みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#8 生活指針 Why Christians Submit to the Government, NO.2

2024年03月29日 | 創世記

Why Christians Submit to the Government wirh John MacArthur

途中、異論のある箇所があるがコメントは差し控える。

7分7秒から11分59秒まで。

◇◇

王家の子孫が継承するにせよ、貴族の家系の関係にせよ、財閥の物質的資産にせよ、あるいは軍事力にせよ、民主的選挙にせよ、支配者が権力の座に付く場合、神の御心を度外視した統治権力は存在しません。

神に由来しない権威は存在しない。

神は、今ある権威に対して権威をお授けになります。

冷酷な場合はどうか。

不正な場合はどうか。

最初に、政府における暴力の乱用は、神のご性質を反映してはいません。

結婚における暴力乱用や教会における脱会が神の純粋を汚すのと同じです。

離婚は結婚をずたずたにし、背教は教会を引き裂く。

政府における暴力の乱用は、政府がなしうる善を破壊する。

しかし、乱用によって、その施設が神によって任命されているという真実が消滅することはありません。

人間は神の賜物をすべて悪用します。

邪悪な支配者は、面白いことに、神の目的を成就させるための神のご計画の部分です。

邪悪な支配者は、邪悪な国民を罰するための神のご計画の部分であり、悪を破滅へと追いやるための神のご計画の部分です。

初めに、神は、命や資産の保護、悪と犯罪の抑止、徳や善の奨励など、人間を守り保護するために政府を定めました。

それが神の定めたご計画でした。

権力は、神によって定められました。

権力は、支配者の意向、多数派の意志、あるいは一人の人間の意志によって定められたものではありません。

権力は神によって定められた。

興味深い別の見方が黙示録13章にあります。

何故、神は邪悪な政府を定めるのだろうか。

これは来たるべき艱難の描写です。

竜、サタンが海岸の砂の上に立つ。

これは世界におけるサタンの影響を表しています。

10本の角と7つの頭を持つ獣が海から上がって来る。その者の角には10の王権があり、その者の頭には神を汚す名前があった。

これは反キリストの描写であります。

この獣は豹のようであり、熊のようであり、ライオンのようであった。竜はこの獣に権力と自分の王座と大きな権威を与えた。その獣の頭のひとつが殺されたかのように私には見えた。しかし、その致命傷は癒され、全地は驚愕し、その獣に従った。

その獣とは反キリスト。

彼らはその竜を拝んだ。なぜならその獣に権威を与えたからだ。

彼らはその獣を拝んだ。「誰がこの獣のようであろうか。誰が彼と戦争することができようか」と言いながら。

将来の艱難の時に、世界は反キリストとその背後にいるサタンを崇拝するであろう。

そして、5節、「この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。」

誰によって権威を与えられたのでしょうか。

神によって、であります。

「 そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。」

これを聞いて、何か不思議だと思いませんか。

何故、神はサタンにそのようなことをする権威を与えたのでしょうか。

何故、神は反キリストにそのようなことをする権威を与えたのでしょうか。

世界に大混乱と恐怖と悪を与えるようなことを。

何故なら、それは神の目的に適っているからです。

それは、神の裁きの部分だった、そして神の裁きの部分となるであろう。

 

 


#7 生活指針 Why Christians Submit to the Government, NO.1

2024年03月27日 | 生活指針

続いて、John MacArthur師の見解を聴く。師はプレミレを信じている。

Why Christians Submit to the Government wirh John MacArthur


最初から7分7秒まで。

◇◇

ローマ書13章が、クリスチャンと政府というタイトルで本日見ていくテキストです。

やや遅れて、税金に関してお話をします。

第1節から始めて、この本当に重要なテキスト全体を学んでいこうと思います。

ローマ書13章。

1節による始めのことばについては、前回考察しました。

この節だけで、すっかりと時間を要してしまいました。

万人は統治権威に服さなければならない。

これは、いわれのない陳述です。

統治権威とは誰なのか定かではないし、服従とはどういう意味かも定かではありません。

それ故、それが如何なる権威であろうとそれに対して服従しなければならないという穏やかではない命令を受けているのです。

これは使徒パウロとペテロから発せられました。

彼らは類似した指導を私たちに与えています。

第1ペテロ2:12~15
異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、 また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。 というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。 

