefore not justified
out of works of a law shall be any flesh

νόμοςは3回出てくるが、いずれも無冠詞(a law)で使われている。

従って、νόμοςを「聖書律法」the Lawと訳出することはできない。

間違った律法解釈、私的解釈が加えられた律法、律法のようなもの、律法モドキ、人の教え、人間教などと言い換えると分かりやすい。

同聖句2行目を直訳する。

人は律法モドキの働きによって義とされない

パウロが言っていることは至極当たり前のことだと分かる。

続けて全文直訳。

人は間違った律法解釈の働きからは義とされない
イエスキリストの信仰から出て来なければ
私たちはキリストイエスに信じ入った
私たちがキリストの信仰から義とされるように
間違った律法解釈の働きからではなく
肉は義とされない
間違った律法解釈の働きから

ごく自然に受け入れられる、当たり前のことが書かれている。

また、イエスキリストの信仰から(によって)義とされるとある。

私の信じる信仰ではない。

それは信仰モドキ、つまり危なげで怪しげな信仰。

誤解、誤読、無理解、無知が分かったら、さっさと捨てて、進みべき方向を変えよう。




#451 神の法序論

2019年11月11日 | 神の法
序論
啓示と条約としての律法
 
p6~
The Law as Revelation and Treaty
INTRODUCTION
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

(聖書)律法と恵みの間には矛盾はない。

ヤコブ書の問題は信仰と行いの問題であって、信仰と(聖書)律法の問題ではない。

ユダヤ教主義者は律法を神と人との、また、神と世界との仲介者と考えていた。

イエスの攻撃の照準は、(聖書)律法そのものにではなく、ユダヤ教主義的律法観(律法モドキ)に向けられていた。

真の仲介者であるイエスは、(聖書)律法を、神がお定めになった本来の役割、聖化の手段に戻すために、仲介者なる律法(律法モドキ)を否定した。

主イエスは、(聖書)律法の授与者だった。

(聖書)律法に罪を自覚させる効果を持たせたのも主イエス。

彼が人間の罪を赦した時、(聖書)律法は確立された。

(聖書)律法は神と人間を取り持つ仲介者となることはできない。

人間が神のみ前で義と認められるための義認の手段となることもできない。

主イエスが決然と拒否されたのは、パリサイ人や律法学者の荒唐無稽な律法解釈(律法モドキ)だった。

主イエスがモーセの律法と神の律法との区別をしていたと考えてはならない。

主イエスは、(聖書)律法を廃棄するためではなく、成就するために来られた(マタイ5:17)。

モーセ律法を軽んじたり、弟子たちにそれを無視するように教えたことは一度もなかった。

むしろモーセ律法の権威を公けに認め、パリサイ人たちを正式な律法教師と認めていた。

キリストが御業を完成したことにより、律法解釈者としてのパリサイ人の職務も終わった。

しかし、このことは、(聖書)律法の務めも同時に終わったことを意味しない。

新約時代には、使徒の発言がすべての法解釈の基本。

(聖書)律法の権威は不変。

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ガラテア2章16節再考中。