みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#9 聖書信仰を堅持する

2020年10月25日 | 信仰の防衛
初めに

4.両者の譲歩

p11~
Concessions made
Introduction
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

KuyperやDooyeweedと対比すると、クリスチャンとノンクリスチャンでは考え方の原則に共通点がないと私が信じているとVan Halsemaは言っている。

他方、私がキリスト教よりも観念論者論理に自信があると言われている。

またその一方で、クリスチャンとノンクリスチャンは同じ考え方の原則に従って考えることは絶対にないと私が固く信じているとも言われている。

4.両者の譲歩

私の弁証学の先鋭化は、批評家による譲歩によっていく分和らげられる。

訳者注:apologetics(キリスト教弁証学)とは、キリスト教の信仰において、合理的な防衛を与えるキリスト教神学の一つ。異端の意見や異議に対抗して、キリスト教の信仰を守るという考え方。まさにこの本のタイトルそのもの。

a.Masselink

Masselinkは、私の絶対主義(absolutism、訳者注;ある思想の領域において、その領域にあるすべての叙述は、絶対的に正しいか、もしくは絶対的に間違っているかのいずれかだと考える立場)に対して一定の譲歩をしたと訴える。彼は言う。「新生されない理由とクリスチャンの宗教の深みの間に如何なる親和性(このことが理解を可能にしてくれる)があるのか。」

多神教というギリシャ人の考え方と聖書的観点の間には絶対的相違があるとヴァンティルは強調する。ギリシャの詩人たちが「彼によって(in Him)、私たちは生き、動き、自分の存在を持つ」と考える時、彼らはこのことを多神教的に解釈する。しかるにパウロは、この神の内在性を聖書的に考える。このことに関して、改革派神学者の間に不一致は見られない。

参考:

フリーメイソンやイルミナティの連中もプレ・ミレに騙されている

フリーメイソンやイルミナティの連中もプレ・ミレに騙されている2

夢で教理を裏付けたり、終末の年代決定する偽教師から離れるべき





#612 神の法第六戒

2020年10月25日 | 神の法
第6戒
死刑

231~
The Death Penalty
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

ヒューマニストとして、Menningerは人間の命を最も大いなる善、命に対する傷害を最も大いなる悪とみなす。

「われわれがみな誘惑にかられる大きな罪は、他人を傷つけたいという願望。生きていく上で、生かされていく上で、この罪は絶対に避けなければならない。」

同様の意見は、司法の専門家にも見られ、実際、その領域を支配している。

このことは、アメリカ法曹協会の1968年度定期総会で明らかとなった。

多くの者に訴えかけたこの手の考え方は、絶対的に左派的、かつ人間教的だった。

かくして

黒人法律家でフィラデルフィア出身のWilliam Colemanは次のように述べる。発展の代償として、ある程度の不安や不都合は容認できるよう社会は準備するべきだ。市民的不服従(訳者注;納税拒否などの非暴力的手段によって政府や法律に抵抗すること)に従事している人びとに対して、不公平な法律と戦っている苦労ゆえにお金を支払うべきと強く主張した。
原因が価値あるものなら、検察官は市民的不服従に従事している人たちに対する罰金を拒否すべきだと言う意見に、エール法科大学院学部長であるLouis H. Pollakは賛同した。しかし、彼は原因が価値あるかどうかを検証するための特異なガイドラインを明らかにしてはいない。

もちろん、市民的不服従や暴動において、暴徒たちはすでに広範囲に渡り援助を受けている。無数の研究や報告によって示されているように、連邦政府助成金が好意的に支払われてきた。

ABA代表者会議において、来賓として招待されたイギリス控訴院裁判官Widgeryが異議を唱えた。

5日間にわたる犯罪と市民的無秩序に関するカンファレンスを聞いて、「警察、とくに犯罪に対抗して戦う奇襲部隊の称賛の声も批判の声の一言もないことに私は大変驚いている。十分な警察力もなしに、法律家や裁判官は如何にして平和維持を期待するのだろうか。」

参考:

