みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#26 終末預言 by T. Tomii

2021年12月30日 | 終末預言 
ダニエル7章はティトゥスによって成就した

かつてダニエル7章に関して、師に質問したことがある。

不勉強が露呈して恥ずかしい限りだが、全文そのまま提げておく。

ダニエル7章に関して確認しておきたいことがあり、貴兄のご意見をお聞きしたいと思います。ダニエル7章13節にこうあります。私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この聖句はマタイ24章30節と酷似した内容であり、旧約時代の終わりを預言していると理解して良いでしょうか。次に22節。しかし、それは年を経た方が来られるまでのことであって、いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行なわれ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た。「さばき」とあるので最後の審判と世の終わりの預言、そして「聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た」とあるので、万物の回復の預言と解釈してよいでしょうか。そうすると、15節以下は現在進行中の新約の時代について書かれていると理解されますが、いかがでしょうか。

ダニエル7章全体が旧約時代の終焉を指し示しているということは、もはや議論の余地はない。
熱心に学んでいる読者諸氏にとっても、すでに当たり前になりつつあるのではないかと思う。


◇◇

ユダヤを支配する4つの世界帝国を描くダニエル書は、旧約聖書の一部であり、それゆえキリストによってすでに成就されている。

7章では、第4帝国であるローマ帝国が描かれている。

ディスペンセーション主義などでは、ローマ帝国に関するダニエルの預言は未来に成就すると考えられているが、誤った解釈である。

それは、ティトゥスによって成就された。



それから私は、第四の獣について確かめたいと思った。それは、ほかのすべての獣と異なっていて、非常に恐ろしく、きばは鉄、爪は青銅であって、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。
その頭には十本の角があり、もう一本の角が出て来て、そのために三本の角が倒れた。その角には目があり、大きなことを語る口があった。その角はほかの角よりも大きく見えた。
私が見ていると、その角は、聖徒たちに戦いをいどんで、彼らに打ち勝った。
しかし、それは年を経た方が来られるまでのことであって、いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行なわれ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た。
彼はこう言った。『第四の獣は地に起こる第四の国。これは、ほかのすべての国と異なり、全土を食い尽くし、これを踏みつけ、かみ砕く。
十本の角は、この国から立つ十人の王。彼らのあとに、もうひとりの王が立つ。彼は先の者たちと異なり、三人の王を打ち倒す。
彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。
しかし、さばきが行なわれ、彼の主権は奪われて、彼は永久に絶やされ、滅ぼされる。
国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する。』(ダニエル7・19-27)

「その頭には十本の角があり、もう一本の角が出て来て、そのために三本の角が倒れた。その角には目があり、大きなことを語る口があった。その角はほかの角よりも大きく見えた。・・・十本の角は、この国から立つ十人の王。彼らのあとに、もうひとりの王が立つ。彼は先の者たちと異なり、三人の王を打ち倒す。」

ローマ帝国の皇帝を以下に挙げる。

1.ユリウス・カエサル(紀元前49年 - 44年)

2.アウグストゥス(紀元前31年 - 紀元14年)

3.ティベリウス(紀元14 - 37年)

4.ガイウス・カリグラ(紀元37年 - 41年)

5.クラウディウス(紀元41年 - 54年)

6.ネロ(紀元54年 - 68年―ヨハネ黙示録が書かれたとき6番目の皇帝)

7.ガルバ(紀元68年から69年)

8.(マルクス・サルウィウス・)オト(紀元69年1月15日 - 4月15日)[7、8、9は、根こそぎにされ、抑えつけられた3本の角]

9.(アウルス・)ウィテッリウス(紀元69年4月16日 - 12月22日)

10.ウェスパシアヌス(紀元69年 - 79年)

11.ティトゥス(紀元79年 - 81年)

参照:

http://www.purposeoflife.org.uk/...

ローマ帝国という獣には10本の角があった。

これは、1~10に当たる。

「この国から立つ十人の王。彼らのあとに、もうひとりの王が立つ。彼は先の者たちと異なり、三人の王を打ち倒す。」

ウェスパシアヌスの息子ティトゥスは、紀元70年のユダヤ・エルサレム侵略を指揮したローマの将軍で、ウェスパシアヌスとともにフラウィウス王朝を開始した。

7,8,9(すなわち、ガルバ、オト、ウィテッリウス。彼らもカエサルの家のものではない)の支配は短期間で終了したが、これは、スエトニウスによると、虐殺によるという。

「・・・3人の皇帝の王位簒奪と虐殺の後に帝国は長い間安定を失い、いわば、漂流状態にあったのだが、ついに、・・・フラウィウス家の手によって安定を取り戻したのであった」(Suetonius, Vespasian 1)。

ガルバ、オト、ウィテッリウスは、殺害され、王位を簒奪されたのである。

では、この殺害と王位簒奪の黒幕は誰か。スタンリー・L・サンドラーによるとそれは、ウェスパシアヌスであるという。

68年にネロが死去し、ローマが不安定になると、ウェスパシアヌスは他の近東の総督と共謀し、帝国を奪取した。
(Stanley L.Sandler, Ground Warfare:International Encyclopedia,vol.1, p.923.)

ティトゥスはウェスパシアヌスの将軍であったので、ティトゥスが、彼らの支配を終わらせたと考えても無理はない。

ここに「もう一本の角が出て来て、そのために三本の角が倒れた」という預言が成就した。

彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。

ティトゥスは、自分が破壊した神殿の中で礼拝された。


ヨセフォスによると、ティトゥスは、紀元70年、将軍たちとともに至聖所に入り(Josephus, The Wars of the Jews 6.4.7.)、崇拝を受けた。これは、大将軍として宣言された人物に対して慣例として行われていた行為であった。

ヨセフォス曰く、

「そして、今、ローマ人たちは、軍旗を神殿に運び入れ、東門の真向かいに置いた。そして、彼らは、これらの軍旗に犠牲を捧げ、ティトゥスを大将軍の座に据えた。」(Josephus, The Wars of the Jews 6.6.1.)。

この軍旗の柱の上には、大きな硬貨形の胸像または像があった。その像には、ウェスパシアヌスとティトゥスの姿が刻まれていた。

ここに、2テサロニケ2章が成就した。

彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。(2テサロニケ2・4)

Sproul師:
エリシャが祈ると、彼の召使たちの目が開かれる。彼らの目が開かれた時、彼らは一体何を見ただろうか。エリシャと取り囲む炎の戦車だった。旧約聖書全体を通して、空に見える戦車の姿は、ユダヤ人にとって、怒りと裁きのためにやってくる神の御姿を意味した。そして、それはまたご自身の栄光の門出でもある。神の栄光がエルサレムの東の門から放たれるのを旧約聖書の預言者は目撃したのだ。これらの記載されたイメージはすべて、ご自身の民に下る神の裁きを指し示している。

神ご自身の栄光はエルサレムの東門から解き放たれた。何故なら、そこは神殿の中で最も穢されたところだったからだ(私論)。


ティトゥスのエルサレム侵略は3年半続いた。

ローマとユダヤ人の宗教的緊張に端を発する「大逆」は、ネロの治世の第12年、紀元66年に始まった。ユダヤ人による反課税抗議運動とローマ市民への攻撃により危機が拡大した。ローマ総督ゲシウ・フローラスの対応は、第二神殿からの略奪であった。総督は、金は皇帝に献上するためであると主張し、翌日、エルサレムを急襲し、多数のユダヤ人高官を逮捕した。
https://en.wikipedia.org/...

これは、紀元70年の神殿崩壊と紀元71年のティトゥスのローマ帰還まで続いた。

ここに、「彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。」が成就した。

しかし、さばきが行なわれ、彼の主権は奪われて、彼は永久に絶やされ、滅ぼされる。

ティトゥスは在位2年で熱病により死亡した。

ただし、スエトニウスによると、弟ドミティアヌスによって毒殺された可能性があるという。



#25 終末預言 by T. Tomii

2021年12月29日 | 終末預言 
マタイ24章は終末預言か?Part2


「それだけであったら、現代の教会には不要な忠告」ということばは、1世紀に起きた劇的な霊的領域の大転換に関する知識の欠落を示している。あまりにも不勉強。以下の記事にあるように、「歴史的背景をふまえた上で、すべての時代に生きる人々への教訓としてしるされたもの」と表現すべきだ。オフィシャルな出版物として世に出すのであれば、なおさらのことそのように表現すべきだと思う。教会の檀上で私的に自分の私論を述べているのではないのだから。旧約時代において、自分の予言が成就しなかった預言者は偽預言者として処刑された。予言の内容によっては、人の生き死にに関わることがあるから当然と言えば当然の裁き。予言(宣言)するからには覚悟はできているのだろう。
Sproul師もあまりにも酷い解釈の仕方に憤りを隠せない。
弟子たちがイエスにまだはっきりしない点、「これらの事々は何時起きるのだろうか、これらすべての事々の到来のしるしは何ですか」を尋ねると、イエスは、これらすべての事々が成就するまで、この世代は過ぎ去らないだろうと言いながら、1世代の時間枠について言及した。そして、この預言のために、バートランドラッセルのような人々や現代の聖書批評家たちは「ほれ見ろ、聖書は信用できないし、イエスも信用できない。その世代の範囲内でこれらすべての事々は起こると預言したではないか」と言っている。この難問を取り扱うためにさまざまな試みが為されてきたと先週申し上げた。「世代」ということばの意味を再定義するようなものがあるが、正直に言って、そのような苦痛を伴う方法には我慢ができない。

◇◇

(Q)<この箇所は多くの学者によって、紀元七〇年の神殿破壊の予告であったと考えられている。しかし、それだけであったら、現代の教会には不要な忠告となる。むしろ、イエスは、それをも含めて終末の前兆への注意を述べ、すべてのキリスト者に終末に備えることを教えておられる、とみなすべきであろう。>(M氏)

