みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#6 携挙 Where Did Rapture Theology Come From? NO.1

2024年02月29日 | 携挙

携挙に関する動画その他

Book Review: Rapture! A Dangerous Deception

The Rapture: The Last Days According to Jesus with R.C. Sproul

先に、異端神学であるディスペンセーション主義の歴史に関する動画を前回紹介したが、短時間で解説している動画があるのでアップしておく。


Where Did Rapture Theology Come From? Ben Witherington III


最初から3分6秒まで。

◇◇

さて、ディスペンセーション主義の由来とは何か。

説明しましょう。

聖書を読んで、ディスペンセーション主義に関して最初に申し上げておかなければならないことは、それは19世紀以前には存在しなかったということです。

事実、およそ1820年以前には、この考え方は存在しませんでした。

スコットランドのグラスゴーにおいて、小規模なリバイバルが起こりました。

その地にマクドナルドという名の10代の善良なスコットランド女性がいて、艱難前に教会がこの世から天へと携挙される(引き上げられる)という夢を見たと訴えました。

このうわさは広がったり廃れたりしましたが、教会自体に大きな影響を与えることはありませんでした。

しかしながら、ダービーという名の牧師がこの話を聞きつけ、この理論は正しいにちがいないと確信し、宣べ伝えるようになったのです。

ダービー牧師は、19世紀におけるプリマス(イングランド南西部の港市)ブレズレン教会の創始者のひとりでした。

このストーリ-は初めは勢いよく広まりましたが、次第に話題に上ることがなくなっていきました。

教会史の1800年代初頭、誰も信じてはいなかった独特な信仰(携挙)を有するとても規模の小さいキリスト教宗派がありました。

ダービーだけがこの宗派の信仰(携挙)信じ、この教えを携えてアメリカ合衆国へと持ち込んだのです。

ダービーは、時の人ビリーグラハムやムーディ聖書研究所兼ムーディータイムズの創設者であるDE ムーディーとコンタクトを取りました。

太平洋両岸において、長年にわたり、ムーディは携挙という教えと前艱難携挙説の世界規模の発信者となりました。

それ以来、私たちはその神学に浮かれてしまいました。

レフトビハインドシリーズ以前に、この携挙ストーリーは、「イエスがやってくる」と銘打ったさまざまな小説となっていきました。

「イエスがやってくる(Jesus is coming)」と呼ばれる最初の頃の多くの小説は、シカゴに創設されたDE ムーディ研究所が公開したこの教えに嵌まったシカゴの実業家によって書かれました。

当時、ムーディはシカゴでは大変な影響力を持っていました。

その後、スコフィールド レファレンス バイブルなるものが世に出回ることになります。

CIスコフィールドは、欄外にチェーン式関連事項を有する研究用聖書を作ろうとしただけでなく、聖書テキストの中に「イエスは携挙を預言する」といった見出しをつけ、かつ各ページ下段に研究ノートを付した聖書を作ろうと考えた人物です。

この聖書を購入した一般人は、「ほら、マタイ24章の中程の見出しに、イエスが預言すると書いてあるじゃないか。これは正しいにちがいない」と言うことになるのです。

それで、20世紀初頭から、スコフィールド レファレンス バイブルや他の関連書物によって、私たちは本当に振り回されるようになっていきました。

 

 

 


#5 携挙 Is the Rapture Biblical? NO.2

2024年02月28日 | 携挙

Is the Rapture Biblical? 

5分9秒から最後まで。

◇◇

パウロはこう言っています。

彼は復活について語っています。

キリストは復活した-初穂として-主は死人の中から復活した。

しかし、それぞれに順番がある。

最初にキリスト、23節。

初穂であるキリスト、その後、キリストの来臨(παρουσία)の時にキリストに属している人たち。

それで、このことは何時起きるのでしょうか。

この復活が起きるのは、イエスが来臨した時です。

第1テサロニケ4章でも、全く同じことを言っているのです。

(質問者:分かりました)

そして、終わりが来ます。

つまり、イエスの来臨後復活があり、それから終わりが来る。

以上です。

さて、これはどのようにして起こるのでしょうか。

この箇所において、パウロは少し詳しく説明しています。

「見よ、あなたがたに奥儀を話します」という箇所なんですが、何処だったでしたでしょうか。(51節)

では、50節。

この章の後半で、パウロはこう述べています。

「私はこれを言います、兄弟たち。」

このことに十分注意を払って下さい。

「血肉は神の国を相続できない。」

さて、血肉とは何を意味しているのでしょうか。

パウロの意味することとは、生まれながらの人間の体のことです。

それがすべてであり、何も想像を掻き立てることはありません。

生まれながらの人間の死ぬべき体にあって、私たちは御国を相続することはできない、とパウロは言っています。

御国に入城するために、不死の何かに変えられる必要がある。

あなたがすでに死んでいるなら、不死へと復活する。

しかし、あなたがまだ死んでいないのなら、(生きた状態で)不死へと変えられる必要がある。

何も不思議なことはありません。

聖書にこうあります、「さて、このことを言っておきます、兄弟たち。血肉は御国を相続できない。朽ちるものは朽ちないものを相続できない。見よ、私は奥義を話している。」

さて、ここに、いままで聞いたことがないようなことが書かれています。

良く聞いて下さい。

これは新しいことです。

「私たちは皆眠るのではない。」

言い換えると、私たちは死なないということです。

復活するために死ぬ必要がない。

しかし、私たちは変えられる。

瞬時に、瞬きの瞬間に、最後のトランペットの音とともに。

第1テサロニケ4章に、最後のトランペットが出てきませんでしたっけ。

つまり、これは全く同じ出来事なのです。

「トランペットが鳴り響き-注目して下さい-死者がよみがえる。」

パウロは、第1テサロニケ4章でも言っています、「死者が初めに」と。

「・・死者が朽ちないものへとよみがえり、そして私たちは変えられる。というのは、この朽ちるものは朽ちないものを着なければならない。この死ぬものは不死を着なければならない。」

