みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#33 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年10月26日 | 創世記

Derek Thomas: How Then Should I Live in This World?
https://www.youtube.com/watch?v=6LB5i-uFBpQ&t=1s


訳出時間枠:38分23秒から44分36秒まで
◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

このことについてパウロが言っていることをしっかりと理解しておきましょう。

これは実践であります。

真実で、正真正銘義とされ、御霊が内住し、キリストを一体となったクリスチャンが同性愛で苦しむと言っているのではありません。

残りの人生もその問題を引きずる人がいるということ。

パウロが言いたいことは、その行ないを実践し、その生活様式を続ける人は神の国に入ることはできないということです。

これが反体制文化です。

私たちの回りにいる文化人は、「誰も傷ついていないのだから、私たちを取り巻く文化の倫理的な基準に何ら問題はない」と言う。

これが今の世の基本的な倫理基準なのです。

「自分の人生において何をしようと、他人の知ったことではない。」

さて、それはイエスの仕事であります。

恐らく、それは国の仕事ではありません。

教会の仕事でもないかもしれないが、イエスの仕事であり、信仰告白しているクリスチャンとしてあなたが対処すべき問題ではないかと思います。

あなたは苦しむかもしれません。

これらの問題を抱えるかもしれません。

なぜそうなるのかさまざまな理由があります。

残りの人生において、そのような問題を抱える可能性があるのです。

もしそのようなことを行ない続けるのなら、あなたは神の国に入ることはできないと神は言っています。

さて、能書きを垂れる相対主義者は次の聖句をどのように解釈するのでしょうか。

「この世に同化してはならない。あなたの思いを新たにすることによって変えられなさい。」

世に対する同化は、教会生活やクリスチャンライフにおいて、どのように現れてくるのでしょうか。

恐らく次にようなことばによって現れてくるのでしょう。

「私のしていることは、パウロがここで言っていることとあまり関係ありません」と。

この言い分は、ある意味で有害であります。

パウロが言っていることは無関係に、何か別の意味へと解釈することは可能です。

これは好ましい関係ではありません。

これは能書きを垂れる相対主義者がよく使う手段であります。

あるいは、あなたが世渡りの上手い能書き垂れを受け入れている可能性があります。

聖書研究会に出席している時、誰かが「私はパウロが言っていることを考えることが好きです」と言うとします。

「覚悟があって言っているんだろうな」と私は言いたい。

何が飛び出すか誰も分からないからです。

パウロが言っている内容が何であれ、何ら考察することもなく、個人的な意見に基づいて能書きを垂れる人がそのような人だからであります。

でしょ。

あなたは聖書に対してこのようなアプローチの仕方をしているかもしれない。

個人的な経験から出てきた能書き垂れが行なうマルチ解釈でもって、聖書にアプローチしているかもしれない。

「私はこれこれこう思う」とか「ここで神が言っていることはこうであろうと思う」とか。

あなたがどう思おうが知ったことではない。

あなたがどう感じようが知ったことではない。

倫理に関する客観的基準というものがなければ、この国には個人歴感情に基づいた2億5千もの規準が存在することになってしまいます。

事実、私たちはそんなところにいるのです。

私たちはみな罪人であるから、特殊な罪に関してフォーカスを当てても役に立たないのではないかと思うのも当然ではないかと思います。

私も神の裁きに値する者であるから、誰があなたを裁けるでしょうか。

さあ、どうぞご勝手に。

山上の垂訓「裁かれないために、人を裁いてはならない」の箇所を、多くの人は誤まって引用しています。

倫理的裁きをしなければ、一体どうなるでしょうか。

ある人がやって来て私の財布を盗んでも、あなたは裁くことができない。

裁いてはならない。。。

あなたの配偶者が浮気した。

裁かれないように、裁いてはならない。。。

私たちはみな罪人、ですね。

これは以下のようなことではないかと思います。

罪に関してのみ強調されていますが、祝福についての観点がすっかり抜けてしまっています。

必要なのは祝福であります。

語るべきは祝福であり、福音であります。

私たちは祝福と聖化について語る必要があります。

 

 

 


#32 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年10月24日 | 基礎教理

Derek Thomas: How Then Should I Live in This World?
https://www.youtube.com/watch?v=6LB5i-uFBpQ&t=1s


