みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#341

2019年06月12日 | コーヒーブレイク
聖書律法綱要
序論
第三節  法の方向


通読中。

ポイントを抜粋。

◇◇

#1.十戒は基本法。

#2.例えば、盗んではならない(出エジプト20:15、申命記5:19)。

イ)生活の基本的な領域を確立し、保護する。

ロ)国家や人間によってではなく、至高かつ全能なる神によって、私的財産が確立される。

ハ)神が律法をお定めになったので、その法に対する違反は全て神に対する違反である。

ダビデは、自分の姦淫と殺人の行為に関して次のように宣言した。

「あなたに、ただあなたに対して私は罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました」(詩篇51・4)

ニ)無律法は罪。

#3.律法は広範かつ基本的な原則を与える。

第一に基本的原則を引用し、第二に判例法を、第三にパウロによる法の適用の宣言。

① 盗んではならない(出エジプト20・15)。基本法。原則の宣言。

② 穀物をこなしている牛にくつこをはめてはならない(申命記25・4)。基本法の例証。判例法。

③ いったい神は、牛のことを気に掛けているのだろうか。
それとももっぱらわたしたちのためにこのように言われたのだろうか。
もちろん、わたしたちのためにこう書いてあるのである。
なぜなら、耕すものが望みをもって耕し、脱穀するものが分配を受ける望みをもって仕事をするのは当然だからである。
…同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます(第一コリント9:1~14)。律法の適用。

#4.律法の今日的価値を否定するものは、結果として、盗みの罪の意味を非常に狭く限定してしまう。

#5.律法は、第一に、原理を主張し、第二に、それらの原理を発展させる判例を引用する。そして、第三に律法は、神の秩序の回復をその目的と方向性として持つ。

#6.この第三の面は、聖書律法にとって重要であり、それは再び聖書律法とヒューマニズム的法のあいだの違いを示す。

#7.聖書律法は被害者に対する償いを規定しているが、それ以上に基本的なのは神の秩序を回復することに対する要求である。

#8.新約聖書は、ザアカイが不法に税金を取り立てていた罪の正しい解決は償いであると教えている(ルカ19・2-9)。

#9.償いは山上の説教の中ではっきりと語られている(マタイ5・23-26)。

#10.エペソ4章28節において、パウロは、償いの原理がどの様に発展しているかを示している。泥棒であったものは盗みをやめるだけではなく、不正に奪い取ったものを償うため自分の手で働かなければならない。しかし、盗んだ相手が見付からない場合には、弁償金は貧しい人々に施さなければならなかった。