つまり、使徒パウロも使徒ペテロも、私たちの責務は統治権威に従うべきであることを明確に示しています。

前回このことを検証しました。

パウロは第1節から開始して、何故私たちがこのことをすべきなのか7つの理由を掲げています。

理解し易いように部分部分に分けて、それらを分解する方法を取りました。

この箇所は注目すべき聖句です。

主が「これをしなさい」というのなら、説明なしでも十分です。

しかし、パウロは説明をしながら、政府に関して、神が与えたもうた責任を明らかにします。

歴史的に見ても、政府は、私たちの社会のみならず私たちを取り巻く世界に対しても、過剰と思えるほどの権限を持っています。

神によって遂行するように定められている政府の事々があります。

そして、私たちには政府の権力に従う義務があります。

第1に、政府は敬虔なる法令によっているとパウロは言います。

政府は敬虔なる法令による、とは。

第1節に戻ります。

「神に由来しない権威はない。」

「存在する権威は、権威(複数形)、何処の権威だろうと、どのような権威であれ、神によって確立されている。」

「世の権威、政府の権威は、直接神から来る。」

神によって設置された施設が社会にはもう2つあります。

ひとつは結婚によるもの、もうひとつは教会、

神は社会的単位、社会的構成要素を定めました。

人間の幸福のために。

政府、教会、そして結婚。

健全な結婚は悪を食い止める。

健全な教会は悪を食い止める。

健全な政府も同様です。

神に由来しない権威は存在しません。

神から離れて存在する世の政府はありません。

詩篇62篇11節、「力は神のもの。」

政府を確立する力は神に属しています。

使徒17章、「国民の時代は神によって決定される。神は国民の始めと終わりを決定する。」

ダニエル4章17節、「いと高き方が人間の領域を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最もへりくだった者をその上に立てる。」

政府とその中で権力を行使する人間は、神によって選ばれている。

政府の権力と政府の権威の賜物は、神の賜物である。

神の許可なしに、権力を握ったた暴君はいないと結論することができます。

施設としての政府は神によって定められたのであり、神のご計画とは別に運営される政府は存在しない。

神の目的に反して運営される証印のない政府は存在しない。

政府理論が何であれ、政府形態がどうであれ、神の目的とは無関係の政府は存在しない。

ひとつ付け加えておきます。

政府理論について聖書は何も語っていません。

数世紀にわたりヨーロッパを支配した君主政治を聖書は支持していない。

民主政治も聖書は支持していない。

民主的社会構造なるものを聖書に見出すことはできません。

共和国制やあらゆる形態の君主政も聖書には書いていません。

 

 


#3 再臨 How will we know when Jesus is coming back? NO.3

2024年03月23日 | 再臨

How will we know when Jesus is coming back? | N.T. Wright at UT Austin

6分33秒から最後まで。

◇◇

イエスは数多くの例え話をされました。

その中のひとつがマタイ伝、ルカ伝に記されています。

ある人が旅に出かけた。しもべたちにお金を渡し、商売をするように命じた。旅から戻った時、僕たちがどのように過ごしていたかを確かめた。

多くのクリスチャンはこの話を読んで、これはキリスト教史終焉における主の再臨のことだと考えています。

キリスト教史終焉とは、主の再臨までの間に、イエスが望んでいたことを教会が行なったかどうかに関して教会が裁かれることを言います。

ルカ伝19章に書かれているたとえが大変分かりやすい。

この話しは、これから起こることではありません。

ここには、多くの現代のクリスチャンが以前は理解できなかったことが書かれています。

イエスの時代のユダヤ人は、大いなる希望に満ちて生きていました。

希望の中心にあったのは、紀元前450年頃のバビロン捕囚の時代にユダヤ人を見捨て、その後ご自身の栄光を帯びて、ついには神殿に戻り、そこに住まわれる神でした。

第2神殿時代には全く見られなかった光景です。

イエスが語っているのは、神はご自身の民を放任するも、その後に戻ってくるというストーリーです。

イエスがこの話をした理由は、彼ご自身がエルサレムに戻ることにより、イスラエルの神がシオンへと戻ることを具体的に表現するためです。

これは、多くの人が福音書を読む時に思う壮大なテーマであり、パウロでさえ想像もできなかったテーマであります。

これは、当時のユダヤ人の著作物においてあまりにもおぼろげなものでした。

なんとか私たちはそれを分析しなければなりません。

再臨は重要ですが、一世代内で起こるであろうこととは、エルサレムの陥落でした。

2世紀において、3世紀において、再臨は起きませんでした。

そこで、人々は再臨は起きないではないかと言いながら、一方で、いやいやいつかは必ず起きるかもしれないと言ったりもしました。

しかし、この世代には起きませんでした。

このことについて、もう一言言わせてください。

限界点を超えるほどのとてつもなく大きなことです。

20世紀の中頃、ドイツの学界において、このことは興味深い重要課題となりました。

その理由のひとつが、多くのドイツ哲学者やヴァルター・ベンヤミンのような文化評論家が現れたことによります。

ヴァルター・ベンヤミンの業績は、ご存じだと思いますが、20世紀中盤、20世紀前半に、マルクス主義の希望の下で生きたことであります。

当時は歴史の転換期でした。

この変化が偽の希望であることが判明し、ヴャチェスラフ・モロトフが戦争の開始に向けてのヒットラー型の衝撃を露わにした時、人々はパニックに陥り、歴史上起こり得るすべてのことに対して、もはや望みは断たれたと言いました。

現在が完全に新しい事象であり、新しいメシアの時代です。

私たちが必要なのはまさにこれです。

過去にそれは起きませんでした。

20世紀中盤におけるヨーロッパ文化に生きる多くの人たちは、望みのないことに気づいて震え上がりました。

興味あることに、まさにその当時、ヨーロッパの多くの神学者は、初期の教会において希望が絶たれたことについて多くの書物に残しました。

私には、いまだに解決されてはいないが進行中の計画があるように思われてなりません。

 

