みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#56 終末預言 by R.C. Sproul

2022年02月27日 | 終末預言 
Defending the Faith

配信第1回:7分50秒から11分20秒
全文の日本語訳を提示する。

(メッセージ続き)

もう一人の友人、ノーマン・ガイスラーも証拠主義者であります。

証拠主義者である彼らは、感覚や視覚、味覚、触覚、嗅覚、これらすべてを駆使することにより、主なキリスト教真理、すなわち、神の存在や神のことばとしての聖書の権威について高水準の確信に到達しうる、と信じています。

しかし、私たちの知覚に基づいている議論に関して、周囲の状況を感知する私たちの知覚は完ぺきではないので、そのような議論には常に限界があるのです。

その限界ゆえに、彼ら証拠主義者は100%の確信に到達することはあり得ないのです。

さて、モンゴメリーやガイスラーは、キリスト教真理に関して、経験的探究がもたらす確信の程度は極めて高いレベルにあると確信していたようです。

これは、疑惑の影を超えて証言するのではなく、理性的な疑いを超えて証言するために告発が必要となる裁判のようなものです。
(*文意がよく分からない。分からなくても以下の理解に影響はないようです)

適切な評決に至るための証拠が、理知的な人々を説得させるのです。

確かに、証拠は真実であると思います。旧約聖書のみならず新約聖書も経験的なデータを主張しています。

ペテロが宣言していることは、慎重に練られた作り話や神話ではありません。

彼が宣言するのは、私たちが自分の眼で見たことであり、自分の耳で聞いたことであります。

それは経験的データであり、キリスト教真理に関する使徒証言として極めて重要であります。

しかし、オーガスティンはそれをさらに超えていきたいと願ったのです。

私もそうです。

特に、神の存在という中心的な課題において超えていきたいと願った。

中世において、多くの大学で、キリスト教と世俗の科学の間に、いわゆる古典的統合というものがありました。

古典的統合というのは、すべての学問は神が存在するという仮定の下でなされなければならない、というものでした。

オーガスティン、アンゼルム、アキナスといった哲学者は自分たちの知力を駆使して、天文学的、目的論的、そして存在論的議論を通して、神の存在という概念を明快に論証したため、自分がかわいい学者は声高に有神論に対抗することはできませんでした。

もちろん、隠れ無神論者はいましたが、無神論は、古典的統合ゆえに知的世界においてあまり重んじられることはありませんでした。




#55 終末預言 by R.C. Sproul

2022年02月25日 | 終末預言 
Defending the Faith

配信第1回:5分38秒から7分50秒まで

全文の日本語訳を提示する。

(メッセージ開始)

何故なら、あなたは今エラーの只中、間違いの只中にいるからです。

アリストテレスが言っていたように、ところで、コロンブスのアメリカ発見とは異なり、アリストテレスは論理学なるものを発見はしなかった。

彼が発見したのは、理性的議論に固有の論理法則でした。

アリストテレスは、論理学をオルガノン、つまりあらゆる科学が機能するために必要な道具、として定義しました。

それは、理知的な議論のために必要な道具であります。

さて、論理学のあらゆるカテゴリーは、偉大なオーガスティンによって容認され、保護されました。

彼が弁証学の分野において努力を惜しまなかった理由は、100%の確信のレベルにある信仰を確証するためでありました。

少しばかり脇道に逸れたいと思います。

何故かと言うと、今日主流となっている福音主義弁証学者の大半は、神は存在するかという疑問に対する哲学的議論はあり得ないこと、また、それを試みようとしても骨折り損のくたびれもうけであると考えています。

オーガスティンは、そのような無神論的釈義には参与しませんでした。

私もそうです。

弁証学者として、私は「証拠主義者」として、分類されてきたし、記載もされてきました。

何度も繰り返し言ってきたことですが、私は証拠主義者ではありません。

証拠主義は、経験主義的アプローチを弁証論に対して多用する学派であります。

ルター派の人たち、例えば、私の友人であるジョン・ワーウィック・モンゴメリーは、経験的に、つまり、歴史的観点からキリスト教真理を議論する証拠主義者であります。

参照:
キリスト教を健全に維持するにはヴァン・ティルの弁証論に立つしかない3






#54 終末預言 by R.C. Sproul

2022年02月23日 | 終末預言 
Defending the Faith

配信第1回:2分40秒から5分38秒まで

全文の日本語訳を提示する。

(メッセージ開始)