#11.神との関係で、償いとか回復の事実は3通りある。

イ)第一に、神の至高の律法が宣言され、律法が正しく回復される(マタイ17:11~12)。

ロ)第二に、万物をキリストに服従させ地上に神の秩序を築き上げることによって回復がやってくる(マタイ28:18~20、第一コリント10:5、黙11:15)。

ハ)第三に、キリストの再臨のときに、完全な最終的な回復が実現する(使徒3:21)。

#12.聖書全体は人間がいつも神との契約関係にあるという事実の土台の上に立っているという真理から出発している(ホセア6・7)。

#13.救いは、常に神の契約の確立と実現としてある。

#14.その契約的関係の回復はキリストの御業であり、ご自身の選びの民に対するキリストのみ恵みである。

#15.創造命令とは、人間は地を従え、その上に正しい支配を実行することである。

この命令が廃棄されたことを示す箇所は聖書の中でどこにもない。

かえって、この命令は実現されなければならないし、また実現されるであろう。

そして、イエスによれば、「聖書は破棄されるべきではない」(ヨハネ10・35)。

それを破棄しようとするものは、自分自身が滅ぼされてしまうことになる。





#340

2019年06月02日 | コーヒーブレイク
序論
第二節  律法の啓示性と条約性


通読中

◇◇ 

分かりづらいので、要点のみを抜粋する。

以下、抜粋

#1.国家宗教はヒューマニズムに基礎を置く。つまり、国民(人)が神。

#2.国家および社会における法の基礎となるのは宗教。

#3.聖書律法(指示、命令、導き)とは神と神の義の啓示であり、神の権威。

#4.旧約は律法の書であり、新約は恵みの書であるという分け方は誤りであり、まったく根拠がない。
   
#5.パウロがガラテヤ書やロ-マ書において為した律法批判は、旧約聖書の律法理解に対してではなく、それとは荒唐無稽な律法解釈に対して向けられていた。

#6.律法は神と人間の仲介者となることはできないし、人間が神のみ前で義と認められるための義認の手段となることもできない。

#7.イエスは、律法を廃棄するためではなく、それを成就するために来られた(マタイ5:17)。

#8.聖書律法の第二の特徴は、律法は神がその民と結ばれた契約であるということ。

#9.ご自身の主権を宣言された宣言書であり、神が至高者としてお命じになった生活の秩序。

#10.聖書律法(すなわち契約)の第三の特質は、それが「神の下における支配」の計画を設定している点

#11.アダムは神の啓示、すなわち神の法にしたがって正しい支配を実行するように神によって召されたのである(創世記1:26以降、2:15-17)。

人間の堕落後にも、同じ召しが神の系列、すなわちセツの系列に与えられた。

ノアにおいて、この召しは正式に更新された(創世記9:1-17)。

これは、再びアブラハムに与えられ、続いて、ヤコブに、モーセによってイスラエルに、ヨシュア、ダビデ、ソロモン(彼の書いた箴言は律法を繰り返し宣言している)、ヒゼキア、ヨシア、そして最後にイエス・キリストに与えられた。

#12.律法が与えられたのは、選びの恵みと導きの基礎の上にであった(出エジプト記20:2)

#13.神はアダムに「地を支配せよ」と命じられた。

#14.人間は、贖われ、再生した時に、この任務と特権に再び召された。

#15.律法は、クリスチャンとキリスト教的社会のための法であるということができる。

#16.聖書の戒め、聖書律法はどうであろうか。

「殺してはならない。」「盗んではならない。」はどうか。

これらの律法はあらゆる時代に、またあらゆる政治秩序にとって有効たるべく定められたのではないのだろうか。

聖書律法を捨てることによって、これらのプロテスタント神学者たちは道徳的・法的相対主義(ヒューマニズム)に陥ってしまった。

#17.実証主義的法も自然法も罪と人間の背信を映し出しているにすぎない。

#18.啓示された法こそキリスト教的社会の必要とするところである。

以上、抜粋終わり

要するに、「地を従える」ために、クリスチャンは具体的に何をするのか。

まずは、世の国家法と神の法の成り立ちを知ること。

イスラエルに与えられたモーセ律法は、神の民を祝福するための契約。

クリスチャンが召し出された理由とは何か。

土台が人間教(ヒューマニズム)である国家法ではなく、御国の進展には啓示された法が必要。

この国においては、とてつもないチャレンジのように思える。

しかし、御国の実現と拡大は主の御心。

久しぶりにワクワクしてきたぞ!





#339 Galatians 2

2019年05月25日 | コーヒーブレイク
ガラテア2章19節
しかし
私は
律法を通して
律法に死んだ
神に生きるために

◇◇

聖書律法綱要
序論
第一節
聖書律法の有効性


通読中。

◇人間の代表として、また、身代わりとして死んだキリストの贖いの御業を受けいれた信者の救いの条件について言われている。すなわち、これらの箇所で述べられているのは、キリストが身代わりに死んでくださったことによって、信者は、違反者に死刑宣告を下す「告発者としての律法」に対して死んでいる、ということである。しかし、信者は神の義の律法に対しては生きている。

と書いてある。

「私は律法を通して死んでしまった」ので、律法の外にいるのか。

律法とは無関係になったのか。

律法には、「告発者としての律法」という役割と「祝福を与えるための律法」という2つの役割がある。

我々が死んだのは告発者としての律法に対して。

「祝福を与えるための義の律法」すなわち「命の御霊の律法」という役割には「イエスキリストにある」という限定が付されていて、当たり前だが、我々はこの役割に対して生きている。

