みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

The Law Of This Spirit Of Life, #10

2015年12月29日 | 聖書研究・信仰
ちょうどそんな仕方で、神はある法則を導入することにより、もうひとつの法則から我々を解き放つ。

罪と死の法則は常に在るのだが、神はもうひとつの法則を稼働させた。

キリストイエスにある命の御霊の法則だ。

この法則により、我々は罪と死の法則から完璧に解き放たれる。

それこそがキリストイエスにある命の法則だ。

エペソ1:19
神のデュナミスのとてつもない大きさは何だ
信じる我々の中へと入り込む
神の強靭な力の働きに従って

エペソ1:20
神はキリストの中にあって働いた
彼を蘇らせ
天々にある彼の右に座らせ

復活の命は、あらゆる形において死を満たし、それに勝利した。

主イエスは、聖霊という人格において、我々の心の中に宿っている。

主に道を譲り、全てを委ねるなら、主は古い法則から我々を解き放って下さるであろう。

我々の力によってではなく、神の力によって守られているはずのものを知るであろう。

第1ペテロ1:5
神のデュナミスによって彼らは
信仰を通して守られている
その結果、救いが
現われるよう用意されている
終わりの時に




Coffee Break, #41

2015年12月27日 | コーヒーブレイク
http://www.youtube.com/watch?v=90IGbqwItEY&sns=em



The Law Of This Spirit Of Life, #9

2015年12月26日 | 聖書研究・信仰
国家の法律に当てはまることは、自然の法則についても当てはまる。

重力の法則はどのようにすれば無効となるか。

ハンカチの例を挙げれば、その法則はハンカチを引っ張っている時に作用している。

しかし、ハンカチの下に手を置くと、それは落ちない。

何故か。

重力の法則は確かに存在している。

私が重力の法則を操っているのではない。

事実、私は重力の法則を操ることはできない。

では、何故ハンカチは地面に落ちないのか。

何故なら、そうならないようにする力が存在するから。

重力の法則は確かに在る。

しかし、それより上位の法則が、その法則を打ち負かすように働いている。

すなわち、命の法則だ。

重力は最大限作用しているのだが、ハンカチは落ちない。

重力に抗して働く法則がその場にハンカチを留まらせているのだ。

あの木のことを覚えているだろうか。

舗装用の敷石の間に落ちた一粒の小さい種だったあの木を。

その木は、うちにある命の力によって敷石を持ち上げるほどに成長した。

他方を超えるもう一方の法則の勝利がこれだ。




The Law Of This Spirit Of Life, #8

2015年12月20日 | 聖書研究・信仰
かつて中国で大きな重荷となったのが釐金税だった。

誰も逃れることのできない法律で、秦王朝時代に端を発し、つい最近まで運用されていた。

これは商品の取引に係る税金で、王朝全土で適応された。

税収確保のために多くの障壁が設けられ、役人たちは自分らの強大な権力を楽しんでいた。

これによって、いくつかの地方を通過した商品の価格は極めて高いものとなった。

しかし、数年前、釐金税に替わり、第2の法律が施行された。

以前の法律に苦しんでいた者たちの安堵の念は如何ばかりであったか。

今や考え込んだり、期待したり、祈ったりする必要がなくなった。

新しい法律がすでに敷かれ、古い法律から解放されたのだ。

釐金税取り立ての役人に明日会うことになっても、何を言おうか予め考えておく必要がなくなった。




The Law Of This Spirit Of Life, #7

2015年12月17日 | 聖書研究・信仰
重力は、例外がなく、不変であるという意味においてひとつの法則である。

しかし、道路法規とは違い、自然の法則である。

討論とか決定とかがテーマではなく、発見がテーマだ。

法則がそこにあり、私の力を要さずに、ハンカチは「自然に」自ら落下する。

ローマ7:23にあり、パウロによって発見された法則はまさにそれだ。

ローマ7:23
私は別の法則を見る
私の肢体の中にある
私の思いの法則に敵対している
そして
私を虜にしている
罪の法則の中へ
私の肢体の中にある

罪の法則と死の法則は、善の法則に対抗し、善いことをしようとする人の思いをぶちこわす。

人は、自分の肢体の中にある「罪の法則」に従って、「自然に」罪を犯す。

人はそうではないと思いたい。

しかし、人の中にあるその法則は容赦がなく、それに抵抗できる人間はいない。

そこで、次のような疑問に至る。

