みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#398 神の法第二戒

2019年08月31日 | 神の法
第2戒
律法と平等

p99~
Law and Equality
The Second Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

新約時代、真の教会、真の神の御国には「一つの主、一つの信仰、一つのバプテスマ」(エペソ4:5)の原則が適用された。

地方教会の会員となることがあっても、それは、全クリスチャンから成る普遍的な神の国の一員であるという事実の上にはじめて成り立つものであった。

しかし、究極的・本質的な統一があるからといって、地方的・民族的な区別を取り去ってもよいということにはならない。

統一(unity)は、画一(uniformity)と混同されてはならない。

平等主義は、現代の政治的宗教的概念であり、聖書の世界には存在しない。

聖書律法の中に平等主義を見いだすことは不可能。

平等主義はヒューマニズムと新種の偶像崇拝(人間崇拝)の産物。

人間の想像力が作り出した新しい偶像。

今日、平等主義は、宗教、政治、経済の分野において、物事の価値を決定するための判断基準として機能している。

聖書信仰から平等主義を導き出そうとする試みは、聖書に対する攻撃であり、不誠実の罪。

申命記23章1~8節には、集会から除外すべき人々の興味深いリストが記されている。

私生児は十代目まで集会のメンバーにはなれない。

去勢者は、それが事故によるものであれ、人間の意思によるものであれ、排除される。

去勢者には子孫がないゆえに、彼らの関心は未来にはない。

それゆえ、市民権は与えられない。

アモン人やモアブ人など倫理性に問題のある民族が市民となることができない理由は、契約を責任ある人々の手中に置くことにある。

エドム人やエジプト人を制限したのも同じ理由による。

古来、一般に去勢者は官吏として重用された。

ビザンチン帝国において、彼らは行政事務を司った。

去勢者は未来に対して利害や関心を持たないがゆえに、彼らには、目先の事務処理に集中し、それを忠実にこなす職務が与えられた。

去勢者は、一種の実存主義者であり、過去や未来から切り離され、現在に繋がれていたので、家庭を持つ人々よりも重用された。

植民地時代のニューイングランドにおいて、教会や国家は契約思想に基づいて運営された。

住民はみな教会に通っていたが、教会運営に(それゆえ政治にも)携われたのはその中の限られた人々だけであった。

教会の会員であることと市民であることは同値であった。

教会運営の原則は、責任を負うことができる人々にしか責務は与えられないというものであった。

一つの信仰、一つの法、一つの義の基準という原則は、民主主義ではない。

民主主義という名の異端は、これまで教会や国家に大きな混乱をもたらし、社会を無政府状態に追い込んできた。





#397 神の法第二戒

2019年08月30日 | 神の法
第2戒
律法と平等

p99~
Law and Equality
The Second Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

これは、彼らが三代を経た後に加入権を与えられる、つまり、三世代にわたって契約の神を信じ、神の法を守っていることが証明されない限り、市民となる資格は与えられない、という意味。

王座は幕屋の中にある契約の箱であり、幕屋は贖いの中心。

市民としての資格と教会員としての資格は同一のものであるとされた。

信者であることが市民となるための必要条件だった。

宗教的背信は、市民的反逆と見なされた。

信仰を持つ外国人でも、何らかの形で、少なくとも祈るために、聖所に近づくことができた。
(第2歴代誌6:32~33)