繰り返しになるが

命の御霊の法則⊃モーセ律法

ではない。

命の御霊の律法=モーセ律法=告発者としての律法

これが真理。

第一戒
第一節 第一戒とシェマ・イスラエル


において、興味深いことが書かれている。

◇しかし、教会もこれと似たり寄ったりである。「律法はイスラエルにとって良いものである。しかし、クリスチャンと教会は恵みの下にいるので、律法はいらない。もしいるとしても、それはもっと優れた新しい律法である」という教えは暗黙の多神教である。これは、ローマカトリック、ギリシャ正教、ルーテル教会、カルヴァン主義教会、他のほとんどすべての教会が表明している教えである。ヨアキムの異端は教会を深く汚染してきた。この異端によれば、人間の最初の時代は御父の時代であり、正義と法の時代であった。第二の時代は御子の時代であり、キリスト教と教会と恵みの時代であった。第三の時代は、御霊の時代であり、人間が神になり自分の法になる時代である。


ここに書かれている教えは、上に掲げた

命の御霊の法則⊃(モーセ)律法

とする教えと実によく似ている。

1.律法はイスラエルにとって良いものである。
2.クリスチャンと教会は恵みの下にいるので律法はいらない
3.もしいるとしても、それはもっと優れた新しい律法である

この教えは暗黙の多神教、つまり異端。




Coffee Break, #338 Romans 8

2019年05月18日 | コーヒーブレイク
ローマ8章2節
イエスキリストにある
命の御霊の律法は
罪と死の律法から
私を解放した

◇◇

これまで、神の法については全く無関心だった。

いや、敵対していた。

恐るべきことをしていた。

神の法に目が向くようになったのは、もちろん主の導きによる。

神の一方的な恵み。

土台のしっかりした父の家に戻ってきたような安堵感。

神学というのは、人間の不完全な知性によって編み出された理論ではない。

また、人間が勝手に仮定する「自然法」でもない。

時の試練を経て、歴史的に認められてきた神学をしっかり学ぶことは、クリスチャンにとって当然のことなのだが、こんな当たり前のことも気が付かないほどに堕落してしまっていた。

「神学なんて要らない」と吹き込むのは異端がよく使う手口だそうだ。


聖書律法綱要


序論
第一節 
聖書律法の有効性


実におもしろいことがいろいろ書かれている。

◇律法を犯す人間は、「神に敵対しており」(ローマ8・7)、「罪と死の律法」(ローマ8・2)の下にいる。一方、信者は「キリストにあって生命のみ霊の律法」(ローマ8・2)の下にいる。律法は一つであって、それは、神の律法である。

νόμος:
From a primary word νέμω nemō (to parcel out, especially food or grazing to animals); law (through the idea of prescriptive usage), generally (regulation), specifically (of Moses [including the volume]; also of the Gospel), or figuratively (a principle): - law.

確かに、意味は「モーセ律法」

ローマ8:2
イエスキリストにある
命の御霊の律法は
罪と死の律法から
私を解放した

νόμοςを「律法」と訳していることが、まず一点。そして「罪と死の律法」も「イエスキリストにある命の御霊の律法」も同じ(モーセ)律法であると書いてある。異なる2つの法則「罪と死の法則」「イエスキリストにある命の御霊の法則」があるのではない。実に分かりやすくて爽快。これが真理。

◇人間が義と認められるのはもっぱらイエス・キリストにある神の恵みによるが、人間が聖化されるのは神の律法による。

「聖化される」とは、世からの分離。世から分離されるために神の律法が必要である-とは、まさにその通りではないか。神の法に対立しながら、なおかつ聖化の過程が進んでいくというのはあり得ないこと。

ローマ8:4
肉に従ってではなく
御霊に従って歩む我々の中で
神の義が満ち溢れる

御霊に従って歩むとはどういう歩みだろうか。神の御心に従って歩むということ。神の御心に従って歩むとは、神の法に従って歩むということ。神の法に従って歩む者には神の義が満ち溢れると書いてある。

◇霊に従うことは何か別世界に行くことではなく、み霊の導きによって聖書の命令をこの世界に適用することなのである。

御国の拡大は、この世界を排除する暴力的なテロによってではなく、神の法をこの世界に適応することによって進んでいくということ。我々は、憲法、交通法規、医師法など、さまざまな法律によってがんじがらめになっているが、普段は全く気にも止めない。知らない間に遵守しているから。律法と同様、世の法律ですら違法者にとっては死となり、遵法者にとっては命となるのだ。

つづく。



Coffee Break, #337 1 Peter 3

2019年05月15日 | コーヒーブレイク
第1ペテロ3章22節
彼(キリスト)は神の右におられる
天の中へと入ってしまった
彼に従わせられてしまっている
御使いたちが
権威と権力が

◇◇ 

この聖句において、権威と権力は文字通り理解するか、悪魔の呼称として解釈することも可能。

「従わせられてしまっている」と訳出した単語はὑποτάσσωで、意味は

ὑποτάσσω:
hupotassō
hoop-ot-as'-so
From G5259 and G5021; to subordinate; reflexively to obey: - be under obedience (obedient), put under, subdue unto, (be, make) subject (to, unto), be (put) in subjection (to, under), submit self unto.