どうすれば、罪と死の法則から解放されるのか。

私は罪からの解放が必要だ。

それ以上に、死からの解放が必要だ。

いや、それで済まない。

罪と死の法則からの解放が必要だ。

どうしたら弱さと失敗の連続から解放されるのだろうか。

この疑問に答えるために、さらに2つの例示を見る必要がある。




The Law Of This Spirit Of Life, #6

2015年12月15日 | 聖書研究・信仰
次は、罪の法則と死について。

もしだれかが私について悪口を流布したら、直ちに何かいやなものが私の中に生じる。

これは法則ではない。

罪だ。

別の人々が私の悪口を流布した時に、全く同様の何かいやなことが私の内に生じる。

そして、ある種の法則のようなものを見い出す。

これが罪の法則だ。

重力の法則と同様、それは不変。

常に同じように働く。

死の法則も同じだ。

死とは、これまで言ってきたように、限界にまで到達した弱さのこと。

弱さとは「もはや私にできることはない」ということだ。

ある特別なことにおいて、神を喜ばせようとする時、もはや私にできることはないと思うなら

また別のことにおいて、神を喜ばせようとする時、もはや私にできることはないと同じように思うなら

そこに働くひとつの法則を見い出す。

私の中に罪があるだけでなく、罪の法則があることが分かる。

私の中に死があるだけでなく、死の法則があることが分かる。






The Law Of This Spirit Of Life, #5

2015年12月14日 | 聖書研究・信仰
法則とは何か。

一般的に、法則とは、例外がないことが証明されるまで運用される一般論のこと。

くり返し起きる何かをより単純化して法則と呼ぶこともある。

ある事象が起きる度にそれが同じ仕方で起きるとする。

それが法則だ。

法定上および自然法則の両者から例証可能だ。

もしも、この地で道路の右側を車で走れば、警察は私を止めるだろう。

何故か。

右側走行は、この地の法則に違反するからだ。

あなたが右車線を運転していても、やはり止められるであろう。

何故。

理由は同じだ。

法則に違反しており、法則には例外はないからだ。

法則とは、繰り返しかつ失敗することなく起きる事象だ。

重力とは何かを我々は皆知っている。

ロンドンでハンカチを落とすと地面に落ちる。

ニューヨークや香港でハンカチを落としても同じことが起きる。

ハンカチをどこに持っていこうと同じように重力が働く。

そして、常に同じ結果をもたらす。

同じ条件が働く時は何時でも、同じ効果が得られる。

かくして、重力の「法則」が存在する。




Coffee Break, #40

2015年12月13日 | コーヒーブレイク
But when he was yet a great way off, his father saw him, and had compassion, and ran,
and fell on his neck, and kissed him.

Hallelujah!
This is our Father!



The Law Of This Spirit Of Life, #4

2015年12月10日 | 聖書研究・信仰
パウロがそのように敢えて言えるのはなぜか。

パウロが限界から解き放たれている理由とは何だ。

何故「何でもすることができる」のか。

これが答えだ。

「キリストにある命の御霊の法則が、罪と死の法則から私を解放したからだ(ローマ8:2)」

何故もはや罪はないのか。

「何故なら・・・」

理由はこうだ。

その疑問に対する絶対的答えがあるのだ。

「命の御霊の法則」という法がそれだ。

明らかに、それは「罪と死の法則」という法より力がある。

これらの法とは何だ。

それらはどのように働くのか。

罪そのものと罪の法則との違いは何か。

死そのものと死の法則との違いは何か。






The Law Of This Spirit Of Life, #3

2015年12月09日 | 聖書研究・信仰
罪の感覚の背後には一体何があるのか。

それを何とかしようとする時に味わう挫折経験と無力感ではなかったか。

キリストが我が命であることを知る以前には、何かハンデを負った者のような感覚が絶えずあった。

自分で歩を進めることの限界。

事あるたびに感じる不自由さ。

つねに叫んでいたくなる感覚。

「あれもできない、これもできない」

やろうとするのだが、「神を喜ばせることができない」自分がいる。

しかし、いまやキリストにあって「できない」ことはないことを知った。

今はこうだ。

ピリピ4:13
私を強くして下さる彼において
私はすべてを行なうことができる
(Nee訳)