第6戒
死刑
229~
The Death Penalty
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony
◇◇
処罰に関する聖書律法の原則は、出エジプト記21:23~25に述べられている。
出エジプト記21:23~25
かし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。
21:24 目には目。歯には歯。手には手。足には足。
やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。
この聖句を文字通り解釈する人たちがいるが、文脈そのもの(同21:1~36)、つまり罪と処罰の記述において、処罰はその犯罪にふさわしいものでなければならないと明確化される。
罰は罪に比例しなければならない。
過剰でも過小でもいけない。
この原則は、レビ記24:17~21と申命記19:21においても明言されている。
Oehlerのコメントが興味深い。
モーセの刑罰に関する原則は報復の権利jus talionisであり、「命には命、目には目、歯には歯」という文章において、くり返し表現されている(出エジプト記21:23~25、レビ記24:18.申命記19:21)。罪を犯した通りに、罪を犯した者にしなければならない。言い換えるなら、刑罰は邪悪な行為に対する、質において量において同価である応報。しかし、taioは単純に単に外面的な意味で理解されてはいない。つまり、多様な刑の規定によって示されるだけではなく、行ないそのものではなく行ないの根にある自責の念が、処罰の決定において考慮されるという事実によっても示される。死の刑罰は多くの犯罪に添えられているように見える。殺人、両親虐待、人さらい(出エジプト記21:12)、姦淫、近親相姦や他の異常な犯罪、偶像礼拝、異教占いと魔術(レビ記20章、申命記8:6)などの犯罪だけでなく、神権政治の基本的条例の限度を超えた場合-割礼の法(創世記17章)、過ぎ越しの法(出エジプト記7:15、19)、安息日の法(出エジプト記31:14)、生贄の汚染(レビ記7:20)、聖所以外での生贄(レビ記17:8)、清めの法(レビ記22:2、民数記19:13.20)-に施行される。しかし、「民から切り離されること」という独特な表現は、前者とは区別され、後者の犯罪の処罰に対して選択される。この表現は、単純に追放とは言えないが(そのように解釈する人もいる)、人の判断によるのではなく、神の力による刑罰を指しているように思われる。このことは、血を食する人に関連して、レビ記17:10において言われている。「私はその者を見えなくするであろう。」処罰が人の裁判によって施行される場合、レビ記31:14や前者の記載にあるように「その者は処刑されるであろう」と表わされる。一般に、人々が違反者に裁判を執行しなかったすべてのケースにおいて、神ご自身が正義の実行を見合わせる。レビ記20:4~6参照。
コメント:
以下のフローチャート再考。
クリスチャン→プレミレ→古い人→進化論→適者生存→共産主義思想→
→組織的憎悪(上の記事The Death Penalty参照)→ヒューマニスト→ノンクリスチャン
このフローチャートを逆から追うと
ノンクリスチャン→ヒューマニスト→組織的憎悪→共産主義思想→
→適者生存→進化論→古い人→プレミレ→クリスチャン
古い人の次に来るべきは新しい人のはずなのだが、プレミレに置き換わってしまっている。
これが、まさに敵の狙い。
新しい人を剥ぎ取られたクリスチャンは、もはやクリスチャンとは言えない。
死刑
229~
The Death Penalty
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony
◇◇
処罰に関する聖書律法の原則は、出エジプト記21:23~25に述べられている。
出エジプト記21:23~25
かし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。
21:24 目には目。歯には歯。手には手。足には足。
やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。
この聖句を文字通り解釈する人たちがいるが、文脈そのもの(同21:1~36)、つまり罪と処罰の記述において、処罰はその犯罪にふさわしいものでなければならないと明確化される。
罰は罪に比例しなければならない。
過剰でも過小でもいけない。
この原則は、レビ記24:17~21と申命記19:21においても明言されている。
Oehlerのコメントが興味深い。
モーセの刑罰に関する原則は報復の権利jus talionisであり、「命には命、目には目、歯には歯」という文章において、くり返し表現されている(出エジプト記21:23~25、レビ記24:18.申命記19:21)。罪を犯した通りに、罪を犯した者にしなければならない。言い換えるなら、刑罰は邪悪な行為に対する、質において量において同価である応報。しかし、taioは単純に単に外面的な意味で理解されてはいない。つまり、多様な刑の規定によって示されるだけではなく、行ないそのものではなく行ないの根にある自責の念が、処罰の決定において考慮されるという事実によっても示される。死の刑罰は多くの犯罪に添えられているように見える。殺人、両親虐待、人さらい(出エジプト記21:12)、姦淫、近親相姦や他の異常な犯罪、偶像礼拝、異教占いと魔術(レビ記20章、申命記8:6)などの犯罪だけでなく、神権政治の基本的条例の限度を超えた場合-割礼の法(創世記17章)、過ぎ越しの法(出エジプト記7:15、19)、安息日の法(出エジプト記31:14)、生贄の汚染(レビ記7:20)、聖所以外での生贄(レビ記17:8)、清めの法(レビ記22:2、民数記19:13.20)-に施行される。しかし、「民から切り離されること」という独特な表現は、前者とは区別され、後者の犯罪の処罰に対して選択される。この表現は、単純に追放とは言えないが(そのように解釈する人もいる)、人の判断によるのではなく、神の力による刑罰を指しているように思われる。このことは、血を食する人に関連して、レビ記17:10において言われている。「私はその者を見えなくするであろう。」処罰が人の裁判によって施行される場合、レビ記31:14や前者の記載にあるように「その者は処刑されるであろう」と表わされる。一般に、人々が違反者に裁判を執行しなかったすべてのケースにおいて、神ご自身が正義の実行を見合わせる。レビ記20:4~6参照。
コメント:
以下のフローチャート再考。
クリスチャン→プレミレ→古い人→進化論→適者生存→共産主義思想→
→組織的憎悪(上の記事The Death Penalty参照)→ヒューマニスト→ノンクリスチャン
このフローチャートを逆から追うと
ノンクリスチャン→ヒューマニスト→組織的憎悪→共産主義思想→
→適者生存→進化論→古い人→プレミレ→クリスチャン
古い人の次に来るべきは新しい人のはずなのだが、プレミレに置き換わってしまっている。
これが、まさに敵の狙い。
新しい人を剥ぎ取られたクリスチャンは、もはやクリスチャンとは言えない。