 


#2 再臨 How will we know when Jesus is coming back? NO.2

2024年03月22日 | 再臨

How will we know when Jesus is coming back? | N.T. Wright at UT Austin

3分21秒から6分33秒まで。

◇◇

その個所は、弟子たちの「あなたが来られるのは何時ですか」というせりふから始まってはいない。

その個所は、イエスのことば「これらすべては崩れ落ちるであろう」で始まる。

そして、弟子たちのことば「それは何時のことですか」が続く。

これは実に難しい。

(ジョーク)

この箇所で出来事を記載するために使われていることばは、いわゆる終末を預言することばです。

つまり、太陽は暗くなり、月は血に変わり、星々は天から落ちる、というように。

何世代にもわたり、クリスチャンは、イエスは時空間宇宙の終わりを預言していると考えてきました。

しかしながら、旧約聖書に書かれていることばをたどってみると、太陽と罪と星々はイザヤ書13章に由来します。

ここは時空間宇宙の崩壊について書かれているのではありません。

当時の最も大きな帝国であったバビロンの陥落について書かれているのです。

水平線を支配していた巨大な帝国が、突然崩壊・陥落した時、一体どのようなことばを用いればよいのか。

それを知らせるための詩的表現はあるだろうか。

エルサレムの場合はどうか。

もしもあなたが、神が最後にやって来て、永遠に住むと約束された町エルサレムであると信じるユダヤ人であるとしたら

そして、その町が崩壊・陥落し、神殿が燃え尽きるとしたら

太陽、月、そして星々について語るのではないだろうか。

オリーブ山の説教において、地滑り、地震についても語られています。

これらはみな比ゆ表現であることは皆さんご存知です。

当時の人々もこれは比ゆ表現であることを知っていました。

私の同僚であるオクスフォード大学のジョン・バートンは、かつて講義で、「古代ユダヤのテキストに、太陽は暗くなり、月は血に変わり、星々は天から落ちる」と書かれていれば、それは文学的ジャンルの問題であるということを知っておくべきである」と述べています。

その次は何も起きないということを知るべきです。

(ジョーク:雨が降り、時より太陽が出るかもしれません)

これは太古の天気予報ではありません。

預言者エレミアは、エルサレムは陥落するだろうと預言しました。

それは、全創造は形もなく何もない混沌とした太古の状態に戻るようなものだと預言しました。

長い間、偽預言者ではないかと疑われながら、エレミアは生きていました。

何故なら、エルサレムは長いこと陥落していなかったからです。

しかし、エルサレムが陥落した時、誰もエレミアを偽預言者と非難しなかった。

地がそのことばが意味していた混沌へと戻ることはなかったからです。

(*宇宙の崩壊はなかったということ)

そこで、私たちはよくよく注意するべきだと思います。

多くの預言は、宇宙の崩壊に関するものではありません。

事実、彼らが宇宙の崩壊と言っているのは、エルサレムの陥落のことであります。

 

 

 