訳出時間枠:32分46秒から38分23秒まで
◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

すいません。ここは8:15セッションで開く箇所でした。

中には不快に思っている人がいるかもしれませんが、これも神のことばです。

第1コリント6章は、訓練と訓戒、そして励みとなる箇所です。

第1コリント6章9節、「不義なる者は神の国を相続できないことを知らないのか。騙されてはいけない。性的不品行者、偶像礼拝者、姦淫をする者、男娼となる者、同性愛を実践する者、盗人、貪欲な者、泥酔者、罵る者、略奪者はみな神の国を相続しません。あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖とされ、義とされました。」

ここで、私から質問があります。

ここでパウロが話していることとは何でしょうか。

「同性愛を実践している男たち」このことばに焦点を当てたいと思います。

単純にひとつの例として取り上げます。

このことは近年話題となっています。

毎日ニュースの話題となり、紙面を賑わし、あらゆる場面で遭遇します。

この世によって、住んでいる文化によって、私たちは日々押し潰されています。

大学の知的文化の中の学者、会社の上級管理者、弁護士、公立学校の先生などどの職業でも、この世の霊に同化するために、そしてこの世の倫理的基準に同化するために、くり返しくり返し娯楽産業によって押し潰されています。

「この世に同化してはならない。(神によって)変えて頂きなさい」と、パウロはローマ書12章で言っています。

このことに関して、ひとつの例を見てみましょう。

第1コリント6章において、パウロは何を言っているのでしょうか。

生活様式のことを言っているのです。

パウロが言っているのは、単に同性愛のことではなく、多くの他のこと、盗みや貪欲、泥酔や悪口、詐欺などであります。

もう一度言いますが、同性愛が他の罪よりも重大であるとか、忌まわしいとか言っているのではありません。

この問題に焦点を置く理由は、現在流行しているからであります。

友人は「このことについてどのように問題提起すればよいのでしょうか」と聞いてきます。

さて、パウロが教えていることを見てみましょう。

ここでパウロが言っているのは生活様式(ライフスタイル)であります。

普段の行動様式のことを言っているのです。

悔い改めや赦しを要する(時おり犯す)過ちについて教えているのではない。

そうではなく、パウロは確立された何かについて話しているのです。

(それに疑いも持たずに)信じていると公言している人において確立している生活様式についてであります。

このような習慣の関する何をパウロは言っているのでしょうか。

悔い改めて捨て去らななければ、神の国に入ることを妨げるであろう罪の様式なのです。

パウロが言っているのはこういうことであります。

同性愛という悔い改めのない生活習慣は、神の国への入城を妨げます。

それがパウロの言っていることです。

キリストに属すると主張するなら、同性の肉体関係の実践は避けるべきです。

「Malakoi oute arsenokoitai」

ギリシャ語です。

大変生き生きしたギリシャ語のことばです。

「男性同士でベッドを共にする人たち」は、文字通りの訳出です。

「男らしくない」は、文字通りの訳です。

パウロが言っているのは、同じ性でありながら女性(役)である人(男性)のことです。

つまり、ギリシャ語では実に生々しいことばなのです。

このことからパウロは何を言いたいのでしょうか。

このようなことに関りを持っている人たちはみな決して神の国に入ることはできない、とパウロは言っているのではありません。

あなたがたの幾人かはとパウロは言っています。

これがあなたの生活様式だった。

しかし、卓越した慈悲と祝福ゆえに、神が来られて、あなたの生活様式を変えられた。

そして、神は悔い改めの霊を与え、そのような生活様式やそのような行ないから立ち返り、福音へと招き入れて下さった主イエスキリストを、私たちは受け入れることができるようになったのです。

 

 

 


#31 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年10月23日 | 基礎教理

Derek Thomas: How Then Should I Live in This World?
https://www.youtube.com/watch?v=6LB5i-uFBpQ&t=1s


