みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#5 宗教と現代思想 キリスト教に王道はない

2024年01月20日 | 宗教と現代思想

社会に出ると、まず耳にするのが、「結果がすべてだ」という脅し文句である。

つまり、どんなに頑張っても、結果として成果を上げることができなければ、何にもならない、ということだ。

学生時代は、努力は賞賛されるが、社会では結果だと。

たしかに、商品を買って、フタを開けたら不良品ならば、金を返せといいたくなる。顧客にとって、生産者がどれだけ努力したかはあまり意味がない。受け取った商品が実際に役立つかどうかが問題だからだ。

同じように、会社に雇われている人間が、きちんと仕事をしなければ、どんなに御託を並べても、相手にされないのは当然である。

仕事が失敗したら言い訳はできない。そういう意味において社会人には大きな責任があるのだ。

さて、このような結果を厳しく問うという気風は、世界の常識かと言えば必ずしもそうではない。おおむね、世界の諸国は日本よりも結果に対する責任をそれほど厳しく問わないようだ。

商品を注文したのに届かない。カウンタに預けた荷物が他の便に混じってしまい、受け取ることができない。電車やバスは時間どおりに来ない。ブッキングしていたホテルが満室で追い返された…。

このような不手際は、海外を旅行すれば頻繁に耳にする。

ロシアでは、大学の行事で遠足に行った帰りに、観光バスの運転手に「もう勤務時間が過ぎたのでここで降りて欲しい」と言われて途中で全員降ろされた記憶がある。さすがに労働者の天国だと納得したものだ。

日本人ほど、パーフェクトな仕事をする民族はめずらしい。アメリカでも商品の誤配なんてよくある話である。

しかし、このような日本人の長所も行きすぎると有害である。

結果にこだわるあまりに、実利に直結しない思想とか学問に関心を持たないことが多い。日本においてキリスト教が広まらないのは、キリスト教を信じて具体的にどのような利益があるかが見えにくいからである。

「天国に行けます」と言われても、唯物論的な教育を受けた者たちにはぴんとこない。逆に、キリスト教を信じる人の多いアメリカでは、犯罪も多いし、道徳は乱れている…。キリスト教にどんな利点があるのか?と尋ねられる。

ここが難しいところである。つまり、思想というものは、確実に結果を残す運命にあるのであるが、それが目に見える形になるまでには時間がかかるからである。キリスト教を信じている国を見れば、そうではない国よりもはるかに経済的にも文化的にも高いのは歴然としている。GNPで比較してもそれは明らかである。サミット国で歴史的にキリスト教国でないのは、日本だけである。イスラムが経済的に裕福なのは、石油のおかげである。仏教国で経済的に裕福になった国は、西洋文化を取り入れたからである。その前は、日本も中国も韓国も極貧にあえぎ因習に苦しめられていた。

歴史を見れば、長期的に発展した地域は例外無くキリスト教の影響を受けた地域である。なぜならば、キリスト教は「パン種」だからである。パン種はかならず周りを膨張させる。福音が入れば、それは必ず文化に影響を与える。

結果にこだわるのは、市場経済社会において当然のことである。我々は顧客に受け入れられる仕事をしなければならない。

しかし、同じことを思想に求めてはならない。思想が社会に対して影響を与えるのは徐々にだからである。

キリストは、福音は「苗」だと言われた。

「地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」(マルコ4・28-29)

苗が突然実を結ぶわけではない。苗を植えたら、次は穂である。穂をとばして実を得ようとするから、多くの人は失敗する。

我々のモットーは、「まず苗」でなければならない。

今日、教会成長にこだわる人々は、苗を植えたらすぐに実がなるものだと勘違いしている。苗から実を得ようとするのは、ギャンブラーや泥棒と同じである。馬券を買って、すぐに金に変わると期待し、着実な労働を避けて、一夜にして金持ちになろうと人の家に押し入る人と同じなのだ。

キリスト教には王道はないのだ。

韓国のある有名な牧師が、20世紀中に日本の1000万人が救われると預言し、日本の多くの牧師がそれに追随し、多くの伝道集会が開かれたが、預言は外れ、その牧師は「私の責任は終わった」と言って、すごすごと国へ帰ってしまった(偽預言者の特徴は、自分の語った言葉に責任を持たないところにある)。いや、預言が外れるどころか、むしろ、現在、キリスト教はそれを預言した10年前よりも信者の数が(1%から0.6%に)減ってしまった。