#1 再臨 How will we know when Jesus is coming back? NO.1

2024年03月21日 | 再臨

流れに任せて聖研を進めているが、人類史の終焉、主の再臨、新天新地、新エルサレム、などeschatologyに関する学びへと自然に移りつつある。

救いの達成、すなわち聖化の過程の歩みの延長線上に終末論はあるのであって、それだけを取り出して議論してもあまり有用とは言えない。

流れに逆らわずに、これまでの学びを継続しながら、終末論に関しても理解を深めていきたいと思う。

現在読み進めたいと思っている本は

The days of vengeance
David Chilton 


これまた圧巻だが面白そう。

すでに、シリーズ「携挙」の中で触れたが、パル―シア(凱旋)というギリシャ語原語の意味から、携挙という教理は空想話、偽教理の可能性が高い(と思われる)。

このことを踏まえて、あらたに「再臨」というテーマを設けることにした。

最初のメッセージはこれ。

How will we know when Jesus is coming back? | N.T. Wright at UT Austin

初めから3分21秒まで。

◇◇

福音書の中で、最も不思議な特徴のひとつは、主の再臨ではないかと思います。

ダマスカスの途上で、イエスはパウロに現れましたが、このようなことが次にいつ起こるのかについて考えてみたいと思います。

あるいはまた、初代教会において、ある意味で、これは起きていたのではないかと思います。

さて、2000年の時が過ぎて、私たちはいまだにそうではないと思いますが、これらの聖句をどのように解釈しますか。

まさに最後に、イエスがそのようなことを語っています。

イエスが弟子たちのところに現れた時のことは使徒伝に記されています。

天使は、「主は、あなたがたが去っていくところを目撃したのと同じように、再び戻ってくるであろう」と告げました。

ここに大きな問題があります。

他の地域よりも、アメリカにおいて大きくて不気味な問題です。

新約聖書において、携挙という考え方を有するアメリカのディスペンセーション主義は、イエスの再臨という考え方を、反対の方向へと変えてしまいました。

再臨というのは、イエスが戻って来て、ある人たちをすくい上げて、ご自身とともに彼らを天へと連れ去るということではありません。

違います。

新約聖書のイエスの再臨の記事において、イエスは(地上に)戻って来て、支配し、世界を造り変えて、新たなものにします。

すなわち、これが新約聖書全体の一部であり、新天新地の内容であります。

イエスの来臨についてではなくて、イエスの現われについて書いてある聖句があります。

コロサイ3章、第1ヨハネ3章です。

コロサイ3:4
私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。 

第1ヨハネ3:2
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

来臨ではなく、現われるというのはどういう意味でしょうか。

暗黙の宇宙論があるために、問題が起きるのです。

私たちには暗黙の宇宙論があり、空の何処か遥か彼方に天があると思っています。

空の何処か遠くに天があると考えています。

そして、その遥か下方に地球があると考えています。

そこで、主は、長い旅行を経て、何処からか宇宙人のようにやって来ると考えています。

多くの人たちから手紙をもらいましたが、彼らは全く文字通りに理解していて、天とはこの宇宙の中の空間であると考えています。

聖書は天ということばをそのように用いてはいません。

天ということばは複数の意味があり、この場合の天とは神の空間という意味であり、神の空間とは、私たちの空間である地球と最終的に合体する空間のことを言います。

その瞬間、まさに現実の只中において、巨大なカーテンが引き下げられるかのように、であります。

ある時点、ある場所において、神は遠くにはおられず、またイエスも遠くにはおられないのだが、今この時には見ることができない。

しかし、ある日、カーテンが後ろへと引かれ、まるで誰かがカーテンを引っぱっているかのように、それはやって来ます、そして現われます。

突然、すべてのことがカーテンの後ろで進行しているのが分かります。

そのカーテンが私たちの現実と合体するのです。

イエスがやって来るという考えと全く同じ映像として捉えることができます。

ここで解釈上難問があります。

福音書の記述から、長い時間経過の後にイエスが来臨すると予言する習慣がありますが、これは事実ではありません。

例えば、マルコ伝13章に書かれているのは、エルサレム陥落の預言です。

 

 


#6 生活指針 The Bible & Politics, NO.6

2024年03月20日 | 生活指針

Government: Christian Worldview with R.C. Sproul

20分8秒から最後まで。

◇◇

勝手にまとめます。

師の結論:
1.治安などの理由から、国家は無い(無政府状態)よりはまし。
2.国家も教会も共に神の支配下にある。
3.国家と教会は敵対関係にあるのではない。
4.国家は必要悪。
5.神のことばを否定する行為を強要された場合、それに従ってはならない。

◇◇


政府ということばの最も単純な定義をお話ししましょう。

社会的なものであれ、共同体的なものであれ、あるいは少数独裁的なものであれ、富裕層によるものであれ、民主的であれ、君主的であれ、何であれ存在する政府とは、すなわち権力であります。

政府(統治機構)とは権力である。

悪を抑制するための権力として、神の下に政府は存在する。

どんな目的のためにそれは存在するのか。

最低基準として、競争を生き残るためであり、保全・維持のためであり、また人間の生活と繁栄のために存在する。

神は、政府に権威を与え、権威を支えるための権力を与える。

それ故、政府は法を持つだけでなく、法を執行するための機関を有する。

数年前に、ある上院議員と話す機会がありました。

ランチを食べながら、私に次のようなことを言いました。

「市民に何かを強制してやらせるような権利を持つ政府なんて存在しないと思う。」

「それは気高い意見ですね、先生。あなたの言っていることは、統治する権利を有する政府は存在しないということですよ」と、私は返した。

「もしも政府に強制執行権がないとすれば、政府はどう対処すればよいのでしょうか。あなたの言っていることは、執行できない法を持っているという意味です。」

「武力は旧約聖書で確立されていますし、ローマ書13章にもくり返し書かれています。3節からお読みします。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。」 