しかし、これにより市民権を得ることはなかった。

外国人(エジプト人、バビロニア人、エチオピア人、ペリシテ人、フェニキア人等)は、真のシオン、すなわち、天におけるシオン、神の都の市民となれた(詩篇87編)。

地方的シオン、すなわちイスラエルは、神の規定によらずに、排除された集団を受け入れることはできなかった。

女性の場合、イスラエル人の男性と結婚して市民となることができた(ルツ記4:6)。

自らが直接に市民となれるわけではなかった。

つまり、女性は夫の立場にあずかることによってしか市民とはなれなかった。

聖書律法には平等主義は存在しない。

出エジプト記12:49
このおしえは、この国に生まれた者にも、あなたがたの中にいる在留異国人にも同じである。

誰に対しても同一の法を適用することを定めた同一法の命令から、すべての人を公平に裁く。

イスラエルは、律法に基づいて構成員や市民となる資格を制限していた。

異邦人とユダヤ人は、無理矢理一つの群に統合されていたのではなく、独自の集会を開くことによってそれぞれの文化的特質を維持できた。

使徒15章のエルサレム会議の記事から、ユダヤ人と異邦人が同じ群に属した場合、文化的伝統や道徳的・霊的な成長の差のゆえに、集会の内部で大きな軋轢が生じていた。

彼らは、別々に集会を持つことを許されていた。

ユダヤ人は異邦人集会への入会を断られることはなかった。

入会制限を設ける集会も、制限を設けない合同的集会も合法とされていた。

イスラエルでは、信仰や国籍によらず、あらゆる人に同一の法が適用された。

絶対の義の基準が万人に適用された。

えこひいきはなかった。




#396 神の法第二戒

2019年08月29日 | 神の法
第2戒
律法と平等

p98~
Law and Equality
The Second Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

このように、国家とは、人間の生命と財産一切を包含する完全な制度。

国家は、暗黙のうちにあらゆるものに優先する基本的な価値であり、自らを保全するためにはあらゆるものを没収することができる。

合衆国の場合、所得税は17世紀にニュー・イングランド州において発達した。

当初、課税対象は限定されていた。

南部は所得税に反対した。

国家に関する概念は、徐々に、しかも確実にヒューマニズムに移行してきた。

20世紀になると、税金は社会や経済を変革するための手段となった。

徴税の目的は、単に市民政府を支えることではなく、平等化と平等主義に基づいて社会を再編することにあった。

この新しい税金の概念の中に、合衆国の新しい支配宗教であるヒューマニズムの正体がはっきりと見てとれる。

法源としての神が否定された以上、法は全体主義と平等主義の原理を施行する手段となった。

聖書律法において、平等主義や寡頭政治にはいかなる立場も与えられていない。

法源としての神は、市民的原理として契約を制定された。

契約の中にいる者たちだけが市民。

契約は神の法に基づいて制限を設け、市民権への障壁を設定することによって、ある人々を排除する。

この規定は具体的であり、ある種の人々や集団が名指しで排除される。

律法のこのような側面は、現代人にとって扱いにくい問題であり、それゆえに回避されることが多い。

それゆえ、この点について特に注意を払う必要がある。

申命記23:1~8
こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者は、主の集会に加わってはならない。不倫の子は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、主の集会に加わることはできない。アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、主の集会に、はいることはできない。これは、あなたがたがエジプトから出て来た道中で、彼らがパンと水とをもってあなたがたを迎えず、あなたをのろうために、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇ったからである。しかし、あなたの神、主はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである。あなたは一生、彼らのために決して平安も、しあわせも求めてはならない。エドム人を忌みきらってはならない。あなたの親類だからである。エジプト人を忌みきらってはならない。あなたはその国で、在留異国人であったからである。彼らに生まれた子どもたちは、三代目には、主の集会にはいることができる。 

去勢された男性を市民として受け入れることを禁じている。

私生児は十代目まで市民権を得ることができない。

アモン人とモアブ人については、本文の読み方によって、十代目まで加入できないか、もしくは、永久に排除されるか解釈が分かれる。

エドム人とエジプト人は、三代目において、市民となる資格を与えられる。




#395 神の法第二戒

2019年08月28日 | 神の法
第2戒
律法と平等

p96~
Law and Equality
The Second Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

リベラリズム(自由主義)は、社会の宗教的・家族的絆を破壊する。

その後には、浮き草のような個人とヒューマニズム国家だけが残る。

社会は集団主義と個人主義の間を揺れ動く。

神が法源であることを認めない社会は、法の原則を歴史(すなわち人間)に求めるようになる。

すると、対立は、神の法と人間の罪との間にではなく、人間が定めた法律とそれに従わない人との間に存在するようになる。

自分たちの法律に同意しない人々はすべて罪人とされる。

このような法律は、人々を抑圧する貴族政治(aristocracy)と、貴族政治を抑圧しようとする民主政治(democracy)という二つの矛盾する原理を同時に評価するようになる。