プレ・ミレの伝道を喜ぶ悪の勢力

プレ・ミレの伝道を喜ぶ悪の勢力2

終末を告げる預言者の正体を見極めよ! 2



#611 神の法第六戒

2020年10月20日 | 神の法
第6戒

死刑

231~
The Death Penalty
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

刑務所体系は、人間教の創案であり、かつての聖書律法が要求するよりも、取り扱いにおいて表面的には人道的だ。

今や精神ヘルスアプローチは、人道的以上のものがあると想像される。

何年も前、ソロモンはすでに次のように注目していた。

箴言12:10
悪者のあわれみは、残忍である。

Menningerなどの精神科医は次のように述べている。

懲罰的な姿勢を健康維持的な姿勢へと置き換えることによってのみ、社会は健康を保つことができる。

犯罪者に刑罰を要求することは、われわれの精神が病んでいることの現れだ。

事実、彼はこのことを「刑罰という犯罪」と言っている。

彼の目には、刑罰を要求する社会の善良な市民は皆犯罪者となる。

Menningerは、犯罪者に対する社会の犯罪は、社会に対する犯罪者の犯罪よりも大きいと頑固に信じている。

「投獄された犯罪者によって犯された犯罪による社会的ダメージは、犯罪者に対して犯された犯罪による社会的ダメージとは対等ではないかと思う」と。

犯罪者に関して、Mennigerはかく言う。

われわれは犯罪者に、われわれ自身を同定する必要がある。陰で羨んだり、執拗に懲らしめたり。彼らはわれわれがしたいと願っている禁じられた非法を、われわれのために行なっている。昔の身代わりのように、彼らはわれわれに取って代わった自責と刑罰-われわれ全員の不正-の重荷を背負っている。

コメント:

滅びる人は古巣に帰る

敵は「地を従えよ」の命令を実行させないように働く

現代のクリスチャンにかけられている重度の洗脳




#8 聖書信仰を堅持する

2020年10月19日 | 信仰の防衛
初めに

3.両極の会合

p9~
Meeting of Extremes
Introduction
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

再建主義者たちに関していえば、アンチテーゼに関して大混乱がある。

それを全否定する人たちもいれば、絶対とする人たちもいる。

一般啓示と一般恩恵とは別に、自然の人(natural man)は、原初の(神の)似姿の残存要素ゆえに、神の知識と道徳を持っていると言っており、事実上このアンチテーゼを一掃している。

Schilderによれば、私は全ての知識の起源は自然の人自身にあると断言しているという。

歴史的改革派神学において、宣教のための接点はいつも一般啓示の中に見出されてきた。

自然の人が神の意識や道徳の意識を持つ聖霊の証言の2倍にも及ぶ。

「しかし、ヴァンティルはその接点を人間自身の中に見出している。」

私がノンクリスチャン的考え方に従って論理を進めていると非難する他の批評家らとMasselinkは見解が一致している。

「私(ヴァンティル)の判断に従うこの新しい運動の全哲学体系の基本的弱点は、聖句の展示ではなく、哲学的理由付けの過程によって結論が得られているという事実に由来していることは明白である。」

他方、私が絶対論者の立場に固執しているというMasselikの意見に賛同的な批評家もいる。

Cecil De Boerは、「哲学において、クリスチャンとノンクリスチャンは、同じことばを同じ意味で使用することはない」という立場として私を紹介している。

「人はクリスチャンの宗教を受け入れることはないので、卵とキュウリを区別できないのだと議論しても始まらない」と。

Jesse De Boerは次のような疑問を発する。

「新生された人と新生されていない人の違いは、代数学、貨幣学、そして気象学を共有していないからだと聖書は教えているだろうか」

新生されていない人は事実を知ることができないという私の見解と基本テーゼについて彼は語っている。

さらに、追加してこう述べる。

結局、ノンクリスチャンと同じ見識を共有することを避けようとする改革派純粋主義者ヴァンティルが、観念論者論理に訴えることによってクリスチャンが意味することに関する彼の解釈を擁護することは全く不適切ではないのか。ある声明を正当化する、あるいは擁護する声明は、擁護される声明よりもよく知られている必要がある。それ故、ヴァンティルは、クリスチャン有神論よりも観念論者論理に自信があるのだ。