つまり、パウロは、神が行政長官に武力を与えていると言っているのです。

神は教会に武力を付与してはいない。

ゲッセマネの園において、イエスはペテロと彼の仲間から剣を取り上げました。

教会は政治的強制力を持っていませんが、国家は持っています。

剣の機能や計画、目的は、善良な市民を守るため、悪人を抑止するためにあります。

善人を抑圧し、悪人を守るために、政府は剣を使ううことはあり得るでしょうか。

ありえます。

もちろん、そのような政府は堕落しており、悪魔的で、神の民の預言的批判に耳を貸すべきです。

政府が邪悪であるということは、それを確立し、定め、第1位に任命した神の上に影を落とすことになります。

オ-ガスティンの「私たちクリスチャンはどのような態度であるべきか」という本質を捉えた手短なコメントを紹介しましょう。

オーガスティンはこう述べています。

「政府とは必要悪である。すべての政府が悪ではないが、悪である必要があるという事実によって政府は悪なのだ。」

たとえ、政府が抑圧的で、搾取的、堕落しているとしても、最も悪い政府でも・・よりはましだ。

何よりまし、か。

無政府よりはまし。

絶対的自由を保証する無政府症候群は、力や堕落を振り回す不義なる人々にも絶対的自由を与えるため、善良な人や弱者に対する保護は期待できない。

完全なる無政府状態とは、望みのないジャングルの中にいるようなもの。

この世の政府の背後におられる神は、ご自身の目的と栄光のために、それらを利用しておられる。

原則として、悪の力を抑圧する道具として、世の政府を利用している。

その政府が如何に善(の言い間違いか)であろうとも、事態はさらに悪くなることもあるだろう。

神がすべての人間の抑圧を取り除くなら、生命は存続不可能。

それ故、神が政府を設けた時、可能な時は何時でも、私たちが義に服するように剣を与えたのです。

ひとつの最終地点。

クリスチャンが政府に奉仕するように召し出されているとすれば、どうでしょうか。

それは軍隊や州議事堂などを含みます。

もしも、神がするように命じている仕事を政府がしているとするならば、クリスチャンは参与してはいけないのかという疑問を持ちます。

とすれば、教会は神と関係を持ち、国家は神との関係を持たないという考え方を受け入れることはできません。

重要な点は、歴史的に、この国において、教会と国家はそれぞれ独立しているが、両者は神の下にあるという考え方を私たちは持っています。

教会には教会の役割があり、国家には国家として果たすべき役割があります。

神が要求する役割を国家が果たす時、神に従属する私たちもそれに抵抗してはいけないし、むしろ参加すべきだと思います。

現代において起こっていることは、教会と国家の独立という考え方が、多くの人たちにとって、国家と神の独立を意味するようになってしまっている、内在する権威に基いて、国家が自動的に支配しているかの如くになっていることです。

クリスチャンはそれを受け入れてはなりません。

私たちは、神に対して責任のある、神によって立てられたものとして、国家を見る必要があります。

神に仕える、神の民のための法的乗り物として、国家を捉えるべきです。

休暇中、政府の同胞として世に仕える機会があっても、キリストに敵対するのではない。

私たちクリスチャンと政府との関係とは、義を訴える証人として召し出されている競技場のようなものであり、またキリストご自身が証しされる場としての政府となるべきではないかと思います。

教会を国家の中へと組み入れるのではなく、クリスチャンを国家の中へと組み入れるのです。

何故なら、神は教会と国家の上におられるが、クリスチャンは教会と国家の中で生きています。

そして、クリスチャンは教会に対して一種の責務を負っている一方、権力を有する国家に対してもある種の責務を負っています。

 

 


#5 生活指針 The Bible & Politics, NO.5

2024年03月18日 | 生活指針

Government: Christian Worldview with R.C. Sproul

15分50秒からまで20分8秒まで。

◇◇

「私たちは税を納めるために召し出され、あなたを敬うために召し出されました。」

「私たちは、制限速度内で二輪戦車を運転していますが、それにも限界があります。」

「私たちはあなた様を礼拝できません。」

「市民的従順という日頃の行ないの話になれば、あなたの帝国にとって私たちは模範のような市民です。」

初期の教会は、新約聖書におけるそのようなクセを理解していました。

彼らは無政府活動や改革運動に身を捧げることはありませんでした。

剣の力によって邪悪な政府を転覆させようとする熱狂者を、イエスは叱りつけました。

それ故、クリスチャンは、世俗の権力に決して背いてはならないという結論に至ったのです。

しかしながら、そのような結論に至るのは聖書的なのでしょうか。

もちろん、そうではありません。

権威がペテロやヨハネに対して宣教を禁じた時、使徒伝にあるように、「私たちは人ではなく神に従うべきだ」と彼らは証言しています。

つまり、世俗権威があなたに命令したら、この低次元の権力があなたに神が禁じていることを命じたり、あるいは神が命じることを禁ずるならば、単にそれに背くだけでなくて、絶対に従ってはならない。

私たちクリスチャンは、常に人ではなく神に従順でなければなりません。

単にその政策が嫌であるという理由で、その政策が自分に都合の悪いものだからという理由で、それによって苦しめられるからという理由で、権力に背いてよい理由にはなりません。

何故なら、苦痛のない人生を歩むように神は命じてはいません。

世の行政長官が何かをするように命じた場合、例えば、キリストを否定するように命じた場合には、あなたはその長官の命令に従ってはなりません。

しかし、神に対する服従を中断するようなことがなければ、時と場所を選ばすに、謙遜の霊にあって従順であるべきだということが基本的姿勢であることを覚えておいてください。