一般に、政府の主要な目的は秩序の確立にあるとされる。

秩序を確立するための手段は、社会によってさまざま。

秩序を保全する最高の政府とは、いかなるものにも妨げられずに個人を抑制できる政府、つまり独裁的な政府。

それでは、もし秩序が第一の目的であり、独裁的な政府が秩序を施行する最善の手段であるとすれば、なぜ必ずしもすべての政府が独裁的にならないのか。

その理由は、万人は生まれながらにして平等だから。

地球上で生まれるすべての人が、他のすべての人と平等に地球を利用する権利を有している。

秩序は政府の目的ではあるが、最終目的ではない。

秩序は、人々が生まれながらにして持っている平等の権利を自らが享受するための手段でしかない。

もしこれが真理であるならば、政府が依拠する究極の原理とは平等であり、政府の活動や組織を規制する統一の法は平等の法となる。

平等とは、単に税の平等(equality of contribution)を意味しない。

もし富裕者であれ貧者であれ、同額の税金を納めなければならないとしたら、それは最大の不平等。

では、平等は資産に従った比例税(proportionate contribution)に存するのか。

比例税は資産税一般の中でも、平等の原則に則った課税方法であると、法廷において認められてきた。

ある偉大な経済学者は、納税の平等は犠牲の平等の上に成り立つと述べている。

法廷が普通、課税の平等性を測る際に参考にしてきた基準は、納税者がどれくらい犠牲を払っているかということではなく、その人にどれくらいの収入があったかということ。

グレイは、課税の利益理論(the ”benefits” theory of taxation)を否定した。

もし最大の受益者が最も多くの税金を払うということになれば、貧困者や弱者が最も多く払い、富裕者や強者が最も少なく払うことになる。

グレイは議論の結びとして次のように結論した。

「人民を平等化し、彼らから権力を奪取せよ。それは、人民と同等の力を持つだけではなく、人民よりもはるかに強大で、彼らを押しつぶす国家を作るためである」

国家は、行政機関を通じて活動し、国民の財産に関して絶対かつ無制限の課税権を有する。

国家の領土内に住むすべての人々は、国民であれ外国人であれ、その権威に服従しなければならない。

国家はその存在を維持するために、領土内にあるあらゆる種類の資産、及びあらゆる特権・権利・所得を利用、徴収できる。

国家は、法、秩序、正義の確立のために存在する。

資産制度、生命・自由・財産が確保され、安全に保たれるのも、国家が存在するからにほかならない。

財産の私有が、国家の存在を前提としている以上、国家の存在を確保、保全するために、国家は、すべての私有財産を使い尽くす正当な権利を有する。

あらゆる特権と自由の価値は、国家による保護によって支えられているので、国家は自らを維持するために、それらの特権と権利の一部もしくは全部を譲り受ける権利がある。




#394 神の法第二戒

2019年08月27日 | 神の法
第2戒
律法と平等

p96~
Law and Equality
The Second Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