この2つははっきりと区別できるのだが、オーガスチンにとって、それらを区別する必要はありませんでした。

理性と信仰はいわゆる互いに共生関係にあるとオーガスティンは述べています。

ある意味において、私たちは暫定的な形で信仰を開始するのではないでしょうか。

神の声を聞いた時、私たちが理解できる範囲においてそれを信じ、知ることができる範囲においてそれを信じる。

しかし、その信仰は弱くて、いわゆる知的確信を生むことはない。

しかし、同時に、信仰というものが道理という暫定的な抱擁のようなものであるように、その信仰が不合理なものとして一蹴されることはありません。

真の聖書的信仰は、私たちが知る過程の中に創造主が植えつけた理性(神の部分としての理性)に依存しているのです。

この点において、オーガスチンは、私たちが信仰と軽信との間において常に知っておくべき明白な違いがあると述べています。

軽信には強固な理性的土台がありません。

それは根拠がありません。

理性と正反対なのが信仰であると教える実存主義哲学者によって口説かれて持つような類のものが軽信です。

クリスチャンである私たちは、イエスの御腕が私たちを破滅と破壊から守って下さることを期待しつつ暗闇の中へと飛び込まなければならないのです。

馬鹿げたことは信じる価値がありません。

思いが無条件に拒絶する場合、それを信じたり、それに賛同したりすることはできません。

何故なら、それは非合理的であり非論理的だからです。

そこで、オーガスチンは信仰に身を委ねた時、理性の規範、特に論理にも等しく身を委ねたのです。

アリストテレスは道理そのものは全く内容はないと言ったが、オーガスチンはそれを理解することができたのです。

確かに、論理法則の中にはデータも情報もありません。

論理ができることと言えば、私たちの考え方や思いに対する知的支配者として機能することです。

だから、私たちの思いが非合理的なカテゴリーの中に紛れ込むと、警告音が鳴り響き、論理という警察官が大きな六角形の赤信号をもってそこに立ち、「直ちに止まりなさい」と言います。




#53 終末預言 by R.C. Sproul

2022年02月22日 | 終末預言 
Defending the Faith

配信第1回:最初から2分40秒まで

全文の日本語訳を提示する。

(メッセージ開始)

お祈りしましょう。

私たちの父なる神よ。
私たちは、われらの救い主でありますあなたの甘美と卓越を大いに喜んでいます。
それらは、あなたのあふれるばかりの御恵みとご加護と永遠の予知の知恵により、私たちに与えて下さったものです。
私たちがあなたの存在、あなたの力、あなたの栄光の確かさを証言することができるように祈り求めます。
それは、父、子、聖霊でありますあなたに光栄がもたらされるためであります。
イエス様の御名によりお願いいたします。
アーメン!

今朝のセッションのために、私たちの信仰防衛という質疑について取り扱うように依頼がありました。

信仰防衛というのは、もちろん、弁証学を含んでいる。

弁証学(apologetics、アポロジェティックス)というサイエンスは、ギリシャ語のapologiaに由来し、「私がクリスチャンでごめんなさい」という意味ではありません。

そうではなく、時代時代を通してさまざまな未信者や疑い深い人たちによる反論に対抗、知的に反応しかつ応答することを意味します。

弁証学の教練に関して、私は人生において多くの時間と教職において多くの努力を費やしてきました。

ただ、今朝、どのようにこのテーマにアプローチすべきなのかピンと来ませんでした。

しばらく考えた後に、まずは出発点として弁証学の基本中の基本へと戻り、それから私たちの目指す弁証論の焦点へ移ろうと考えました。

それが思い浮かんで、弁証学という領域において私の考え方に多大な影響を与えただけでなく、教会史を通して弁証学という領域に影響力のあった人の業績をおさらいしようと考えました。

いうまでもなく、その人とはアウレリウス・オーガスティンです。

何世紀も前のことだが、彼はカルタゴのヒポーで司教をしていました。

オーガスティンの書物を再読して、彼が理性と信仰の間に見出した違いについて、あらためて興味を抱いたのです。




#51 終末預言 by T. Tomii

2022年02月15日 | 終末預言 
キリスト教を健全に維持するにはヴァン・ティルの弁証論に立つしかない3

◇◇

次のメッセージだが、R.C. Sproul: Defending the Faithを聞こうと思っている。

現在、The Defense Of The Faith, Cornelius Van Til通読中だが、かなり難解な本であり、読破するのは容易ではない。富井師が以下のような記事を投稿しており、参考にしたい。
何故、このような研究が必要なのかについて、小生なりに理解している点を以下に掲げておく。

