みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#608 神の法第六戒

2020年09月28日 | 神の法
第6戒
死刑

229~
The Death Penalty
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

処罰に関する聖書律法の原則は、出エジプト記21:23~25に述べられている。

出エジプト記21:23~25
かし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。 
21:24  目には目。歯には歯。手には手。足には足。 
やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。 

この聖句を文字通り解釈する人たちがいるが、文脈そのもの(同21:1~36)、つまり罪と処罰の記述において、処罰はその犯罪にふさわしいものでなければならないと明確化される。

罰は罪に比例しなければならない。

過剰でも過小でもいけない。

この原則は、レビ記24:17~21と申命記19:21においても明言されている。

Oehlerのコメントが興味深い。

モーセの刑罰に関する原則は報復の権利jus talionisであり、「命には命、目には目、歯には歯」という文章において、くり返し表現されている(出エジプト記21:23~25、レビ記24:18.申命記19:21)。罪を犯した通りに、罪を犯した者にしなければならない。言い換えるなら、刑罰は邪悪な行為に対する、質において量において同価である応報。しかし、taioは単純に単に外面的な意味で理解されてはいない。つまり、多様な刑の規定によって示されるだけではなく、行ないそのものではなく行ないの根にある自責の念が、処罰の決定において考慮されるという事実によっても示される。死の刑罰は多くの犯罪に添えられているように見える。殺人、両親虐待、人さらい(出エジプト記21:12)、姦淫、近親相姦や他の異常な犯罪、偶像礼拝、異教占いと魔術(レビ記20章、申命記8:6)などの犯罪だけでなく、神権政治の基本的条例の限度を超えた場合-割礼の法(創世記17章)、過ぎ越しの法(出エジプト記7:15、19)、安息日の法(出エジプト記31:14)、生贄の汚染(レビ記7:20)、聖所以外での生贄(レビ記17:8)、清めの法(レビ記22:2、民数記19:13.20)-に施行される。しかし、「民から切り離されること」という独特な表現は、前者とは区別され、後者の犯罪の処罰に対して選択される。この表現は、単純に追放とは言えないが(そのように解釈する人もいる)、人の判断によるのではなく、神の力による刑罰を指しているように思われる。このことは、血を食する人に関連して、レビ記17:10において言われている。「私はその者を見えなくするであろう。」処罰が人の裁判によって施行される場合、レビ記31:14や前者の記載にあるように「その者は処刑されるであろう」と表わされる。一般に、人々が違反者に裁判を執行しなかったすべてのケースにおいて、神ご自身が正義の実行を見合わせる。レビ記20:4~6参照。

コメント:

以下のフローチャート再考。

クリスチャン→プレミレ→古い人→進化論→適者生存→共産主義思想→
→組織的憎悪(上の記事The Death Penalty参照)→ヒューマニスト→ノンクリスチャン

このフローチャートを逆から追うと

ノンクリスチャン→ヒューマニスト→組織的憎悪→共産主義思想→
→適者生存→進化論→古い人→プレミレ→クリスチャン

古い人の次に来るべきは新しい人のはずなのだが、プレミレに置き換わってしまっている。

これが、まさに敵の狙い。

新しい人を剥ぎ取られたクリスチャンは、もはやクリスチャンとは言えない。





聖書信仰を堅持する(補足)

2020年09月27日 | 信仰の防衛
聖書信仰弁証論

訂正:

idealism:理想主義と訳してきたが、観念論が正しい(専門用語)
idealist:理想主義者ではなくて、観念論者が正しい
absolute idealism:絶対的観念論

死ぬほどわかりやすい哲学ブログ

タイトルも微妙に変更中。

哲学は良く分からないが、聖書理解に必要なのであれば追及することに異議はなし。




#607 神の法第六戒

2020年09月27日 | 神の法
第6戒
死刑

228~
The Death Penalty
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

聖書律法によって、刑罰の要綱は、Randによって次のように要約された。

1)死刑に値する罪に対する死刑
2)微罪に対する1回から40回のむち打ち刑
3)他人の財産の強奪と破壊の場合は賠償。刑罰として100から400%までの返済
4)最終的に賠償金を返済できなかった者は借金が完済されるまで労務を強いられた
5)偶然の殺人に対しては逃れの町に監禁