「死よ、あなたのとげはどこにあるのか。それは勝利に飲み込まれた」等々。

以上の2つの箇所は、人々が携挙と称する出来事について書かれています。

これらの箇所は、人々がそのように取り上げている箇所であり、この問題に関して最も有名な個所です。

両者ともに、それが何時起きるかについて書かれていて、その他のことを宣言しているわけでもない。

書かれていることは復活と呼ばれる出来事です。

主の来臨(παρουσία)の時に、起こると書いてあります。

第1コリント15:23
But every man in his own order: Christ the firstfruits; 
afterward they that are Christ's at his coming.
εκαστος δε εν τω ιδιω ταγματι απαρχη 
χριστος επειτα οι χριστου εν τη παρουσια αυτου

主の来臨の時に終わりが来る。

これは、初臨にとっても、再臨にとっても標準です。

前艱難携挙も中艱難携挙も存在せず、ただあるのは主の来臨の時の復活です。

「下るために上がるのは何故」と疑問に思うかもしれない。

それは重要なのでしょうか。

彼らはよく聖書を読んではいません。

重要なのは、上り下りではない。

重要なのは「変容」です。

死者は朽ちないものを着て、朽ちるものは朽ちないものを着る。

死ぬものは不死を着る。

というのは、死者の全復活も生きている者の全復活も、キリストの再臨の時に成就します。

ここには、何か異常なこと、不自然なこと、大げさなこと、神学的に異様なことは全くありません。

聖書テキストから自明の理です。

実際、いわゆる携挙のための証拠として人々が掲げる聖書箇所、すなわちキリストの体を引き上げるという奥義を必要とする携挙なる方法を巧みに説明できる聖書箇所を、私は見たことがありません。

携挙とは、歴史的には19世紀に登場した新奇な教理です。

聖書には、これを支持する箇所を見出すことはできません。

しかしながら、これらすべての箇所を、時代の終わりに起きる復活という概念により矛盾なく説明できます。

死者は不死を着る、すなわち死者は復活の体を着る、そして朽ちるものは朽ちないものを着る、そして、そこで私たちはみな主とともにいるのです。

千年王国は別の議論の余地のある問題であり、この特別な問題についてですが、私にはある閃いたことがあります。

これも複雑なことは一切なくて、私には問題なく解決できるでしょう。

注)すでに見たように、天とは中間状態であり、新天新地ではない。

 

 

 

 


#4 携挙 Is the Rapture Biblical? NO.1

2024年02月27日 | 創世記

先に上げた動画The Rapture is NOT in the Bibleと内容が類似する論考は多数存在する。

それらの考察の多くは、大変合理的、論理的であり、無理なく考察を進めている。

以下に、それらの中からいくつか紹介しておきたい。

Is the Rapture Doctrine Biblical? (Ben Witherington)

5 Problems with the Rapture

Will There Be a Rapture? 1 Thessalonians 4:13–18, Part 3

以下の内容はかなり辛辣ですが、歴史を踏まえて、異端であるディスペンセーション主義が如何に流布されてきたかを解き明かしている。

Dispensationalism: How Satan Used the Scofield Reference Bible (Part 16 of 23)

次の動画を訳出しておく。
教会メンバーからの疑義に答えている。

Is the Rapture Biblical? 

最初から5分9秒まで。

◇◇

何故私が携挙という考え方に否定的なのか説明します。

(質問者:OK)

つまり、携挙とは受け入れるにはあまりに皮肉的だからです。

聖書の中にその概念を見出すことができませんでした。

根本的に私がその考え方に疑問を呈した理由とはこうです。

主イエスが目に見える形で来臨する数年前に、クリスチャンが地上から引き上げられるという不思議について考えたことがないとします。

また、聖書テキストを読み込んでその考え方を心に抱いたことがないとしましょう。

そうした場合に、あなたは聖書テキストからそのような結論を引き出すことはできるでしょうか。

答えはNO、引き出すことはできません。

私には、その考え方を示唆する聖書テキストがあるとは思えませんでした。

(質問者:何故ですか)

この教理は、キリストの後1800年もの間、全く根拠がありませんでした。

この教理が勢い付いた時期があります。

それがまた、私が疑いを持つ理由でもあります。

では、有名な聖句、第1テサロニケ4章に何と書いてあるか見てみましょう。

いま開いています、私も良く知っている聖句です。

ありました。ここに携挙が書いてあるじゃないかと人は言います。

ちょっとお待ちを。

これが、携挙という概念を確信させる聖句がと思います。

しかし、この聖句には携挙という概念は書かれていません。

ここに書かれていることを携挙と呼ぶことはできません。

これは別の何かです。

この聖句はそれが起きている時を正確に伝えています。

13節にこう書いています。

「すでに眠りについている(つまり、死んだ)人たちについて、知らないままでいて欲しくはありません。全く望みのない残りの人たちのように、あなたがたが悲しまないためです。私たちがイエスが死んで蘇ったことを信じるなら、そうであるなら、神はイエスにあって眠りについている人たちを、彼とともに連れてくるのではないでしょうか。

パウロのことばによると、主の来臨(παρουσία)の時まで、生きていて(世に)とどまっている私たちは・・。

ここで一寸立ち止まりましょう。

ここでパウロが記載していること、彼はある特殊な時のことを言っています。

それが起こるであろうとパウロが言っている時とは、主の来臨(παρουσία)の時です。

さあ、ここで質問です。

主の来臨は何回ありますか。

どのように答えますか。

(質問者:2回)