◇◇

ノンクリスチャンや異端、悪魔教(≒人間教、共産主義、プレミレ教。これらはいずれも進化論を土台としている宗教)によるいちゃもんに遭遇することがある。

そのような時、聖書を土台とした強固な信仰によって相手を論破する必要がある。

自己満足を得るためでも、相手を痛めつけるためでもない。

聖書の十全性を証明し、全知全能の神を褒め称えるためだ。

仮にそのような場が、誤謬を徹底的に指摘し、相手に悔い改めを迫るような機会であるならば、聖霊を通して神が指し示してくれるはずであり、御国拡大のための最善が与えられていると考えてよい。

敵の霊はわれわれクリスチャンを躓かせようと手ぐすね引いて待ち構えている。

その目的は、もちろん地獄へ誘うためだ。

聖書を巧みに利用して近づいてくる。

みことばを用いて悪魔を退散させた主イエスを模範としたい。

以下の記事はそのための前哨戦。一見難解なことが書かれているように見えるが、よく読んでみると、常識的な事項が論じられているに過ぎない。

神学とは、実はクリスチャンの常識であり、知っていて当たり前の事実、または教理であることが分かる。つまり、真理。

以下、注)は小生の意見。

◇◇

ヴァン・ティルはカイパーの対立の概念を重視し、近代の大陸哲学に関する幅広い研究を通して、それを厳密に発展させた。18世紀のドイツの哲学者インマヌエル・カントの思想は、特にこの若い神学者に影響を及ぼした。カントは、純粋で自発的な経験的観察だけでは、世界を理解するのに不十分であると主張した。その代わりに、経験的知識は、人間の論理的思考を形成する既存の心的カテゴリーによって構造化されるとした。20世紀初頭までに、カント思想は、ほとんどの認識論哲学に挑戦し、神学にも影響を与えた。カント及びカントの批評家たちに関する慎重な研究を通じて、ヴァン・ティルは、常識的な証拠主義とそれに基づく弁証法は、よく言えばナイーブであり、悪く言えば、20世紀の哲学的戦いに参加する保守派のクリスチャンを無防備にすると確信した。カント思想を受けて、ヴァン・ティルは、キリスト教弁証論の本質に対する「先駆的な洞察」を発展させ、次のように結論づけた。「どのような哲学的な立場であっても、与えられた前提は、その後の作業の大部分をあらかじめ決定づけ、支配する」と。結局、このような、証拠よりも「前提」を重視する姿勢は、ヴァン・ティルの「前提的」弁証法の顕著な特徴となった。
(同上)


1.

インマヌエル・カントをはじめ、世俗の哲学者は「理性の堕落」を信じていない。

注)出発点からして、すでにこの世の哲学(ある意味、宗教)は非聖書的であることが分かる。

聖書によれば、カントが主張する感性も、感性によって得られた情報を組織化する悟性も、どちらも堕落しており、信頼に値しない。

きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。(テトス1・15)

再生していない人間(つまり、ノンクリスチャン)は、自分を騙し、神中心の理解から離れようと「本能的に」努力する。

注)つまり、クリスチャンはこの世(の人々)と親密に交わることはできないということ。

人生において目指す方向がクリスチャンとはまったく異なる。

注)その通り。

クリスチャンは、神の栄光を求め、神の国を作ろうとするが、ノンクリスチャンは、自分の栄光を求め、自分の王国を作ろうとする。

クリスチャンは、一生を有意義な目的のために使おうとするが、ノンクリスチャンは、自分の栄光と自分の王国を築くために努力し、神にとって無意味な一生を送る。

だから「ノンクリスチャンの築き上げた知識と技術を無条件に信頼してもいい」ということには絶対にならないのである。

この世界がかろうじて維持されているのは、神の抑制の恵みにより、また、聖霊によって導かれるクリスチャンの預言者及び祭司、王としての働きにより、ノンクリスチャンの暴走が抑制されているからである。

注)これを神の一般恩恵という。

神の抑制の恵みとクリスチャンの活動がなければ、サタンの奴隷であるノンクリスチャンは徹底的に堕落し、自分の熱心な取り組みを通じて自分を破壊していく。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言14・12)