訳出時間枠:27分37秒から32分46秒まで
◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

ワイシャツの襟には、90、45,120等級などがあります。

まるで空を飛んでいるような飛行機のようなワイシャツもあります。

私たちは身を捧げるほどの流行追っかけ屋です。

真理を愛し、真理を知っているクリスチャンに対して話しているのです。

「身を捧げるほどの流行の追っかけ屋になってはならない。非順応者であってはならない。」

長老派でいることが好きな理由はその点にあります。

長老派の別名は非順応者(非英国国教徒)。

私はこのことばが好きです。

この聖句に対するJ.B. フィリップの素晴らしい翻訳です。

「この世によって、その鋳型の中へと搾り取られるな。」

如何でしょうか。

あなたがたの思いを新たにすることによって。

この世に同化してはいないということを担保する方法は、良質で中身のある本を読むことです。

1971年、私がクリスチャンになった時に、ある人から小さな冊子を頂きました。

その小冊子のタイトルは「あなたの思いは大切」というものでした。

1967年、ジョン・ストットによって書かれた本でした。

クリスチャンたる者、戸口で思いを点検すべきである。

礼拝に出かける彼らは、そこで大事な時間を過ごし貴重な体験をする。

その時彼らは放心状態となり、心も感情もコンサートやオペラ、あるいはプロ野球を見ているような気分になります。

あなたの感情はその中に入り込むが、戸口であなたは自分の思いを点検している。

思いは大事であります。

「この世に同化してはならない。思いを新たにすることによって、変えて頂きなさい。」

高等教育を受けたクリスチャンがあまりにも本を読んでいないことに驚いています。

例を挙げると、スプロール師が昨日言っていました、「昨今の人たちはどうなっているんだろうか。」

医師とか弁護士、博士号を取得している人たちに、1冊でいいからキリスト教の本を読むように話しています。

これが彼らには拷問のようです。

あなたの思い、すなわち考え方が新たになるように、パウロの言うことを聞きなさい。

あなたの世界観は変えられる必要があります。

思いにおいて、考え方や論理構成において変えられる必要があります。

この箇所を読むと、新生がどのようにして起きるのかパウロが何回も説明しているのが分かります。

それは人生において起きたり、教会の環境において起きたりします。

ローマ書12章4節に次のように書いています。

「私たちはひとつの体です。私たちは多くの器官があり、それぞれの器官は同じ働きではありません。」

私たちの思いが新たにされて、この世に同化されることがない。

それぞれの教会が重要であり、神の民の集会と主の民の交わりの環境の中で、私たちの思いは新生されていく。

そして、私たちの体は、主に対する礼拝行為として奉げられるのです。

ここで、特殊な例を提示したいと思います。

この例を提示することは私に与えられた義務であり、一般論としてだけでなく、特異な例として提示しようと思います。

どのようにして、この世は私たちを鋳型の中へと搾り取ろうとするのか。

それでは、第1コリント6章9節から11節を開いて下さい。

 

 

 


#30 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年10月21日 | 創世記

Derek Thomas: How Then Should I Live in This World?
https://www.youtube.com/watch?v=6LB5i-uFBpQ&t=1s


訳出時間枠:22分23秒から27分37秒まで
◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

ここにおられるあなたがたの中にも、重荷を負い、試練に会い、十字架を背負い、子に恵まれない人生へと導かれた人がいるのではないでしょうか。

また、奇妙で特異的な苦痛と伴いつつ、ハンナの祈りを共有している人もいるはずです。

そのような人はハンナの祈りが良く分かるのではないでしょうか。

しかし、彼女が言ったことば「主よ。私に子を与えて下さい。そうすればその子をあなたにお返しします」とは、一体どういう意味なのでしょうか。

正確にハンナのいったことばはそうであり、パウロの言っていることと類似性があります。

それが福音の結論なのです。

それが改革派信仰の結論であります。

それが改革派救済論の結論。

礼拝において私たちが自分自身を捧げるのは、神のご恩寵に対する帰結なのです。

それが合理的な礼拝です。

道理に適った礼拝。

「イエスキリストが神であり、私のために死んでくださったのであれば、私が主のためにすることは大したことではない。」

ハドソン・テイラーのことば。

ジム・エリオットのことば、「彼は失うことのできないものを得るために、自分が保てないものを与える愚か者ではありません。」

倫理的帰結は礼拝、その人まるごとの礼拝であります。

心と体、魂と愛情、意志、そしてキリストにあって新たにされた人間性を構築するすべてが礼拝行為として奉げられるのです。

ここでいうところの礼拝とは、生活すべてにおける極めて広い範囲という意味での礼拝です。

この聖句における礼拝とは、集会礼拝や日曜礼拝、聖餐式に伴う礼拝などすべての礼拝を含んでいます。

意味が広くて、一般的な意味を持つ聖句なのです。

パウロは特別な目的のために集う礼拝のことを言っているのでありません。

彼が言っているのは、全生涯について、つまり人生全体に渡る礼拝行為を言っているのです。

第4に、倫理的帰結はいけにえを必要とするということを見ていきたいと思います。

そして、それは個人全体を必要とします。

それには礼拝も含まれます。

それはカウンターカルチャー、反体制文化であります。

「この世に同化してはならない。神の御心とは何か、何が良いことか、何が受け入れられることか、そして何が完全なことかを見分けることができるように調べることによって、そしてあなたがたの思いを新たにすることによって変えて頂きなさい。」