そもそも、突然1000万もの人が救われたとしても、彼らをどうやって受け入れて、訓練するのだろうか。神学や教理教育を嫌う牧師たちによって、どうやってそれらの大量の新来者を育てることができるというのか。

彼らは携挙という超自然的な解決を予期していた。彼らは20世紀中に1000万人の人々が救われて、その後時を移さずに携挙があって、新しいクリスチャンは天に携え上げられるだろうと期待していたのだ。

何と、安易なのだろう。何と、無謀なのだろう。

今日のキリスト教は、一発屋なのだ。山師なのだ。

一発屋が、「みんな、見ててくれ。俺は今度のレースで大穴を当ててみせるから。」と言い続けても、次第に人々から相手にされなくなるように、今日のキリスト教界も、すでに、心ある人々から相手にされなくなっている。

「今度の大会で、宣教のうねりが日本に起こるだろう。」とか「日本民族の救霊のために立ち上がれ!」とか呼びかけても、「またか」としか思われなくなっている。こういった掛け声に人々はうんざりしている。

キリスト教は行き詰まっている。

今日の、聖会主義、伝道会主義は、バブル前後の一発屋が跋扈していた時代には通用しても、今日のような実力を問われる低成長の時代には通用しないのだ。脆い柱が地震に堪えられないのと同じように、まがい物のキリスト教も時代の試練に耐えぬくことはできないのだ。

クリスチャンは、この逆境の時代にこそ、本物を見分け、本当の実力をつけなければならないということに気づかねばならない。

神は、着実さを求めておられる。一歩一歩、自分の足で歩み、信仰を鍛えなければならない。表面的で性急なリバイバルに目を留めるのではなく、3世代先、4世代先に、自分の家族や教会が、日本に対して強い影響力を与えられるように、地道な教理教育と訓練に努めなければならない。

我々のモットーは、「まず苗」でなければならない。

 

 

 


#4 宗教と現代思想 無意識について

2023年12月09日 | 宗教と現代思想

 

Q.

私がかねがね疑問に思っていることなのですが、フロイトの精神分析学では、人間には、表層意識の下に、深層意識(無意識の領域)があって、その関係は、ちょうど、海上からちょっこと顔を出した氷山と、その下にある巨大な氷の固まりのようなものであり、人間を動かす根本的なものは、リビドーだとか性欲だとか言われます。

果たして、無意識の領域というのはあるのでしょうか?神様は、人間の心にそういう機能を持つものとして創造しておられるのでしょうか?聖書には、無意識という言葉はないと思うのですが、キリスト教界においても、「内面の癒し」とか言って、心理学な手法を使ったカウンセリングなどもなされています。聖書的にみてどうなのでしょうか。正しいキリスト教心理学の確立にとっては重要なことだと思うのですが。

A.

(1)無意識の探索は真の問題解決には役立たない

無意識の領域はあると思うのですが、カウンセリングの実際において重要なのは、人間の基本的な問題――神との契約の違反――であると聖書は繰り返しているのですから、罪の悔い改めを除いて、いくら無意識の問題を扱っても、クライエントに本当の解決はないと思います。

近代心理学の基本的な前提は、「この世界は創造された世界ではない」ということにあります。つまり、世界は進化によって「自律的に」成立したのだ、という前提に立っています。もともと人間は、自由で倫理に縛られない生活をしていたが、社会ができて複雑な環境が生まれ、ストレスにさらされるようになり、その重圧の下において心の問題が生じるようになった。そのような抑圧からの解放こそが、真の解決であると考えます。

つまり、聖書において、人間の問題は「倫理的」であるのに対して、心理学において、それは、「環境的」なのです。人間が悪いのではない、環境が悪いのだ。もし、環境を変えれば問題はなくなるはずだと考えます。

聖書においては、人間の問題は罪を悔い改め、神に立ちかえることによって解決しますが、心理学においては、抑圧を取り去ることによって解決します(※)。

例えば、抑圧を取り去って、性的に解放すれば問題は解決するという解決を信じて、60年代からセックスレボリューションが始まりましたが、かえって離婚によって家庭が破壊され、問題が深まるだけでした。また、性的に解放された人々は正常になるどころか、同性愛やサディズムなど倒錯的な欲望にますますはまり込んで行きました。