「労働者の解放のために」という善意にもとづいて努力した共産主義者は、結局、1億人の粛正を行うはめに陥った。

「子供たちを戦場に送るな」と唱え努力してきた日教組の教師たちは、結局、日本を破壊し、中国の侵略を招く結果となった。

「理性は堕落している」という認識に基づかないいかなる思想も誤謬であり、異端である。

注)この考え方に賛同できない人はクリスチャンではなくヒューマニスト。

われわれは、理性は堕落しており、信頼に値しないので、神の御言葉に全的に信頼する必要があると信じなければならない。

注)そのように聖書に書いているのだから、そう信じるのみ。

自分の考えと御言葉が対立するならば、自分の考えを潔く捨てて、御言葉を選択すべきである。

注)御意。

「聖書を前提とする」というのが、ヴァン・ティルが確立した原理である。

注)(クリスチャンにとって)当たり前のことしか書かれていない。

2.

ヴァン・ティル以前の弁証論では、クリスチャンの考え方は「証拠と論理」に基づくべきだと考えた。

そうなると、世俗の科学を信頼し「宇宙が6日で創造されたなど、信じられない」というクリスチャンが出てきた。

注)つまり、物理学や数学などこの世の科学を盲信して聖書に書かれていることが虚構に見えてくる人がいるということ。世俗の科学が聖書よりはるか下方・下位に位置するということを失念しているためにこういう発想が出てくる。

創造の記事に信頼が置けなくなれば、アダムの堕落の記事にも信頼が置けなくなり、キリストの贖い、復活、処女降誕、などにも信頼がおけなくなる。

このようにしてキリスト教は、信仰を失い、世俗思想の一種になりさがった。

注)御意。

証拠主義の弁証論では、キリスト教を守ることはできない。

「理性の堕落」を信じ、「聖書を前提とするべきだ」との前提主義を採用するしかない。

ヴァン・ティルは、プロテスタントの弁証論に開いた風穴を塞ぐことに成功した。

ヴァン・ティルを経由しないキリスト教は、本質的な部分で欠陥がある。

注)以上、当たり前のことしか書かれていない。先に述べたように、俗世と断交することは不可能であるが、俗世の影響を最小限に抑えることは可能と思われる。そのために第一にすべきことは聖書のみならず神学を学ぶこと、特に良質な神学書を多数読み込むこと。



#676 神の法第六戒

2022年02月14日 | 神の法
第6戒
賠償(復元)すなわち回復

p275~
Restitution or Restoration
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

賠償(復元)の考え方は、処罰の概念から無理やり切り離された。

中世末期に発達したその理論ー犯罪とは総括的に国家に対する違反であるーは、賠償の考え方から切り離された。

処罰という概念は、賠償という社会的概念との接点を失った。

事実、Schaferは次のようにコメントしている。

様々な国々の法体系を見る時、犯罪被害者が、自分の受けた被害に対する十分な賠償を期待するという国家を追い求めようとするが無駄なこと。国家による補償が存在する稀なケースもあるが、そのような制度は不十分であったり、全く機能していない。国家による補償がないところでは、一般に、市民による手続きや市民による執務により提供された不十分な救済策により犠牲者は手当されている。犯罪に対する処罰は、国家事業と見なされている一方、犯罪による傷害、すなわち被害者に対する損害は、殆ど私的事項と捉えられている。これは、社会基盤の発展の初期段階における人間を思い起こす。そこでは、人は生存競争のために一人取り残され、自分で外部からの攻撃に対応じ、かつ害を与える他者に対抗する必要がある。国家の法律を自分の手中にできないため、今日の犠牲者は決して満足を得ることはできない。先祖の時代には、賠償は活発な実践であり、「それは注目に値するもの」であり、我々の野蛮な先祖たちの方が賢くて、今日よりも誠実だった。何故なら、古代人が賠償の原理を傷害者に適応する一方で、現代人は損害を受けた関係者に対してこのことを実践しなかった。現代の実践と比較すると「これは、より賢明であり、影響に関してより改革的であり、傾向に関してより抑止的であった。」