(A)M氏の見解ですが、紀元七〇年の神殿破壊の予告だけであったら現代人にとって不要な忠告となる、というのはどうしてもいただけない解釈です。なぜならば、旧約聖書には、紀元前500年頃のエドム人やアッシリア人だけに向けて書かれた宣告があります。これらは、まったく現代人にとって無益なものとなるのでしょうか。そうではありません。聖書解釈の原則は、「聖書は第一義的に当時の人々に向けて書かれているのだが、それは、歴史的背景をふまえた上で、すべての時代に生きる人々への教訓としてしるされたものである。」でしょう。増田氏の解釈によれば、「エドム人に対する宣告というだけでは無益なので、それは現代についての預言も含んでいるに違いない」と考えなければなりません。そのような解釈を「読み込み」と言うのではないでしょうか。聖書は、私的解釈を施してはならないとペテロは警告したのではないでしょうか。紀元前500年のエドム人への宣告は、紀元前500年のエドム人への宣告以外の何物でもありません。それはもっぱら彼らにあてて書かれたのです。しかし、それを我々が読むときに、普遍的な教訓をそこから読みとれるのです。

 神殿崩壊の前兆は、神殿崩壊の前兆以外の何ものでもないのです。それを現代人の都合に合わせるために、終末の前兆にすることは許されません。あくまでも、聖書は聖書に語らせるべきなのです。もし釈義的に終末預言と考えることも可能であるというならば、話は別です。しかし、ルカを読むと、「あなたがたが見ているこれらのものについて言う」と前置きがしてあって、前兆が語られるのです。これは、やはり、当時の神殿についての預言であって、終末預言と考えることはとうてい不可能です。

<終末前に全世界へ福音が宣べ伝えられるという一四説も(中略)終末が遅れるなら、それは宣教の任に当たる教会の怠慢が一因であることを示す>。(H氏)

これは、すでに掲示したように、神殿崩壊の前に全世界に福音は伝えられたのです。その全世界が、文字どおりの全世界かどうかは判りません。パウロやペテロやその他の人々が南米の奥地にまで福音を運んだかどうかはわかりません。おそらくなかったでしょう。しかし、聖書自体が「福音は第1世紀に全世界に伝えられた。」(コロサイ1・1・6、ローマ1・8など)と宣言しているのです。恐らく全世界とはパウロの時代の人々が考えていた意味での「全世界」であって、今日の地理的知識から見た「全世界」ではないでしょう。とにかく、聖書自体が語っていることを見ると、この前兆が当時すでに成就していたことが判るのです。

 また、イエスが述べた「全世界」は、(当時の地理的知識の狭さゆえに)我々の全世界とは違うので、我々が考える「全世界」という概念を聖書解釈の上で利用すべきではなく、むしろ、コロサイやローマにおいてパウロが語った「全世界」の方がイエスの「全世界」に近いと考えるべきではないでしょうか。

注)当時の「全世界」の定義(考え方)については、すでにSproul師のメッセージの中で確認した。
使徒パウロがローマ人に手紙を書き送った時、福音はすでに今や全世界を通して諸外国へと伝えられたと、彼は喜びに満ちていた。私たちは言う、「ちょっと待てよ」と。当時、福音はアルゼンチンに届いていなかったじゃないか。福音は中国に届いていなかったじゃないか。福音はオーストラリアに届いていなかったじゃないか。福音はアメリカインディアンやエスキモー、全世界に届いていなかったじゃないか。パウロは地中海の世界、当時の世界、つまり、あの1世紀において、福音が宣べ伝えられていた世界について言ったのだ。


<エルサレム滅亡の際の苦難と世の終わりの苦難が15-22節で二重写しに語られているように思われる>(U氏)

 このような「預言の二重性」説は今日流行していますが、世界の終末の苦難と考えることができないのは、掲示したように、「これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」(34)という結びの言葉があるからです。掲示しましたように、この時代とは「この世代」という意味であり、つまり、イエスが生きていたのと同時代の人々のことを指しているのです。とすれば、15ー22節も、イエスの同時代において起こると考えなければならないのです。

 イエスは、「義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。まことにあながたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。」(マタイ23・35)と述べて、責任を特に、「この時代の上に問う」と述べておられます。つまり、イエスの時代のユダヤは「主の報復の日」を迎えようとしていたのです。それは、多くの預言者をつかわし、最後には御子までもつかわしたのに、ユダヤはそれを拒否したからです。神の寛容も限度が来たと、イエスは述べられました。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。」(マタイ23・37ー8)これを見てもわかるように、当時のユダヤは、歴史始まって以来の特別な時だったことがわかります。これに続く24章における前兆預言が、ユダヤの崩壊に関わるものであると考えるのは極めて自然ではないでしょうか。




#24 終末預言 by T. Tomii

2021年12月29日 | 終末預言 
携挙は紀元1世紀に起きた

なぜ、素直に書かれている通りに理解しようとしないのか、できないのか。

問題は、受洗直後にさかのぼる。周囲のクリスチャンが皆人類終末預言信者だったから。以降、何ら疑問も持たずに信仰生活を過ごしてきたため、それが頭の底にこびりついてしまっている。

小学校の頃、人は猿から進化したと聞かされ、何ら疑問を持たずに大人となっていく状況と似ている。実際、聖書の世界を知らない人たちは、それを固く信じたままこの世を去っていく。

共産主義というのは、財産を共有し、裕福な人が貧しい人に食べ物を分け与える大変良い社会制度だという信仰も知らず知らずのうちに刷り込まれてしまった。この刷り込みは、おそらくNHKなどのメディアによる洗脳が原因。

携挙についても再考が必要。周囲のクリスチャンは皆人類終末論者だから、人に聞いても埒が明かない。自分で考える。そして良書をできるだけ多く読む以外に方法はない。
パウロを偽預言者にしてはならない。いわんや、主イエスキリストをや。

◇◇


(1)

教会では、携挙がこれから起きると教えられているが、携挙はすでに紀元1世紀に起きた。


次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4・17)

「生き残っている私たち」とは誰か?

パウロと手紙の直接の読者テサロニケ教会の人々である。

21世紀に住むわれわれだろうか。

違う。

なぜならば「生き残っている」人々ではないから。


パウロが手紙を書いた時点で生き残っている人々は、すなわち紀元1世紀の人々である。

「私たち」とあるから、それは、漠然と紀元1世紀の人々ではなく、パウロが語りかけている相手、つまり、読者であるテサロニケ教会の人々以外ではない。

そして、その「私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会う」のである。

つまり、紀元1世紀のテサロニケ教会の人々が携挙される。

これは成就した。

なぜそう言えるのか?

この手紙が聖書に含まれているから。

もしパウロの言葉が外れたのであれば、聖書には含まれていないはずだから。

聖書にこの手紙が含まれているということは、この予言が成就し、紀元1世紀のテサロニケ教会のクリスチャンたちが、携挙されたことを意味している。

いわゆる「外的資料」は不要。

聖書は聖書によって解釈すべし。

聖書以上の権威がない以上、これが聖書解釈の大原則である。

イエスの紀元70年の来臨についても同じ。

ある人は、「イエスは昇天と同じ姿でまた来られると聖書に書いてあるが、そんなこと起きたのか?歴史的な資料でそんなことを示している文書はないが。」というが、聖書の記述は聖書によって証明されるので、紀元1世紀にイエスの再臨があったことが聖書によって証明できれば、外部資料の助けは不要なのである。

イエスはマタイ24章において「これらがすべて起きるまでこの時代は過ぎ去らない」と言われた。

これによって、再臨が紀元1世紀に起きたことは明らかである。


だから、外部資料がなくてもわれわれにとってこの事実は受け入れなければならない。

紀元1世紀のテサロニケ教会のクリスチャンたちが携挙されたことを示す歴史的資料がなくても、われわれは、それが起きたことを信じ「なければならない」。

(2)

携挙は、歴史的事実として起きた。

だから、われわれ21世紀に住むクリスチャンに起きることを期待すべきではない。

ディスペンセーション主義が教えるような、「これから世界は大患難時代に突入し、その前に(またはその最中、もしくは、その後に)携挙が起きる」ことはない。

大患難時代もこれから起きることを聖書から証明できない。

なぜならば、あれは、紀元1世紀に起きたから。

イエスの再臨が紀元70年に起きる前に、黙示録の預言どおりにそれは起きた。すなわち、

1.反キリスト(つまり、多数の背教者)が現れ、

2.獣(つまり、皇帝ネロ)が現れ、

3.クリスチャンが多数殉教し(ローマ大火後の大迫害、ペテロやパウロの殉教など)

4.獣のしるしがついていない人々は誰も売ることも買うこともできなかった(これは資料がないが、聖書そのものの証言によってあったことがわかる)。

歴史的資料があるかないかにかかわらず、聖書の内部証明によって大患難があったと分る。

そして、同じように、携挙もあった。

大患難を未来に期待できないように、携挙も期待できない。

(3)

ただし、「クリスチャンが昇天し、キリストとともに王となり、世界の支配者になった」という意味において、携挙はわれわれにも起きる。

それが起きるのは、われわれがこの肉体を脱ぎ捨てるときである。

イエス・キリストの復活と昇天がすでに起き、それに伴ってクリスチャンの復活があり、携挙という昇天があった。

また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。
そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現われた。(マタイ27・52-54)

旧約時代において、クリスチャンもノンクリスチャンも死ぬと黄泉に行った。

クリスチャンはアブラハムがいる「慰めの場所」に、ノンクリスチャンは金持ちが落ちた「苦しみの場所」に。

しかし、イエスが復活し、黄泉に下り、これらクリスチャンたちを引き連れて、パラダイスに上られた。

新約時代になって、クリスチャンは、もはや黄泉の「慰めの場所」に下ることはなく、死ぬとすぐに復活し、体を与えられ、直にパラダイスに行く。

だから、紀元1世紀にテサロニケの人々に起きた携挙は、われわれも肉体を離れるときに経験することになる。

しかし、紀元70年頃の再臨の際に起きた携挙がこれから起きることを期待できない。

(4)

紀元70年頃の再臨は第1の清めであり、世の終わりにある再臨は第2の清めである。

注)富井師は清めと表現しているが、Sproul師が示唆している解釈とほぼ同じ。人類史の終わりにある来臨は、新約時代の教会に対する裁きという理解。つまり、今の世における反キリスト、偽預言者、偽クリスチャンに対する裁き。旧約のユダヤ人が裁かれたように。
Sproul師によると
これらの記載されたイメージはすべて、ご自身の民にる下る神の裁きを指し示している。私は個人的に、オリーブ山の説教においてイエスが話したことは、その時代の終末における最後の来臨ではなないと考えている。最後の来臨はまだ起こってはいないと考えている。しかし、権威を帯びた来臨とご自身の民に対する裁きについて主は話していたと考えている。そして、それは紀元70年に起きた。そうであるなら、主のことばは真実である。主は真の預言者であることが証明されたことになる。偽預言者ではない。