(注)哲学的知識の欠落に加えて、ヴァンティルのbasic structure of thinkingがいまだ不明であるため、批判の内容が明瞭に把握できない。Part 1.に入るまで、いましばらくの辛抱が必要。
 


#610 神の法第六戒

2020年10月18日 | 神の法
第6戒
死刑

230~
The Death Penalty
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

精神異常を理由に罪がないとする現代の申し立ては、1843年、Robert Peel卿の秘書Edward Drummond殺害に対するDaniel M'Naughtonに対する裁判において起きた。

M'Naughton裁判の結果、(a)反論が証明されるまで、すべての人は正気であるとされた。

しかし、(b)犯行時に精神異常があった、または心神喪失状態にあったがために、行為の性質あるいはその悪質性を認識できなかった場合、精神異常ゆえに無罪とされた。

M'Naughtonは、死刑の代わりに保護施設に収容された。

M'Naughtonルールは、不法行為が精神病や心神喪失の結果であれば、刑法上責任を問うことはできないとするコロンビア管区上訴裁判所David T. Bazelonによる1954年の決定へとつながっていった。

これは、Durham事件、すなわちMonty Durham裁判のこと。

押し込み強盗かつ不法小切手犯であったMonty Durhamは、24年の生涯のうち7年間、刑務所と精神病院の入退院を繰り返していた。

M'NaughtonとDurhamのような申し立てにより、犯罪者の命に関するヒューマニズム的見解により、命の原則のために命を脇へと追いやり、また正義の原則のために正義そのものを脇に追いやることが法廷で可能となってしまった。

刑務所は、精神病治療に比べると、厳しくて冷酷。

しかし、Mayerは次のように述べる。

現在の法制度に関して極めて大雑把に言えば、ウィスコンシン州、カリフォルニア州、そして連邦政府における刑務所は、実際には通常の州立精神病院ほど過酷ではない。犯罪に対する有罪判決よりも刑法上精神異常のための施設収用という犯罪記録を有する者が、その後の就職状況にはるかに有利かというとそうでもない。

コメント:

刑罰は罪の大きさに応じたものであるべきだ

クリスチャンよ、目を覚ませ!

今のクリスチャンは知らずにバビロン神秘思想に汚染されている

完璧な信仰を獲得して巨大な業を行おう

黙示録は「旧約世界への審判」を記した書物である





#6 聖書信仰を堅持する

2020年10月15日 | 聖書信仰
初めに

3.両極の会合

p8~
Meeting of Extremes
Introduction
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

これらの非難がいかに完璧にお互いに対立しているのか注目して欲しい。

一方において、私の考え方の基本構造は、完全なる不信仰の構造であると言われている。

他方において、私は悪魔が乗り移ったアリストテレスであると言われている。

何故なら、私は絶対的アンチテーゼを信じていると言われているからだ。

絶対的アンチテーゼとは、人というのはなり得る限り悪であるとする考え方。

絶対的という単語の辞書的意味は、制限がないということ。

しかし、私は、これらの非難にはお互いに排他的な性質があるという点に慰めを得ようとは思わない。

Masselinkは、私がノンクリスチャン哲学によって考える傾向があるという批判と意見が一致している。

私が絶対主義者神学を有していると非難するMasselinkと意見が一致する批評家もいる。

すでに言及したように、Masselinkによると、私の考え方は絶対的倫理的アンチテーゼから始まるという。

彼が言うところの絶対的倫理的アンチテーゼとは、論理的に、絶対的論理的かつ美的なアンチテーゼを含んでいる。

他の方面において、Schilderによれば、私が聖霊の普遍的外的ないし内的証言を否定しているという。

この否定は2重の過ち、すなわち全的堕落の否定と人間の責任の否定を含んでいる。




#610 神の法第六戒

2020年10月14日 | 神の法
第6戒
死刑

230~
The Death Penalty
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

出エジプト記21:35~36
ある人の牛が、もうひとりの人の牛を突いて、その牛が死んだ場合、両者は生きている牛を売って、その金を分け、また死んだ牛も分けなければならない。 
しかし、その牛が以前から突くくせのあることがわかっていて、その持ち主が監視をしなかったのなら、その人は必ず牛は牛で償わなければならない。しかし、その死んだ牛は自分のものとなる。 