前述のことから明らかなことがある。

第1に、賠償から投獄への移行は、教会や国家による権力の収奪に基づいており、身代金や私産没収の代わりに、罪の調節を画策することがその起源だった。

第2に、国家が罰則の原則を犯罪法とした、つまり賠償を民事法へと格下げした。

今日、傷害を受けた人が賠償請求する時、基本的に非協力的な裁判所という機関を介するため、その請求には訴訟費用が含まれる。

それ故、障害を受けた人が裁判に勝ったとしても、費用の回収は難しい。

結果として、このような分割ゆえに、犯罪者は、賠償よりも次第に寛大となるつつある国家による拘置所や精神病院、矯正施設や擁護施設へと向かう。




#50 終末預言 by R.C. Sproul

2022年02月13日 | 終末預言 
R.C. Sproul: Can We Enjoy Heaven Knowing of Loved Ones in Hell?

36分54秒から最後まで

◇◇

引用聖句

黙示録21章
ローマ書8章

◇◇

「パウロをヒットラー側へ移動させよう(笑い)。」

君はここだよ、たわけ者君。

ちょっとだけ、ここにいたまえ。

ここであなたがたにしっかり見て欲しいのは、ギャップ、すなわちカズム(深淵)があるということ。

このカズムは、キリストの義を、最も義なる人間や最も邪悪な人間(つまり、人間)から分け隔てる。

ここにいるわれらの使徒パウロが歩んできた聖化の全過程は、パウロとイエスとの違いを示しているだけでなく、パウロとヒットラーとの違いを明示しています。

実は、パウロとヒットラーとの違いというのは無視しうる程度なのです。

罪のないイエスと栄光化されていないパウロとの間には、巨大な溝、計り知れないほど深い淵が存在する。

さて、栄光化される時、つまり聖化される時、神はあなたが向こう側(イエス側)にいるとみなして下さるのです。

栄光化されると、真の分離が起こり、罪が消滅して救い主のために変容する。

しかし、栄光化の前に・・。

諸君、席に戻って下さい、ありがとうございました。

ここでしようとしたことは、私たちの悲惨をドラマ化することでした。

私たちが栄光化するまでは、私たちの関心や思いは邪悪なる人類へと注がれています。

神の栄光やキリストの賞賛のために私たちが行なうよりもはるかに多くの精力を注ぎ込むのです。

あの日ゲルシュナー教授が私に伝えたかったこととは(その時私はばかげていると思ったのだが)、罪が私の人生から取り除かれるや、その状態に到達するや、私は、全身全霊をもって、我が魂の限りを尽くして、純粋無垢の思いで、我が主を、我が神を愛するようになる。

私の同情心、愛、関心は、肉に従って堕落し、罪に満ちた自分の血縁に向かうよりも、より高い頻度で神の聖の実在へと向かっていくのです。

お分かり頂けるでしょうか。

罪がないということ-このことをあなたがたも私も想像できない、全くもって想像しえないのです。

もちろん、多くの意味で、地獄という教理を私は好きではありません。

誰かが地獄にいるという思いに耐えることは至難の業です。

たとえ、それがヒットラーであっても。

なぜなら、私自身ヒットラーと何ら変わったところがないからです。

私自身、怪物的罪人と結合している可能性があるのです。

イスラエルの聖なる人とは異邦人のことです。

だからこそ、私たちは悔い改めて神へと立ち返ったのです。

神が世界を洪水へと追いやった時に。
エリコにおいて禁令が敷かれた時に。
コラと共謀者たちが飲み込まれた時に。
ウザが契約の箱に触れて打たれた時に。
礼拝の最中に遊び回っていたがゆえにアロンの息子が滅ぼされた時に。
アナニアとサッピラの上に神の裁きが下った時に

私たちはこれらの人たちを見るとき、自分のようだと思う。

そして、こう言う。

「嗚呼、かわいそうなアナニアよ、かわいそうなサッピラよ、かわいそうなウザよ、哀れなナダブとアビフよ」と。

神の聖が侵害され、低俗化されうるのであれば、神の聖など私たちの知ったことではなくなってしまう。

しかし、モーセを通して、アロンに言われた。

神は何と言われたか覚えているでょうか。

神はこう言われた、「私に近づく者はだれでも、私は聖であることを覚えよ。」

「そして、全会衆は私を褒めたたえなければならない。」

もし、神の義のため、神の聖を表すために、神の義の栄光のために、私の家族が捧げられなければならないとしたら、そんな思いには耐え兼ねるが、このことばは私に次のように教えてくれる。