初臨は2000年前でした。

再臨は将来のいつかです。

来臨は2回だけです。

分かりますが、まだそこには行きません。

単純にしばらく思い留めておいてください。

第1テサロニケ4章で、パウロが何を言っていようとも、それは主の来臨の時に起こることを言っているのです。

つまり、それは主の再臨(second coming、παρουσία)において起こることです。

初臨があって、再臨があるのです。

ひとつ号令、大天使の声、そして神のトランペットとともに、主ご自身が天から下ってくる時、キリストにあって死んだ者たちが最初に蘇るであろう。

これは復活です。

携挙ということばは使われていません。

この箇所では、ラテン語由来のことばが使われています。

それはコリント人の手紙だったかもしれませんが、いずれにせよ、携挙ということばは使われていない。

ことばのあらを探すつもりはないが、テキストに書いていることを正確に反映していることばについて確認しておきたいと思います。

聖書テキストにはこう書いてあります。

「キリストにあって死んだ人たちは蘇るであろう。」

ここで、主の再臨の時に、私たちは復活について話しているのです(とパウロは言っている)。

続けて、こうあります、「生きていて(この世に)とどまっている私たちがともに引き上げられるであろう。」

ここに人々の言うところの携挙ということばが出てきます。

「空中で主と会うために、雲の中で彼とともに引き上げられ、私たちはいつまでも主とともにいるのです。」

パウロが言っていることとはこうです。

主の来臨の時に、眠りに付いている人々が復活する、すなわち、復活によって死者から生きた者へと移行するということ。

そして、まだ死んでいない人たちも、死という過程を経ることなしに変容するという意味において復活を遂げるのです。

(質問者:どうしてですか)

何故なら、終末だからです。

ここに(間近に)イエスがおられるのですから。

話は極めて簡単です。

さて、このことを心に留めておきつつ、つぎのテキストに移りましょう。

次も有名な聖書箇所で、そのことが書かれていいます。

第1コリント15章。

ところで、第1コリント15章全体が復活に関する内容です。

つまり、イエスが来臨する時に起こる「復活」と呼ばれる出来事について、語られているのです。

出来事とはこうです、最初に死んだ人たちが不死へと復活し、次に生きている人たちが変容し、キリストの下へと引き上げられていく。

つまり、死者の復活を勝ち取り、そして、ある意味で奇妙なことではあるが、生きている人たちの復活も勝ち取っているのです。

だから、第1テサロニケ4章にあるような言い回しをパウロはしているのです。

 

 


#197 終末預言 ペテロの手紙第二3章は世界終末預言か NO.9

2024年02月26日 | 終末預言 

Derek Thomas: The End in Sight 

31分48秒から最後まで。

◇◇

クリスチャンなら皆知っている。

神の日の到来を待ち望み、そして早めることができるであろう。その日の到来故に、天は燃え上り、溶けてしまうであろう。そして、天の大部分は焼け落ちるであろう。しかし、神の約束によって、私たちは、義が宿る新しい天と新しい地を待っている。

ペテロはイザヤ65章と66章を引用しています。

さて、16世紀にはカルヴァン主義者とルター派の間に論争がありました。

ルター派は、この宇宙は完全に滅んで、新しい宇宙が無から創造されると考えました。

しかし、カルヴァン主義者は、宇宙の創造自体に何ら罪深いところはないと考え、宇宙は完全に置き換わるのではなく、回復するのだと主張しました。

面白い議論です。

しかし、それよりはるかに面白いことは、新しい宇宙とはどのようなものなのかということでしょう。

私はいずれそこへ行きます。

でしょ。

そこに犬はいるのでしょうか。

「天に犬がいるのか」という疑問ではありません。

天とは中間状態であります。

私が知りたいのは、新天新地に犬はいるのかということです。

感傷的に、感情的に考えるのはやめましょう。

犬が大好きなあなたにとって、それが難しいのは分かります。

私もそうですから。

神学的に考えましょう。

神はどのような新天新地を回復されるのでしょうか。

「この世にあるものすべて」が、その答えです。

創世記1章において、良し、良し、良し、良し、非常に良し、と神が創造されたものすべてです。

本当に見てみたい。

新天新地にいる私の愛犬たち。

新天新地に関するカルヴァン主義者の見解から、そのように言えるのではないでしょうか。

測りがたいほど美しい場所。

苦痛、悲しみ、恐怖、死のないところ。

サタンは底なしの穴へと突き落され、2度と災いをもたらすことはない。(拍手)

これらのことから、どのように理解すればよいでしょうか。

神のこのようなタイミングとは何か、神のご計画とは何か。

13節と14節で、ペテロは「それを待ち望みなさい」と言っています。

続けて、「それ故、愛する人たちよ、それ(新天新地)を待ち望んでいるのだから、しみや傷がなきように、そして安心して、彼(神)に見出されるように勤勉でありなさい。」

あなたがたはそれを待ち望みなさい。

あなたがたはそれを待ち望んでいますか。

待っていますか。

あなたの心の目でそれが見えますか。

あなたが災いの只中にある時、暗黒に直面している時、病いに直面している時、あなたの心を新天新地へと向けていますか。

待ち受けているのはとてつもない美しさ。

待ち受けているのは栄光。

待ち焦がれて見ていますか。

信仰において見ていますか。

生きている間に、イエスが戻ってくるとすれば、どんなに素晴らしいことでしょう。

私は、しょっちゅうそのことを考えています。

私はもう70歳なので、主には急いでほしい。(笑)