動物の責任に関するこの原則と所有者の責任は、現在の法の一部となっている。

出エジプト記21:28
牛が男または女を突いて殺した場合、その牛は必ず石で打ち殺さなければならない。その肉を食べてはならない。しかし、その牛の持ち主は無罪である。 

罪を犯した牛は石で打ち殺されなければならず、その肉は食べてはならない。

この法の現代における妙な適応と誤った適応は、現代主義者の注釈書に見出される。

「今日人を殺す動物は牛ではなく、微生物や病原体。もしこれらの保菌者が不用意に周囲に撒き散らすなら、彼らも死に引き渡されるべきであり、あるいは多額の身代金を払うべきだ」

われわれは、原則は命には命、すなわち罰則は罪に比例することを見てきた。

この罪は犯罪者すなわちその者の考え方によらず、犯罪行為の性質のみによる。

命には命の原則に従って、動物に対する刑罰として死が相応しいなら、人においてもその通りだ。

かくして、聖書律法は、精神病を理由に無罪とする口実を持たない。

法の前に、如何なる者にも特権を許さない。

犯罪者が動物であれ、精神病者であれ、子どもであれ、精神薄弱者であれ、殺人には死刑が要求される。


コメント:

ヒューマニズムの定義

ヒューマニズムとはまったく異なる社会機構を

謙遜になり教会の神学に学べ



#6 聖書信仰を堅持する

2020年10月09日 | 聖書信仰
初めに

3.両極の会合

p7~
Meeting of Extremes
Introduction
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

読者は2つのことについて驚いているに違いない。

第1に、これらの非難が極度に真剣であるということ。

私(ヴァンティル)の認識論が観念論からの借り物であり、ヘーゲル理性主義と現代実存主義の混ぜ合わせであると避難されている。

観念論と実存主義は、聖書を神のことばとは見做さない。

彼らは、聖書の神の存在を信じていない。

彼らは、神による世と人間の創造を信じていない。

彼らは、神のみ旨による世界の統治を信じていない。

彼らは、イエスキリストが神の子であり、人の子であったことを信じていない。

彼らは、贖いを信じていないし、生ける者と死んでいる者を裁くためにキリストが再臨することも信じていない。

にもかかわらず、私の認識論がキリスト教信仰の敵から得られたものであると言う人たちがいる。

Daaneは、一般恩恵に関する議論の組み立ては聖書から得られたものではなく、現代実存主義から得られたものであると主張している。

事実、そのような非難は実に深刻である。

他方、Masselinkによる主な非難は、私が絶対的倫理的アンチテーゼに固執しているということ、そのために、私が非信仰者の知識や業績に対して全く理解がないと思われていることにある。

非信仰者の一般恩恵に対する反応は否定的なものばかりであり、それ故、認識論において信仰者と共有する点は皆無であるとヴァンティルは主張しているという。

これも深刻な非難であるが、観念論や実存主義に関する非難ほど深刻ではない。

注)

以下の記事を参考にすると、「弁証法」というタイトルは誤解を与える恐れがある。
従って、直訳となるが「聖書信仰を堅持する」と改めることにした。
(自戒)テクニカルターム(専門用語)を使う時は細心の注意が必要。

弁証法的思考を捨てるべきだ



#5 聖書信仰を堅持する

2020年10月05日 | 聖書信仰
初めに

2.湧き上がる反論

p6~
Objections Raised
Introduction
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

4.Van Halsema(欄外注あり*)

(*Franklin Van Halsemaはカルヴァンカレッジとカルヴァン神学セミナー在籍。以下省略。)

Van Halsema氏は、私の著作「神に関するバークレー観」について述べている。

カントの思考に関する創造論に対抗して、私が神の思考に関する創造論を配置したいということを報告してくれている。

さらに、「キリスト教の如何なる観念によって、そのような観念論的逸脱がキリスト教弁証学に生じるのだろうか」と、彼は声を荒げる。

ハ.Daane(欄外注*)

(*James Daane(1914-1983)はカルヴァン神学校に在籍。プリンストン神学校、アムステルダム自由大学にも在籍経験がある。以下省略。)