個人が集団よりも高い価値を持つと考える個人主義社会は、個人の活動範囲を制限する。

集団を破壊する傾向にある。

それに対して、集団社会は、個人を否定し、個人を単なる数字に貶める。

この矛盾は幻想であって、実際は個人主義社会は集団主義社会にならざるを得ない。

なぜならば、個人の解放を目指す運動は、まず社会全体の基本要素である小集団を破壊することになる。

この過程で、個人は自らを家族や村、教区、兄弟関係から切り離し、社会全体と相対する結果となる。

個人が共同生活する唯一の場は組織化されていない大衆社会。

同じように、大衆社会は、個人(すなわち、孤立した状態にある人々)を土台にすることなしには存在できない。

個人のアイデンティティーは、個人間の相互関係によって決定される。

個人は他のすべての個人と平等であると主張するが、まさにその主張ゆえに、彼は抽象的存在になり、事実上、一個の数字に堕す。

地方の有機的な組織が改編されると同時に、社会は個人主義的であることを止める。

それゆえ、その大衆的性格をも失う。

大衆社会として留まる集団においてエリートの有機的組織が形成される。

しかし、その大衆社会として残った部分は、強固に構成された、中央集権的な政党や組合等の体制に依存する。

これらのエリート組織は、活動的な少数派の人々にしか影響を与えない。

この少数派に属する人々は、そのような有機的な組織に組み込まれることによって個人主義的であることを止めるようになる。

個人主義者と大衆社会は、同一の現実から必然的に生ずる二つの側面。

このことは、われわれがすでにマスメディアについて述べてきたことと符号一致する。

つまり、マスメディアは、宣伝活動を行う場合、同時に個人と大衆のいずれの心も捉えなければならない。




#393 神の法第二戒

2019年08月26日 | 神の法
第2戒
律法と平等

p95~
Law and Equality
The Second Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

死は争いの結末。

偽りの平和を求める社会は死を求めている。

争いは有益。

社会は争うことなしには成り立たない。

しかし、争いを制御できない社会は成り立たないだけではなく、さらに悪い結果を生み出す。

性(交渉)を例に取ることにしよう。

性(交渉)を規則によって管理しなければ社会は成り立たない。

どの程度性に対して制限を設けるかは、社会によって様々である。

性を完全に制限すると社会は消滅してしまう。

逆に、制限を撤廃しても社会は崩壊してしまう。

同様に、争いを完全に抑制すると、完全に自由にした場合と同様に、社会は無政府状態に陥る。

今日、われわれ西洋人は、争いの意味を正しく理解していない。

われわれは争うことを恐れている。

われわれの回りにある離婚や暴動や戦争に対して、われわれは争うことを拒否している。

本来ならば争いを取り扱うはずの人間の諸制度が、それらを処理できなくなっている。

また、それらを処理できる代替制度も持ち合わせていない。

争いの解決には二つの解決法がある。

規則と戦闘、すなわち法律と戦争。

これらは、本来自らが守り、強化すべきはずのものを逆に破壊している。

この見解はヒューマニズム的であり、相対主義的。

社会の内部で発生する紛争は、無政府状態を生み出す。

万人にとって自分が決定した法だけが法であり、人間の意思の他にいかなる絶対的な意思も存在しないとすれば、全体主義は避けられない。

しかし、全体主義を避けようとすると、完全な闘争状態と完全な無政府状態に陥るほかはない。

相対主義社会は争いの問題を解決できない。

いくら正しく秩序ある方法で処理したとしても、相対主義社会は争いを正しく処理できない。

もし、あらゆる見解、宗教、哲学を合法化し、万人を市民と認めるならば、あらゆる法律・文化を認めなければならない。

その場合、結果は二つしかない。

抑圧的で全体主義的な国家が万人を支配するか、万人が自由奔放に振る舞う無政府状態に陥るか。

個人主義と集団主義はいずれも自由主義の産物である。




#392 神の法第二戒

2019年08月25日 | 神の法
第2戒
戦争としての法

p93~
Law as Warfare
The Second Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