死に際して、体や魂のねじれによる痛みを経験する必要は無くなるでしょう。

5秒後にイエスが戻ってくるとは思えません。

私と意見が合わないかもしれませんが、私は、まだ実現していない預言があると思います。

最終ゴールは、まず全世界に福音が宣べ伝えられることであります。

それは宣教師の仕事です。

世界の何処かには、まだ福音を聞いたことのない数千人、数万人の人々がいるはずです。

努力を惜しまなければ、私たちが生きている間に完了するのではないでしょうか。

それを待ち望んでいますか。

備えはできていますか。

「聖なる生き方、敬虔な生き方にあって、クリスチャンとして、あなたの人生を生き抜いていくべきだ」とペテロは言います。

来たるべき世界に備えて生きなさい。

この世は私たちの故郷ではない。

この世を良くすることはできます。

この世に支配権を行使するこはできます。

善良な市民になることはできます。

クリスチャンは最良の市民になるべきです。

2世紀に生きた神学者テルトゥリアヌスは、当時の皇帝にこう書き送った。

「クリスチャンを殺したらよい。足元であなたが弓を放っているクリスチャンは、あなたの帝国の中で最も善良な市民である。」

備えよ。

12節、「主の日の到来を待ち望み、それを早めよ」とペテロは言います。

もう一度言いますが、神にはご計画があるのではなかったか。

その計画は不可侵ではないのか。

その計画が破られることはあり得るのか。

絶対に破られることはない。

しかし、それは人の見方であります。

私たちは神のご計画を早めることができるのです。

どのようにすれば主の来臨を早めることができるのか。

すべての選ばれし神の民が集められる時、主は来ます。

だから、そのためには福音を宣べ伝えなければなりません。

決して止めることなく。

神の栄光を与えるために。

熱心に祈ることです。

主のトランペットが鳴り響ぎ、時が失せ、朝が永遠の光によって破られ、地上の救われし民が対岸からはるばるやって来て集う時、あの巻物が向こうで呼び出される。(hymmの歌詞)

私はそこにいる。

何と素晴らしい確信。

Sinclair Ferguson(シンクレア・ファーガソン)と私は、2011年から2013年の2年間一緒に仕事をしてきました。

私は彼の子分でした。(笑)

私の宣教人生の中で、最も貴重な2年間でした。

礼拝メッセージの最後に、彼は何度もこう言うのを聞きました。

「クリスチャンであることの何と素晴らしいことよ。」

「クリスチャンであることの何と素晴らしいことよ。」

日々そのことに思いを馳せることはありますか。

時にクリスチャンであることが重荷であったり、試練があったり。

苦痛、悲しみ、自己否定、自分の十字架、屈辱を思う。

しかし、それらは皆価値があるのです。

自分否定の仕方は何であれ、それは価値があるのです。

新天新地がやってきます。

「目がまだ見たことのないもの、耳が聞いたことがないもの、人の心に浮かんだことのないもの、神が愛する民にために備えられたもの。」

来たるべきものとは最高のものであります。

「あなたはまだ見たことがないのか」という人がいるかどうかは分かりません。

(祈り)

父よ、感謝します。
素晴らしき難問であるこの聖句を与えて下さり感謝します。
希望が満ち溢れてます。
約束が満ち溢れてます。
それで満たして下さい。
お祈りします。
主イエス故に、私たちが喜びではちきれるまで。
アーメン。

 

 


#196 終末預言 ペテロの手紙第二3章は世界終末預言か NO.8

2024年02月25日 | 終末預言 

Derek Thomas: The End in Sight 

26分16秒からまで31分48秒まで。

◇◇

科学者は、熱力学第2法則について語ります。

世界はネジを巻く古時計のようなものであり、チクタクと時を刻んでいます。

しかし、ある時、それは止まります。

太陽の燃焼が止まり、地球上の生命を維持できなくなります。

そして、万物は死滅します。

それが、神の存在しない世界観であります。

神は歴史を担っておられます。

神は、過去、現在、そして未来を担っています。

私たちは終わりの日々を生きています。

ペテロはこのことをペンテコステの日に言いました。

約束された通り、聖霊が注がれました。

その時、終わりの日々が始まりました。

ヘブル人への手紙最終章に(*最初ではなく)、終わりの日々における生き方が書かれています。

終わりの日々のためのご計画があるのです。

イエスのみがひとつの計画をお持ちです。

「私は私の教会を建てる。地獄の門は、それに打ち勝つことはできない。」

マタイ16章にあるように、イエスは、ピリポカイザリアで、このことをペテロに明らかにしました。

ご自身のご計画に従って、イエスはその計画を明らかにします。

その計画とは何か。

新しい天と新しい地であります。

私たちは天のことを口にしますが、時に「天」と「新天新地」を混同します。

クリスチャンはそれを宝くじと考えているようです。

死んで5秒後、一体何が起こるでしょうか。

5秒と言いましたが、5秒でなくても良い。

この世において目を閉じて、天において目が醒めます。

あなたは主とともにいます。

肉体から離れるということは、主とともにいるということです。

あなたは、天使や大天使、そして勝利した教会とともにいます。

先に世を去った人たちによって歓迎されて、主イエスと一体となります。

聖書は多くを語りませんが、これが中間状態といわれる領域です。

「今日、あなたは私とともにパラダイスにいます」と、イエスは瀕死の泥棒に語りかけました。

第2コリント12節で、パウロは同じことばを用いて「第3の天」と表現し、第3の天に引き上げられました。

クリスチャンとして、死んだ時何が起きるでしょうか。

あなたは意識があります。

それは、あなたの魂の部分。

あなたは自分が誰か分かります。

自意識があり、周囲のことにも気付いています。

金持ちとラザロの例えにあるように、意識はあるのです。

しかし、これは、第2ペテロ3章に書いていることとは違います。

それは大変貴重なことであり、素晴らしいこと。

この世から次の世へと時間が過ぎていき、あなたは愛する人のそばにいる、イエスを宣べ伝えた人とともにいて、お互いに手を握りしめる。

彼らは皆イエスとともにいるという実感に満ち溢れている。

何と素晴らしいことか。

素晴らしい希望。

すべてのクリスチャンはこの希望を持っている。

すべてのクリスチャンはこの希望と確信を持っている。

しかし、ペテロがここで語っているのは主の日であります。

終わりの時を宣べているのです。

主イエスの再臨(second coming)のことを語っているのです。

主イエスの再臨に引き続いて何が起こるのだろうか。

もちろん、もちろん、この箇所において異なる終末論があることは知っています。 

しかし、私は最も聖書的なことをお話しします。(笑)