キリスト教が心理学を採用するならば、この誤った前提とそこから導き出される誤った解決法を排除する必要があります。問題を環境に置くのは、アダムがエバに責任をなすりつけたのとまったく同じです。「わたしが悪いのではなく、あなたが与えたこの女がわたしを誘惑したのだ。」と述べても、神に対して罪を犯したという事実に変化はありません。問題は、神の法に違反したかどうか、であり、その法律違反がどのような原因・過程で行われたかは問題ではないのです。

教会におけるカウンセリングにおいてはあくまでも、聖書が教えているように、クライエントを「神との契約者」として扱うことだと思います。無意識においてどのようなことをクライエントが考えているかどうかはそれほど重要なことではなく、彼(または彼女)がどのようなことを行ったのか、が問題なのです。

例えば、過去の悲惨な体験からトラウマを持つ人がいるならば、トラウマそのものは根本的な問題ではないので、時間の経過や対話によって解決できます。しかし、トラウマが新たな罪を生み出しているならば、その罪はその人を滅ぼす真の問題になるので処理が必要です。ある人からひどい仕打ちを受けたとか、いじめられたという経験を持つことそのものは、それほど大きな問題ではありません。心の傷は、神がいやしてくださるからです。それには時間がかかるかもしれませんし、何らかの(プラスの)体験が必要でしょう。心の整理をつけるために過去を振り返ることが必要かもしれません。

しかし、そのような心の傷が、他者を苦しめる原因となっているならば、それは罪となっているので、悔い改めが必要になります。自分がいじめられたことが人をいじめることにつながっている場合があります。幼児期に虐待を受けた人は、自分の子供にたいして同じことをしてしまう、ということがあります。自分が虐待を受けたことは、自分に倫理的な責任がなければ、決定的な問題ではなく、それは神によって癒していただくことができます。しかし、自分が虐待者になっている場合は、神による癒しはありません。神と被害者に謝罪し、二度とそのようなことを繰り返さないことをキリストにあって誓う以外に方法はありません。

心の傷は、自分を人間的に成長させてくれますが、罪は自分を滅ぼすことしかしません。罪は絶対的な悪条件であってそれを処理する方法は、内面の探索に求めることではなく、キリストの十字架において赦しを求める以外にはありません。

(2)他者の無意識の領域について裁くことはできない

聖書において悔い改めるべき罪とされるのは、顕在化された罪――「実際に犯された悪い行為」と「意識的に思った悪い考え」――だけです。無意識の領域の罪についてまで悔い改めることはできませんし、また他者に悔い改めるよう求めることもできません。

パウロは、自分を問題視するコリントの教会の人々に対して、「わたしはやましい所は少しもない」と断言しました。それは、彼が自分に示された罪についてすべて悔い改めて正しく処理していたからです。

「さて、わたしはあなたがたに裁かれることも、人間的な基準によって評価されることも、まったく意に介していない。わたしは自分自身を裁くことすらしない。わたしは良心に照らしてやましい所は少しもない。しかし、それだからといって、わたしにまったく非がないとは言えない。なぜならば、わたしを裁くのは主だからである。」(第1コリント4・3-4)

自分の良心に照らして、やましいところがあるならば、他者に批判された場合、素直に悔い改める必要があります。しかし、自分が行いにおいて、思いにおいて、罪を犯していることが明らかではない場合、他者の批判に耳を傾ける必要はありません。

なぜならば、自分は神と人に対してすべての問題を悔い改め、良心がクリアになっているからです。

人間は、他人の内面を知ることができないので、それについてとやかく言うことはできません。「君は、そもそも、性格が傲慢なんだよ。」というような漠然とした批判の仕方はできないのです。もし傲慢であるというならば、具体的な事例について批判しなければなりません。「君は、○○さんをあざけった。これは傲慢な行為だ。」ということはできますが、人の性格全体を批判して、その人を問題視することはできません。それ自体が傲慢な行為です。