イエスの千年王国(黙示録が象徴的数字で満ちているように、文字通りの千年と解釈する必要はない)が終るときに、イエスは再度来臨され、歴史が終わる。

律法の定めのように、清めは2度必要である。

第1の清めは、法的な清め。

つまり、全世界がキリストによって法的に和解し、所有された。

(神は)その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1・20)

この所有は、歴史を通じて、現実化されなければならない。

教会には、その使命が与えられている。

つまり、「地を従えよ」の創世記の命令を成就するために、教会は働かねばならない。

全世界を福音によって変える使命がわれわれに与えられている。



#23 終末預言 by T. Tomii

2021年12月28日 | 終末預言 
マタイ24章の来臨預言について(1)

聖書、特に旧約聖書を理解する際、そのことばを文字通り(字義的に)理解すべきなのか、あるいは比ゆ的に捉えるべきなのか議論となることがある。
イザヤ書、ダニエル書、エゼキエル書など多くの預言書において比ゆ的表現が使われている。
比ゆ的表現を字義的表現として解釈すると、頓珍漢な聖書理解となってしまう。そうならないように、正統神学書や注釈本を学ぶ必要がある。加えて、自分自身で十分に練ることも大事ではないかと思う。

以下の記事を読む前に、Sproul師の解説を提示しておく。

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マルコ13章には、いわゆる黙示録文学の標準的な文構造に従うような極めて躍動的な記述部分がある。これは黙示録に見出される文学であり、ダニエル書においても、またエゼキエル書においても見られる文体。これらの光り輝くイメージが抽象的様式において与えられ、かつ使用されている。マルコ13章は極めて多彩な抽象的言語を含んでいることは、聖書研究者の間でもはや異論はない。マルコ13章において、この抽象的言語が、直接的、通常的、直説的な文字言語の中に入り込んでいる。

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さて、天々が巻物のように巻き上がるということばどうだろうか。そして、他のすべてのことば、そしてイエスの来臨はどうだろうか。このことばは、旧約聖書の預言者たちによって、民に対して神の裁きを警告する象徴的方法において、特徴的に使われている。イザヤ書13章6節を読んでみよう。「泣き叫べ。主の日が近い。それは、全能者から破壊としてやって来る。すべては手は萎え、すべての人の心は弱くなり、彼らは恐れる。激痛と悲しみが、妊婦のように、彼らを支配する。彼らはお互いに驚きあう。これを見よ。主の日が来る、憤怒と凄まじい怒りを従えて。その地を荒廃させるために。主はそこから罪人たちを破滅させる。天の星々と星座群は光を放たない。太陽は、日の出から暗くされ、月は光を放たない。」これは共通しており、エレミア書にも見られる。ツロとシドン破壊の預言において見られ、そこに神の裁きが来ると告げられる。その裁きは、地形学から、天文学から、そして宇宙の大変動の観点から記述された。さて、国に対する来たる神の裁きに関して、神のことばの比ゆ的使用法の聖書的例が実際に存在するとすれば、時間枠関連か主の来臨の記述かのいずれかを、比ゆ的使用法として選択する必要がある。どちらが比ゆ的なのか。

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さらに、現在五旬節と呼ぶ祭礼において、祭司たちは夜に神殿の中庭へと入り、聖なる努めを行なうのが常だったが、最初に彼らは地震を感じ、そして大きな音を聞いた。「今から私たちは取り除かれる」と告げる大音響だった。そのユダヤ人歴史家の証言がなされたのは、エルサレム崩壊のまさにその時だった。おびただしい数の人々が、空に戦車と武装した軍隊が雲の合間を移動しているのを目撃した。ちょっと余談を。エゼキエル書のことを考えてみたい。エリシャとドタンについて考えてみたい。エリシャが祈ると、彼の召使たちの目が開かれる。彼らの目が開かれた時、彼らは一体何を見ただろうか。エリシャと取り囲む炎の戦車だった。旧約聖書全体を通して、空に見える戦車の姿は、ユダヤ人にとって、怒りと裁きのためにやってくる神の御姿を意味した。そして、それはご自身の栄光の門出でもある。神の栄光がエルサレムの東の門から放たれるのを旧約聖書の預言者は目撃したのだ。これらの記載されたイメージはすべて、ご自身の民に下る神の裁きを指し示している。

*誤記、脱字修正

◇◇

(Q)キリストの世代内にイエスが来られた事実があるでしょうか。 そして、その時、神による審判が起き、その結果、神の国が成就したのでしょうか。



(A)マタイ24章は、すでに掲示しましたように、イスラエルに対する審判の預言でした。

 イエスは、弟子たちが宮の崩壊について(24・1)、「いつこれらのことが起こるのでしょうか。」(3)と尋ねました。それに続いて、「あなたの来られる時や時代(του αιωνοs)の終わりにはどのようなしるしがありますか。」

 ここから明らかなのは、神殿の崩壊が起こる時が、キリストの来臨の時であるということであり、「時代」(*)の終わり(神殿と犠牲制度、契約の民イスラエルの終焉)だということです。

 この来臨は、再臨とは異なるものであることは明らかです。もし、神殿が、世界の終末に建っている神殿であるというなら別です。しかし、終末期に建っている神殿である証拠はどこにもありません。むしろ、ルカでは、この神殿が何を指しているかをはっきりと示しています。

 「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやってきます。・・・『先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どのような前兆があるのでしょう。』」(ルカ21・6)

 「あなたがたの見ているこれらの物」-つまり、弟子たちが目の前に見ている神殿について言っているのです。それが、崩壊するのはいつであり、それが起こるときには、どのような前兆があるのか、について、弟子たちがイエスに尋ねたのです。

 注解者たちは、次のように述べています。

「この言葉が語られた時点では、これほど信じがたい出来事はなかった。神殿は壮大で、豊かで、見事な建造物であった。神殿はイスラエルの誇りであり、国民は平和に暮らしていた。しかし、40年後にこのことはすべて実現したのだ。紀元70年に、ティトス率いるローマ軍がエルサレムを占領した。・・・ヨセフォスは、次のように記録している、ティトスは、『エルサレム全市と神殿をことごとく破壊せよ、との命令を下した。』・・・マイモニデスは、次のように記している。『ティトス軍の将軍、テレンティウス・ルフスは、鍬を使って神殿の土台を根元から覆した。』」(Barnes)

「この第一の質問は、もっぱら神殿の崩壊に関するものである。」(Gill)

 このように、神殿とは、紀元70年に崩壊したあのエルサレムの神殿のことを指しているのですから、弟子たちの神殿崩壊の前兆についての質問に対して、イエスが、語られたキリストの来臨の預言も、その時に成就したと見なければならないのです。

 また、前兆(しるし)を列挙した後で、イエスは、しめくくりとして、次のように語られます。

 「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」(34)

 先にも述べましたように、この時代(γενεα)とは、イエスの同世代を指しているので、キリストの来臨も、この世代内に起こったと考えなければならないのです。

(参考)Sproul師マルコ13章説教より
この章は、教会史において、特に現代において極めて重要な問題を含んでいると最初に申し上げた。聖書の信頼性と主イエスの信頼性という2つの問題を含んでいる。旧約聖書において、預言者が将来のことについてある予見をし、もし彼の予見が実現しなかった場合、その預言者は偽預言者と見なされ(処刑され)た。この章は、イエスによって与えられた預言の中で、最も信じ難い将来予見を含んでいる。それは、エルサレムの神殿の破壊の予知であり、エルサレム自体の崩壊の予知だった。加えて、ユダヤ人の全世界への離散だった。それは、イエスの全盛期における平凡な予言者がそれほどすぐに来るとは想定し得なかった事態だった。神秘的な正確さをもつイエスの将来預言には、栄光と力におけるご自身の来臨の宣言が含まれていた。しかも、イエスが話したこれらの事々のすべては、ひとつの世代という時間枠の中に含まれていた。キリストの神性、全知全能、あるいは主の教えの無謬性を否定する人々や、聖書の無謬性を否定する人々は、このマルコ13章や主が証拠として与えたこれらの時間枠を、イエスや聖書全体を拒絶するための材料として提示する。


 それでは、実際に、キリストはどのようにして来られたのでしょうか。

 それは、キリストの可視的来臨と考えることはできません。聖書において、主の到来は、かならずしも可視的ではありません。「主が来られる。」と述べられている旧約聖書の預言において、それは、国家や権威者に対する攻撃とそれらの崩壊を意味しています。

 例えば、紀元前8世紀に記されたミカ書の1章は、捕囚前のユダとイスラエルに対する審判の預言であり、再臨の預言ではありません(新聖書注解旧約第4巻、いのちのことば社、562ページ)。

   それにもかかわらず、主が来られると記しているのです。

「見よ。主は御住まいを出、降りてきて、地の高い所を踏まれる。」(1・3)

 これは、歴史上実現したのでしょうか。主は、実際に天から文字どおり降りてきて、地の高い所に足を置かれたのでしょうか。

 また、これも紀元前8世紀に活躍したホセアは、当時イスラエルに住んでいた人々の罪を裁くために、主が「国々の民」を集めると預言しました。

 「わたしは彼らを懲らしめようと思う。彼らが二つの不義のために捕らえられるとき、国々の民は集められて彼らを攻める。」(10・10)

 これは、アッシリア軍の多種族を意味します(鈴木 昌、新聖書注解旧約第4巻、493ページ)。

 続いて、ホセアは「主が来られる。」と預言します。

 「ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。」(12)

 これは、主が目に見える形で天から降りてこられることを示しているのでしょうか。いいえ。ここで主の来臨は、アッシリア軍による侵略を意味しているのです。

 「あなたの要塞はみな打ち滅ぼされる。シャレマンがベテ・アレベルを踏みにじったように。その戦いの日には、母親が、その子どもたちの上で、八つ裂きにされた。イスラエルの家よ。あなたがたの悪があまりにもひどいので、わたしはこのようにあなたがたにも行う。イスラエルの王は夜明けに全く滅ぼされる。」(14ー15)