つまり、あらゆる法秩序は、その秩序の敵に対する戦争であり、あらゆる法は戦争の一形態。

あらゆる法は宣言する。

違法者は法秩序の敵であり、逮捕されるべきであると。

限定的な犯罪に対しては、限定的な刑罰が課せられる。

死罪に対しては、死刑が課せられる。

法とは戦争の状態。

法は、法秩序の敵を法に照らして処断することを目的とする。

市民政府の権力機構(organization of the powers)。

それゆえ、法の執行者は、当然、武装することになる。

神的国家において、法の執行者たちは、社会を敵から守るために、武器だけではなく法的正義をも身につけなければならない。

法を支持する者たちは、神的法秩序を改善・強化・確立するために、絶えざる努力を払う。

法の敵は、法に対して絶えず攻撃をしかける。

立法府や法廷を通じて内部から法を破壊しようとする。

違法行為や法律軽視、知的手段を通じて外部から攻撃することもある。

あらゆる法秩序は、つねに攻撃の矢面に立たされている。

この世が天国でない以上、あらゆる法秩序はその内部に敵をたえず抱えている。

重要なことは、法秩序は攻撃に耐えうるのかということ。

カナン絶滅を命じられた時(申命記7:1~11)、イスラエルには服従には健康が伴うとの約束が与えられた。

つまり、服従する時に、人間も家畜も増え、エジプトの疫病にかかることはないと告げられた。

申命記7:12~16
それゆえ、もしあなたがたが、これらの定めを聞いて、これを守り行うならば、あなたの神、主は、あなたの先祖たちに誓われた恵みの契約をあなたのために守り、あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたをふやし、主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われた地で、主はあなたの身から生まれる者、地の産物、穀物、新しいぶどう酒、油、またあなたの群のうちの子牛、群のうちの雌羊をも祝福される。あなたはすべての国々の民の中で、最も祝福された者となる。あなたのうちには、子のない男、子のない女はいないであろう。あなたの家畜も同様である。主は、すべての病気をあなたから取り除き、あなたの知っているあのエジプトの悪疫は、これを一つもあなたにもたらさず、あなたを憎むすべての者にこれを下す。あなたは、あなたの神、主があなたに与えるすべての国々の民を滅ぼし尽くす。彼らをあわれんではならない。また、彼らの神々に仕えてはならない。それがあなたへのわなとなるからだ。

社会が健全であり続けるためには、社会から悪を取り除く必要がある。

法が戦争の一形態である以上、悪との共存関係に陥らないように絶えず監視の目を光らせる必要がある。

悪と共存しようとする者は、神に対して宣戦布告している。

アモン人とモアブ人に関して、律法は次のように宣言する。

申命記23:6
あなたがたは、一生、彼らのために決して平和も、繁栄も求めてはならない。

法秩序は、戦争を回避できない。

もし法秩序が、ある領域において平和を獲得すると、必然的に他の領域に対して宣戦布告することになる。

法制度は戦争の一形態である。

戦争の事実は不変であるが、戦争の目的は変わる。

イエスキリストによる新世界秩序(the new creation、新創造)は、罪に堕ちた旧世界との全面戦争の最終結果。

新世界秩序(新創造)の誕生には、悪が地獄において永久に制圧されることが必要。

様々な形態の社会主義が主張する新世界秩序(新創造)は、聖書の神と神の契約の民を完全制圧することなしには決して成立しない。

平和は天国の中にのみ存在するのであって、天国と地獄の間にあるのではない。

悪との共存が不可能であることを悟らない限り、法秩序は平和を獲得できない。

ジョン・フィルポット・クーランは、1790 年、『選挙権』という題の演説の中で、次のように述べた。

怠惰な人々は、自らの権利が活動的な人々によって破壊され、食い尽くされるのを見ることになるだろう。

これは、彼らに訪れる共通の運命となる。

神は人間に自由を与えた時に、一つの条件を付け加えられた。

その条件とは『不断の監視(eternal vigilance、絶えず警戒すること)』。

これを怠れば、直ちに己れが犯した罪の結果に対する苦役が待っている。

悪との共存を求める人々が刈り取る実は、平和ではなく隷属。

そのような人々が得ることのできる平和とは、死と墓以外にない。




#391 神の法第二戒

2019年08月23日 | 神の法
第2戒
戦争としての法

p92~
Law as Warfare
The Second Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