主イエスが来られる時、新天新地が到来する。

(*原典において使われている単語はπαρουσία、パル―シア)

世界はそれを待ち望み、それに向かってうめき声を上げる。

今、私はそこへ行くことはできない。

しかし、そのことに関する真理はごくわずかしかないけれども、この世がうめき声をあげて、生みの苦しみを受け、万物の刷新を待ち望んでいる。

この世はあなたの故郷ではない。

この世は永遠に続くことはない。

 

 


#195 終末預言 ペテロの手紙第二3章は世界終末預言か NO.7

2024年02月24日 | 終末預言 

Derek Thomas: The End in Sight 

20分25秒から26分16秒まで。


◇◇

この聖書箇所に登場することばパルーシアについてもう一度確認しておきたい。

原典で使用されていることばはπαρουσίαで、意味は

parousia
par-oo-see'-ah
From the present participle of G3918; a being near, that is, advent (often, return; specifically of Christ to punish Jerusalem, or finally the wicked); (by implication) physical aspect: - coming, presence.

specifically of Christ to punish Jerusalemとあるが、先に考察したように裁きといった暗いイメージを有する単語ではなく、むしろ祝福すべき日という意味合いが強い(以下を参照のこと)。つまり、「凱旋」という訳出が適訳。

参照:#2 携挙 The Rapture is NOT in the Bible, NO.2

さて、この聖書テキストにおいて、παρουσίαが登場する箇所は2箇所。

同3:4
彼らは言うであろう、「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠りについて以来、創造の初めから万物はそのままの状態ではないか。」


同3:12
神の日の到来を待ち望み、そして早めることができるであろう。その日の到来故に、天は燃え上り、溶けてしまうであろう。そして、天の大部分は焼け落ちるであろう。

以上から、この箇所は、イスラエル滅亡の預言and/or世界終末の預言と解釈しうる。従って、先に書いたような結論でお茶を濁した次第。

Derek Thomas師も諸説があることは重々承知しているようだ(次回の記事参照)。

◇◇

ご自身が定められた方法において、神は時間と空間の世界に入ってくる。

私たちが住むこの世界、有限の領域へと入ってくる。

そして、私たちに話しかけてくる。

神は幼児語で語りかけてくるとカルヴァンは言っています。

「私は長きに渡り辛抱している」と神は言う。

「私は誰一人として滅びることを望まない。あなたが悔い改める時間を与えよう。」

あなたは言う「よく分からない」と。

そして、私はあなたに言う、「順番を決める番号札を引け。」

これが聖書が啓示していることであり、神の冷酷なご計画を教えています。

予定説という教理であります。

時空間の世界において、神は召し、求め、そして引き出す。

1940年、50年、60年初期のウエストミンスター神学校の組織神学教授を務めたジョン・マレーは、次のように書いています。

神が決して望んではいないことを認識しようとする意志、すなわち神が喜んで定めたのではないことに対する一種の快楽が存在する。

それは取り下げてくれたと信じたい。

カルヴァン主義者からの驚くべきことばであります。

「神が決して望んではいないことを認識しようとする意志、すなわち神が喜んで定めたのではないことに対する一種の快楽が存在する。」

失われし者たちの救いを心から望むお方として、神は私たちにご自身を明らかにする。

選ばれし者たちの救いのみを願うという差別を神はなさらない。

ペテロはそんなことは言ってはいない。

ペテロの言わんとしていることとは、神は万人の救いを願っているのであって、選ばれているかどうかではない。

万軍の神の心には愛があるのです。

決して救われない人たちに対しても。

私たちも同じ愛を持つ必要があります。

何故なら、私たちは選ばれし者と選ばれざる者が誰か分からないからです。

故に、私たちは、選ばれし者たちのためにではなく、(万人のために)福音を宣べ伝える必要があるのです。

選ばれし者たちのための福音という考え方は超カルヴァン主義であり、この考え方は二度と出てくることができない牢獄へとあなたを閉じ込めてしまうでしょう。

私たちは全被造物、すべての民族、すべての言語領域、すべての国に対して、福音を宣べ伝えなければなりません。

不敬虔な者たちの死に対しても喜ぶことはない。

彼らにも悔い改めの余地を与えて下さいます。

これが我らの神であります。

神は、罪人にご自身の下へ来るように呼び求め、彼の手を握りしめる。

そして、神は彼の行動を抑制せしめ、静かにお待ちになる。

今の世は裁きに値すると思いますか。

大いなる裁きが、ワシントンDC、サンフランシスコ、或いはあなたの町に下るでしょうか。

もちろん、それらの町や都市は裁きに値します。

神の命令に対して完璧な違反を犯しています。

日々神の顔に泥を塗っています。

神は正しいお方であり、この世に大火をもたらすかもしれません。

一方で、神は忍耐のお方であり、あなたがたをもう一度呼び求めます。

神は脱落者に呼びかけます、「私のところに来なさい。弱り果てて、重荷を背負っている者よ。あなたに休息を与えよう。私のくびきを取り、私に学びなさい。私のくびきは負い易く、私の荷は軽い。」

神の時間は私たちのものとは異なる。

ある意味で、神は時間の外にいる。

しかし、差し迫ると、神は時空間へと介入してくる。

だから、主にとっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようだ。

詩篇90篇4節からの引用。

そこで、まずは、神のタイミングについて見ていこうと思います。

次いで、神のご計画について見ていきます。

すでに言いましたが、もう少し詳しく見ていきたいと思います。

歴史はくり返さない、とヒンズー教は言います。

歴史には最終ゴール、すなわち終点があります。

 

 

 


