みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

The Divine Way of Deliverance, #3

2015年02月27日 | 聖書研究・信仰
死ぬ方法とは。

ある者は必死でこの罪深き命を捨て去ろうとしたができなかった。

そんなことは無意味であることは誰でも知っている。

では、どうやって死ぬのか。

もちろん、自害するのではない。

神の采配によって我々はキリストにあって死んだ。

このことを信じる(受け入れる)こと。

これが脱出への道だ。

ローマ6:3
あなたがたは知らないのか
キリストイエスの中にバプテスマ(浸された)された我々は皆
彼の死の中にバプテスマ(浸された)されたということを



The Divine Way of Deliverance, #2

2015年02月26日 | 聖書研究・信仰
我々は罪ある者として生まれた。

我々の罪という形質を切り落とすことはできない。

我々はアダムにあって生まれた。

我々はアダムから出ていくことはできない。

キリストの血潮は我々をアダムから切り離すことはできない。

我々は生まれることによりアダムの中に入ったのだから、死んでそこから出ていく必要がある。

罪の形質を捨て去るために、いのちを捨てる必要がある。

罪との束縛は生まれることによって入ってきた。

だから、罪からの解放は死ぬことによって成る。

神によって与えられたのはこの脱出方法だ。

死が脱出の足掛かり。

我々は罪に死んだとある通りだ。



The Divine Way of Deliverance, #1

2015年02月26日 | 聖書研究・信仰
先に示したように、神は我々が罪から解き放たれるように道を整えておられる。

ローマ書6章において、パウロはこのことを明らかにする。

ローマ6:1
恵みが増し加わるように
我々は罪(Sin)に留まるのか
と誰か言うだろうか

我々が罪に留まることを神がお赦しになるはずがないとパウロは断言する。

聖なる神が不潔で罪に塗れた子供で良いと思うだろうか。

ローマ6:2
決してならないように。
罪に死んだ我々が、如何にして罪の中で生きるのだろうか。

言うまでもなく、神は真っ直ぐな道を用意しておられた。

我々が罪の支配から解き放たれるために。

As In Adam So In Christ、#5

2015年02月21日 | 聖書研究・信仰
アダムにあって、我々はすべてを失い、皆罪人となった。

罪が入り、それを通して死が入った。

しかし、ここに、一筋の光が放たれた。

主イエスキリストによって、我々は義人となった。

罪ある処に、それよりはるかに多くの恵みが満ち溢れた。

罪が死を以て我々を支配したように

我らの主イエスによる(永遠の命へと至る)義を以て恵みが我々を支配する。

我々の絶望はアダムの中で死に、我々の希望はキリストの中で生きる。

As In Adam So In Christ、#3&4

2015年02月15日 | 聖書研究・信仰
信仰の家族の長として、アブラハムの名を挙げれば、その名の中に家族のメンバー全員が含まれてくる。すると、アブラハムがメルキゼデクに献げものをした時に、アブラハムにあって、家族の全メンバーがメルキゼデクに献げものをしたことになる。先に考察したように、この家族にはのちの子孫もすべて含まれている。これが「アブラハムにあって」という意味だ。アブラハムの経験が、そのまま彼の子孫の経験となることなのだ。

では「キリストにあって」の意味とは何か。

キリストが乙女マリアより生まれた時、我々も彼とともにマリアより生まれた。

キリストがサタンの試みにあった時、我々も彼とともに試みにあった。

キリストが山上の垂訓を語った時、我々も彼とともに語った。

キリストが湖の上を歩いていた時、我々も彼とともに湖の上を歩いた。

キリストが5000人の空腹を満たした時、我々も彼とともに彼らを満腹させた。

キリストが放蕩息子の例えを話していた時、我々も彼とともにその例えを話していた。

キリストがゲッセマネで懸命に祈っていた時、我々も彼とともに懸命に祈っていた。

キリストが十字架に付けられた時、我々も彼とともに十字架に付けられた。

キリストが復活した時、我々も彼とともに復活を果たした。

キリストが昇天し神の右に坐した時、我々も彼とともに神の右に坐した。

キリストの経験が我々にも受け継がれているということ、これが「キリストにあって」の正確な意味だ。



As In Adam So In Christ、#2&3

2015年02月11日 | 聖書研究・信仰
「アダムにあって」「キリストにあって」とはどういう意味か。

「キリストにあって」ということばの遺伝的・民族的意義について論じてみたい。

これに関する記事はヘブル人への手紙に見い出される。

メルキゼデクはレビより偉大か?

キリストによる祭司制はレビ系出身者であるアロンによる祭司制より偉大だ。

理由は単純。

キリストによる祭司制がメルキゼデクの後継だからだ。

一方、アロンはレビ族出身。

パウロは、以上を踏まえた上で、メルキゼデクがレビより偉大であることを見事に証明する。

ある日、アブラハムは、王たちの戦いから帰還した際、戦利品の十分の一をメルキゼデクに献げ、彼はアブラハムを祝福した。アブラハムがそうしたのは、レビ族よりもメルキゼデクをより重要な祭司と考えていたからだ。すると、どうだ、イサクの子ヤコブも、アブラハムにあって、メルキゼデクに戦利品の十分の一を献げたことになるではないか。巡り巡って、レビ族もメルキデゼクに十分の一を献げたことになる。下位の者が上位の者に献げるのは当然である。従って、レビ族はメルキゼデクよりも下位であることが分かる。つまり、アロンによる祭司制は主イエスによる祭司制に劣ることになるのだ。何故なら、キリストによる祭司制はユダ族であるメルキゼデクの後継に当たるからだ。