 これらから明らかなように、主の来臨預言を、神御自身の可視的な来臨と必ずしも解釈することはできない、ということです。

 同じように、マタイ24章におけるキリストの来臨も、キリストの可視的な来臨と考える必要はないのです。多くの注解者は、この来臨が、エルサレムの破壊を意味していると解釈しています。

 バーンズは、「エルサレムの破壊は、彼らの大きな罪を裁くために、キリストが来臨され、事を行われたことを示している。」(Barn’s Notes on NT, Kregel, p.116)と述べています。

 ギルは、次のように述べています。

 「この預言は、最後の審判について語っていると解釈してはならない。・・・というのは、これが、エルサレムの破壊の前に起こらねばならないからである。この預言は、御怒りと報いのために、主が、御民、イスラエル民族を打ち砕き、イスラエルの都、そして神殿を破壊する目的でやって来られることについて語っているのである。」(Gill, Notes in Online Bible ver.2.5.2, Ken Hamel Box 168, Oakhurst, NJ 07755)

 つまり、キリストの来臨は、ローマ軍によるエルサレム破壊という形で実現したのです。

 因みに、初期キリスト教の教父たちは、エルサレムの崩壊が、ダニエルの70週(ダニエル9章)の成就であると考えています。「荒らす憎むべき者」(マタイ21・15)も、ティトスが神殿の中にローマの旗を据えたことにおいて成就したと述べています(The Epistle of Barnabas 16:6; Clement of Alexandria, Miscellanies 1:21; Tertullian, Against the Jews 8; Origen, Matthew 24:15; Julius Africanus, Chronography; Eusebius, Demonstrations 8; Athanasius, Incarnation 40:1, Augustine, 199th epistle(G.Bahnsen and K. Gentry, House Divided, ICE, p279 からの転載))。マリー・スモールウッドによると、これは、軍旗であり、崇拝の対象とされていました(Mary E. Smallwood, The Jews Under Roman Rule (Leiden: E. J. Brill, 1976))。ヨセフォスは、次のように述べています。

「(ティトスの兵士たちは)旗を神殿の中に運び入れ、東の門の反対側にそれを据えた。そして、旗にいけにえを捧げた。」(Josephus, Antiquities of the Jews, 6:6:1)

   マタイ24章には、具体的に、キリストの来臨がどのようなものであるか、記されています。



(A)

「人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくようにちょうどそのように来るのです。」(27)

 これは、キリストが円盤か何かに乗って、猛スピードで空を駆けめぐることを指しているのではありません。

 これを文字どおり解釈するならば、次の節の「死体のある所には、はげたかが集まります。」(28)も、「これは、再臨の時に、死体のある所にはげたかが集まることを指しているのだ」と解釈しなければならないはずです。

 しかし、これは、ナンセンスです。ほとんどの注解者が解釈しているように、この節は、「死体に群がるはげたかのように、生きていても、神の目には死んでしまったような霊的破産者の所には、裁きが必ず襲ってくるのだ。」という霊的意味にとらなければならないのです。

 「いなずま」は、キリストの審判が明瞭であることを象徴しています。

 キリストの来臨は、前節に記された偽キリストの現れ方と対照的に記されています。偽キリストの到来の方法は、荒野に現れたり、部屋に現れたり(25-26)、日常的です。しかし、それに対して、キリストの到来は、非日常的であり、特異な出来事として他とはっきりと識別できるものです(Foerster, Theological Wordbook of New Testament, vol. I , p. 505)。

 ルカにおいては、さらに明らかです。

 「人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても、行ってはなりません。いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。・・・人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。」(ルカ17・23-27)

 キリストの来臨は、非日常的・破局的であり、それを洪水と比べることができる、と言われているのです。人々が、平凡な日常生活を送っているときに、洪水が襲いました。それと同じようにキリストの来臨も、けっして日常的なものではなく、破局をもたらすものなのです。だから、「となりの部屋にいる」とか「荒野にいる」と誰かが言ってもついていってはならない。それは、けっしてキリストの来臨ではない。キリストが来られるのは、いなずまがひらめくように、人々が震え上がるような異常事、つまり破局的出来事なのだ、と言われているのです。



(B) 

 「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」(29)

 これも、再臨の時に人工衛星が天から落ちてくることを示しているのではありません。

 これと同じ表現が、ヨエル書にあります。

 「その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。」(2・10)

 「主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。」(2・31)

 使徒行伝において、ペテロは、このヨエルの預言がペンテコステの日に成就した、と述べています。

「今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。・・・また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下には、地にしるしを示す。それは、血と火と立ちのぼる煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。』」(17-20)



 では、ペンテコステの日に、実際に血と火と立ちのぼる煙があったのでしょうか。太陽はやみとなり、月は血に変わったのでしょうか。聖書のどこにもこのような物理的現象が起こったと記されていません。そのような証拠を示す文書は存在しません。

 これは、文字どおり解釈すべきではなく、預言の型として理解しなければならないのです。旧約聖書の預言者は、このような型を用いて神の審判について描写しました。

 イザヤは、13・1、11において次のように述べています。

「アモツの子イザヤの見たバビロンに対する宣告。・・・見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、血を荒れ廃らせ。罪人たちをそこから根絶やしにする。天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。」

   エゼキエルはエジプトの王パロに対する宣告を述べます。

「あなたが滅び失せるとき、わたしは空をおおい、星を暗くし、太陽を雲で隠し、月に光を放たせない。わたしは空に輝くすべての光をあなたの上で暗くし、あなたの地をやみでおおう。」(32・7-8)

 アモスは、イスラエルに対して次のように預言します。

「その日には、・・・わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし、・・・」(8・9)

 ミカも、イスラエルに対して次のように預言します。

「太陽も預言者たちの上に沈み、昼も彼らの上で暗くなる。」(3・6)

 このように、聖書において、預言に特有の象徴的表現が頻繁に登場します。旧約聖書において、これらの出来事が文字どおり実現しなかったように、新約聖書において同様の表現が出てきた時も、同じように文字どおり実現することはないと考えなければならないのです。

 チルトンは、旧約聖書において、天体は支配を行う神の僕であると記されているので(創世記1・16-18)、太陽や月や星の機能停止は、支配者の権威の失墜を象徴していると考えることができる、と述べています(David Chilton, The Days of Vengence, Dominion Press, Tyler TX, pp. 196-197)。

 ですから、このマタイ24・29は、「イスラエルの支配が終焉し、彼らの権威が失墜する。」と解釈しなければならないのです。聖書は、聖書によって解釈しなければなりません。新聞を用いて聖書を解釈することは預言の私的解釈になります。

 エルサレムが陥落し、神殿が破壊され、様々な苦難が続いた後で、イスラエルは、その契約的特権を奪われます。彼らは、諸国民のリーダー的地位を失うのです。



(C)

「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。」(30)

これは、原語では、

και τοτε φανησεται το σημειον του υιου του ανθρωπου εν ουρανω(And then will appear the sign of the Son of Man in heaven)

となっています。εν ουρανω(in heaven)は、「現れる」を修飾する副詞句「天に」と解釈することもできますし、「人の子」を修飾する形容詞句として「天にいる」と解釈することもできます。つまり、

「そのとき、人の子が天にいるしるしが現れます。」(30前半)

と訳することができるのです。事実、キング・ジェームズ訳はこのように訳しています。



 29節のイスラエルの滅亡預言に続いて、「人の子が天にいるしるし」=人の子が天の王座について、天地の主権者となったことのしるしが現れます。

   これは、それに続く後半の箇所と関連しています。



(D)

「すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗ってくるのを見るのです。」(30後半)

 この「天の雲に乗ってくる」という表現は、マルコにおいて次のように記されています。

 「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」(14・62)

 これは、イエスが裁判の席で、大祭司の質問「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」(14・61)に答えて言われたものです。

 それに対して、大祭司は、自分の衣を引き裂いて、「これは冒涜だ。」と述べます。(63-64)

 なぜ、彼らは、このイエスの言葉を冒涜だと考えたのでしょうか。それは、「天の雲に乗って来る」という表現が、次のダニエル7・13に言及していることに気づいたからです(参照:Oepke, Theological Dictionary of NT, Eerdmans, vol. 4. p. 909)。

 「見よ。人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」

 イエスは、このマルコ14・62において、自分は、ダニエル7・13において預言された人の子であり、キリストなのだと宣言されたのです。

 それゆえ、同じように、マタイ24・30における「天の雲に乗る」という表現も、明らかにダニエル7・13の成就であるということが分かります。

 そして、「地上のあらゆる種族は、悲しみながら、・・・見る」という表現も、全世界の住民がキリストの来臨を悲しみながら見るというのではなく、次のゼカリヤ12・10-14の成就であると考えなければなりません。

 「彼ら(ダビデの家とエルサレムの住民)は、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダデ・リモンのための嘆きのように大きいであろう。この地はあの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。レビの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。シムイの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。残りのすべての氏族はあの氏族もこの氏族もひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。」

 というのは、「地上のあらゆる種族」における「種族」は原語ではφυλαιですが、これは、辞書によりますと、「族長ヤコブの12人の息子たちから出たすべての人々all the persons descended from the twelve sons of the patriarch Jacob (Greek-English Lexicon of the New Test. Baker, Grand Rapids, Michigan)」を指しているからです。つまり、ユダヤ人の諸氏族が人の子の来臨を見ると言っているのです。けっして、全世界の人々が見るわけではないのです。

 ある注解者は、次のように述べています。

 「そして、地上の諸種族が嘆くだろう。これは、ユダヤの地に住む人々を表す。・・・これは、最終審判のための来臨を指しているのではない。彼は天の雲に乗って来られる。そして、偉大な権力と栄光とを身にまとって来られる。しかし、この来臨は、御民の滅亡をもたらすためのものであり、最後のとどめを刺すためのものである。これは、彼らにとって暗闇であり、悲惨な取り扱いであった。とことん盲目であるならば別だが、もしそうでなければ、彼らは、神の御腕の力と、キリストの栄光を見ることができたであろう。キリストは、単なる人ではなかった。彼は、神の子に他ならなかった。ユダヤ人は、キリストをさげすみ、拒絶し、十字架に付けた。キリストは、異邦人の間において、もっと明瞭な、独特な方法で御国を築き上げ、栄光を表すために来られた。」(Gill, Mattew 24:30)