#194 終末預言 ペテロの手紙第二3章は世界終末預言か NO.6

2024年02月23日 | 終末預言 

Derek Thomas: The End in Sight 

 

14分57秒から20分21秒まで。

◇◇

神の御心を知ることは不可能。

神に異議を唱えるとは、あなたは何者か。

これはヨブに放たれた疑問ではなかったか。

神に異議を唱えるあなたは何者ぞ。

神は理解不能。

神の究極を測ることは不可能。

神の全知を測ることは不可能。 

神の全能を測ることは不可能。

神の方法は私たちの方法ではない。

神の思考は私たちの思考とは違う。

神タイミングは私たちのタイミングとは異なる。

神は決して遅れることはない。

神はつねに時間通り。

神にはご計画がある。

私たちはこのことを知っている。

確かなご計画がある。

決して破られることのないご計画。

それは、私たちが安息と平安を見出すことのできるご計画。

嵐の只中にいる時、私たちは神のご計画というバブルの中にいる。

そこには、平穏があり、平安があり、調和があり、希望があり、確信がある。

しかし、その外にあるのは、混沌であり、不確実。

神のご計画のひとつは、現在の世界秩序を終わらせることであり、ご自身の創造を新たにすること。

これが神のご計画の一部分。

永遠のご計画。

そのご計画を、神はいつまでも反故にしておかない。

人の意志の絶対的自由を上げて、神のご計画を現状に留めようとする神学者がいる。

毎秒毎秒、神は軌道修正をしている。

常に計画が目標を逸脱しているから。

しかし、約束がある。

三位一体の神により永遠の協議会においてまとめ上げられた約束だ。

父子聖霊が創造し、堕落を認め、仲介者を送り、選ばれし者が選ばれ、邪悪な者たちが放っておかれることが盛り込まれた約束。

この法は不可侵であり、破ることができない。

これが私たちの信じるものではないのか。

これが今ここに私たちとともにあるべきものではないのか。

神の全権の中にある信頼。

神のご意志なくして何も起きない。

神の意志なくして。

私たちにとっては、まるで遅れがあるように見える。

人の見通しからすれば。

私たちの有限の見方からすれば。

それは神の辛抱だとペテロは言う。

これは驚くべきこと。

何ゆえに神は辛抱しているのか。

何ゆえに神は忍耐しておられるのか。

何ゆえに神は、遅れているがごとくに、遅らせているのか。

「神は誰一人として滅びることを望まない」とペテロは言う。

神は万人が悔い改めることを望んでおられる。

神のご計画と調和しているではないか。

神は万物の計画者ではないのか。

選ばれし者の数は増やしうるだろうか。

選ばれざる者の数は増やしうるだろうか。

否、できない。

世界の基が据えられた時から、神は選ばれし者たちを選んだのではなかったか。

そして、彼ら選ばれし者たちは、必然的に、不可侵的に、そして無情にも救われ、他の者たちは、死ぬと永遠の地獄へと引き渡されるのだろうか。

神のご計画に柔軟性があるのだろうか。

この世には柔軟性のあるプランはあります。

私は生命保険には加入してはいませんが・・。

ここに生保の外交員がいても、私に話しかけないでください。

確かに、フレキシブルなプランというのはあるのは知っています。

プランを売り買いして、お金を設けるというもの。

用意ができたら教えて下さい。

但し、調和のとれた方法で。

 


#3 携挙 The Rapture is NOT in the Bible, NO.3

2024年02月21日 | 携挙

The Rapture is NOT in the Bible

8分48秒から最後まで。

◇◇

第1テサロニケ4:15
・・主の来臨の時・・
・・unto the coming of the Lord・・
・・εις την παρουσιαν του κυριου・・


◇◇

最初にパウロは、これは、大きな声とラッパの音による大変分かりやすい公的な到着の場面であると言っている。

第1コリント15章51節、52節でも、パウロは同じようなことを言っている。

キリストが来臨すると、ラッパが鳴り響き、死者は朽ちない体によみがえる。そして、私たちはみな変えられる。

大音響を伴う分かりやすい出来事であり、これは携挙ではない。

携挙は、自分たちの身に起きていることに混乱しているこの世から離れることを想定している。

次に、携挙擁護者は、地上での艱難を避けるために、まだ生きているクリスチャンだけが天へと上げられると言う。

結局、死んだ者は地上から携挙される必要はない。

彼らはすでに死んでいるからだ。

しかし、ここでパウロは生きている者と死んだ者の両者が空中で主と会うと言っている。

これは復活という出来事である。

死人がよみがえる。

これは携挙ではない。

第3に、パウロは「私たちは永遠に主ともにいる」と言って締め括る。

しかしながら、主とともにいる場所については何も語ってはいない。

携挙擁護者は「私たちは天において主ともにいる」と言う。

ここで、パウロは天ということばを使わないように気を使っている。

代わりに、パウロは別のことばを使っている。

私たちは「空中で」主と会う、と言っている。

空中と言う単語は、空の低い部分を意味する。

それは、天ということばの意味とは明らかに異なる。

「空中」ということばが意味を成すのは、イエスの地上への再臨の場合である。

そこで、私たちは主とともに統治する。

クリスチャンの一人たりとも、地上から天へと引き上げられることはない。

以上、まとめ。

携挙の概念は、黙示録のどこにも(書かれてはい)ない。

マタイ24章にある、「取られる」「残される」というイエスの有名なことばは、裁きであって、携挙ではない。

問題の箇所、第1テサロニケ4章は、イエスのパル―シアに関するテキストである。

パル―シアとは、イエスと王家の地上への再臨であり、クリスチャンの復活である。

艱難からの秘密裏の脱出ではない。

エデンの園のりんごやヨナのクジラ、3人の賢者の場合のように、聖書に関して知っていると思っていることでも再考を要することがある。

じっくりと構えて、聖書の実際のことばよりも、私たちの伝統や思い込みに過剰な権威を与えてはいないか確認する必要がある。

携挙は数多くの本を売り上げ、興奮するような映画を生み出してきた。

信仰へと向かう旅路の一端を担っていたのではないでしょうか。

しかし、その学説が如何に有名であろうとも、あなたの所属するクリスチャン共同体が如何に感情的になろうとも、携挙が聖書に書かれていないのであれば、後に残され(レフトビハインド)なければならないことは必然であろうと思われます。