神の栄光について、イエスの栄光について思いを馳せる時が必ず来るということを。

そして、神の裁きに大いに喜ぶことができる時が必ず来るということを。

友よ、私たちはまだそこに到達していません。

しかし、それは私たちの宿命なのです。

(お祈り)

われらの父、神よ。
あなたのみことばを通して、あなたがどなたであるか、続いて、私たちが誰であるか知ることができました。あなたの聖とは何か、私たちの非聖とは何かを知ることができますように。そして、新天新地において、すべての罪が禁令下に置かれることを私たちが多いに喜ぶことができますように。イエス様の御名によってお願いいたします。
アーメン。




#49 終末預言 by R.C. Sproul

2022年02月13日 | 終末預言 
R.C. Sproul: Can We Enjoy Heaven Knowing of Loved Ones in Hell?

33分12秒から36分54秒まで

◇◇

引用聖句

黙示録21章
ローマ書8章

◇◇

神のレベルまで持ち上げられるであろうという意味において、私たちが栄光化されることはない。

違う違う、そうではない。

黄金連鎖において栄光化がここで言っているようなことと関連しているのは、私たちの聖化の最終段階かつ完成なのです。

もう一度確認しておきたい。

私たちが新生する瞬間、聖霊が私たちの魂に宿る瞬間、その瞬間から、私たちの残された未来へ向かって、神は、私たちの内部において、私たちを整え、私たちを形作り、キリストのイメージ(似姿)へと私たちを変容させるために働き始める。

しかし、その神の業が完了するのは、覆いを跳び越え、それから聖化が完了してからだ。

さて、これまで授業やセミナーでそうしてきたように、あるイラストを示そうと思う。

前列の3人に、ステージ上に役者さんとして登場してもらいます。

選んだ学生さんにはイエス様を演じてもらいます。

さあ、舞台の上に上がって来てくれないか。

私には2人の孫がいるが、2人ともジャンプが得意なのは知っているぞ。

(キャンベル;分かりました)

これは君にとって大変貴重な時となるはずだ、いいかい。

私の孫の一人がこの子です。

スプロール、ロバート・キャンベル、そうだよね。

次に、あなたにここにきてもらいたい。

なぜこの役になったのかよくわからないが、ここにおられるリゾさんがヒットラー役を演じてくれます。

さあ、ここにいて下さい。彼がヒットラーです。よろしいですね。

キャンベルはイエス役です。

スティーブ、上がって来て、手伝ってくれないか。

本来、学生は師匠より格上ではないのだが・・。

さあ、私がスティーブを呼んだ理由は、彼が単純に聖なる男だからです。彼はとても道徳心の強い男であり、神に大変な情熱を抱いている男なので、彼の聖化は高い段階にあります。

しかし、私は、彼に自分を演じてもらおうとは考えていません。

彼には使徒パウロを演じてもらいます。というのは、イエス様を除いて、パウロがかつて地上を歩んだ人たちの中で最も聖なる男だったからです。

さて、ここにひとつの連続体、つまりこちら側にイエス、そしてあちら側にヒットラーがいる
連続帯があるとします。

この連続帯を想像して下さい。

この連続帯上で、パウロは何処に位置するでしょうか。

最も聖化された人パウロは、聖霊によってキリストのイメージ(似姿)へと変容し、成熟し、主の近くにいて、聖化が満ち溢れる状態にあります。




#48 終末預言 by R.C. Sproul

2022年02月11日 | 終末預言 
R.C. Sproul: Can We Enjoy Heaven Knowing of Loved Ones in Hell?