 まとめると、マタイ24・30の「人の子が天にいるしるし」と「天の雲に乗って来る」という表現によって言われていることは、先に引用したダニエル7・13の預言の成就であり、そのメッセージは次のようなものです。

 (1)神の右の座に着き、王権を取られたこと。
 (2)全世界がキリストの王国の国民になること。
 (3)キリストの王国は永遠に滅びることがなく、歴史において拡大して全世界に及ぶこと。

(つづく)



(*)原語αιωνの主要な意味は、「時代」ですが、それから、「世界」という意味も派生しました。しかし、この24章を見ますと、数々の前兆やキリストの来臨の記事の後に、「これらのことが起こらない限り、この世代は過ぎ去らない。」と締めくくられているので、「時代」と訳するのが適当と思われます。
 多くの英訳聖書が、これを「時代」と訳しています。

Tell us, when will these things be, and what [will be] the sign of Your coming, and of the end of the age?(NASB)

Tell us," they said, "when will this happen, and what will be the sign of your coming and of the end of the age?(NIV)

Tell us, when will this be, and what will be the sign of your coming and of the close of the age?(RSV )

(**) 旧約聖書において、「いなずま」は審判を象徴しています。

「主は彼らの上に現れ、その矢はいなずまのように放たれる。」(ゼカリヤ9・14)

「あなたの裁きは、光のように現れる。」(ホセア6・5)

「かすめる者が彼らをかすめ、・・・槍は揺れ、戦車は通りを狂い走り、広場を駆けめぐる。その有り様はたいまつのようで、いなずまのように走り回る。」(ナホム2・3-4)

 雷は、出エジプトにおいて、主がエジプトに下された裁きの一つでした。

 「モーセが杖を天に向けて差し伸ばすと、主は雷と雹を送り、火が地に向かって走った。・・・雹が降り、雹のただ中を火がひらめき渡った。建国以来エジプトの国中どこにもそのようなことのなかった、きわめて激しいものであった。」(出エジプト9・23-24)

 黙示録では、「いなずま」は、旧約聖書の象徴的表現と関連しており、同様に、主の審判を象徴しています(4・5、8・5、11・19、16・18)。



#22 終末預言 by T. Tomii

2021年12月27日 | 終末預言 
紀元70年以前に完結した話をそれ以降の歴史に適用してはならない5

◇◇

これも独学の弊害を示す一例。こちらは悪影響といったレベルではなく、かなり重症。
文面からすると、質問者は人類終末預言を支持したいようだが、論理、理由付けがいかにも稚拙で説得力に欠ける。
「殺したクリスチャンの人数からいうと、ネロとローマ教皇とでは比較になりません。」という意見はどうも頂けない。あくまで聖書に何が書いてあるかで持論を展開すべきで、感想ではなく、聖書に基づいたエビデンス(要するに聖句)から論理を組み立てていく必要がある。
「1世紀の小さな活動だけ預言して、歴史に残るけた違いの大虐殺は預言していないとしたら、イエス様の予言能力はその程度ということになります」という類推(私的解釈と言っても良い)は、質問者がかなり重症である証拠。決めつけが酷すぎる。1世紀に起きた数々の出来事は「小さな活動」ではない。霊的世界の大変革が起きたのだから。

以下に参考文献を提示しておく。
1.
1世紀に起きた出来事は、神の民に対する裁き、そしてキリストのニュー・ワールド・オーダーの法的確立のために起きた。
これで「世界は一度幕引きが行われた」。つまり、霊的世界の大変革が起きたということ。

2.Sproul師
そして、その時代の終わりにご自身が再来するとイエスが言っているこの箇所を読むと、ここで主が言及しているのは人類史の終わり、人類の終末となると推測するのもやむを得ない。しかし、この箇所の聖書記事は、ユダヤ人の時代の終末について言及している。そして、異邦人の時代の到来について言及している。ルカの福音書におけるオリーブ山の説教では、さらなる詳細、異邦人の時代が成就するまで、エルサレムは足下で踏みつけられるだろうということを主は教えてくれている。ローマ書11章において、神の国の最終的完成の前に、来たるべき異邦人の充実があるとパウロは述べている。異邦人の時代は、ユダヤ人の時代を大胆に取り除くことによって成立する。ユダヤ人の時代は、新約聖書時代の到来まで違反を増し加える。第1コリント10章において、パウロは、それらの時代の終わりの時とともに生きている自分の同胞たちに話しかける。何の時代の終わり?人類史の終わりではない。ユダヤ人の時代の終わりだ。そして、紀元70年に何が起こったか、友よ。熟知していると思うが、その時から、キリスト教はユダヤ教のサブセットではなくなった。紀元70年以降、キリスト教会は、神の民の契約共同体として世に現れた。聖書の成就だ。つまり、その時、キリスト教史全体にとって極めて重要な贖罪的意義を有する時となった。


◇◇

反キリストについて。 ご承知のように新約聖書ではAntichristは5回しか使われておらず、その5回とも複数形だったり、意味として複数だったりです。これに反して、「荒らす憎むべき者」も「ネロ」も一人です。私の今の理解では、反キリストをネロ一人に封じ込めるのは、聖書解釈の面でそもそも無理があると思っています。 殺したクリスチャンの人数からいうと、ネロとローマ教皇とでは比較になりません。新型コロナと普通の肺炎くらい(?)違うかもしれません。 プレテリズムでも黙示録20章以降にはサタンの活動が預言されていると考えるようです。ということは、イエスキリストは将来起こる大規模なサタンの活動を黙示録に預言したわけです。 1世紀の小さな活動だけ預言して、歴史に残るけた違いの大虐殺は預言していないとしたら、イエス様の予言能力はその程度ということになります。 社会的状況を証拠に使うのはアプローチとして正しくないのですが、富井先生もネロの残忍さを挙げておられるので挙げる価値があると考えました。 未来派は新聞を使って預言を解釈すると揶揄されますが、プレテリストは新聞をヨセフスに変えただけではないかとの批判もあります(ヨセフスを読んでから黙示録を読むとピタリわかる)。

聖書ではどこにおいても「獣=反キリスト」と述べていません。黙示録13章に出てくる獣は、ヨハネの手紙に出てくる反キリストと関係があると述べている箇所はありません。

もし獣が反キリストであるならば、獣を政治権力であると考えることはできません。

なぜならば、ヨハネによれば、反キリストは「イエスがキリストであることを否定する者」であり、「イエスを告白しない」者であり、「イエス・キリストが人として来られたことを告白しない」者であり、「人を惑わす者」であると言われていますが、どこにも世界を支配する政治的な人物であると言われていないからです。

小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります(1ヨハネ2・18)。
偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです(1ヨハネ2・22)。
イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです(1ヨハネ4・3)。
なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです(2ヨハネ7)。

黙示録の獣を反キリストと結びつけることはできないようです。

プレテリズムでも黙示録20章以降にはサタンの活動が預言されていると考えるようです。ということは、イエスキリストは将来起こる大規模なサタンの活動を黙示録に預言したわけです。 1世紀の小さな活動だけ預言して、歴史に残るけた違いの大虐殺は預言していないとしたら、イエス様の予言能力はその程度ということになります。

すでに述べたように、プレテリズムと「反逆の規模」とはいかなる関係もありません。黙示録は「法的な変化」があった、つまり、「世界はすでにイエス・キリストのニュー・ワールド・オーダーになっている。サタンは敗北している」と述べているだけで、「だから、何も戦いはない」とも「被害は少ない」とも述べていません。

いやむしろ、オールド・ワールド・オーダーでは戦線はイスラエル周辺に限定されていましたが、ニュー・ワールド・オーダーでは世界が戦線になるので、戦いの規模は大きくなります。

しかも、千年王国の終わりに「悪魔は解放されなければならない」とあります。

底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。
しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、(黙示録20・3, 7)

私は、第二千年紀に入ってから始まったシオニスト運動である十字軍においてサタンが解放されたと考えています。

もちろん、それ以前においてもタルムードユダヤ人の活動はありました。

しかし、紀元1000年頃から、神はサタンの活動を大幅に許容されたのではないかと思います。

フリーメイソン、イルミナティの起源は、テンプル騎士団ですが、彼らは十字軍のメンバーでした。

十字軍に資金を提供したのは、タルムードユダヤ人であり、それゆえ、十字軍は「聖地奪還を目的とするシオニスト運動」です。

もちろん、このシオニスト運動は共産主義運動と形を変えて今日の世界を動かしています。

注)このように、聖書に則りつつ、史実に基づいた解析には説得力がある。
こういった考察が人を動かす原動力となる。


しかし、これとて、紀元70年頃の再臨後の出来事である以上、イエス・キリストのニュー・ワールド・オーダーの中で起きたことであり、結果はすでに法的に決定されています。

1世紀の小さな活動だけ預言して、歴史に残るけた違いの大虐殺は預言していないとしたら、イエス様の予言能力はその程度ということになります。

当時のローマ帝国は世界一の大帝国でしたので、小さな活動とは言えません。

聖書は、キリストの御国を、世界帝国との戦いの中で描いています。

つまり、異教の4つの帝国を粉砕する形で、キリストの王国が出現すると。


その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、
すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。
あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。
そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。(ダニエル2・32-35)

4つの世界帝国を象徴する「像」は、キリストの御国を象徴する「石」によって粉砕され、その後、石は全土に満ちた、つまり、全世界を支配した、と述べています。

しかも、このキリストの御国は紀元1世紀のローマ帝国(鉄のすねと鉄と粘土の足)の時代に出て、「その紀元1世紀において」これらの4つの世界帝国を粉砕すると啓示されています。

「鉄のすねと鉄と粘土の足」の下には何もありません。

「ローマ帝国の時代の間に」偶像礼拝の勢力は粉砕され、キリストの御国が全世界を支配したのです。

つまり、紀元70年頃の再臨において、旧約世界が裁かれ、偶像礼拝の勢力は「みな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくな」った。