 

 

 


#2 携挙 The Rapture is NOT in the Bible, NO.2

2024年02月20日 | 携挙

The Rapture is NOT in the Bible

4分46秒から8分48秒まで。

◇◇

ハル・リンゼイのベストセラー「the late great eplanet earth」は、レフトビハインドシリーズの前に出版され、携挙を大々的に世に広めた本だが、マタイ24章やルカ17章については言及していない。

主なディスペンセーション主義者たちは次のように言っている。

ディスペンセーション主義は、携挙を一義的に提唱する神学的体系であると説明するが、マタイ24章は携挙に関する記事ではないとしている。

さて、黙示録が携挙に言及していない、またイエスもそのことに触れてはいないとすれば、その学説は聖書のどこに由来するのだろうか。

携挙教理が土台としている聖書箇所を探ってみようではないか。

次の箇所が最も重要な個所。

聖書全体の中で、携挙に関して書いてあると思われる箇所はこの箇所のみ。

テサロニケ第一の手紙4章。

パウロのことばによると、まだ生きている私たち、主が来られるまで残されている私たちは、すでに眠りについた人たちに先んずることはありません。というのは、大きな命令とともに、大天使の声とともに、、神のラッパの召しとともに、主ご自身が天から下りて来られる。キリストにあって死んだ者が最初によみがえる。その後に、まだ生きていて、残されている私たちが、彼らとともに雲の中に引き上げられ、空中において主と会う。そして、私たちは永遠に主とともにいる。

このことを具体化してみよう。

先に死んだ兄弟姉妹について大変心配して、テサロニケの人々はパウロに手紙を書いた。

イエスが再臨(second coming)した時に、彼ら先に眠りについた人たちには何が起きるのだろうか。

彼らは、牧会者としてのパウロの見解を知りたかった。

15節で、パウロは主の来臨について語っている。

この箇所でパウロが使っているギリシャ語は、パルーシア(parousia、παρουσία)で、古代において、parousiaとは、王や身分の高い人による正式な訪問に関係したことば。

さあ、どういうことか。

王家の人たちが街に近づいてきた時、メッセンジャーがラッパを吹き鳴らし、市民たちが門の外や道に溢れ出て、大声をあげて王族たちの到着を歓迎する。

市民たちは王たちに連れ添い、門を通り、街へと入城する。

ところで、最も名誉ある市民、すなわちVIPは王家の人々に最初に挨拶した。

これは当時大変良く見られたことであり、ふつうに行われていた。

事実、聖書の中、福音書の中で、このことを確認することができる。

イエスがエルサレムへ入城しようとしているのを見ていたエルサレムの人々は、シュロの枝を通りに並べ、城門の外で彼を迎えた。

人々は大声を上げ、祝った。

そして、イエスとともにエルサレムへと入城した。

これを記念して、今日私たちはこの行事のことをシュロの主日(エルサレム入城の日)と呼んでいる。

これがパルーシア(parousia)で、パウロが第1テサロニケ4章において言及していること。

但し、大きな違いがひとつある。

パウロが言っているのは、王であるイエスは町を支配するために、道を通りやって来るのではない。

全地を手に入れるために、天からやって来ると言っているのだ。

真の王としてイエスが戻ってくる時、ラッパが鳴り響き、彼の民はこぞって、空中で主と会う。

しゃれたところがある。

キリストにあって死んだ者が最初に上げられ、主と会うとパウロは言う。

何故(死んだ者が最初)か。

何故なら、彼らはVIP(最も大事な人たち)、言い換えるなら、テサロニケで死んだ兄弟姉妹のことを心配しなくてよいということ。

イエスが彼らの面倒を見てくれる。

イエスが来臨する時、彼らは名誉ある地位を獲得する。

残っている私たちも空中で主と会う。

皆一緒に、私たちは地上へとイエスをエスコートする。

そして、主とともにこの地を統治する。

ここがポイント。

第1テサロニケ4章は、携挙について(書いているの)ではない。

違う。

この箇所では、地を統治するためにイエスが再臨することを告げている。

毎回このように代表団や高官らを出迎えることは、パウロの時代の観衆にとっては当たり前のことだった。

しかしながら、私たちはこのことを携挙の学説へと組み入れてしまった。

私たちがこのパル―シアという習慣を全く知らなかったからだ。

このことを支持する重要なことがさらにいくつかある。

 

 


#193 終末預言 ペテロの手紙第二3章は世界終末預言か NO.5

2024年02月19日 | 終末預言 

Derek Thomas: The End in Sight 

3分41秒から14分57秒まで。

◇◇

神は聖、みことばは無謬です。

この聖書の学びに、神のご加護がありますように。

さて、「終わりは間近にある」と表題を付け、今日のメッセージをしようと思います。

このことはクリスチャンの生き方を総括することになります。

この世の事々ではなく、預言者イザヤのことば「新しい天と新しい地」を投影するペテロのことばにあるように、終わりの日に到来するはずの事々に焦点を当てる生き方をしようではありませんか。