この世とその世界観に同化してはならない。

私は1960年代に育ちました。

私自身のことについて少し説明しておきましょう。

50年代の幼少の頃を、そして60年代に10代を過ごしました。

当時は漠然と何かをしていました。

私の姉はビートルズやローリングストーンズを聴いていました。

一方、私はベートーヴェンやブラームスを聴いていました。

それが私でした。そうです、今でもそれが私です。

ロックバンドのキンクスのことはおぼろげながら覚えています。

身を捧げるほどの流行追っかけ屋でした。

キンクスのことを覚えている人はどれくらいいますか。

それほど多くはないようですね。

あなたのズボンにターニップが付いてなければ、ネクタイもないはずです。

どれだけ多くの人がネクタイを買ったでしょうか。

その後しばらくすると、買ったネクタイを付けなくなりました。

一体何が私にそのネクタイを買わせたのでしょうか。

 

 

 


#29 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年10月20日 | 基礎教理

Derek Thomas: How Then Should I Live in This World?
https://www.youtube.com/watch?v=6LB5i-uFBpQ&t=1s


訳出時間枠:16分35秒から22分23秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

パウロはここで、神秘的な心の問題を扱っているのではありません。

その前にもローマ書6章において、パウロは道具としての体について教えています。

私たちの体は、義の道具にも不義の道具にもなり得るということ。

パウロは言います、「あなたがたの体を義の道具として用いて欲しい。」

私の手、私の足、私の眼、私の体、私の体全部を用いて下さい。

私は、あなたについてのすべてが欲しい。

あなたの小さな部分ではなく、あなたの小さな区切りでもない。

「イエス様にはこの部分、私にはこの部分」というかもしれない。

いや、違う、その体全部だ。

心だけではない、知性だけではない、心も思いも体も全部。

その全体の中で、体は聖霊の宮であります。

全的堕落について言うことはあるが、全的聖化という意味合いにおいても語る必要があります。

私たちが再生され、聖霊が内住すると、信仰のみによって、イエスキリストのみによって、義とされます。

いまや、イエスキリストに属することになり、私たちに関するすべては閉ざされ、貯えられ、詰められます。

第1コリント6章において、パウロは最も明瞭に述べています。

コリント人に対し、パウロは不貞や売春について語ります。

コリント教会において一体何が起きているのか想像してみて頂きたい。

婚姻に関する性的乱用がコリント教会で行われているのです。

パウロはコリント人に言います、「売春婦のところに行く時、玄関先でイエスを確認することも、また出かける途中で車に乗せることもできません。」

あなたが売春婦と一つになる時、あなたは主イエスを売春婦と合体させているのです。

それが罪というものです。

それが罪の醜悪性です。

倫理的帰結はいけにえ、すなわち個人全体を要求するのです。

第3に、倫理的帰結は礼拝行為であります。

みことばを見てみましょう。

「あなたがたの体を、神に受け入れられる、聖なる、生きたいけにえとして献げなさい。それこそ、あなたがたの霊的(あるいは、道理にかなった)礼拝です。

ESV訳がなぜ霊的礼拝と翻訳しているのか私には分かりません。

原語は「理にかなった、合理的な」です。

「合理的な」という意味が「霊的な」という意味になるのかよく分かりません。

正しい訳は、「合理的な礼拝」あるいは「合理的な礼拝行為」です。

(霊的云々ではなく)奉仕としての礼拝について話しているのです。

奉仕は8時半とか9時に始まり、奉仕ということばや礼拝ということばを交互に使います。

あなたがイエスに属している時、あなたが神のご恩寵を経験した時、あなたが神を礼拝し、礼拝行為として自分自身を神に差し出すということは理にかなったことであると、パウロは語っているのであります。