28分13秒から33分12秒まで

◇◇

引用聖句

黙示録21章
ローマ書8章

◇◇

それは経験上見たことも聞いたこともないので、神のご性格と天性について全く把握することができない。

事実、私たちはたびたび不快に感じるほどに神の聖に困惑する。

次に、私たちが無知である点は、私たちが私たち自身が誰であるかを知らないということ。

先にデレックが指摘したように、私たちが自分自身のことを理解できないことが最大の悪であるということ。

罪は、私たちが生きていく上で主要な部分を占めていて、私たちの性質の一部であるがゆえに、私たちは、「まあ、人間だから過ちはある。赦すことが聖」という。

罪を犯すことが人間的なのだから、神が私たちを赦して下さるのは当然ではないかと思う。

私たちは自分が何なのか全く分かっていない。

第3に、私たちは栄光化の意味を全く分かっていない。

さて、私たちが天について考える時、その機会はあまりないと思うが、天に関する考え方に最も影響を与えるものは何だろうか。

あなたがたは天に何を期待しているのだろうか。

私なら、もう私の足が痛くならないと思う。

治療が必要なくなる。

毎日薬を飲まなくても良くなる。

老化現象であるところの痛みはすべてなくなる。

私は新しい体を得て、神がそれに飾りつけをして下さる。

もちろんそれはチタンからできているものではないだろうから、空港で飛行機に乗る時にセキュリティで止められることもなくなる。

私が考えているのはそんなことだろうか。

すべての苦痛がなくなり、死が消滅するがゆえに、天とは本当に素晴らしいと思う。

私たちは、天に存在しないだろうものをいろいろ考える。

破滅の脅威をもたらす海もない。

涙、死、寺院、太陽、人の手による光もない。

神と子羊の栄光の光が天全体を照らす。

私はいま、それらを見たくてうずうずしている。

しかし、あなたがたに知って欲しいことは、間違いなく天にないものとは「罪」ということ。

罪の存在しないところを想像できるだろうか。

そのようなところへ行ったことはない。

気高い祭司の祈りにおいて、主イエスはその栄光を祈った。

イエスは御父のために祈った。

御父に栄光がありますように。
御父が褒め称えられますように。
御父に光栄がありますように。
御父が、その栄光カボドゆえに相応しく扱われますように。

そして、イエスはご自身のために祈った。

イエスは御父から頂いた栄光を持っている。

地上の屈辱の後に、万物の初めからご自身のために回復される栄光。

しかし、栄光化されるのは神のみではない。

栄光化されるのはイエスのみではない。

私たちの贖いの最終章で待ち受けているのは、私たちの昇天ではない。

私たち自身の栄光化そのもの。




#47 終末預言 by R.C. Sproul

2022年02月02日 | 終末預言 
R.C. Sproul: Can We Enjoy Heaven Knowing of Loved Ones in Hell?

24分01秒から28分13秒

◇◇

引用聖句

黙示録21章
ローマ書8章

◇◇

この箇所は、見るなり立ち止まり、予定(説)に関して、会議を開き、議論し、討論し、激論を交わす箇所だろうと思う。

私たちは予定(説)の最後、予定(説)の目標、そして予定(説)の目的について忘れている。

バーク・パーソンズがイエスの気高い祭司の祈りを見て、次のように述べた。

予定(説)の最終目的は、私たちがキリストのイメージへと変容することであると。

私たちは、キリストにあって選ばれ、キリストのために選ばれ、最終的にキリストと同化するために選ばれている。

パウロは続けて言う。

「あらかじめ定めておられた人たちを神は召し出し、召し出した人たちを神は義とし、義とした人たちを神は栄光化した。

私たちはかつて、講義や議論、そしてこのようなカンファランスを通して、義認という教理を何度も何度も注視してきた。

ルターが義認と呼んだ教理とは、教会が基盤とする、もしくは教会が注視する教理の一つ。

カルヴァンは、これをドア開閉する蝶つがいと呼んだ。

事実、あなた方が基盤とし、注視すべき教理の一つが義認。

しかしながら、連鎖の最後が予定(説)ではない。

黄金連鎖の最後は召しではないし、義認でもない。

それは何だろうか。

義とされた人々を神は栄光化したとある通りだ。

最後に栄光の教理についての説教を聞いたのは何時でしたか。

この連鎖の残りの部分、すなわち予知、摂理(ご計画)、予定(説)、恵みある召し、義認を、私たちは余すところなく取り扱っている。

それらはみな、その通り重要ではあるのだが、私たちは連鎖の最後である栄光を得るまでは、「それがどうした」と言わざるを得ない。

それには3つの理由がある。

軽口をたたく罪を犯したくはないが、私たちが天に至り、友人や親戚、配偶者がそこにいないことを知る時、私たちが将来の幸せについて心配となる3つの理由がある。

そのことを案ずる、つまり聖の義認について案ずる3つの理由がある。

私たちは3つのことを理解していないから不安になるのだ。

まず第1に、私たちは神とはどなたであるかを知らない。

これは、先ほどデレックが言っていたこと。

私たちは神は聖であるということの意味を全く分かっていない。