今日は詳細には触れませんが、ペテロはこの手紙をAD68年に書き上げました。

同年彼は殉教しました。

ほぼ同じ時期に、使徒パウロもローマで殉教しています。

従って、この手紙は、そのおよそ1年前、AD67年に世に出たものと思われます。

私たちは、イエスの死と復活の後の世代であります。

今も、新約聖書の手紙は神によって息づいています。

そして、神の人イエスキリストがあらゆる御業を完遂して下さった、その義によって、それらの手紙は教理や非難、修正、そして教えにとって大変有用です。

イエスの昇天と最初の新約聖書の手紙、そして福音書が世に出るまでの時期は、およそ50年代後半から60年代前半であり、教会にとって、大いなる争いや困難、そして誘惑の期間でした。

もちろん、その頃はまだ使徒たちが(生きて)いました。

また、偽使徒、偽教師で溢れている時でもありました。

「主イエスの再臨を信じるクリスチャンをさげすむ偽教師が現れる」と、ペテロは小アジアの教会に手紙を書き送っています。

生きている間にイエスが再臨すると信じていた多くのクリスチャンは、大変混乱しました。

彼らがイエスの来臨を信じていたというのはうなずけます。

イエスは来臨の時期を明確に言いませんでした。

それ故、当時のクリスチャンは、間もなく主は自分たちが生きている間に、25年か30年の間に、来られると期待し待ち焦がれていました。

しかし、主はなかなか来てくれない。

それで、主の日は来ないではないかと言う人たちが出てきました。

嘲り者や偽教師はこの問題に火を注ぎました。

マタイ24章、25章にあるオリーブ山でのイエスの説教を呼び起こします。

「気をつけていなさい。主の日がいつ来るか分からないのだから。しかし、このことは覚えておくように。泥棒が夜の何時に来るのか家の主人が知っていれば、彼は見張りを続け、家の中に入られることはなかっただろう。同様に、あなたがたも準備をしていなさい。何故なら、人の子はあなたがたが期待していない時にやって来る。」

イエスは、恐らく再臨を待ち望み疲れて、怠惰になっているクリスチャンに語りかけています。

彼らは家の玄関や窓を開け放ち、泥棒が侵入する機会を与えている。

「油断してはならない。あなたがたは私が戻る日を知らない。」

ヨハネや使徒パウロも、マタイ24章のオリーブ山の説教にある内容に言及しています。

ペテロやヨハネ、パウロは、この事を話す機会が何度かありました。

来臨の日、世の終わりの時には万物が変わります。

それは主イエスの再臨の時、すなわち裁きの日であります。

義が宿る新しい天と新しい地が訪れる時であります。

しかしながら、遅延があり、遅れている。

何故遅れているのか。

この遅延はどれくらい続くのか。

ペテロはAD68年に殉教しました。

つまり、少なくとも35年の遅れです。

ある人たちは、主の再臨や同時に起きる大火を疑い始めました。

またある人たちは、主イエスが言ったことは霊的な意味だったと考え始めました。

イエスは、家の扉を開け広げているという不信仰な心、無知、浅はかさについて言及しています。

私が若い頃は、1週間玄関を開けたままでも安全でした。

鍵をかけずに車を田舎の村に駐車しても何も起きませんでした。

しかし、今はそんな時代ではありません。

さて、始めに、ひとつ質問があります。

午後のセッションは難解です。

午後の礼拝のメッセージについて、スポルジョンは次のように呼びました。

「ローストビーフと不信仰タイム」(笑)

お腹がふくれると、睡魔に襲われます。

そこで、お願いがあります。

この場からあなたがたは見えないので良いのですが、頭がこっくりこっくりしているのは分かります。

目を閉じているかどうかは分かりません。

ここから、話の本筋に入ります。

次の箇所は神学的に異論のある箇所であり、特にリゴニエミニストリーにとってはそうです。

ペテロがこのテキストを書いていた時、恐らく彼の頭の中にリゴニエのことがあったのだと思います。(笑)

ここには、神の予定論に関する記載があります。

実に不思議に思えるような神の願いが書かれています。

注意深く解釈する必要があります。

今この午後の時間、最初に考えたいことは、神のタイミングということ。

神が遅れるということは絶対にありません。

ガンドルフ氏がそんなこと言ってませんでしたか。

神は決して遅れない。

私たちには、神が遅れているように思えることがあります。

何年も何年も何年も祈る続けることがあります。

放蕩している息子さんや娘さんが改心するように、病気が癒されるように。

数か月、数年、数十年と時が過ぎていきます。

そして、「神は遅い」と自問します。

「何かが神の邪魔をしているにちがいない。」

「神はのんびりしている。」

この35年もの歳月といい、イエスが昇天してからいまだ来ていないこれまでの間といい、この長い年月のギャップは一体何なのだろうか。

言うまでもなく、今に生きる私たちにとってはなおさらのこと、すでに2000年が過ぎ去りました。

ペテロは、これは神の忍耐である、と言います。

神の忍耐。

誰ひとりも滅びることがなく、すべて(all)の人が悔い改めるようにと神は願っている。

すべて(all)の意味とは何か。

「神は何処にいるのか」と問うことがあります。

これは、ヨブ記の中心にあるテーマです。

ヨブは苦悩の中にいた。

彼は自分の苦悩を無実の苦悩と表現しました。

彼は不正な被害者だった。

どこに神はいるのか。

何故神は祈りに応えてくれないのか。

何故神は沈黙するのか。

何故神は何もしようとはしないのか。

今のこの社会において、フォックスニュースを10分間聞いただけで、頭がおかしくなります。

日々限界です。

「何故神は何もなさらないのか。」

新聞の見出しを見るにつけ、そう思いませんか。

「何処に神はいるのか。」

「何故神は天を引き裂き、下りて来ないのか。」

「何故悪人が栄えるのか」と、常々疑問に思っている。

詩篇78篇におけるダビデの疑問と同じ。

私たちと同様、ダビデにとっても複雑な疑問。

「何故悪人が栄えるのか。」

カリフォルニアやフロリダでは(悪が栄えていますか)どうですか。

もちろん、その答えは、「私たちは神の御心を知ることはできない。」