支配下にある、という意味。ここでは、アオリスト分詞受動態、属格男性複数で使用されている。意味は英語訳にあるように、having been subjected。この動詞の形式上の主語はangels and authorities and powers。

上の日本語だと良く分からないので、並べ替えてみる。


キリストは
御使いたちや
権威と権力を
その支配下に置きながら
天の中へと入り
今や神の右におられる

要するに

キリストは、御使いたちや権威と権力を支配下に置いた(完了形)

ということ。

他に書かれているように、我々キリストを受け入れた者も同様の権利を有する。

プレミレが教えるように「これから支配する」のではない。

「すでに支配している」のだ。

再臨を待つ必要はない。

神はすでにキリストを通じて世界を支配しておられる。

しかし、サタンは次のようにささやいてくる。

クリスチャンは支配者ではない
世界は終末に向かって突き進んでいる
何をやってもむだ
支配者になるのは再臨後から

と。

いつまでも騙されていてはいけない。

我々は与えられた支配権を今行使すべきである。




Coffee Break, #336 2 Corinthians

2019年05月09日 | コーヒーブレイク
第2コリント3:18
我々は皆
蔽いを剥き取られた顔をもって
主の栄光が
鏡の中に捕えるように
同一のイメージへと変容を遂げていく
栄光から栄光へと
主の霊によって

◇◇

現在通読中の文献について、ひと言触れておきたい。

霊、魂、分離などで検索した結果(日英)、すぐに目に付いた文献の一つ。

Spiritual Manの1件もあるので、あまり驚きはしていない。

霊と魂の分離は、世と私の分離によく似ている。

どちらも聖化の過程。

魂が砕かれなければ、霊は解放されない。

同様に、世が砕かれなければ、クリスチャンの全的解放はない。

世を砕くにはどうすればよいのか。

魂の砕きは、御言葉と聖霊の働きによる。

世が砕かれるためには、何が働けばよいのだろうか。

我々クリスチャンが働くのだ。

もちろん、剣によるのではない。

ノンクリスチャンの世界では、世が頑強に勝ち続け「私」は虐げられている。

クリスチャンの世界においては、世は砕かれ「私」は勝利を得る必然がある。

必然があるから、絶対的自信をもって働くことができる。

この世界はサタンによる不法占拠から解放されなければならない。

つまり、世は砕かれる必然があるのだ。

クリスチャンは、この不法占拠に立ち向かう戦闘員。

こうして思いを巡らす時、神に最も忠実な態度がポストミレに基づく信仰、世界観にあることが分かる。

The Breaking of the Outer Man and the Release of the Spirit

ビジョンが類似しているので、この文献も継続して通読していく予定。
現在3章の中ほどを通過中。

*修正:思いを馳せる→思いを巡らす




Coffee Break, #335 2 Romans 8

2019年04月14日 | コーヒーブレイク
ローマ書8章5節
肉に従う者たちは
肉に関する事々に没頭する
しかし
霊に従う者たちは
霊に関する事々に

◇◇

上の訳において、「没頭する」と訳した単語はφρονέωで、意味は

φρονέω:
phroneō
fron-eh'-o
From G5424; to exercise the mind, that is, entertain or have a sentiment or opinion; by implication to be (mentally) disposed (more or less earnestly in a certain direction); intensively to interest oneself in (with concern or obedience): - set the affection on, (be) care (-ful), (be like-, + be of one, + be of the same, + let this) mind (-ed, regard, savour, think.