神の御前でひれ伏し、「私の命を取り、それをあなたのために聖別して下さい、主よ」と言うのです。

私は自身を主にお返しします。

読むたびに息が詰まってしまう旧約聖書の一節があります。

ハンナは祈りの人でした(第1サムエル1章)。

エリは年老いており、分別がなかった。

すでに老いぼれていたために、エリの視力はかなり落ちていたが、ハンナの唇が動くを見ていた。

しかし、ハンナが何も言わないので、彼女が酒に酔っているのだと責め立てた。

エルカナにはもうひとり妻がいて、彼女は毎年こどもを生んだ。

ハンナは子が欲しかった。

 

 

 


#28 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年10月19日 | 基礎教理

Derek Thomas: How Then Should I Live in This World?
https://www.youtube.com/watch?v=6LB5i-uFBpQ&t=1s


訳出時間枠:11分56秒から16分35秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

悲しいかな、私の救い主は血を流した、私の主は死んだ。

嗚呼、主よ。私は自分を捨て去ります。私ができることはそれだけです、

主よ。イエスキリストの十字架の前に、私は自分を捨て去ります。私にはそれしかできません。

イエスはあなたが欲しいのです。あなたの一部ではなく、あなたのすべてが欲しいのです。

以上から、倫理的帰結として、まずはいけにえが必要です。

第2に、倫理的帰結として、パウロの思いにあるのは、人のすべてを必要とすることであります。

「あなたの体を差し出しなさい。」

いけにえとして、あなた全部を捧げなさい。

私の人生で大変名誉だったことは、ある非凡な女性と友達になれたことです。

彼女は当時ベルファストに住んでいましたが、今も北アイルランドのベルファストに住んでいます。

ヘレン・ローゼビアというご婦人です。

あなたがたとは世代が違うかもしれませんが、私は彼女とお会いして、話を聞いたことがあります。

疑いの影など微塵もない、かつてお会いした中で最も非凡な女性でした。

ベルファストで牧師をしていた18年程前、私は何度も彼女とお会いできる機会がありました。

彼女が若い女性たちに行なっていた宣教活動に対して、私はその活動を支援する活動を行なっていました。

彼女の行なっていた活動は、若い女性たちの弟子訓練でした。

1年に1~2度、私は彼女たちの会合でお話しをしていました。

当時、彼女のことはあまり知りませんでした。

1950年代、1960年代にコンゴで起こったことと彼女のことについては知っている人もおられると思います。

今でいうところのテロリストによって彼女は拉致され、何か月も拘束されました。

そこで、何度も何度も虐待され、レ〇プされたのです。

彼女の敬虔さについては、本で読んだことがあると思います。

彼女の話しを聞く機会があったことを覚えています。

この話をする時にはいつも彼女は憂鬱そうでした。

彼女が苦しめられた投獄中の屈辱的な扱われ方の詳細について、彼女は私たちに知っておいて欲しいと思っているのです。

あの男たちに初めて遭遇したこと、そしてその男たちが彼女にしたことについて彼女の恐怖、彼女の心の声、そして彼女の心と魂の中におられる神のささやき。

イエスは彼女に言います。

「彼らはこれらのことをあなたにしているのでない。私にしているのです。私はあなたの体がいとおしい。」

極めて深い方法において福音の要求に対する全的服従なしに、これらのことばを受け入れることはできません。

これがヘレン・ローゼビアであります。

パウロは教えます、「あなたの体を献げなさい」と。

 

 

 


#27 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年10月17日 | 創世記

Derek Thomas: How Then Should I Live in This World?
https://www.youtube.com/watch?v=6LB5i-uFBpQ&t=1s


訳出時間枠:6分22秒から11分56秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

パウロは、行ないによって神の国への切符を得るというパフォーマンス性向に戻ろうとしているのではない。

神のご恩寵を経験した人として、闇から光へと連れ出された人として、イエスキリストにあって信仰のみによって、そして神の恩恵のみによって義とされた人として、パウロは、「こういう理由のゆえに(therefore)」と言っているのです。

さて、パウロはそれを行なうことにおいて、義務に関する動詞を非常に強く意識して使用しています。

もちろん、自己洞察は、あらゆる種類の宗教的困難をもたらします。

ロバート・マーレイ・マケインの次のようなことばを明らかにしました。

「自分自身をあらゆる角度から見るために、イエスキリストを100回見なさい。」

いつでも自分を調査すること、自分の内面を覗き見ること、そして、自分が告白する信仰を高めることができるように、御霊の実が発現されているかどうかをテストすべきであります。