この事に対するもうひとつの理由は、背後に神がおられるということだけでなく、第一に神が政府を定めているということです。

第一に神が政府を定めている。

地上の政府はどこから始まるのでしょうか。

聖書のどこに、そのことについて書いてあるでしょうか。

創造において立つ権威構造はあります。

しかし、創造において立つ権威構造の中に、政府は存在しません。

何故政府は存在しないのか。

エデンの園になかったものは何でしょうか。

悪はなかった。

罪もなかった。

その通り。

人間の政府が樹立されたのは、人間の堕落以降です。

人間ではなく、被造物ということばを使います・・。

アダムとエヴァがエデンの園を追い出されて、エデンの東で生きることを余儀なくされると、彼らはホームシックになったと思いますか。

彼らはエデンの園に戻りたかったと思いますか。

彼らが戻りたかったのなら、何が起こっていたのでしょうか。

彼らはエデンの園に入ることはできたのでしょうか。

聴衆:いいえ。

何故でしょう。

エデンの園の門を見張る天使がいたからです。

天使は何を持っていましたか。

炎の剣です。

何故炎の剣を持っていたのでしょうか。

その剣の目的は何ですか。

彼らが入れないようにするためです。

抑制の道具として、その剣を使うために。

或いは、力の道具として、必要なら、武力の道具として使うために。

 

 


#53 基礎教理 一度救われた人は絶対に滅びない

2024年03月17日 | 基礎教理

Q.

僕も教会にいきだして、「あれ、ウェーバーが言ってたことって実は違うんじゃない?」っていう思いがだんだん強くなりまして。

やはり彼もヒューマニズムの影響から逃れられなかったかもしれません。また予定説もカルヴァン主義者じゃない人から見ると理不尽で恐ろしいものにみえるのでしょうか。

それとウェーバーがカルヴァン主義の5特質の一つである聖徒の堅忍を知っていたなら救われるかどうかわからないなんていわなかったのかと思います。

少なくとも彼は実際に複数のカルヴァン主義者に会って話を聞いて自分の仮説が正しいかどうか検証すべきじゃなかったのではないかと。また、おっしゃるとおり証拠文献をもっとあげるべきだったと思います。

ウェーバーがいう救われるかどうかわからないから清い生活にいそしんで救いの確証をえるという説に当てはまるのはむしろメソジスト系の人たちじゃないかと思います。

彼らは聖徒の堅忍を否定しますし、信じたら聖霊の働きにより清い生活ができると考えているので。そうなると逆に清い生活をしないと信じているといえないし、救われてないぞ!ってならないかなと。僕はアルミニウス主義じゃなくカルヴァン主義だから彼らの思考を正確に理解することができませんが。

後、アメリカ人がおおざっぱでだらしないってイメージは僕も持っていました。だからちょっと意外です。そういえば以前スポルジョンの説教集を読んだときに彼が「よき業を聞きたいならアルミニウス主義の教会に、よき業をしたいならカルヴァン主義の教会に行きなさい。」

のようなことを言っていたのを思い出しました。

A.


(1)
聖徒の堅忍の教理(ひとたび救いに選ばれた人は絶対に滅びず、最後まで信仰を失わない)を知らないと、カルヴァン主義の予定説とは、何か恐ろしい運命説のように見えてきても当然です。

カルヴァン主義に対してノンクリスチャンが誤解するのは、聖霊を受けていないために、霊的な部分が理解できず、それゆえに誤解が生じているからでしょう。

「予定論」と聞くと、「神を勝手気ままな独裁者にしている!」と決め付けます。よく考えてみれば、「もし歴史に起こることすべてをあらかじめ決定されていなければ、神は被造物によって影響を受ける相対者になってしまう。」と分かるはずです。

神は絶対他者であり、他の一切の者から影響を受けず、すべてのことを絶えず完全に能動的に行うのですから、「誰が救われて、誰が滅びるかをあらかじめ決定しない」ということは あ・り・え・な・い。

それゆえ、予定説以外を主張するキリスト教は、実は、神を信じていないのです。たとえ信じていたとしても、その神とは、「人間を大きくしたもの」に過ぎません。予期せぬことに当惑し、驚き、嘆く、なんてのは、ギリシャ神話や日本の神話と同じ「作り物の神」です。

聖徒の堅忍の教理は、この神の絶対性から当然導き出されます。

神が歴史内のすべてをあらかじめ決定しておられるならば、当然のことながら、その人の最後の状態まで決定しているということになります。

ひとたび救いだした人を、神は最後まで徹底して面倒を見る。

「あ~!おまえ、こんな罪を犯したなあ!じゃあ、地獄!」というようなことを言われない。

パウロは、自分が堕落すればするほど、神の恵みはますます深くなり、その堕落した自分を救ってくださる、と述べている。だからといって、堕落してもよい、ということではないが、と。

「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」 (ローマ5・20-6・2)

ある意味において、一度救いに入った人が堕落して罪を犯してどうしようもなくなっても、神はそこでその人を切り離したり、見捨てたりすることはなく、そのどうしようもない深い穴の奥底にまで入ってきてくださり、救い出してくださる。

これが聖徒の堅忍です。

「じゃあ、クリスチャンでも堕落したり異端になって死んでしまう人がいるがどういうことか?」という疑問が起こるでしょう。

それは、最初から、「あまりよく考えもしないで」(1コリント15・2)信仰に入ったか、それとも、何か別の意図(たとえば、キリスト教が好きとか、教えに共感して、クリスチャンだと見栄えがする、学校の入学資格を満たせるなど)があって本当の回心をしていなかったから、ということでしょう。

ホンモノのクリスチャンかそうでないかを見分けることは不可能です。なぜならば、今彼(または彼女)が不熱心であっても、神は必ず救いに予定された人を成長させてくださり、罪から解放し、高い状態に導いてくださるからです。