ヘブル7:19
律法は何一つ完成させることはなかった
しかし、ここにより大きい望みの導きが(ある)
それを通して、我々は神に近づく






As In Adam So In Christ、#1

2015年02月09日 | 聖書研究・信仰

ローマ5:12
こういうわけで
一人の人を通して、その罪がこの世界の中に入った
その罪を通して、死が
このようにして
すべての人の中に、死が通り過ぎた

同5:13
律法の前にも、罪は世の中にあった
罪は勘定されない
律法がないので

同5:14
死が支配した
アダムからモーゼまで
一度も罪を犯したことがない者たちの上に
アダムの違反と似たものの上に
(アダムは)来たるべきお方の型である

同5:15
その罪のようにではなく、次のその恵みのように
一人の罪によって多くの者が死んだとしたら
神の恵みはなんと大きいことか
一人の人イエスキリストの恵みの中にある賜物は
さらに多くの者の中へと満ち溢れた

同5:16
罪を犯したひとりを通してのようではない
その賜物は
ひとりから出たその結果は有罪宣告へと至る
多くの罪々から出た(その結果は)
義の中へと至る

同5:17
一人の罪過によって
死が支配するなら、そのひとりを通して
はるかに多く
恵みと義の賜物の豊かさを
持っている人々は
永遠の命の中で
一人のイエスキリストを通して
支配するであろう

同5:18
今や、一人の罪過を通して
すべての人の中へ有罪の宣告へと至る
同じように、一人の義を通して
すべの人の中へ永遠の命の義へと至る

同5:19
一人の不従順を通して
多くの者たちが罪人の性質となった
同じように
一人の従順を通して
多くの者たちが義人の性質とされるであろう

同5:20
律法が入った
罪過が増すように
罪が増し加わったところに
恵みが満ち溢れた

同5:21
罪が支配したように
死の中で
同じように
恵みが支配するであろう
義を通して
永遠の命の中へと至る
我らの主イエスキリストを通して
(時制に誤まりがあったので修正)

アダムだけでなく、主イエスに関することについても書かれている。

一人の不従順によって、多くの者が罪人とされたように
一人の従順によって、多くの者が義人とされるであろう

我々は

アダム(の中)にあって、アダムから出たものをすべて受け継いだように
キリスト(の中)にあって、キリストから出たものをすべて受け継ぐであろう


Man’s State By Nature, #5&7

2015年02月08日 | 聖書研究・信仰
(パラグラフ4&6は省略)

我々が罪人なのは、我々自身に問題があるのではなく、アダムゆえにだ。

私が罪人である理由は、私が罪を犯したためではない。

アダムが罪を犯した時、私はアダムの中にいたのだ。

つまり、私はアダムの一部なのだ。

いくら努力しても、その事実を変えることはできない。

だから、我々は生来罪人なのだ。

人の命はさかのぼれば一人の人間に由来することは自明だ。

だから、我々の命がアダムに由来することも当然だろう。。

仮に私の祖父が3才で死んだなら、私という人間は存在することはできない。

祖父が3才で死んだとき、私も祖父の中で死んでしまったのだ。

つまり、私の経験と祖父の経験はしっかりと結びついているのだ。

同様に、すべての人の経験はアダムの経験と密接に結びついている。

アダムがへびのことばに屈した時、我々も皆そこにいたのだ。

それ故、我々は皆、アダムの罪の結果を受け継ぎながらこの世に生まれてくるのだ。

アダムの罪ゆえに、生まれながらに罪人なのだ。

問題は我々の行ないではなく、我々の遺伝形質にある。

この「アダムの罪」なる遺伝形質を変えなければ、解放は成し遂げられない。

神はどのようにしてこの問題を解決するのだろうか。


Man’s State By Nature, #3-2

2015年02月05日 | 聖書研究・信仰
ローマ5:19の意味が次第に分かってきた。

我々は生来の罪人だということ。

我々は、神が創ろうとした被造体とは性質が全く異なるものとなってしまった。

堕落によって、アダムの性質に根本的変化が起きた。

その結果、性質的に神を喜ばせることが不能な罪人となった。

我々は表面上だけでなく内面の奥底においてもアダムの系列に属している。

何故そんなことになってしまったか。

ひとりの不従順によって。

Man’s State By Nature, #3-1

2015年02月01日 | 聖書研究・信仰
ローマ書5:19
一人の不従順を通して
多くの者たちが罪人の性質となった
同じように
一人の従順を通して
多くの者たちが義人の性質とされるであろう

さて、この聖句で、「不従順」「従順」と訳された単語の原語を調べてみると、面白いことが見えてくる。

不従順と訳された単語は、παρακοήで

παρακοή:
From G3878; inattention, that is, (by implication) disobedience: - disobedience.

παρακοήをさらに調べてみると、その動詞形があり

παρακούω:
From G3844 and G191; to mishear, that is, (by implication) to disobey: - neglect to hear.

つまり、この不従順と訳された単語παρακοήは

前置詞παραと動詞ακούωから成る前置詞動詞であることが分かる。

前置詞παραは、「傍らで」「側で」という意味で、動詞ακούωは、「聞く」という意味。面白いことに、この前置詞動詞の意味は「聞き間違える」だ。

一方、従順と訳された単語はυπακοήで

υπακοή:
From G5219; attentive hearkening, that is, (by implication) compliance or submission: - obedience, (make) obedient, obey (-ing).

不従順と同じく、この単語の動詞形は、前置詞υποと動詞ακούωから成る前置詞動詞。前置詞υποは「~の下に」、動詞ακούωはもちろん「聞く」という意味。
転じて、υπακοήとは、attentive hearkening、「耳を傾ける」という意味。


ローマ書5:19
一人の聞き間違いによって
多くの者たちが罪人の性質となった
同じように
一人の傾聴によって
多くの者たちが義人の性質とされるであろう

不従順とか従順とか言われると何か恭しく聞こえてしまうが。