そのために、自分をあらゆる角度から眺めつつ、主であるイエスを100回見るべきです。

さて、今から見ていきたいことが4つあります。

よく知られた聖句、ローマ書12章1節と2節を見ていきましょう。

4つのこととは、福音における神の恩恵に対する私たちの反応を明瞭化することです。

第1に、倫理的な帰結、「では一体、どのようにこの世を生きるべきか」ということ。

考えてほしい第1に、倫理的帰結とはいけにえを必要とするということであります。

パウロが理解して欲しいと思っている1番目の原則は、いけにえを要求するということ、「生きたいけにえとして、あなたがたの体を差し出しなさい。」

現代のキリスト教会では稀有なことばではないでしょうか。

ほとんど廃れてしまったことばです。

福音のためにいけにえとなるように言われています。

イエスキリストのためにいけにえとなるように言われています。

イエスは何と言いましたか。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい(マルコ8:34)。」

十字架とは、首に下げるためのプラチナや金、銀でできた宝石ではありません。 

見て美しいものではないのです。

そんな風に考えるのはおかしいとは思いませんか。

十字架とは、薬液の入った注射器や小さな電気いすを持ち運んでいるようなものです。

あるいは、小さなプラチナ製のガス室のようなものです。

では一体、十字架とは何ですか。

それは死刑執行のための個人的な道具なのです。

イエスは言います、「あなたの首に宝石をぶら下げよと言っているのではない。毎朝温めてくれるお守りのようなものではない。十字架は、怪我や試練、艱難からあなたを守ってくれるクリスチャン用のラビットフット(お守り)ではない。」

イエスが言っていることは、「わたしのところに来たいのなら、来るなり死んでほしいのだ。自分に死になさい。あなたの野心に死になさい。あなたの夢に死になさい。あなたの願望に死になさい。私の思いではなく、なされるべきはあなた自身である。」

自書「キリストの模倣」の中で、トーマス・ア・ケンピスは次のように書き記している。

有名なことばだ。

「十字架を背負うあなたを、十字架が背負ってくれるであろう。」

もしもあなたが十字架を背負うのであれば、十字架があなたを背負ってくれるであろう。

さてここで理解してほしいことは、パウロは私たちにいけにえを捧げなさい(犠牲を払いなさい)と言っているのではなりません。

それは的外れです。

「そういうわけですから、兄弟たち。神のご恩寵により、あなたがたにお願いします。あなたがたの体を、神に受け入れられる、聖なる、生きたいけにえとして差し出しなさい。」

パウロはあなたがたに犠牲を払いなさいと言っているのではありません。

あなたがたがいけにえになるように懇願しているのです。

 

 

 


#26 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年10月15日 | 基礎教理

Derek Thomas: How Then Should I Live in This World?
https://www.youtube.com/watch?v=6LB5i-uFBpQ&t=1s


訳出時間枠:最初から6分22秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

(挨拶)

ローマ書12章を開いて下さい。

リボン(日本ではスピンという)があれば、あるいはしおりがあれば、第1コリント6章にはさんでおいてください。

後で、見ることになるでしょう。

時間が来たら、第1コリント6章を読む準備をしようと思います。

今回私に割り当てられたトピックとタイトルは、「では一体、どのようにこの世を生きるべきか」というものであります。

では一体、如何にこの世を生きるべきか。

ローマ書12章1節と2節です。

お祈りしましょう。

父よ、私たちは今聖書に相対しております。聖書全巻は神の吐息によって与えられ、神に仕える人があらゆる良い業を完全に備えることができるように、義の道における教理と指導、そして修正のために大変有用であります。聖書は私的な解釈から出たものではなく、聖霊によってもたらされた神のことばを人が代弁したものであります。神のことばを読み、斟酌し、学び、そして心で消化できますように力をお貸し下さい。そして、すべてをイエス様のために、アーメン。

ローマ書12章1節、「そういうわけですから、兄弟たち。神のご恩寵により、あなたがたにお願いします。あなたがたの体を、神に受け入れられる、聖なる、生きたいけにえとして献げなさい。それこそ、あなたがたの霊的(あるいは、道理にかなった)礼拝です。この世に同化してはならない。神の御心とは何か、何が良いことか、何が受け入れられることか、そして何が完全なことかを見分けることができるように調べることによって、そしてあなたがたの思いを新たにすることによって変えて頂きなさい。