堕落したり、異端の教えに嵌ったりしても、それだから、滅びる、絶対に救われない、と断言はできません。

救われている人は、最後にキリストのもとに必ず帰ってきます。放蕩息子の例えのように。

それゆえ、軽々しく人をクリスチャンかノンクリスチャンか決め付けないようにしたいものです。

但し、明らかに赦されない罪を犯して、それを頑固にも悔い改めていないことが明らかな人については、「誰がクリスチャンか決められないのだから、結論できない」ということはできません。教会は、あくまでも、その証明された行ないや教えによって、「現時点で」判断を下し、戒規を発動し、それらの人々を除名にする責任があります。

除名にされた後で、彼らが悔い改めて帰ってくれば、教会は彼らを喜んで迎えなければなりません。放蕩息子に走りよって迎えたあの父親のように。

選ばれている人は、必ず教会に帰ります。

なぜならば、「救いの主導権は、もっぱら神にのみ属するから」です。

私がユダヤ民族が回復すると信じているのは、この聖徒の堅忍の教理を信じているからです。

(2)
アルミニウス主義は、「救いは人間の選択にも依存している」と考える半ペラギウス主義ですから、人間の心持次第で、最終的に滅びることがありえると考えます。

ですから、アルミニウス主義者の牧師は、講壇から「あなたがたは自分が救われると思っているかもしれませんが、分かりませんよ。」と言います。

本当に回心をして、救われた人が、滅びることは絶対にない、という信仰がないために、アルミニウス主義者は、「人間的手段に固執します」。

たとえば、伝道大会などでは、「さくら」さえ使います。

「『キリストを信じた人は前に出てきてください』と決心を募るときに、誰か前に率先して講壇の前に出て行く人がいれば、躊躇している人の背中を押すことになるから、君、最初に出ていってくれ」と。

また、「招きの音楽には、信仰を促すような曲を」とか、そういった「人間的な」手段で、クリスチャンを「作ろう」とします。

私が以前所属していた教会は半分アルミニアンでした。フラー神学校卒業の牧師は「心理学的方法」を利用して、人を回心させようとしていました。

彼は、「皆さん。クリスチャンは模範にならねばなりません。どんなに面白くないことがあっても、教会を出て、その路地の角を曲がるときには、顔を整え『ニコッ』としてください。」と言いました。

このような方法で伝道し、それによって生まれたクリスチャンは、人造クリスチャンであり、やがて、教会にこなくなり、最後には信仰を捨ててしまいます。

回心は、あくまでも「超自然的」な現象です。聖霊によらずには、人間はキリストのもとに来ることはできません。

最初はチャランポランなクリスチャンでも、本当に「生まれ変わり」を体験しているならば、必ずキリストに真心から真摯に従うようになります。

しかし、人間的な方法でクリスチャンになった人は、その内側が本当の意味において神と和解していないので、最後にはキリストを捨てます。

私は、人間の内面を変えるのは、すべて聖霊の御業だと考えています。ですから、他人の内面についてとやかく言う責任も権利も自分にはないと考えています。

たとえば、あるチャランポランなクリスチャンがいても、訓戒は必要でしょうが、それによって彼を変えられるなどとは考えません。

もし、他人を変えることができると考えるならば、それは傲慢です。

神が必要な時に、その人を悔い改めに導いて、正しい道に導いてくださる、と信じます。

 

 

 