律法は、エジプト人や他の異国人に対して報復することを禁止している。

復讐するのではない。

エジプトにおいて抑圧されたことを記憶に留め、それをバネにして、神の命令を守り、さらに献身の姿勢を強めるということ(レビ記19:33~37)。

異国の民から不当な扱いを受けたのだから、自分たちは在留異国人に対してそのようなことをすべきではない。

けっしてエジプト人のまねをしたり、不正を働くべきではない。

エジプトは、すべてのヘブライ人を抹殺しようとした(出エジプト記1:15~22)。

しかし、イスラエルは、律法に個人的忠誠を尽くすことによって、すべてのエジプト人を正しく取り扱わなければならない。

カナン人は聖絶されなければならない。

彼らがイスラエルに対して敵対していたからではない。

基準はあくまでも神の法。

カナン人と同じように、エジプト人も神に敵対していた。

カナン人の場合、彼らの不義は満ち、その悪は極限にまで達した(創世記15:16、レビ記18:24~28)。

売春や同性愛が宗教行事化し、堕落は揺るぎないものとなっていた。

人々は、そのような行為に誇りさえ感じていた。

彼らの咎は満ちた。

神は彼らに死刑を宣告され、イスラエルを死刑執行人とお定めになった。

このため、聖書は醜悪な道徳を教えていると訴えられてきた。

このような訴えは訴えた人々の憎悪を示している。

カナン人(に対する神)の裁きが彼らの癇にさわるのは、神の裁きの基準が彼らの意に沿わないから。

しかし、神は神であられ、神の基準のみが勝利を得る。

人間のそれではない。

カナン人は総じて死に値する状態にあった。

アブラハムの時代からヨシュアの時代まで、数百年間、神は彼らの存続をお許しになった。

しかし、ついに処刑宣告が下された。

イスラエルは彼らを完全に処刑することに失敗したが、そのことは、結局、彼ら自身に裁きをもたらした。

カナンに対する死刑宣告は、戦争の事実を端的に示している。

戦争は限定的な目的のために行う場合もあれば、相手を死に至らしめるために行う場合もある。

その後、戦争は相容れることのできない原則をめぐり、死に至るまで徹底して戦われるようになった。

神との戦いも死に至る戦いだが、死に至るのは神ではなく、神に刃向かう者たちだ。




#390 神の法第二戒

2019年08月18日 | 神の法
第2戒
戦争としての法

p91~
Law as Warfare
The Second Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

第3の方法は、聖書的な方法。

この法は、この国に生まれた者にも、あなたがたの中にいる在留異国人にも同じ(出エジプト記12:49)。

法はだれをも偏り見ず、万人を公平に扱わなければならない。

有罪が証明されるまで、訴えられた人は無罪。

訴えが証明されるには2人の証言が必要(民数記35:30、申命記17:6)。

ソロモン裁判において、あの2人の遊女たちは、最後にソロモンの所まで上訴することができた(第1列王記3:16~28)。

上訴の権利が与えられたからといって、公民権が与えられたわけではない。

イスラエル人の血を引いているにせよ、異国人として生まれたにせよ、この2人の女性は法律上外国人として扱われ、公民権は与えられなかった。

彼女らは捧げ物を捧げることはできなかった。

至聖所は神の王座のある場所であった。

それゆえ、その王座への誓約が拒まれるということは、公民権が与えられていなかったことを意味する。

その人は、国家の一員としての法的な立場を与えられていないので、税金を免除されていた。

レビ記4章の犠牲のレベルや重要度から判断すると、責任が大きくなればなるほど罪の重さも増す。

無責任な犯罪行為は、権利の喪失を招く。

法の中にいない人間はアウトロー。

法秩序が提供する諸々の権利を享受できるのは、その法秩序の中に生きる人々だけ。

公民としての権利を持つ者は諸々の権利を享有する。

それゆえ、法律の正当な手続きと市民的特権との間には明確な違いがある。

胸当てとエポデに関する規定を通して、法の不公平性と公平性を見てきた。

無責任な犯罪行為は、権利の喪失を招くという事実にも目を向けた。

問題の核心は、法とは戦争の一つの形態、すなわち戦争の主要かつ継続的な形態であるということ。

第二戒は、礼拝における像の使用を禁ずる。

像を利用した礼拝形態はことごとく廃止されなければならない。

出エジプト記23:24
あなたは彼らの神々を拝んではならない。仕えてはならない。また、彼らの風習にならってはならない。これらを徹底的に打ちこわし、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない。 