では一体、どのようにこの世を生きるべきか。

この世において、罪と反抗のこの世において、人間のすべての不敬虔と不義に対して神の怒りが天から啓示されているこの世において。

こういうわけで、私はあなたがたにお願いします。

ここで問題となるのは、もちろん、何度も聞いたことがあるはずです。

こういうわけで(therefore)ということばを見た時に持つべき疑問というのは、therefore(there for)とはどんなことばなのかという疑問です。

そこ(there)とはどういうことでしょうか。

パウロはひとつの結論を引き出しています。

ローマ人への手紙の流れにおいて、程度の差はあれ、この要請については何度か語っています。

実際、彼はこのことを以前に2度話しています。

ローマ書6章において、パウロは次のように教えています。

「罪の情欲に従わせるあなたがたの死ぬべき体において、罪に支配させてはいけない。不義の道具として罪を犯すために、あなたがたの器官(主に、手足)を差し出してはならない。」

つまり、義の道具として自分の体を使うために、特異的な適応、道徳的な適応をパウロは要請したのです。

そして、8章の中程で、この要請をしています、「もし、霊によって、あなたが肉の行ないを抑制するなら、あなたは生きる。」

罪を殺すように約束されているのです。

罪のあるままで、堕落のあるままで。

さて、12章へと向かいます。

12章は数章をカバーするひとつのセクションであろうと思われ、パウロは、「では一体、どのようにこの世を生きるべきか」に対する疑問に答えてくれます。

パウロは言います、「それゆえ、兄弟たち。神のご恩寵により、あなたがたにお願いします。」

これらの命令、命令を意味する動詞、これらの行ないを命じる動詞、クリスチャンに対する義務、債務を意味する動詞、すでに私たちが経験した神のご恩寵に対する反応をしっかりと理解していることを確認するために、パウロは福音において常用されている文法を駆使します。

恩恵の結果として、義務が生じるのです。

 

 

 

 


#25 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年10月13日 | 基礎教理

What Is Faith?: Basic Training with R.C. Sproul
https://www.youtube.com/watch?v=xuXO82T7Kpo&t=1s


訳出時間枠:23分13秒から最後まで
◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

聖書信仰には少なくとも3つの異なる要素があると言われています。

ラテン語では4つ目も存在します。

最初に、notaeと呼ばれる要素、つまり英語だと単純にデータという要素。

義認は信仰のみによると言う時、あなたが正直である限りあなたが何を信じてるのかは問題にならないと思いますか。

月はグリーンチーズでできていると私が信じているのだから、神の臨在下で私は義とされるのでしょうか。

それが信仰でしょうか。

それは信念(belief)、私がそう信じているだけ。

その要点というのは、キリスト教の要点ではありません。

新約時代の教会において強調されている要点がありました。

キリストは神の御子であるということ。

キリストは救い主であるということ。

キリストはあなたの罪のために死なれたということ。

キリストは死者からよみがえったということ。

使徒たちはそのことを宣べ伝え、人々にそのことを信じるように命じたのです。

さて、そのことに服従し、そのことを信じることができる前に、まず最初に、私の頭の中でそのことを理解できる必要がありました。

つまり、情報、内容です。

信仰の第2相(要素)は、同意(assensus)と呼ばれる要素です。

つまり、知的同意、知性による賛同。

レイ、あなたはジョージ・ワシントンがアメリカ合衆国の初代大統領であることを信じますか。

信じますか。

OK、分かりました。信じるのですね。

さて、自分の救い主として、個人的にジョージ・ワシントンを信じるのかどうかを聞いたたわけではありません。

歴史的事実関連としてあなたに聞いただけであります。

ジョージ・ワシントンが初代大統領だったことは本当だったと思いますか。

はい、それが事実であると私は信じます。

私はその提案に同意します。

そこで、初期のクリスチャンは次のように言ったのです。

「イエスは神の御子であるとあなたは信じますか。」

いいえ、私は信じませんという人もいた。

ある人は「いいえ、信じません」と言い、ある人は「はい、信じます」と言った。

しかし、あなたをクリスチャンと認めるために、それだけで十分でしょうか。

聖ヤコブが突き止めようとしていたことはそれでした。

最初の人々は、イエスの実体は悪魔であると理解している人々でした。

彼らはイエスが誰か知っていました。

もしもサタンに事の次第を聞いたなら、イエスは神の御子であると思えるだろうか。

サタンはウソつきであるという事実を除いて、確かにサタンはそう言うだろう。

サタンはそのことを憎んでいました。

そんなわけで、ルターや改革派クリスチャンは、第3の相(要素)として、fiducia(信頼)と呼ばれるものが必要だと言ったのです。

fiduciaとは個人的な信用と甘受という意味であります。

これは、意志や心に関連します。

エドワードはこれを宗教的愛情と呼びました。

つまり、私はキリストを愛し、慕い求めるということ。

かつて、私はキリストから切り離されていて敵対していました。

しかし、私が知りたいのは「私は愛する」と言う時、それは「私は心から受け入れます」ということであり、「私はキリストの勝利と大成功を受け入れます」という意味なのです。