#4 生活指針 The Bible & Politics, NO.4

2024年03月16日 | 生活指針

Government: Christian Worldview with R.C. Sproul

11分54秒から15分50秒まで。

◇◇

すでに学んだオリーブ山の説教の最後に、イエスは警告します。

最後の日に、多くの人が私のところにやって来て、「主よ、主よ、あなたの御名によってこれをしたではないですか、あなたの御名によってあれをしたでないですか、などなど。

そこで、私は彼らに言う、私から離れていけ、不法をなす者ども。

あなたがた、不従順の子らよ。

私がやろうとしていることの意味がここにあります。

要点を言うと、人の最大の問題、私たちが生きている全創造をもだえ苦しめているものが不法の霊。

それは、罪の本質から生じます。

事実、万人が、権威すなわち神の権威に対して遵法的であり従順であるなら、この世には死もなく、殺人もなく、戦争もなく、人格に関連する犯罪もありません。

つまり、私たちがここで見ているものというのは、持ち越しのようなもの、神に従うことを拒むことから始まる人間の霊の流出であります。

他のすべての権威を拒否するという、基本的な、自然な、堕落した私たちの性質が流れ出たものがこの霊なのです。

権威に接した時、それに敬意を払うために、前後に腰をかがめるように、クリスチャンは召し出されています。

不法の霊にではなく、従順の霊のための証人となるのです。

迫害が勃発した時、初期キリスト教会にこのことが起きました。

初期の頃の教会の偉大な弁証者の行ないを考えてみましょう。

ジャスティン・マーター、彼は全生涯を信仰のために捧げました。

ジャスティン・マーターを知っている人は何人いますか。

最初に、彼がいわゆる「apologia(弁明書)」つまり返事、弁証論を書き上げました。

ジャスティンは、ローマ皇帝アントニヌス・ピウスに自身のエッセイを語りました。

そして、クリスチャンに科せられた告発に返答しました。

ネロでさえ、法的な根拠もなしにライオンの檻に人を送り込んだり、クリスチャンを人間たいまつにしませんでした。

クリスチャンが告発された理由は、彼らが無神論者だからというものでした。

何故クリスチャンが無神論者なのか。

彼らがローマ・パンテオンの神々を信じていなかったからです。

ジュピターに腰をかがめなかった。

彼らは人食い人種として告発されました。

何ゆえに人食い人種。

何故なら、ともに集って、誰かの体を食べ、その血を飲んだからです。

それで、災難に巻き込まれたのです。

クリスチャンは扇動的であり、暴動扇動者であるということが、ローマによる迫害の根拠でした。

彼らは、ローマ帝国に対する忠誠を公けに誓うことを拒み続けました。

つまり、ローマ帝国を神の如くに崇めることを拒んだ。

彼らは「カエサルは主」と唱えることを強要されたが、拒否した。

私たちクリスチャンは「イエスは主」と宣言すると彼らは言いました。

絶対的忠誠に従うことを要求されたが、これを拒否したために、彼らは不従順であると告発された。

そして、ライオンの檻に放り投げられたのです。

ジャスティン・マーターはローマ皇帝宛てに手紙を書いて、クリスチャンとはどういった集団なのか、クリスチャンの立場とは何かを皇帝に説明しようとしました。

「私たちを見て下さい」と彼は皇帝に言いました。

「私たちは手本のような市民であり、私たちの宗教は皇帝のために祈り、皇帝を敬い、従順であるように教えています」と。

 

 


#3 生活指針 The Bible & Politics, NO.3

2024年03月14日 | 生活指針

Government: Christian Worldview with R.C. Sproul

6分23秒から11分54秒まで。

◇◇

市民的服従に関して、教会の責任と奮闘している人々にとって大変厄介な問題がこれでした。

この聖句は新約聖書において孤立している聖句ではありません。

くり返しますが、私たちは王を敬い、行政長官に服従するように言われています。

ペテロは次にように言っています(第1ペテロ2:13-17)。

キリストが敬われるために、 行政長官に服従しなさい。

さて、良く理解しておくべきことが2つあります。

第1に、すべての地上の政府は、聖書的に言うと、ある意味ヒエラルキー(階級制度)的です。

すべての人間社会の権威というのは、底辺の野犬捕獲人から、その上の知事、上院議員、王子や王、大統領など、すべては神とキリストの権威下にいます。

しかしながら、これら人間社会の権威は皆、神の規則を実践しているのでしょうか。

もちろん、実践してはいません。

パウロがどこか他の箇所で話しているように、高位の人たちに、そして政府に霊的邪悪が存在することはあり得るのです。

オスカー・クルマン( Oscar Cullman)、スイスの神学者は次のように示唆しています。

この世の政府は、恐ろしいほど悪魔的になり得るし、イエスキリストの統治に激しく抵抗する姿勢を示すことがある。

しかしながら、クリスチャンは行政長官に従うことが新約聖書の原則です。

何故なら、人間社会の権威をほめそやすためではなく、それらの権威の背後にキリストの権威と神の権威があることを私たちクリスチャンは認めているからです。

もう一度言いますが、ペテロの声明は「キリストが栄光化されるために、行政長官に従いなさい。」

政治的機関や行政長官に対する従順が、何故キリストに名誉をもたらすことになるのでしょうか。

私たちが理解すべき重要な概念があります。

新約聖書にもありますし、旧約聖書にもあります。

罪というのは、個々の、かみ砕くことのできる程度の罪のことや、特殊な罪ある人たちのことだけを言うのではありません。

国民全体の罪という、連帯責任的考え方もあるのです。

つまり、聖書的に組織的な罪というのもあるということ。

罪に関する広い意味での解釈において、聖書的に、罪とは、特殊な、微細な、個人的な罪だけでなく、いわゆる、この世における邪悪複合体なるものも存在します。

邪悪複合体。

この邪悪複合体の背後に立っているのは誰でしょうか。

神学的に。

この世の君、聖書的には反キリストとして同定されている者、サタンです。

キリストより自分を高く上げる者、キリストの御業に対抗し、敵対して動き回る者。

称号のantiとは、ギリシャ語のantiを英語にすると、意味は「代わりに」「敵対して」。

聖書的に、両者は反キリストの性状と関連する行為を意味します。

キリストに敵対するだけではなくて、キリストに取って代わろうとする者、キリストの場所を占拠しようとする者。

反キリストの基本行動、サタンの宇宙的闘争とは、不従順の霊への誘導であり、聖書はこれを不法(lawlessness)と呼びます。

歴史的啓示による反キリストは、テサロニケの手紙に書かれています。

何という人ですか。

不法の人(the man of lawlessness)(第2テサロニケ2章)。