私たちは、具体的な罪について互いに指摘することができますが、その人の内面について批判することはできません。その人の内面を扱うのは神だけです。

しかし、それでは、すべての明らかな罪を悔い改めているから、わたしは罪人ではない、と言うことはできるのか、というとそうではありません。

なぜならば、神は私たちの内面をごらんになっているからです。

無意識の領域は、神だけが扱う領域であって、それを人間が評価することはできません。

 

(※)たしかに、抑圧からの解放が必要な部分はあると思います。他者の理不尽な期待によって自分のありのままの姿を受け入れられなくなっているクライエントには、精神的な自立を促し、自分らしさを取り戻すことができるように助けの手を伸べる必要があると思います。

 

 

 


#2 聖書と現代思想 飲酒、聖餐、幼児洗礼について

2023年12月07日 | 宗教と現代思想

Q.
飲酒についていかがお考えですか。

A.
これは、「野菜しか食べない」人、「肉を食べてもよい人」とあり、互いに裁き合ってはならないとあるように、クリスチャンの間でそれぞれ確信を持っている場合、その確信によって行動されるのがよいと思います。

しかし、歴史的に見れば、ルターもカルヴァンも酒を飲み、ピューリタンも酒を飲んでいました。ヨーロッパは現在でも、一般に、クリスチャンと完全禁酒は結びつきにくく、今日のキリスト教が完全禁酒を好むのは、ギリシヤ禁欲主義の系列に属する新プラトン主義が、敬虔主義キリスト教という仮面をつけて、完全禁酒をクリスチャンに押し付けたのが起源とされています。

私の意見では、神が創造されたもので、悪いものは一つもない。悪くなるのは、その利用法が悪い場合だけであると考えています。包丁は料理に使えるが、人を殺すのにも利用できるように。神は、人間に禁欲させて自己満足に陥らせるために、この世界の様々な食べ物を創造されたのではなく、それを人間が楽しんで、神に感謝させるためなのです。

考えてみれば、お米や、大豆、きゅうり、トマト、リンゴ、メロン、梨、大根、…など、まさに人間が食べるために存在するとしか考えられないです。あるものは、生のままでも美味しい。例えば、バナナなど、そもそも人間が食べやすいように、形ができている。しかし、あるものは、加熱しないと、まずくて食べられない。ジャガイモなどそうです(だから、果物は、『神の恩恵のみによる救い』を象徴し、野菜は『神の恵み+人間の労働による文化建設』を象徴していると思うのです)。

しかも、人間の味覚に合ったものは、栄養価も高いということは、偶然の一致でしょうか。例えば、バナナがいくらおいしくても、そこに人間の肉体を養う働きがなければ、ただのおやつですが、しかし、神が創造されたものは、そこに、人間を育て、健康にするための、様々な隠れた栄養素があります。

すなわち、わたしは、食べ物や飲み物は、神の恩みとして与えられたものであるから、むやみに食べたり飲んだりすることを禁じるべきではないと考えます。もちろん、毒キノコなど、「異端などまがいものに気をつけろ」ということを教えるために、神が創造されたものもありますから、何でも食べても益になるとは考えませんが、しかし、ぶどう酒など、食用に充分になるものについては、神が人間が食べたり飲んだりするために何等かの意味を備えておられると思います。

例えば、フランス人は、アメリカ人と比べて同じように肉をよく食べますが、ぶどう酒をよく飲むので、そのポリフェノールの効果で、血液がサラサラになり、血管が原因の心臓病になることが少ないが、完全禁酒を教える教会が多いアメリカ南部の人々には心臓病になる人が多いとテレビでやっていました。

そもそも、イエス御自身がぶどう酒を飲まれたのです(「人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います」)。当時のぶどう酒は今日の蒸留酒とは明らかにアルコール度数が違います。しかし、酔わせる効果はあったことは確かです。なぜならば、カナの婚礼のときに、客が「宴会も終わり頃になるとぶどう酒の味もわからなくなる」と言っているからです。

また、赤いぶどう酒は、まさに、イエスの血を象徴しているのですから、聖餐においてぶどう酒を飲むことを禁じることはできません。

ぶどう酒は、パンと共通点があり、どちらも「発酵」によってできます。聖書において、「発酵」は良い意味でも、悪い意味でも用いられ、「影響の拡大」を象徴します。罪に適用されると、「パリサイ人のパン種に気をつけなさい」ということになり、御国に適用されると、「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」 ということになります。