「しかし、紀元70年以降もローマ帝国は存続した」という人がいるかもしれません。

これは「法的な粉砕」なのです。

偶像礼拝の勢力は、法的に粉砕され、法的な立場を完全に失った。つまり、この世界を支配する権威を「法律上」完全に失った。

神がヨシュアとカレブに対して「カナンの地をあなたがたに与える」と言われたときに、カナンの地の住民の居住権や施政権は法律上無効になった。

同じように、紀元70年において、サタンの地上支配権は完全に無効化した。

車検が切れた車は、メカニカルに問題がなければ動きますが、法律上、公道を走ることはできません。

しばらく走ることができても、警察に見つかったら、走行不能になります。

神の御前で地上統治権を失ったサタンは、現在、キリスト側の攻撃に屈服するしかありません。

私たちが「キリストの御名によって」祈ったり行動すると、サタンは退く以外にはない。

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコブ4・7)

では、どうして歴史上、様々な陰謀が奏功してきたのか。

クリスチャンの再臨理解に問題があったから、というのが私の見解です。

再臨を未来に設定することによって、神が支配するでもない、サタンが支配するでもない「空白期間」が生まれる。

そのような空白期間を、プレ・ミレ、ア・ミレ、非プレテリズムのポスト・ミレ、及び、フルプレテリズムのポスト・ミレは、実質的に作ってきた。

現代を空白期間の中に含めることによって、「不可避的に」不信仰が生じます。

「サタンに任せてもよい領域」を作るからです。

政治や経済は、ノンクリスチャンに任せておけばよい、みたいな。


認識論においてはヴァン・ティル主義者でも、政治的には、このような「フリーメイソンの、議論の中立的・共通的基盤」を採用してきた。

最近まで、パーシャルプレテリズムを漠然と受け入れていましたが、ヘンドリーに出会った時点でもまだ、PPの枠組みでとらえていました。PPを受け入れたままでヘンドリーの言っていることを取り入れることができると無批判に考えていたのですが、両者が相容れないことを富井先生の方が早く見抜いておられました。富井先生に教えられて私もようやく、プレテリズムとヒストリシズムの間に根本的な違いがあり、両者をミックスすることはできず、すべきでもないことに気が付きました。 リフォームド/ヒストリシズムは預言解釈が遅れていたと思ったのですが、自分が知らなかっただけのようです。ようやく勉強が始まりました。60歳になって、聖書理解の大きな穴がまた一つ見つかりました。 1世紀再臨説は過去のキリスト教会の信条をラディカルに否定することになるので、急いで結論を出すべきではないと感じています。自分としては、まだ呑み込めていない部分があり、納得するまで聖書をよく調べるしかありません。

釈義上、紀元70年再臨説以外は成立不可能です。そして、紀元70年再臨説が正しいと分かれば、1コリント15・22-28もすでに起きたということになり、信仰の内容、世界を見る見方が革命的に変わります。

今のディスペンセーション主義に騙されている日本及びアメリカの6000万~1億人の福音派クリスチャンが「再臨待望」をやめて、この信仰に変わればどうなるでしょうか。

サタンに向かって「お前には地上支配権はない。お前が握っているお金と権力をすべてわれわれに差し出せ!」と言ったらどうでしょうか。

私は、このことが実際に近未来に起きるのだと思います。

信仰の内容に変化がない限り、世界を変える力は生まれません。

タルムードユダヤ人に騙されて「われわれには力はない。再臨が来ないと話は始まらない」と信じ込まされてきたクリスチャンが目覚めない限り、今のDSによる世界支配は続くでしょう。
 



#21 終末預言 by T. Tomii

2021年12月26日 | 終末預言 
紀元70年以前に完結した話をそれ以降の歴史に適用してはならない19

独学によって起きる弊害の典型例。
良く調べてはいるが、思考展開が脆弱で何が言いたいのか良く分からない。
表現力が拙く、信ぴょう性の高いロジックに成っていない(訓練が必要)。
666がネロではないと言いたいのなら、聖書の改ざん、歴史資料、カルヴァン、RC、映画云々ではなくて、まずはそれを肯定する聖句をできるだけ列挙すべきではないかと思う。

◇◇

釈義に無理があるところを強引に成り立たせることができたのは、ヨセフスに代表される歴史資料のおかげです。しかし、その歴史資料に全幅の信頼を置いてよいものでしょうか。 紀元1世紀といえば、日本では卑弥呼の時代よりも200年くらい昔です。聖書は霊感されているので信頼できますが、他の歴史資料はどうでしょうか。しかも、1~2世紀は聖書自体に改ざんが流行った時代です。改ざんはある目的をもって行われていました。聖書以外の当時の歴史資料がそうした目的の影響をまぬかれていると信頼してよいでしょうか。しかも、ヨセフスはパリサイ人でした。666の反キリストをネロにするための企みが既に早い時期からあった可能性も否定はできないと思います。 ネロ説はヨハネの手紙に5回出てくる反キリストからはあり得ない解釈であり、カルヴァンがネロ説を取らなかったのは当然です。
ですが、ローマカトリックが世に出したエルサレムバイブルの脚注に出てきた616写本(これに多くのプロテスタントのプレテリストは飛びついています)、小説を映画化した「クォバディス」などによって、私たちはすっかりネロ説に洗脳されてしまいました。

1.

既述のとおり、第一義的に獣はネロではなく、ティトゥスです。
ネロは紀元68年に死亡しているので、紀元70年に神殿を破壊するはずがありません。

しかし、ダニエル書には、「荒らす憎む(忌む)べき者」は「聖所を破壊する」と記されています。そして、すでに述べたように、この「荒らす憎む(忌む)べき者」は、黙示録の「獣」と記述が類似しているので、同一人物であることは明らかです。
しかし、同時に獣の数字は666であり、カエサル・ネロのヘブル文字に割り当てられた数字を合計すると666になる。
聖書は、獣はティトゥスであり、同時にネロでもあると啓示しています。
この矛盾は、ティトゥスが「復活したネロ」とであると考えれば解決します。

黙示録には、獣は「昔はいたが、今はおらず、やがて現われる」(黙示録17・8)と記されています。
つまり、獣は誰かの復活体である。
その「誰か」とは誰なのか。
彼は「8番目のローマ皇帝」(17・11)であると同時に、「先の七人のうちのひとり」(同)である。
すなわち、「ローマ皇帝7人」の一人が、復活して、8番目の皇帝になったのが、獣である。
さて、ティトゥスは、11番目のローマ皇帝であるが、ウェスパシアヌスの将軍として前の3人(ガルバ、オト、ウィッテリウス)を暗殺した。
これは、次の箇所と一致している。
「十本の角は、この国から立つ十人の王。彼らのあとに、もうひとりの王が立つ。彼は先の者たちと異なり、三人の王を打ち倒す。」
11人から3人が落ちたので、ティトゥスは8番目の皇帝になる。
では、「先の七人のうちのひとり」とは誰なのか。
ネロである。

ティトゥスはネロの復活体なのです。

2.

プレテリズムは、ヨセフォスの資料だけに依存しているわけではありません。
獣がティトゥスであるという主張は、歴史的事実によっても確認できます。
神殿を破壊した皇帝がウェスパシアヌスであり、実行部隊を指揮したのがティトゥスであるという情報は、数多の資料が示しています。
たとえば、紀元70年のエルサレムの攻略と包囲を記念した「ティトゥスの凱旋門」は、ローマ皇帝ドミティアヌスによって紀元82年に建造されました。
もちろん、これは、当時の人々がエルサレム攻略の功労者をティトゥスと考えていたことを示しています。

3.

ティトゥスが獣であることは、聖書自体が示しています。
ダニエル書によれば、メシアの死の後に、聖所が破壊される。

それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。
その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。
彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」(ダニエル9・25-27)

「その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。」

油そそがれた者が断たれた後、つまり、メシアが殺された後、「町と聖所が破壊」される。
これは、紀元29年頃の十字架と、紀元70年の神殿崩壊を指す。
そして、この「町と聖所を破壊」したのは、ティトゥスであった。
それゆえ、「来たるべき君主」はティトゥスである。

彼は「半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせ」た。(*)
ここでの「半週」は、黙示録において「獣」の活動期間である「42ヶ月」として表現されている。

この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。(黙示録13・5)

ティトゥスは、ユダヤ人に神殿礼拝を禁止した。
ニケア後の教父サルピシウス・セヴェルスによると、ティトゥスは神殿破壊によって聖書の宗教を根絶やしにしようととしていた。

ティトゥスは、評議会を招集した後、まずこのような並外れた仕事が生み出した構造物である神殿を破壊すべきかどうかを議論したと言われている。というのも、「全人類の業績を越える傑出した神聖な建物は、保存されればローマ人の穏健さの証拠となるが、破壊されればその残虐さの永遠の証拠となるので、破壊すべきではない」と考える人がいるからである。しかし、反対に「ユダヤ人やキリスト教徒の宗教をさらに徹底的に破壊するには、特に神殿を破壊すべきだ。というのも、これらの宗教は、互いに対立してはいたが、同一の作者から発しているからである。キリスト教徒はユダヤ人から生まれた。根を絶やせば、枝もすぐに枯れるだろう」と考える人もいたし、ティトゥス本人もそのように考えていた。
Titus is said, after calling the council, to have first deliberated whether he should destroy the Temple, a structure of such extraordinary work. For it seemed good to some that a sacred edifice, distinguished above all human achievements, ought not to be destroyed, inasmuch as, if preserved, it would furnish an evidence of Roman moderation, but, if destroyed would serve as a perpetual proof of Roman cruelty. But on the opposite side, others and Titus himself, thought that the Temple ought especially to be overthrown, in order that the religion of the Jews and Christians might more thoroughly be subverted; for these religions, although contrary to each other, had nevertheless proceeded from the same authors; that the Christians had sprung up from among the Jews; and that, if the root were extirpated, the offshoot would speedily perish.

―Sulpicius Severus,Sacred History (NPNF, s2, vol xi, p111)

4.