「思いを訓練する」が原義であるが、「没頭する」「愛着を抱く」「夢中になる」といった意味もある。intensively to interest oneself inとあるので、ここでは「没頭する」を採用した。

我々の外なる人の体力には限界があり、知力にも限界がある。

故に、一方に没頭すれば、他方は疎かになる。

肉的な事々に没頭しない者たちのみが霊的な事々を享受できる。

命の御霊の泉から水を飲むことのできるのは、霊的な事々の取り扱いを愛する者たち。

この単語のもう一つの意味として、to exercise the mindがあるのはそういうことではないかと理解したい。




Coffee Break, #333 Ephesians 4

2019年04月07日 | コーヒーブレイク
エペソ4章26節
怒れ
しかし
罪を犯すな

◇◇

外なる人と内なる人が分離されると、外なる人が熱心に仕事をこなし、フルに活動しながら、内なる人は全く動じないことを実感する。

一人は動き回るが、もう一人は神の御前で平安を保っている。

外なる人は外界に気を取られるが、外界の事々は外なる人で止まり、内なる人へ達することはない。

神を知る者たちは、外なる人を外界へと適応させ、内なる人を神の中に留める(術を心得ている)。

外なる人と内なる人は決して混じり合うことはない。

外なる人が外界の小事に忙しなく反応していても、内なる人は神の御前で平然としている。

かくして、外なる人と内なる人が分離されている者は、限られた時間を極めて有意義に生きることができる。

外なる人と内なる人が分離されていない者は、外界の影響をまともに受けて、彼の全存在が右往左往する。

内なる人が外なる人の後追いをしていると、この世の仕事に支障を来たすようになる。

外なる人が仕事に精進し、多くの重要な業績を世に残す一方で、内なる人は神の御前で動かない。

これがキリスト者的実業家のあるべき姿ではないか。






Coffee Break, #332 Ephesians 4

2019年03月31日 | コーヒーブレイク
エペソ4章26節
怒れ
しかし
罪を犯すな

◇◇

外なる人が砕かれている人は外なる人の影響を受けない。

外なる人が砕かれている人の怒りは、その人の怒りではない。

外なる人が砕かれている人の思いは、その人の思いではない。

神の思いであり、怒りであり、聖なる怒りだ。

外なる人が砕かれていないクリスチャンの場合、怒りによって主の臨在が絶たれてしまう。

外なる人の怒り、つまり、肉の思いが神の臨在を遮断する。

外なる人が砕かれている人の怒りは、神の臨在を遮断しない。

若干の影響はあれ、怒りながら神との平安を保つことができる。

外なる人が砕かれている人は、怒った後、神との平安を取り戻すために神の下へと馳せ参ずる必要はない。

罪を犯している兄弟姉妹は、厳しく嗜められる必要がある。

敵の術中に嵌まっている兄弟姉妹を厳しく叱責しながら、神の臨在を感じることができるなら、その者の外なる人は砕かれている。




Coffee Break, #331 Ephesians 4

2019年03月24日 | コーヒーブレイク
エペソ4章26節
怒れ
しかし
罪を犯すな

◇◇

(日本語訳聖書より)こちらの表現の方がズバリ爽快、まさに神のことばと以前に書いた。

再考する。

この聖句において、「罪を犯す」と訳された単語はἁμαρτάνωで、意味は

ἁμαρτάνω:
hamartanō
ham-ar-tan'-o
Perhaps from G1 (as a negative particle) and the base of G3313; properly to miss the mark (and so not share in the prize), that is, (figuratively) to err, especially (morally) to sin: - for your faults, offend, sin, trespass.

解説の文頭に

to miss the mark

とあるように、この単語の本来の意味は「的を外す」ということ。

この聖句、次のような文と比較すると分かりやすい。

愛しなさい
しかし
罪を犯すな

赦しなさい
しかし
罪を犯すな

いずれも相当な違和感があるが、上の聖句には違和感がない。

どういうことか。

怒るという感情が、それだけで罪を犯す危険を孕んでいるということを示す。

ちなみに

上の文の「怒る」は英語訳ではangry、続いて、和訳で「憤る」と訳された単語は英語訳ではwrathと訳されている。怒りの程度を比較するとangry≪wrathであるから、時間経過とともに、単純な怒りが激高へと変化していくことをこの聖句は示している。

最悪、殺意へと移行しかねない。

故に、怒り続けながら御心に従うということは不可能であるということ。

・・つづく。