ですから、聖餐式のパンを「種なしパン」だけに限る必要はないのです。「罪」という「種」が入るとまずいですが、「御国」という「種」が入ればよいのです。

このように、「種なしパン」は「罪のない生活」を象徴し、「種入れたパン」は「御国の勝利と発展」を象徴していると考えられます。

新約時代は、罪のパン種はキリストによって除かれたのですから、御国のパン種を採用して、種を入れたパンでお祝いするほうが相応しいと考えます。(もちろん、「罪は完全に取り除かれるべきである」ということを象徴するものとして種無しパンの使用を否定するつもりはありません。)

ちなみに、ゲイリー・ノースは、Moses and Pharao (ICE, TX) p166 n.33 の中で、旧約聖書では禁じられた「蜜」をも聖餐のパンに加えるべきであると述べています。

「筆者は、蜂蜜をつかって聖餐をしている教会を見たことがないが、彼らの多くは種を入れたパンを用いている。これは、矛盾している。パン種を用いるならば、蜂蜜も用いるべきである。キリストの完全な犠牲は、すでに歴史の中で成就している。カルバリの丘においてキリストは完全な犠牲を成し遂げられたということは、パン種(パン種を入れて完全に焼き上げることはそれ以前において禁じられていた)と蜂蜜(これは完全な甘味料であり、それ以前に禁止されていた)を使用すべきことを示している。蜂蜜は、苦菜に代わって使用されるべきである。教会は、象徴を用いる上で一貫性を欠いている。苦菜は一度もキリスト教の過越[訳注:つまり、聖餐]において使用されたことがなかった。しかし、旧い契約において要求されたこの苦菜に代わって、蜂蜜が使用されたこともない。これは、明らかに矛盾している。過越は、『味覚を通して感じ取られる』べきものであった。かつて苦かったものは、今は、甘い。この対照は、象徴においてはっきりと表現されてこなかった。救いは、象徴において首尾一貫して表現されてこなかった。蜂蜜が象徴する勝利の味は、教会の礼典の特質とはなってこなかった。教会が、もっと楽観的な終末論を信じて、歴史における教会の役割に関してもっと楽観的な見方ができるようになり、次第に教会の勝利が明らかになり、被造世界を回復することが明らかになれば、教会は、聖餐において蜂蜜を使用するようになるだろう。」

そして、聖餐の飲み物は、種入れパンと同じように、「拡大、発展、勝利」を象徴する「発酵」によって作られる「ぶどう酒」が適当と言えると思います。ぶどうジュースよりもよいですが。


Q.

幼児洗礼についてどうお考えですか。

A.

旧約聖書と新約聖書の連続性を考慮するならば、旧約聖書における割礼と、新約聖書における洗礼とは平行関係にあると考えることができると思います。割礼は、生後8日目に行われました。まだ救いを自覚的に受け入れられる年齢ではありません。

聖書は、必ずしも「理性中心」ではなく、むしろ、「恩恵中心」です。例えば、「律法を守る人の子孫は何と幸いなのだろう」とダビデが歌ったように、私たちが神に忠実であれば、私たちの子孫が私たちのゆえに恩恵を受けるとはっきり述べているのです。ひどい罪を犯していたユダの王様がすぐにでも滅ぼされなかったのは、ダビデのゆえでした。

「主は、そのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫にいつまでもともしびを与えようと、彼に約束されたからである。」(2列王8・-19)

遊女ラハブは信仰のゆえに救われましたが、彼女だけではなく、その恵みはその家族にまで及びました。

「私たちが、この地にはいって来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。あなたの家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。私たちは誓いから解かれる。しかし、あなたといっしょに家の中にいる者に手をかけるなら、その血は私たちのこうべに帰する。」(ヨシュア2・18)

クリスチャンホームの子どもたちは、そうではない家族の子どもたちよりも、はるかに恵まれた環境にあります。御言葉を聞く機会、それによって教育され、しつけられる機会に恵まれています。

モーセの契約は、「その子孫とも結ぶ」と言われており、聖書は、「血縁」とか「家族」「氏族」「民族」というような要素を重視しています。

理性を中心に置くならば、自分は自分、子どもは子どもということになるのですが、神様は必ずしもそのようには見ておらず、自分が信仰によって祝福されていれば、自動的に子どもも祝福の中にいると考えることができるのです。