信仰の告白とはそういうことです。

「信条を暗唱しましょう、それは良いことだから」と言っているのではありません。

大事なことは、信仰とは知的同意以上のことであるということであります。

信仰とは認識以上であるということ。

もう一度言います。

信仰とは認識以上、知的な同意以上であり、決してそれ以下ではないということ。

残りのセッションを利用して、初代キリスト教会にさかのぼり、古典的主流派キリスト教に従って、キリスト教信仰とは何かを検討したいと思います。

使徒信条の真意は宗派の境界を越えています。

ルター主義、メソジスト派、バプテスト派、長老派などすべての宗派の違いを問いません。

何故なら、教会史を通して、すべてのクリスチャンが確信している古典的情報は、使徒信条の中に見出すことができるからです。

次のセッションでそのことを見てみようと思います。

 

 

 


#24 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年10月12日 | 基礎教理

What Is Faith?: Basic Training with R.C. Sproul
https://www.youtube.com/watch?v=xuXO82T7Kpo&t=1s


訳出時間枠:19分36秒から23分13秒まで
◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

了解しました、神よ。

私がまだ見たことがないものがあります。

あなたが語っている実際がそこにあり、私はそれを信仰によって受け入れます。

それは不合理な信仰ではない。

それは非科学的な信仰でもない。

あなたがそこにおられると私が信じることは極めて合理的であるあらゆる理由があるのです。

あなたが存在しないとすれば、私たちが宇宙を所有することはできません。

あなたは時空の中へと割って入り込みました。

全歴史におけるあなたの御業の全記録を、あなたは私たちに与えて下さいました。

イエスキリストは肉において来られた。

彼は目で見ることができた。

歴史の断面において、彼は死者からよみがえりました。

理性と感覚知覚という基礎の上にある証言を私たちは信じているのです。

科学研究所で決して実証できないことをあなたは私たちに語って下さいます。

真理の受肉としてご自身を立証されるお方を信じることは不合理でしょうか。

私はそうは思いません。

しかし、彼が言ったことによって、私たちはキリストを信じるのです。

信仰と真に対立するものは、聖書的には理性と感覚ではなく、軽信(cledulity)と迷信(superstition)であります。

これらは同じコインの表と裏に相当します。

全く根拠がなく、信じるに足るだけの理由もない何かを信じることを軽信と呼びます。

神のことばとは無関係であり、魔法のような何かを信じることを迷信と呼びます。

偶像に満ちたアテネの町にやって来た時のパウロの非難を覚えているでしょう。

古代世界における文化の中心で、このようなもの中で暮らしているとは何事かとパウロは言います。

今日、迷信はどこに存在すると思いますか。

ハイチ、ブードゥー教などと答えますが、迷信はあらゆる所にある私は言います。

キリスト教教会にもあります。

私たちの宗教の中に容易に忍び込んできます。

そんなわけで、神のことばによって、絶えずこの宗教を研磨していく必要があるのです。

まだ2分ありますので、16世紀の宗教改革から登場した信仰の極めて重要な原則を覚えておいて欲しいと思います。

16世紀に成し遂げられた信仰の全概念において、多くのエネルギーが費やされ、多くの考え方が踏襲された教会史に、いまだ一刻の猶予があるとは思いません。

何故。

宗教改革の中心的課題とは何だったのか。

信仰のみによる義であります。

それは数多くの疑問を投げ掛けました。

フロアから「どのような信仰が人を義をするのか」という率直な疑問が起こりました。

そのことを分析するために、改革派はある提案をしました。

彼らが改革派の伝統の中にいるのか、あるいはいかなる伝統の中にいるにせよ、クリスチャンにとってそれは価値あるものと私は考えます。

そのことを理解するために、信仰に関する概念全体とギリシャ語pisteuo(信じる)による新約聖書の信仰に関する概念を理解する必要があります。