このようシステムが投獄に代わったのは比較的最近のこと。

1771年頃、あるフランスの犯罪学者が、裁判を待っている人の場足においてのみ投獄が許されると書いた。

しかし、今日刑務所はいたる所にあるため、死刑は廃れてしまった。

1966年に司法手続き後、一人の男がアメリカで犯罪のため処刑された。

刑務所制はヒューマニズム(人間教)的方法ではあるが、今やヒューマニスト(人間教徒)によって攻撃されている。

彼らヒューマニストは、刑務所ではなく、精神施設や心理的訓練施設に変えるよう望んでいる。

さらに、そのような施設は、病んでいる人や犯罪者を養う病んだ社会であると固く信じているので、学校、説教、新聞、テレビにより、心理学的再生(すなわち思考改造工作)を施すべきだと試案している。

人間教的環境主義はそのようなアプロ―チ法を要求する。

マルクス主義(環境主義の極めて厳格な様式)は、社会環境の全面再生に専念する。

この人間教的環境主義は、Lamarkによって計算された基本的進化論信仰と同じ様式。

人間は、自己の内面的存在によってよりも、環境によって得られる獲得形質によって決定される。

人間の罪ではなく、彼を取り巻く環境が人間の意志を決定する。

かくして、マルクス主義者Lincoln Steffensは、人間の堕落に関して、非難されるべきはアダムでもエヴァでもなく、また蛇でもない。

「悪いのはリンゴの木」つまり環境であり、人間が住む世界であると。

人を非難することは良くない。

世界は、人間に合うように、人間によって再構築されなければならない。

従って、人を罰することは悪。

世界を創ったのは神、神の下で神の法秩序を確立したのは人間、よって罰せられるべきは神。

以上から、聖書律法と人間教法との間に、架けることができないギャップと絶えることのない戦争が存在する。

コメント:

敵の陣営に戻るな

切迫再臨信仰のルーツ

自己満足じゃ話しにならない

神学の重要性




#606 神の法第六戒

2020年09月26日 | 神の法
第6戒
死刑

227~
The Death Penalty
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

次のような状況を明らかにしておきたい。

宗教戦争は現在進行中であり、それはヒューマニズム対キリスト教、そして、その戦争において、教会、国家、学校の大勢は、キリスト教に対抗する人間教(ヒューマニズム)の側にいる。

しかし、歴史は決して多数によって決定されない。

常に神によってのみ決定される。

闘争は、神の絶対正義と法秩序に対抗する人間の無法的自己主張と自治との戦い。

神の法秩序は、その領域に反しかつ死刑に値する罪に対して死刑を要求する。

人間の法は、人の命はあまりに高価であり、取り除くことはできないと主張する。

しかし、人間教社会でも、敵であると見なされた場合にはまさに死刑を執行する。

死刑は、神とノアの契約が始まりとされる。

創世記9:5~6
わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。 
人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。

すべての殺人者と人を殺す動物は、自身の命をもって代償しなければならない。

神はこれをある国に適応した。

不履行に対して最終審判が下される。

Randは次のように注釈した。

「よく知られたこの信条に反して、聖書は命を安直に取り扱ってはいない。

命を取り去ることは重大なこと。命を取り去ることに対して、殺人者は自分の命を失う。」

このような理由により、殺人の贖いや恩赦はあり得ない(偶発的殺人は区別される)。

何故なら、そうすることは、神が民の只中におられるその地を汚すことになるからだ(民数記35:29~34)

民数記35:29~34
これらのことは、あなたがたが住みつくすべての所で、代々にわたり、あなたがたのさばきのおきてとなる。 
もしだれかが人を殺したなら、証人の証言によってその殺人者を、殺さなければならない。しかし、ただひとりの証人の証言だけでは、死刑にするには十分でない。 
あなたがたは、死刑に当たる悪を行なった殺人者のいのちのために贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。 
のがれの町に逃げ込んだ者のために、贖い金を受け取り、祭司が死ぬ前に、国に帰らせて住まわせてはならない。 
あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。 
あなたがたは、自分たちの住む土地、すなわち、わたし自身がそのうちに宿る土地を汚してはならない。主であるわたしが、イスラエル人の真中に宿るからである。」 

コメント:

自然法ではだめ

自然法ではだめ part2




#4 聖書信仰弁証論

2020年09月24日 | 信仰の防衛
初めに

2.湧き上がる反論

p4~
2. Objections Raised
Introduction
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

1.Cecil De Boer(欄外注*)

*Cecil De Boer(1898-1955)はカルバンカレッジとミシガン大学に通い、1929年博士号(PhD)を取得。・・以下省略。

われわれが始めなければならない前提は一般的な事実ではなく、神が語る事実であると主張する場合、新弁証論は知識と真理の理想的な理論、すなわち、論理的に、一種の多神教へと通じる理論を無批判に受け継いでいるように思われる。