アナバプテストのように、「幼児洗礼は無効だ」と言うのは、救いを理性中心にとらえているからです。これは「神があなたの子孫を祝福しよう」と言っておられるのにもかかわらず、それを拒むことになるので罪なのです。

あくまでも、救いとは、神の一方的な恵みであって、人間の理性的判断は二次的なものでしかありません。救いに先立つ新生、信仰も神の恵みによるのです。

「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える。』と彼女に告げられたのです。

『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。』と書いてあるとおりです。 」(ローマ9・12-14)

つまり、まず、神が一方的に我々を選んでくださったから、我々は、理性をつかって信仰に入ることができたのです。その選びとは、我々が生まれる前からすでに決定されていたのです。

「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1・4)

我々がただ神の一方的な救いによって選ばれたのであれば、どうして、私たちの子ども達が、もっぱら理性によって救われると考える必要があるでしょうか。

神が我々を選んでくださったということは、我々の子どもたちをも選んでくださったということを意味しているのです。

つまり、神は、私個人を選んだということではなく、私の家を選んだということなのです。

私が契約に従って、子どもたちを正しく訓練するならば、神はその子どもをも祝福してくださり、救いの恵みの中にとどまらせてくださいます。

しかし、もし、ラハブの家への警告「あなたの家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。」のように、自分から進んで信仰を捨ててしまう者が現われれば、彼は、契約の外に出てしまったので、滅びに至ります。しかし、これは、通常のことではありません。

 

 

 


#1 宗教と現代思想 ニューエイジとキリスト教

2023年11月27日 | 宗教と現代思想

ニューエイジの考えがはびこっています。

「ニューエイジの誕生は、60年代のヒッピー・ムーブメント華やかなりし頃、世界中を旅した若者たちが主にインドやチベットなど東洋の宗教思想やライフスタイルを故国へと持ち帰ったことが契機になったといわれ」、「西洋型の分析的・合理的な物の考え方が次第に閉塞感を生み出すようになってきた戦後の社会情勢の中で、新しい生き方や物の見方を求めていた」「若者たち」が「東洋思想の深みや自然と調和した簡素なライフスタイル」を求める中で生まれました。「東洋思想の全体性、普遍性を重んじる考え方は近代以降の<正統科学>のあり方にも影響を与え、「ニューサイエンス」という新しいフィールドを開拓する原動力にもなり」、やがて自然医学(気功や漢方、民間療法etc.)や神秘主義、ESPやチャネリングなどの超常現象をも取り込んで、ニューエイジは大きな流れを形成するに至ったと言われています。

さて、ニューエイジの問題提起は、別に新しいものではなく、神を捨てたヒューマニズムが最初から持っていた問題の焼き直しでしかありません。

ヒューマニズムは、「神抜きの理想郷」を目指します。ヒューマニズムには大きく分けて二つの理想があります。それは、(1)ヒューマニズムの人格理想と、(2)ヒューマニズムの科学理想です(Hermann Dooyewerd, Christian Philosophy and Meaning of History, The Edwin Mcllen Press)。

(1)は、人間の良心の自由、善悪選択の自由を目指します。神抜きで、神の基準に縛られずに、自由に生活することがヒューマニズムにとっての「自由の理想」なのです。

(2)は、宇宙は、数学的、自然科学的な方法によって、単純な要素を理論的に積み上げて成り立つものとして捉えられるべきであって、神の創造物とは捉えるべきではないと考えます。人間も世界も原子分子の集まりであり、世界は、数学的、機械論的に探求されるべきであると考えます。今日の生物世界があるのも、進化によって偶然に成ったのであり、神とは無関係であると考えます。

(1)と(2)は、常に緊張関係にあります。(1)が行きすぎると、思弁的・独断的・迷信的になります。(2)が行きすぎると、宿命論的、無個性的になり、人間の自由を阻害します(すべてが科学的法則にのっとって起こるならば、人間の自由はどこにもないということになります)。

時代によって、(1)が強くなったり、(2)が強くなったりします。現代は、進化論の登場によって、(2)が強くなり、「(2)が(1)を圧倒した時代」に対する反省の時代ということになります。

