みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

The Blood And The Believer’s Access, #9

2014年10月31日 | 聖書研究・信仰
神のみならず、我々キリスト者も主の血潮に満足している。

それで全く十分なのだが、主の血潮とは別の観点からキリストの死について考えてみる必要がある。

次章で、それについて論じられるであろう。

弱い者は、自らの弱点を見てしまうから弱いままなのだ。

逆に、目を背けたり、懺悔しても事態はあまり変わらない。

そこには望みはない。

しかし、我々キリスト者には大いなる望みがある。

主の血潮だ。

主の流した血は神を満足させた。

それで、どうして私を満足させないことがあろうか。

私の成果や努力を見てはならない。

貴き主の血潮ゆえに、私の良心は澄み渡り、

貴き主の血潮ゆえに、私は堂々と神の御前に立つことができる。

罪の意識はもはや消え失せてしまった。


ヘブル10:2
・・一度きよめられた者は、もはや罪を意識することはない・・
(新改訳)

ローマ4:8
主が罪を認めない人は幸いである。
(同)




The Blood And The Believer’s Access, #8

2014年10月26日 | 聖書研究・信仰
信仰生活の上で神に近づくためのステップには初期と後期の2段階ある。

前者についてはエペソ2章、後者についてはヘブル10章に書かれている。

初期段階においては、我々は主の血潮によって守られていた。


エペソ2:13
and now, in Christ Jesus, ye being once afar off
became nigh in the blood of the Christ,
(YLT)


今、しかし、キリストイエスにあって、あなたがたは
神から遠く離れている者たちであったが、
大変近くなった、キリストの血にあって
(直訳)

ヘブル10:19
Having therefore, brethren, boldness for entering
into the holy of holies by the blood of Jesus,
(Darby)


それで、兄弟たちよ、 至聖所へと遠慮せずに入る
大胆さを保ちながら、イエスの血にあって
(直訳)

初めは、血にあって神に近づく者となった。

その後は、毎回血を経ることにより、遠慮せずに神に近づくようになった新しい関係を継続する(ようになった)。

これが福音の基本だ。

これなしでは何事も進まない。

そう、最初から最後まで。




The Blood And The Believer’s Access, #7

2014年10月23日 | 聖書研究・信仰
神に近づくための道標を何と思うか。

それは、もちろん気分ではない。

主のために何かをしたという達成感でもない。

血が流され、神がそれを見て満足したという事実が根本だ。

その血が何かを起こしたようだという程度の感覚では何とも心もとない。

主の血潮は不変であり無限だ。

それ故、その道標は揺るぎがなく屈強だ。

主の血潮を経ることによってのみ、その道標は私のものとなる。

私の努力とは関係なく、ある想いが最も聖なる所へと向かう時、私の足場は主の血潮で頑丈となり、平安で満ち溢れる。

日和がどうあれ、罪を犯そうとも、私の道標はいつも同じ。

主の血潮。

これのみが、私がそこへ大胆に入って行くための道標だ。




The Blood And The Believer’s Access, #6

2014年10月22日 | 聖書研究・信仰
主を礼拝するための心構え6箇条

いらっとした日は礼拝しない。

ちょっとだけ良いことをした日は礼拝する。

聖書を温かい気持ちで読めて、お祈りも上手にできた日は礼拝する。

家族とちょっとしたもめ事があった日は礼拝しない。

気分が悪い日は礼拝しない。

何かおかしい日は礼拝しない。

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The Blood And The Believer’s Access, #5