申命記12:1~14
これは、あなたの父祖の神、主が、あなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたがたが生きるかぎり、守り行なわなければならないおきてと定めである。あなたがたが所有する異邦の民が、その神々に仕えた場所は、高い山の上であっても、丘の上であっても、また青々と茂ったどの木の下であっても、それをことごとく必ず破壊しなければならない。彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。あなたがたの神、主に対して、このようにしてはならない。ただあなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。あなたがたは、私たちがきょう、ここでしているようにしてはならない。おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。あなたがたがまだ、あなたの神、主のあなたに与えようとしておられる相続の安住地に行っていないからである。あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに受け継がせようとしておられる地に住み、主があなたがたの回りの敵をことごとく取り除いてあなたがたを休ませ、あなたがたが安らかに住むようになるなら、あなたがたの神、主が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ、私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない。あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたが主に誓う最良の誓願のささげ物とである。あなたがたは、息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、主の前で喜び楽しみなさい。また、あなたがたの町囲みのうちにいるレビ人とも、そうしなさい。レビ人にはあなたがたにあるような相続地の割り当てがないからである。全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。ただ主があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。 

2種類の服従方法が対照的に描かれている。

服従しようとする者は、(1)偶像礼拝が行われるあらゆる場所を破壊し、(2)定められた方法と定められた場所において、神に捧げ物を携えなければならない。

偶像礼拝の場所と像を破壊せよとの命令は、申命記7章5節、16章21、22節、民数記33章52節、出エジプト記34章13、14節にも記されている。

いくつかの箇所において、像を破壊するには、その像を所有する民をも破壊しなければならないと述べられている(申命記7:1~5)。

カナン人と契約を結んだり、結婚することは許されなかった。

神の命令によって、カナン人は死の祭壇に奉献された。

彼らは、殺されるために選り分けられ、聖められた。




#389 神の法第二戒

2019年08月17日 | 神の法
第2戒
戦争としての法

p90~
Law as Warfare
The Second Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

犯罪に税金をかけることは、その合法性を認めることになる。

犯罪者を経済的に支える立場を与えることになる。

もしこのような法的立場を許せば、法の保護を平等に受ける権利をも与えなければならなくなる。

これは、訴追免除を意味する。

聖書律法の影響によって、今日ほとんどの国において犯罪者は公民権を失う。

有罪の宣告を受けた人々には、法的な立場は一切与えられない。

今日、このような法律には改悪の圧力がかけられ、すべての人が徴税の対象となっている。

申命記23:17~18
イスラエルの女子は神殿娼婦になってはならない。イスラエルの男子は神殿男娼になってはならない。どんな誓願のためでも、遊女のもうけや犬のかせぎをあなたの神、主の家に持って行ってはならない。これはどちらも、あなたの神、主の忌みきらわれるものである。 

排他的な公民権授与のための法的根拠が提供されている。

聖書において、売春婦に与えられている一般的な呼び名は、見知らぬ人、または見知らぬ女(=外国人)。

契約の民にとって、売春は異国の習慣であった。

イスラエルの少女が売春を行うと、冒涜者(レビ記19;19?)と呼ばれた。

神殿に入ることを許されず、市民の身分を奪われた。

つまり、外国人として扱われた。

同性愛者も、法の外に置かれた。

売春婦は、見知らぬ女(箴言2:16、5:3、20、6:24、7:5、23:27、33、27:13)と呼ばれた。

同性愛者は、犬と呼ばれ(申命23:18、黙示22:15)、人間とは見なされていない。

ローマ1章27節のギリシャ語本文が明らかにしているように、同性愛者は背信の炎によって燃え尽きた後に残る燃え滓。

一般に、法律がアウトローや異議者を取り扱う方法には3つの種類がある。

アウトローと異議者は、どちらも法に対して反抗しているが、両者の間には大きな違いがある。

第一は、中世の教会が採用した方法。

異端者は法律上の権利を失った。

これによって、体制の圧力から被疑者を法的に擁護することが困難になった。

自らが異端と化していた体制側が告発するだけで、批判する人々をすべて封じ込めることができた。

嫌疑だけで人を有罪にすることができた。

第2の方法は、合衆国をはじめとする現代の自由主義国家によって採用されている方法。

犯罪者の公民権を否定する法律に対して、直接的な攻撃が加えられた。

犯罪者をこのように扱うことによって、その法律は実質的に無効になる。

合衆国最高裁は、被害者よりも加害者を優遇した。

法律上の空虚な技術を駆使することによって、強姦や殺人を自白した者たちが釈放されてきた。