みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#422 神の法第三戒

2019年09月29日 | 神の法
第3戒
誓いと礼拝
 
p116~
Swearing and Worship
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

この戒めと第九戒の間には、明らかに密接な関係がある。

カルヴァンは次のように述べている。

神は、第二の板に記された第五の戒めにおいて、再び偽証を非難しておられる。

つまり、隣人についての偽証を、愛に違反する行為として非難しておられる。

この戒めの目的は第九戒のそれとは異質である。

つまり、神に帰せられるべき栄誉を汚さないようにすること。

我々が神を話題とする時には、常に信仰に基づいて語るべきであること。

我々の間では神に対してふさわしい尊敬が払われねばならないこと。

もし、宣誓と礼拝が互いに密接に関係しており、主の御名や知恵、力、正義、真理、あわれみ、義を、軽率に、または、誤って用いることが冒涜であるならば、われわれは、今日のほとんどの説教は徹底して冒涜的であると認めねばならない。

面白いことに、聖職者の中のある者たちは、”I don’t care a dam.”[訳注:「ちっとも気にしない」の意]という表現を冒涜であると考えているが、自分たちの説教の冒涜的性格についてはまったく脳裏から消え去っている。

”I don’t care a dam.”は、もともとイギリス英語の表現であり(アメリカでは、”not worth a dam”という言い方の方が普通である)、ウェリントン公爵を通じてインドから輸入された言い回し。

damとは、最小額のインド硬貨を指すので、これは、”not worth a sou” と似ている。sou とは、ずっと昔に廃止されたフランスの最小額の硬貨である。

つまり、”I don’t care a dam.” は、”I couldn’t care less” と同じ意味である。

さて、今日の説教のほとんどは、Not worth a dam (一文の値もない)とはっきりと言わねばならない。

それは、信仰を否定するか、信仰をつまらない次元に引き下げているため、むしろ、冒涜と称すべき。

多くの説教は、意図においては敬虔かもしれないが、実際には冒涜である。