Daaneによる基本的な批判は、以下のことばに要約される。

私の論文の半数は、以下の事柄に関連している。

ヴァンティルが提出した一般恩恵神学がHoeksema(欄外注*)神学に基づいたヘーゲル理性主義に由来するものではないということ。

また、ヴァンティルの一般恩恵神学が、彼が改革派の伝統的で主要な神学者たちの中に見出すことができると考えるノンクリスチャンの哲学残滓に由来しないということ。

逆に、以前の状況にも増して、一般恩恵教理を哲学的空想の中へとさらに深く落とし込んでしまった。

ヴァンティルが提示したのは、キリスト教の歴史と純化した一般恩恵神学の清廉された基礎ではない。

彼が伝えたのは、実存的弁証主義がその中に含まれるために、ヘーゲル理性弁証主義が維持されるだけでなく大きくなるヘーゲル理性主義と現代実存主義(*)の混ぜ物であるということ。

(*James Daaneは、彼の著書「恩恵の神学:一般恩恵に関するヴァンティル博士の教理に対する検証と評価」の中で、ヴァンティルの人類に関する見解は、一般的に言って、観念論と実存主義の両者によって汚染されていると批判した)



#609 神の法第六戒

2020年10月04日 | 神の法
第6戒
死刑

230~
The Death Penalty
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

死刑には2種類ある。

第1に、特定の犯罪に関して、神が直接人や国家に対して審判や死刑を執行する。

これが神の時代に神ご自身がなさる、あるいはするであろうこと。

誰一人として否と言うことはできない。

第2に、特定の犯罪に関して、神は人に死の義務を負わせる。

過度に遅れることなく、また躊躇することもない。

人に死刑を課す義務の検証において、通常、殺人に対して、その罪から解放されるための身代金や罰金が支払われることはあり得なかった。

民数記35:31に次のように書いている。

民数記35:31
あなたがたは、死刑に当たる悪を行なった殺人者のいのちのために贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。 

これに対する唯一の例外がある。

血痕という証拠がある牛が人を殺した場合。

その場合、その所有者が死に渡される。

出エジプト記21:29~30
しかし、もし、牛が以前から突くくせがあり、その持ち主が注意されていても、それを監視せず、その牛が男または女を殺したのなら、その牛は石で打ち殺し、その持ち主も殺されなければならない。 もし彼に贖い金が課せられたなら、自分に課せられたものは何でも、自分のいのちの償いとして支払わなければならない。 

そのような場合、その牛が殺人を犯したのだから、所有者のために逃亡する可能性はある。

血痕のある牛の例のように、人の場合と同様、聖書律法には殺人を犯す恐れのある牛に関してもしっかりとした規定がある。

このようなケースと同様、このことについて創世記9:5に明確に書かれている。

創世記9:5
わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。 

動物を所有している場合、その動物が人を殺し、その動物も死んだ。

この場合、その動物が挑発されずに行なった暴力が初めてであれば、その動物の所有者は罪に問われない。

出エジプト記21:28
牛が男または女を突いて殺した場合、その牛は必ず石で打ち殺さなければならない。その肉を食べてはならない。しかし、その牛の持ち主は無罪である。 

しかし、動物が過去に暴力を犯した記録があれば、その動物の所有者は殺人罪に問われ処刑される。

出エジプト記21:29~32
しかし、もし、牛が以前から突くくせがあり、その持ち主が注意されていても、それを監視せず、その牛が男または女を殺したのなら、その牛は石で打ち殺し、その持ち主も殺されなければならない。 もし彼に贖い金が課せられたなら、自分に課せられたものは何でも、自分のいのちの償いとして支払わなければならない。 
男の子を突いても、女の子を突いても、この規定のとおりに処理されなければならない。 
もしその牛が、男奴隷、あるいは女奴隷を突いたなら、牛の持ち主はその奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払い、その牛は石で打ち殺されなければならない。 

コメント:

神学を軽視する指導者についていくな

われわれには霊界の存在をコントロールする権威が与えられている

われわれには霊界の存在をコントロールする権威が与えられている2