2.Jesse De Boer(欄外注*)

*Jesse De Boer(1912-1990)は、カルヴァンカレッジ及びミシガン大学に在籍。1935年から1939年までカルヴァンカレッジで哲学を教えた。・・以下省略。

大多数の後ルネサンス哲学者と同様に、ヴァンティルは知識の問題に影響を受けている。

現代認識論者と親しいヴァンティルの兆候としての一般的なトピックについて論ずるつもりは毛頭ない。

その代わり、ヴァンティルが如何にして空想的理想論から、表現や論拠を得たのか特に指摘しておきたい。

やぶへびの議論と化しており、現代理想主義はキリスト教教理から遠く離れている。

「従って、彼はキリスト教を理想主義に取って替える危険があるということを警告しておく。」

「ヴァンティルの弁証論は、粉骨砕身なら生まれたものではなく、また、古代、中世そして現代に至る偉大なキリスト教蔵書の完成された熟練から生まれたものでもないがゆえに、彼が学生時代に読みふけった書物の著者である理想主義者によるカテゴリーや技能によって捻じ曲げられ、騙されていると私は考えている。」

3.Orlebete(欄外注*)

*Clifton Orlebete(1926-)はミシガン大学、カルヴァンカレッジ、ハーバード大学に在籍していた。・・以下省略。

他の人々ほど私を言い負かそうとはしない。

Orlebeteは、私の考えが理想主義のそれとどのように違うのかを見出すことに関心がある。

「キリスト教にとって、神のお考えは構成的constitutiveだ」とする私の言葉を引用する。

神のお考えによって宇宙の諸事実が誕生した。

そこで彼の質問。

神の知識はその知識の実質objectと区別することはできないと理解してよいのか。

仮に神のお考えが諸事実の構成要素であると言えるのであれば、諸事実は神の知識、すなわち神の構成要素であると言う必要はないということになる。

神と神の創造との間の先鋭な違いを維持するために、創造された現実の実在beingとそのような実在に関する神の知識の間の先鋭な違いを区別することが必要であると思われる。

訳者解説:

難しいことが書かれているが、内容は実に面白い。

神が創造されたこの世界は、神の(知識の)部分なのか、否か。

目の前にあるこの机(の実質)は、神の(知識の)部分なのか、否か。

この世界が実に緻密かつ理路整然と創造され実在化されていることをヴァンティルは構成的constitutiveと表現したのだろうと推察する。詳細は次章で出てくるはず。

こういうわくわくするような議論を神学者にだけ任せておくのはもったいない。



#605 神の法第六戒

2020年09月24日 | 神の法
第6戒
死刑

226~
The Death Penalty
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

かくして、あるレスター大学社会学者は、正義について次のように書き記した。

そうでないとすれば、歴史的な確信はある意味でごまかしということになってしまう。正義に関するわれわれの考えが根本的懲罰行為の正当化であるということはすでに提唱されてきた。正義という概念は虚構であるという議論はする必要はない。むしろ、正義という概念を表向き価値のあるもの捉えるのではなく、われわれが満足するために必要なことと理解するべきであろう。正義は集合的心理学的防御の類として現れるのではないか。われわれの理想の妥当性の証拠として、われわれは、他の民族も同様に、それらについて持っている確信している感覚を参考にする傾向にある。われわれは皆、典型的な正義の正しさには強い確信がある。しかし、確信の感覚が行なうことは全てわれわれにとって相応しいかどうかを証明する必要がある。われわれの感情的組織の現状において、そのような信念は、大変特殊であり、演ずべき多くの用途がある。この見解において見られる正義は、単にわれわれの中にある不安という溶媒ではない。このような緊張状態が建設的な形で発散される(われわあれにはそう思われる)ポジティブな出口が正義。正義という観念を通り抜けて、われわれの中にある悪いものが、何か新しいものや価値あるものへと変化していく。その収支をあまりにも詳しく凝視しなければ、これはすべてその通りではないだろうか。その上方に有名なことばを置けば、より確実なものとなるだろう。正義とは、事実として行なわれているという場合よりも、確かに行なわれているように思われるという場合の方が頻度的に多い。