ニューエイジは、このように、科学万能、合理性至上主義、反神秘主義に対する反動として生まれました。

経験科学は、ものごとの全体を捉えるというよりも、ものごとを各要素に分解して、その要素を研究します。このような還元論的な手法は、ものごとの各構成要素を知ることはできても、その全体像やその全体的な意味を知ることはできません。

例えば、人間について調べる場合、人体を細かい要素に還元し、それらを細かく分析しても、つきつめて言えば、「人間は分子原子の寄り集まり」ということにしかなりません。これでは、人間はみな同じ。A君もB君も同じではないか、ということになってしまい、このような還元論的科学によって得られた知識は、対象から個性を奪います。

「分析ではなく総合、部分ではなく全体」と言うスローガンは、19世紀中ごろのロマン主義の時代にも現われましたが、ロマン主義は思弁的・空想的であり、「非実証的」であるとの批判を実証主義側(筆頭としてダーウィン進化論)から受け、主流派の座を実証主義に譲りました。

現在のニューエイジは、この実証主義が優勢だった時代が終わりに近づき、人々がそれまでの世界観に対して限界を感じたために起こったムーブメントなのです。「何でも科学で割りきれるわけではない。人間には、科学の法則に縛られない自由がある。」と人々は言い出しました。

実証主義側の攻撃に対して、ニューエイジ以外に応答はなかったのかというとそうではありません。まず、それよりも100年も前に実存主義が応答しました。実存主義は、実証的科学が正しいことを認めた上で人間の可能性を模索したので、ロマン主義などの思弁的・空想的な立場には戻りませんでした。ニーチェは「兄弟たち、大地に足をつけていようではないか。」と言いました。つまり、実存主義は、安易に非実証的観念論(「形而上学的世界について科学的証拠なんてどうでもいい。知識獲得において実証性を重んじる必要はないのだ。世界はこうなっていると勝手に考えて何が悪いのか。」)に陥ろうとせず、実証科学の価値を認めた上で、人間の自由を模索しました。

しかし、実証主義を認めながら、観念論も回避したために、結局、実存主義には、相対主義以外に解決はありませんでした。すなわち、「たしかにダーウィン進化論は否定できない。宗教や思想に逃げ込んで、実証的な科学を否定することはできない。世界は偶然に進化したことが正しいわけだから、自然法とか宇宙の根本法とか、絶対的な基準というものは存在しないということになる。すべては偶然の織り成す業だから。ということは、もはや普遍を見付けるのではなく、すべては相対だと考えるべきなのではないか。」と考えたわけです。

アムステルダム自由大学教授故へルマン・ドーイウェールトはこれをまとめて次のように言いました。「さて、現代の実存主義は、この実証主義を乗り越えようとした。哲学をもう一度実際的な世界観にまで拡大しようとした。しかし、それは、すでに、永遠の形而上学的思想世界に対する信仰(これは、ヒューマニズムの人格理想に属する)を失ってしまっていたので、時を超えて存在する普遍的・絶対的な基準を再び獲得しようとはしなかった。」

このような考え方は、現代人を支配しています。

つまり、現代人は、実存主義者と同じように、科学を尊重します。しかし、同時に科学だけではもの足りないと考えています。だから、オカルトや心霊写真が流行るわけです。実存主義は、普遍的な法則などというものを否定し、すべては相対であると考えます。そのように、現代人も、そのような法則を探求することを諦めています。だから、実存主義的な今日のクリスチャンも、「律法ではない。個人の救いなのです。」と、個人主義に走るのです。今日のクリスチャンは、実存主義以前のクリスチャンとは違います。かつて、キリスト教の中心は「法」でした(ルター派は、ルターが唯名論者から教育を受けたので、法よりも救いを強調しますが、カルヴァンは、法学者であったこともあって、法を強調しました)。しかし、     今のクリスチャンは、律法を嫌い、何かの規則を毛嫌いします。そして、個人の救いという実存を強調するのです。だから、今日のキリスト教は、「伝道中心主義」であり、「いかに人を救いに導くべきか」に注意を集中して、「『わたしが命じたすべてのこと(つまり、神の法)を守るように教えなさい』という諸国民の弟子化命令」を軽視するのです。