聖書において神殿は、神の御住まいであり、それゆえ、イスラエルの中心でした。そして、歴史は、イスラエルを中心に描かれていますので、それは世界の中心でもあった。
この神殿が崩壊したことを、歴史の重大な分岐点と考えるのは、クリスチャンとしても人類としても当然と言えます。
しかし、歴史主義は、それを軽視してきた。プレテリズムは、この間違った聖書の読み方を正常に戻したと言えます。

(*)
ダニエル書において一週間は文字通りの一週間ではない。
紀元前538年にペルシャの王クロスが神殿とエルサレムを再建せよと命令してから、イエス・キリストの来臨までの時期の約500年が「7週」とされている。
http://www.millnm.net/qanda4/85WAIlcE281h635945.htm
半週は、別の箇所で「ひと時とふた時と半時」と記されている。

彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。(ダニエル7・25)

ここで「彼」とは「第四の国」―つまりローマ帝国―の君主を意味するので9章の「来たるべき君主」と同一人物であることは明らか。




#20 終末預言 by T. Tomii

2021年12月24日 | 終末預言 
紀元70年以前に完結した話をそれ以降の歴史に適用してはならない17

頭でっかちになるのも考えものだが、論理的に聖書を理解するにはやはり訓練が必要。
そのためには、長い年月を経て練り上げられた先人の知恵や神学を学んだ方が良い。
独学はやはり危険。この記事の質問者のように誤解を生む可能性がある。
異端に引っかからないようにしっかりと学び、自分の信仰をdefenseする必要がある。

◇◇

ローマカトリックが管理してきたバチカン写本には、ご承知のように黙示録そのものがありません。黙示録を普通に読むと、ローマカトリック教会がどういう存在であるかがばれてしまうからです。黙示録を隠せなくなると、今度は反キリストの解釈を変えるという手に出ました。1つは未来に置く(ディスペンセーション主義)解釈、もう1つは1世紀の人物に限定する解釈(プレテリズム)です。 富井先生にRCを擁護する意思がないことは十分に承知していますが、プレテリズムがイエズス会士に始まることはRCも認めており、RCとプロテスタントの両方の間で共通の認識となっており、ほぼ定説化しています。プレテリズムのかなめは、すでに述べたように666反キリスト=ネロ説です。 イエズス会が力を入れて流行らせたものでも、それが聖書的に正しければ認めるしかありませんが、無理してひねり出したものであるため、やはり釈義的に無理があります。
Iヨハネ2:18子供たちよ。今は終りの時である。あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であることを知る。 2:19彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである。 4:3あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。

1.
すでに申し上げたとおり、反キリストは黙示録の「獣」ではありません。
聖書の中において、反キリストは異端としか記されておらず、「ものを売ることも買うこともできなくする」ような政治的な権力を持つ者ではありません。

2.
既述のとおり、ダニエルの「荒らす憎むべき者」と黙示録の「獣」との間には共通性があります。

(1)
傲慢なことを言い、けがしごとを言う口(黙示録)
彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き(ダニエル)

(2)
四十二か月間活動する権威を与えられた(黙示録)
聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる(ダニエル)
(「ひと時とふた時と半時」は、1+2+0.5=3.5年。3.5年=12 x 3.5=42ヶ月。)

(3)
すると、獣は捕らえられた。・・・そして、・・・硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。(黙示録)
しかし、さばきが行なわれ、彼の主権は奪われて、彼は永久に絶やされ、滅ぼされる。(ダニエル)

「荒らす憎むべき者」は神殿を破壊します。

それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。
その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。
彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」(ダニエル9・25-27)

「油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。」

ここで、「油そそがれた者は断たれ」は、もちろんキリストの十字架です。

その後に、「来たるべき君主」が現れる。

この「来たるべき君主」は、誰か。

「来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する」とあるので、聖所を破壊した民の王です。

紀元70年に聖所を破壊した民はローマ人なので、ローマ人の君主です。

このローマ人の君主は「半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる」。

半週は、「ひと時とふた時と半時」、つまり、42ヶ月。

獣には「四十二か月間活動する権威を与えられた」(黙示録)。

ここで、黙示録の獣は、このローマ人の君主であるとわかります。

「荒らす忌むべき者が翼に現われる」は、イエスによって、「『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つ」と解釈されている。

それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)(マタイ24・15)

至聖所に立ったローマ人の君主は誰か。
ティトゥスです。
つまり、獣はティトゥス。
これで議論は終わりです。
明らかすぎる。


(参考文献)
Sproul師によると
「さて、荒らす憎むべきものとして定義されているものについては、数多くの学者の意見がある。
ダニエルの預言は、紀元前2世紀におけるアンティオコス・エピファネスによって犯された冒涜によって成就したとする学者が多い。一方、ダニエルの預言は、1世紀の初めカリグラが統治する時代に成就したとする学者もいる。先週言及したように、カリグラは、エルサレムの神殿の立つ区域に、自分の銅像を一体以上建立しようと画策した。しかし、ユダヤ人が猛烈に反対したため、その計画は廃止された」

とあるように、ローマ皇帝の一人カリグラという説もある。しかし、最も有力なのはやはりティトス。

「彼は他の村に住んでいる将兵だった。彼が率いる部隊全員と彼が住んできた村の人々全員が殺され、彼一人だけが生き延びた。ローマ人に捕えられたが、偉大なる勇気と知識ゆえに、彼はティトスと親しくなった。一方、父親が皇帝となるためにローマへと呼び戻された時、父親からパレスチナ侵攻のリーダーシップを受け継いだのがティトスだった。彼はローマ軍によって投獄されている時、エルサレムを破壊しないようにティトスに嘆願した。ユダヤ人に降参するように懇願しつつ、ローマ人とユダヤ人との間の停戦を交渉する仲介者として、彼はティトスによって起用された。ローマ軍がエルサレムを破壊するためにやってきた時のことを思い出して欲しい。彼らはエルサレム内に進軍し、その町を破壊することはなかった。エルサレムは城壁に囲まれた都市であり、全ローマ人がエルサレムを包囲するために長い年月を要するほどの難攻不落の要塞のように思われた。その包囲網の中、ヨセフスは白旗を掲げながら、城壁都市の中にいる人々に話しかけた、「お願いだから、投降してくれ」と。もし投降しなければ、一人残らず殺されることをヨセフスは知っていた。ヨセフスにとってこれよりなるかに重要なことは、あの聖なる神殿が破壊されるのを絶対に見たくはなかった。これらの出来事に関する彼の記述は極めて重要だ。しかし、いずれにせよ、ティトスが聖なる所へと進入し、紀元70年にそこを破壊した出来事をヨセフスはダニエルの預言の成就と考えた。「ユダヤにいる者たちは、山に逃げさせよ」と、イエスは言った。人々に逃げるよう命じているのはイエスご自身だ。他の所で、イエスは「エルサレムが軍隊に取り囲まれるのを見たなら、山へ逃げよ」と言っている。先週、私は「ユダヤ民族の最初の大きなホロコーストは、エルサレム崩壊とともに起こった」と告げた。その時、110万人ものユダヤ人が虐殺された。しかし、不思議なことに、クリスチャンは虐殺された人々の中には含まれてはいなかった。

3.
エドワード・ヘンドリーは、以上について反論できないでしょう。
そして、マタイ24・34も解釈できないでしょうし、その他100箇所ある「再臨がキリストと同時代に起きることを示す聖句」にも答えられないでしょう。
ここに「ヘンドリーの取り組み方に偏りがある」と感じています。
釈義をしない。外部的な資料から推測するのはよいとしても、聖書は聖書によって解釈するのが原則なので、まず、私が示した獣がティトゥスであるということを釈義的に否定するのが先だと考えます。

4.
それから、プレテリズムの起源はカルヴァンであるとすでに申し上げました。
なぜならば、黙示録20章の千年王国を「教会時代」に設定しているからです。
ということは、再臨(カルヴァン主義者は「来臨」と呼ぶが)も含め、黙示録19章まではすでに紀元1世紀に起きていると考えていた。
しかし、時代的にまだプレテリズムの内容が深く掘り下げる時期ではないので、あいまいな点がある。宗教改革者がローマ・カトリックを獣と考えたのも、まだ光に照らされていなかったということでしょう。
リフォームドは「常に改革されるべき」という意味で、カルヴァン主義者は「すでに完全になった教理を持っている」と主張していません。時代とともに明らかになる教えがあるという前提を持っている。

5.
プレテリズムをもっぱらローマ・カトリックの陰謀と考えるならば、ケネス・ジェントリーやデイビッド・チルトン、ゲイリー・ノースも、異端として断罪せざるをえなくなります。これは、行きすぎです。なぜならば、フルプレテリズムは別として、プレテリズムそのものは正統派の範囲に入っているからです。逆にエドワード・ヘンドリーが異端扱いされかねない。

6.
ローマ・カトリックが「自らを獣として見られたくない」という意図があったとしても、それが、「プレテリズムはそのための教義だ」とは結論できません。なぜならば、プレテリズムは、釈義的に筋が通っているからです。すでに述べたように、聖書には「再臨が紀元1世紀に起きる」事を示す箇所が100箇所以上あります。逆に、歴史主義は、これらの箇所に合理的な解釈を行っていません。もし歴史主義の言うとおり、「再臨が世界の終末に起きる」ならば、では、マタイ10・23で、イエスは弟子たちに「イスラエルの町々を巡り終える前に戻ってくる」と告げられたのをどう解釈するのでしょうか。マタイ16・27-28において、イエスは弟子たちに「あなたがたの何人かが死ぬ前に戻ってくる」と言われたのをどう解釈するのでしょうか。マタイ26・64において、イエスはカヤパや律法学者たち、長老たちに向かって「あなたたちは、裁きのためにイエスが戻ってくるのを自分の目で見る」と告げられたがどう解釈するのでしょうか。ルカ21・ 22、32において、イエスは弟子たちに「すべての預言はあなたたちの世代において成就する」と言われたがどう考えるのか。36節で、イエスは「今挙げた出来事は、まさに起ころうとしている」と強調したが・・・。ヨハネ黙示録1・1-3と22・6-20で、イエスは紀元1世紀の信者たちに「すぐに戻ってくる」と告げ、「黙示録の出来事はすぐに起きなければならない」と言われたが・・・。