2014年10月21日 | 聖書研究・信仰
主の血潮によって、神とお会いするための道を求めているか。

主の血潮によって、とはどういうことか。

私には無数の罪があるということ。

私には清めと贖いが必要であるということ。

主イエスの御業により神に近づくことができるということ。

主イエスの恩恵のみで神にお会いできるということ。

何かを付け足す必要はない。

私の親切や寛容をそれに加える必要はない。

主のために行なう善行など不要だ。

神とともに歩みたいと思うなら、主の血潮を仰ぎ見ればよい。

神が何かをしてくれるのではない。

神のなさることは、主イエスを存分に分け与えてくれること。

十字架の意味を深く教えて下さること。

神が設けた基準に向かって頑張れば、清い良心を持つことができるのか。

違う。

清い良心は、我々の努力で手に入れることはできない。

それは主イエスの血潮の中にある。



The Blood And The Believer’s Access, #4

2014年10月19日 | 聖書研究・信仰
神との交わりの場において、全く罪悪感のない良心を持っていることは何と素晴らしいことか。

信仰の心と全く罪定めのない清らかな良心、この2つは我々キリスト者に必須である。

良心が汚れると信仰も薄れる。

神に目を向けることができなくなる。

神とともに歩むために、日々主の血潮を仰ぎ見る必要がある。

主の血潮を携えて、今このひと時を神とともに歩むのだ。

主の血潮を携えることなしに、神のおられる至聖所に入ることはできない。


The Blood And The Believer’s Access, #3

2014年10月17日 | 聖書研究・信仰
私と神との間の交わりを阻んでいる何かがある。

その何かのために、神に近づこうとする度に、私の中に潜んでいる邪悪な良心がうずく。

つまり、私と神との間には絶えず越え難い障壁があることが分かる。

しかし、主の血潮の業によって、今まで見たこともないようなことが神の御前で成し遂げられた。

私と神との間の交わりを阻んでいた障壁が取り除かれたのだ。

神は、御言葉を通して、そのことを私に教えてくれた。

そのことを信じ、そのことを受け入れた瞬間、私の良心はきれいになり、罪の意識は取り除かれた。

そして、私の中に潜んでいた神に対する邪悪な良心は消え去った。





The Blood And The Believer’s Access, #2

2014年10月14日 | 聖書研究・信仰
主の血潮は神を満足させ、かつ我々をも満足させてくれなければならない。

主の血潮は我々の心を清めることができるか。

これは極めて重要な疑問だ。

わが心はどうしようもなく病んでいるので(エレミア17:9)、清めるのではなく、何かもっと根本的なことがなされなければならない。

つまり、我々は新しい心を授けてもらう必要がある。

肉はあまりに悪すぎて清めることはできない。

それは十字架に付けるしかない。

私は新しい心をあなたに授けよう。

新しい霊をあなたの中に吹き込もう(エザキエル36:26)。

主の血潮は我々の心を清めてくれると解釈する学者もいる。

しかし、主の血潮は、そのように主観的に働くのではなく、神の御前では全き客観的に働くはずである。

ヘブル10章に主の血潮の清めの業について記されているが、それは、に関連してではなく、良心に関連しての記述である。

では、再度

>邪悪な良心から心々を注ぎ出されてしまったので

この文章をどのように理解すれば良いのか。




The Blood And The Believer’s Access, #1

2014年10月13日 | 聖書研究・信仰
主の血潮は神を満足させた。

主の血潮は我々をも満足させてくれるはずだ。

ヘブル10:22
そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて
邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、
全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
(新改訳)

「血の注ぎを受けて」と書いてある。しかし、原典には、「血の注ぎを受けて」という語句は存在しない。Neeは次のように書いている。‘The writer does not tell us that the Blood of the Lord Jesus cleanses our hearts’つまり、「血の注ぎを受けて」という訳出は、極めて重大な誤解釈(誤訳ではない)ということになる。さらに、「邪悪な良心を」ではなく「邪悪な良心から」。


may we draw near with a true heart,
in full assurance of faith,
having the hearts sprinkled from an evil conscience,
and having the body bathed with pure water;
(YLT)


真心をもって近づこう
信仰の確信の中で
邪悪な良心から心々を注ぎ出されてしまったので
そして、清い水に体を洗われてしまったので
(直訳)

*「真心」は単数、「良心」は単数、「心」は複数、「体」は単数。

では、

>邪悪な良心から心々を注ぎ出されてしまったので

この文章をどのように理解すれば良いのか。

参考:魂こそ新生される必要がある





God Is Satisfied, #3

2014年10月12日 | 聖書研究・信仰
キリストの血潮を意識しようと思うな。

血潮の価値を感じようと思うな。

主の血潮の貴さを具体的に知ろうと思うな。

主の血潮は魂の領域ではなく霊の領域で働く。

まずは、神がその血を見る。

そして、神が満足しているという事実をそのまま受け入れる。

魂で理解しようとすると失敗する。


第1ペテロ1:18~19
ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わった
むなしい生き方から贖い出されたのは、
銀や金のような朽ちる物にはよらず、
傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、
尊い血によったのです。
(新改訳)


having known that, not with corruptible things
--silver or gold--were ye redeemed from your foolish
behaviour delivered by fathers, but with precious blood,
as of a lamb unblemished and unspotted--Christ's--
(YLT)

(要点:我々はキリストの血によってすでに救い出されてしまった。)

我々の罪の代価、すなわち我々の救いの代償として、神は主の血を受け入れた。

故に、我々の負債はすべて支払われたと確信できるのだ。

神の血に対する評価は神の我々に対する評価とは同等だ。

神は聖であり義である。

その神がキリストの血を受け入れ満足している。

だから、我々の救いは絶対に揺るがない。