さて、このような実存主義の影響もあって、世界の主流の考えは、「普遍」を嫌い、「個物」を強調する傾向があります。

ニューエイジは、このような実存主義の子孫であり、両者とも「実証科学を尊重はするが、科学で説明のできる現象を超えた何かを求める」という点で共通しています。

心霊とかUFOとかが流行するのは、人々が、数式や法則では割りきれないものがこの世界に存在することに気づいたからでしょう。

アメリカでは、1963年のケネディ暗殺が、このような世界観の転換に大きな契機を与えたといわれています(Gary North, Unholy Spirit, ICE, TX)。それまでの、合理主義の体現者である大統領が、人々の目の前で暗殺されたということは、アメリカ市民に対して大きな衝撃でした。また、ベトナム戦争も大きな要因だったでしょう。

ヒューマニズムの世界において、(2)の領域である合理性が信頼を失えば、(1)に行かざるを得ません。

さて、日本という国について言えば、日本は、そもそも、(1)と(2)の対立という枠組みを厳密にしていませんでした。このような枠組みを受け入れたのは明治になってからに過ぎません。むしろ、仏教や神道などは、そもそも、対立的な思考法を拒否して、あいまいの中に逃げ込む発想があるので、日本人の思考法は、もともとニューエイジのようなものであったといえるでしょう。

だから、西洋のニューエイジャーが、「分析」ではなく「総合」にこだわるときに、彼らはすでにそのような考え方をしていた東洋思想を再評価するようになったのです。主体と客体の厳密な区別をせず、「我」であると同時に「彼」でもある、というような矛盾を平気で受け入れるのが東洋思想だったのですから。

しかし、周知のように、科学や文明の進歩発展は、実証的な科学に依存していたのであり、自己と他者を区別しないあいまいな思考法からは近代文明は起こり得ないのです。
それゆえ、ニューエイジに逃げ込むことは、文明の自殺であり、発展や進歩の拒否です。

だから、クリスチャンは、このような「曖昧」な思考法を排除しなければならないのです。クリスチャンは、ヒューマニズムとは違って、(1)と(2)の対立はありません。神が世界を創造され、被造世界は、すべて合理的にできていると知っています。それは実証的な科学によって探求できる対象です。ここに科学の可能性があります。

また、同時に、その世界は、自律的に動いているのではなく、人格神の支配の下にあるとしますので、「世界は科学的法則によってがんじがらめに縛られている」とは考えません。つまり、奇跡の存在を前提にものごとを考えることができるので、自由なのです。

例えば、「○○さんが、病気になった。これは不治の病である。もうだめだ。」と言うのは、(2)によって縛られている考え方です。クリスチャンは、「たしかにこの病気は不治の病とされている。しかし、神が働かれれば、必ず癒される。奇跡もあり得る。」と考えます。

よくクリスチャンの中でも「世界を見てください。悪がこんなにはびこっている。このような世界がキリストの王国だなんてどうして信じられますか?」と言う人がいますが、これは(2)に支配された人の意見です。

真のクリスチャンは、「世界がどんなに悪に支配されていても、この世界はキリストのものだ。だから、時間とともに、必ず、神が支配を拡大し、世界を回復してくださるに違いない。」といえます。真のクリスチャンは、目に見えるものに頼らず、信仰に頼ることができるのです。だから、たとえ自分にお金がなく、力がなくても、神の約束によって、自分たちが勝利する、キリスト教は全世界の国民を弟子とすることができるのだと信じることができます。

ヒューマニズムに留まっていたり、ヒューマニズムから影響を受けると、妙な「現実主義」に陥ります。しかし、クリスチャンは、「非合理」に逃げ込むことなく、勝利を確信できるのです。

ヒューマニズムに留まっていたり、ヒューマニズムから影響を受けると、妙な「個人主義」や「相対主義」に陥ります。しかし、クリスチャンは、「非合理」に逃げ込むことなく、(聖書によって)万物を支配する普遍法を持つことができるので、周りの価値観に動かされることなく、「絶対主義」に留まることができるのです。

今日の教会は実存主義の影響を受けたために、非信仰的「現実主義」と「個人主義」と「相対主義」に陥りました。すなわち、今日のキリスト教は、ニューエイジと同類なのです。

だから、一日も早く、教会は、聖書的キリスト教に帰る必要があります。