#19 終末預言 by T. Tomii

2021年12月22日 | 終末預言 
紀元70年以前に完結した話をそれ以降の歴史に適用してはならない11

◇◇

われわれクリスチャンは、文脈とは無関係に、人類終末論と関連づけて聖書を理解しようとする悪癖が身に染みついている。

ろくな知識もなく信仰が極めて脆弱だった頃、全く疑うことなく受け入れてしまった。

周囲を悪く言っても仕方がない。自分が徹底的に不勉強だったからそうなってしまった。

これからは、主イエスの終末預言だけでなく聖書のあらゆる記事をポストミレ神学を土台として聖書理解を再構築する必要がある。

試しに、イエスの預言もパウロの預言もすべて1世紀に成就したという歴史的事実を前提として、何処でも良いから聖書を読んで見ると良い。

言っていることがその通りであると実感できるはずだ。

これが真理。

◇◇

この記事の質問者もかなりの悪影響を受けている。

1.
あと、念のために確認ですが、 Then shall two be in the field; the one shall be taken, and the other left. Two women shall be grinding at the mill; the one shall be taken, and the other left. これは携挙を指していると理解していいでしょうか? こうした現象が当時の各教会で起こり、正確な比率は不明だけれども、その後の宣教に戦力不足をきたすようなレベルではなかった(つまり当時のクリスチャンのほぼ全員が携挙されたのではない)という理解で間違いないでしょうか。

この箇所は携挙を指していません。

これは、裁きとして「真のイスラエル人」と「偽のイスラエル人」が選り分けられることを示している。
前後の文脈を見れば明らかです。

この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。(マタイ24・35-44)

「ノアの日」は、信者と不信者を分けるためにやってきました。

続くマタイ25章では「油」は聖霊の象徴です。

「聖霊をいただいている娘たち」と「聖霊をいただいていない娘たち」の差として描かれています。

文脈からすると、これは同一の警告とみなしてよいと思います。

本当のクリスチャンにとって、再臨が突然やってくることはありません。

偽のクリスチャンに対して主は「確かなところ、私はあなたがたを知りません」(マタイ25・12)と言われます。

これが携挙を指すとすれば、携挙されなかった人々は「無縁宣言」をされることになります。

この宣言をされた人々がその後の世界において伝道に従事するとは思えません。

あくまでも携挙は「実際的復活・昇天」のモデルとして起きたのであって、信者と不信者を分けるために起きるのではない、と考えるのが妥当でしょう。

注)イエスの再臨の前に警告され従ったクリスチャンは救われた。しかし、従わなかった人々はエルサレムへと向かい皆殺しにされた。

2.
百歩譲って復活・携挙の大事な部分が成就したと捉えるとしても、再臨はその1とその2に分かれているので、「成就した」と言い切ることがもっと厳しいように思われます。 再臨その1がAD70年に起こったとして、再臨その2が千年王国の終わりに起こるのだとしたら、このワンセットの再臨がAD70年に成就したとは言い難いと思うのです。 This generation shall not pass, till all these things be fulfilled. この御言葉は「千年王国前後再臨説」をもってしても依然解決できていないように思われるのですが、どう考えたらよいでしょうか?

このご質問について答えが足りなかったかもしれないと思いますので追加します。

繰り返しになりますが、第1の再臨は「キリストのニュー・ワールド・オーダーの法的確立のために」起きました。

これで「世界は一度幕引きが行われた」。

マタイ24・34の「すべてが成就される」という文言は「再臨の前兆がすべて起き、再臨において法的確立が完全に成就する」ということを意味します。

そこに「実際的な成就」は含まれません。

第2の再臨は「全民族弟子化」が実現し、世界中の民族が「実際的に」イエス・キリストを主として礼拝し、イエスの教えを守るようになったときに実現します。

それゆえ、2度に分かれているとしても「すべてが成就される」という御言葉が紀元70年に実現しなかったとは言えません。

さらに、次の御言葉が決定的です。

彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。(マタイ10・23)

「イスラエルの町々を巡り尽くせない」うちに「人の子が来る」。

イエスと同時代に再臨がある証拠です。

 
注)Sproul師も最後に示唆しているが、新約聖書の時代(今の世)において教会にはびこっている反キリストの霊、偽預言者、悪をなす偽のクリスチャンに対する裁きが完了していない。旧約の時代が裁かれたように、今の教会を裁くための最終最後の再臨もあると考えなければならない、当然だろう。





#18 終末預言 by R.C. Sproul

2021年12月20日 | 終末預言 
Christ Coming in Glory (Mark 13:24–36) — A Sermon by R.C. Sproul

配信第18回:22分36秒から

全文の日本語訳を提示する。

(メッセージ開始)

それを見た人々によって話されたのでなければ、そして、それに引き続く出来事がしるしとして十分に価値がある性質を有しているのでなければ、それらの記載内容はおとぎ話にしか見えないだろう。

日没前に、当時の人々が見たものは、「雲の合間を走り回り、町々を取り囲んでいる武装した戦車と軍隊」だった。

さらに、現在五旬節と呼ぶ祭礼において、祭司たちは夜に神殿の中庭へと入り聖なる努めを行なうのが常だったが、最初に彼らは地震を感じ、そして大きな音を聞いた。

「今から私たちは取り除かれる」と告げる大音響だった。

ユダヤ人歴史家の証言がなされたのは、エルサレム崩壊のまさにその時だった。

おびただしい数の人々が、空に戦車と武装した軍隊が雲の合間を移動しているのを目撃した。

ちょっと余談を。

エゼキエル書のことを考えてみたい。

エリシャとドタンについて。

エリシャが祈ると、彼の召使たちの目が開かれる。

彼らの目が開かれた時、彼らは一体何を見ただろうか。

エリシャを取り囲む炎の戦車の群れだった。

旧約聖書全体を通して、空に見える戦車の姿は、ユダヤ人にとって、怒りと裁きのためにやってくる神の御姿を意味した。

そして、それはご自身の栄光の門出でもある。

神の栄光がエルサレムの東の門から放たれるのを旧約聖書の預言者は目撃していたのだ。

これらの記載されたイメージはすべて、ご自身の民に下る神の裁きを指し示している。

私は個人的に、オリーブ山の説教においてイエスが話したことは、その時代の終末における最後の来臨ではないと考えている。

最後の来臨はまだ起こってはいないと考えている。

しかし、権威を帯びた来臨とご自身の民に対する裁きについて主は話していたと考えている。

そして、それは紀元70年に起きた。

そうであるなら、主のことばは真実である。

主は真の預言者であることが証明されたことになる。偽預言者ではない。

さて、もうひとつアプローチできる選択肢がある。

この問題に関して、私は決定的なことを言うことはできない。

しかし、イエスの将来預言について、ただ一つ確信をもって言えることは、主はご自身の民とともにいると約束されたということ。ご自分の民のために食事を用意しながら、主はそう約束された。


コメント:

以上でSproul師のマルコ13章の終末預言に関するメッセージは終了。

何一つ付け加えるべき点はない。
実に聞きごたえのあるメッセージだと思う。
実に理路整然としており、感情の付け入る余地など微塵もない。

これがことばの宗教、キリスト教の真髄、本来の姿ではないだろうか。

さて、次回から数回にわたり、富井師の終末預言に関する記事から関連事項をピックアップしたいと思う。




#17 終末預言 by R.C. Sproul

2021年12月19日 | 終末預言 
Christ Coming in Glory (Mark 13:24–36) — A Sermon by R.C. Sproul

配信第17回:18分23秒から22分36秒まで

全文の日本語訳を提示する。

(メッセージ開始)

さて、天々が巻物のように巻き上がるということばはどういうことなのか。

そして、他のすべてのことば、そしてイエスの来臨はどうなのか。

このことばは、旧約聖書の預言者たちによって、民に対する神の裁きを警告する象徴的方法として特徴的に使われている。

イザヤ書13章6節を読んでみよう。

「泣き叫べ。主の日が近い。それは、全能者から破壊としてやって来る。すべては手は萎え、すべての人の心は弱くなり、彼らは恐れる。激痛と悲しみが、妊婦のように、彼らを支配する。彼らはお互いに驚きあう。これを見よ。主の日が来る、憤怒と凄まじい怒りを従えて。その地を荒廃させるために。主はそこから罪人たちを破滅させる。天の星々と星座群は光を放たず、太陽は日の出から暗くされ、月は光を放たない。」

これは共通しており、エレミア書にも見られる。

ツロとシドン破壊の預言において見られ、そこに神の裁きが来ると告げられる。

その裁きは、地形学的であり、天文学的であり、宇宙の大変動の観点から記述された。

さて、国に対する来たる神の裁きに関して、神のことばの比ゆ的使用法の聖書的例が実際に存在するとすれば、時間枠関連か主の来臨の記述かのいずれかを、比ゆ的使用法として選択する必要がある。

どちらが比ゆ的なのか。

聖書の答えは明白。

聖書のことばの使い方は一貫している。

十分な理解できていないようなら、手短に2つの点を挙げておく。

ひとつの可能性のある選択肢は、オリーブ山の説教において、イエスは今現在近々の意味で通り過ぎる何かの預言を与え、後にあって究極の意味で通り過ぎる何かを預言しているというもの。

旧約聖書において、預言者による預言は、その時代においてひとつの意味を持って起きるが、しかし、歴史上の後の時代に最も十分な意味において起きる。

仮にそのように理解したとしても、イエスはその時代の終わりに再来したという意味が少なく見積もっても存在すると言わなければならない。

ある裁きが来ると聖書には記されている。

メシアを拒絶した罪のために、イスラエルの家の上に神の裁きが差し迫っているとイエスは同時代の人々に警告を発している。

最後に、もうひとつの選択肢について、礼拝中にこのようなことをしなければならないのは良いことではないが、今私は紀元70年の時代にいるとしよう。

当時の歴史家たちは、天文学的混乱、とりわけ空を横切って流れる彗星のさまをレポートした。

その景色は、当時の人々にとって、来たる裁きのしるしを意味していた。

この彗星は、まさに剣のような形をした星として記された。

もちろん、私たちが歴史から学ぶ最も驚くべき、むしろ奇怪ともいえる記録は、ユダヤ人歴史家ヨセフスの著作の中に見出される。

貴重な資料なので、是非お聞き願いたい。

エルサレム崩壊に関する目撃証言を詳細に伝えてくれている一人のユダヤ人歴史家からの資料。

しかし、彼は聖書は書いてはいない。

ヨセフスの著作物に絶対に誤謬はないとは言い切れないが、それは歴史的な記録であり、大変貴重なものであることに間違いはない。

それらに加えて、その月の21日目の祭礼を過ぎて数日後、信じられないほど不思議なアルテミシウスと呼ばれる現象が出現した。

さあ、このクオリティーの高い話を聞いて欲しい。