Derek Thomas: How Then Should I Live in This World?
https://www.youtube.com/watch?v=6LB5i-uFBpQ&t=1s
訳出時間枠:38分23秒から44分36秒まで
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聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。
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このことについてパウロが言っていることをしっかりと理解しておきましょう。
これは実践であります。
真実で、正真正銘義とされ、御霊が内住し、キリストを一体となったクリスチャンが同性愛で苦しむと言っているのではありません。
残りの人生もその問題を引きずる人がいるということ。
パウロが言いたいことは、その行ないを実践し、その生活様式を続ける人は神の国に入ることはできないということです。
これが反体制文化です。
私たちの回りにいる文化人は、「誰も傷ついていないのだから、私たちを取り巻く文化の倫理的な基準に何ら問題はない」と言う。
これが今の世の基本的な倫理基準なのです。
「自分の人生において何をしようと、他人の知ったことではない。」
さて、それはイエスの仕事であります。
恐らく、それは国の仕事ではありません。
教会の仕事でもないかもしれないが、イエスの仕事であり、信仰告白しているクリスチャンとしてあなたが対処すべき問題ではないかと思います。
あなたは苦しむかもしれません。
これらの問題を抱えるかもしれません。
なぜそうなるのかさまざまな理由があります。
残りの人生において、そのような問題を抱える可能性があるのです。
もしそのようなことを行ない続けるのなら、あなたは神の国に入ることはできないと神は言っています。
さて、能書きを垂れる相対主義者は次の聖句をどのように解釈するのでしょうか。
「この世に同化してはならない。あなたの思いを新たにすることによって変えられなさい。」
世に対する同化は、教会生活やクリスチャンライフにおいて、どのように現れてくるのでしょうか。
恐らく次にようなことばによって現れてくるのでしょう。
「私のしていることは、パウロがここで言っていることとあまり関係ありません」と。
この言い分は、ある意味で有害であります。
パウロが言っていることは無関係に、何か別の意味へと解釈することは可能です。
これは好ましい関係ではありません。
これは能書きを垂れる相対主義者がよく使う手段であります。
あるいは、あなたが世渡りの上手い能書き垂れを受け入れている可能性があります。
聖書研究会に出席している時、誰かが「私はパウロが言っていることを考えることが好きです」と言うとします。
「覚悟があって言っているんだろうな」と私は言いたい。
何が飛び出すか誰も分からないからです。
パウロが言っている内容が何であれ、何ら考察することもなく、個人的な意見に基づいて能書きを垂れる人がそのような人だからであります。
でしょ。
あなたは聖書に対してこのようなアプローチの仕方をしているかもしれない。
個人的な経験から出てきた能書き垂れが行なうマルチ解釈でもって、聖書にアプローチしているかもしれない。
「私はこれこれこう思う」とか「ここで神が言っていることはこうであろうと思う」とか。
あなたがどう思おうが知ったことではない。
あなたがどう感じようが知ったことではない。
倫理に関する客観的基準というものがなければ、この国には個人歴感情に基づいた2億5千もの規準が存在することになってしまいます。
事実、私たちはそんなところにいるのです。
私たちはみな罪人であるから、特殊な罪に関してフォーカスを当てても役に立たないのではないかと思うのも当然ではないかと思います。
私も神の裁きに値する者であるから、誰があなたを裁けるでしょうか。
さあ、どうぞご勝手に。
山上の垂訓「裁かれないために、人を裁いてはならない」の箇所を、多くの人は誤まって引用しています。
倫理的裁きをしなければ、一体どうなるでしょうか。
ある人がやって来て私の財布を盗んでも、あなたは裁くことができない。
裁いてはならない。。。
あなたの配偶者が浮気した。
裁かれないように、裁いてはならない。。。
私たちはみな罪人、ですね。
これは以下のようなことではないかと思います。
罪に関してのみ強調されていますが、祝福についての観点がすっかり抜けてしまっています。
必要なのは祝福であります。
語るべきは祝福であり、福音であります。
私たちは祝福と聖化について語る必要があります。