*訳者注:この社会学者の言いたいことピンと来ない。この箇所が理解できなくても、以下を読み進めていくことに全く問題がないので、深く追及することは止めておく。

正義:Williams O. Douglasは、かつての法は神聖なる承認があり、「神の御心」に留まっていたという明白な事実を指摘した。

しかしながら、今では神の主権は、「個人の主権」によって置き換わってしまった。

この事に関してであるが、Douglasにとって、市民の自由権闘争は旧秩序に対する必然的な敵意だった。

実際、「法秩序は、自由人ではなく全体主義者たちの案内星だ。」

Douglasにとって、「それ故、革命は人間の権利において基本である」

人間は法よりも上位にあり、法に対する服従は暴政であるから、当然そうなのだ。

きちんとした「社会」には、全人の尊厳のみならず、主権と栄誉に対する畏敬の念とそれを保護する努力がある。

Douglasのいう無政府状態の世界において、 如何なる法が人を縛るのだろうか。

誰が法の上位にいるのか。

自由人が法と秩序に敵対する者たちであれば、どのような国家が生き延びることができるのか。

コメント:

情緒的と論理的

聖霊のないキリスト教は砂漠化の宗教である

悔い改めるように忍耐されている者とは?



#3 聖書信仰を堅持する

2020年09月24日 | 信仰の防衛
初めに

2.湧き上がる反論

p3~
Objections Raised
Introduction
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

2.湧き上がる反論

これらの非難を詳細に取り上げる前に、それぞれの例において、特異的で基本的な反論を見るとよいだろう。

イ.Masselink(人名、欄外注*)

*William Masselink (1897-1973)は、Grundy大学および神学校を1918年に卒業、次いでPrinston神学部を1919年に卒業して、神学博士を取得した。以下省略。

Masselinkの主な反論は、次のことばに良く表現されている。

「ヴァンティルの一般恩恵に関する考え方についてわれわれが受け入れ難い理由は、彼の前提、すなわち出発点、つまり絶対的道徳的アンチテーゼにある。」

Massselinkは、私の見解と、Kruper、Bavinck、Heppそして「旧プリンストン神学」が提唱する一般啓示と一般恩恵に関する見解の間の「根本的不一致」を見出す。

この違いは認識論(欄外注*)における違いまでさかのぼる。

*認識論とは、人間の知性に関する学問

認識論に関するこのような不一致は、「神と自然人との間にある絶対的道徳的アンチテーゼ」というMasselinkの主な前提と直接に関係している。

ロ.カルヴァンフォーラム記事(欄外注*)

*カルヴァンフォーラムは月刊誌であり、カルヴァンカレッジとカルヴァン神学校の教授陣がスポンサー。以下省略。

フォーラム記事は、ひとつの主要なポイントまで簡単に切り詰めることはできない。

しかし、ひとつの強調点が繰り返し回想される。

つまり、私が理想主義哲学科から認識論を大いに取り込んできたという趣旨のこと。


聖書信仰の王道




#604 神の法第六戒

2020年09月23日 | 神の法
第6戒
死刑

225~
The Death Penalty
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

(以下、ニューヨークヘラルド紙の記事「A barbarous Form of Punishment」からの引用)

Chessman は死刑に対抗する戦いの世界的シンボルとなることに成功した。
12年前、彼は強盗と婦女暴行(カリフォルニア法の妙な法では誘拐とされた)の罪で有罪となった。法廷は彼を有罪としたが、彼は最後まで無罪を主張した。疑いの根が残り、このケースはいつまでも疑義が晴れない事件となるだろう。しかし、昨夜カリフォルニア州の主権によって殺された男は、その州の法定が元々判決を下したのと同じ男ではなかった。
カリフォルニアは、若い暴漢に判決を下し、法律、恐らく市民権についても地道に勉強していたその男を処刑した。
命の尊厳に敬意を払いつつ、法は命に対する畏敬の念を繰り返し教えるべきだ。カリフォルニアが昨日犯したように、言うことを聞かない息子に「こうするんじゃなく、言うことを聞け」と言い付ける常軌を逸した父親のようであってはならない。
死は最後。死は再考の余地を与えない。誤りやすい人間の判断に基づく司法体制において、数学的に一定の確かさがある誤審の訂正に対する余地も残さない。司法による殺人が意味する典型的な計画性は、その行為を感情的犯罪というよりも冷ややかな悪意ある犯罪としている。

ガス室という概念は、西洋文明の理想的目標とは正反対だ。

--以上、引用終わり。

そのような信仰(信念)によって、全人類の中で最も悪意のある人たちは死刑を好む人たち。

人間に対する犯罪において、彼らは人間教(ヒューマニズム)に対して赦し難い罪を犯す。

人間に卓越性を与えるために、ヒューマニスト(人間教徒)は、論理的に、現実的で客観的なスタンダードとしての正義の概念を破壊する必要がある。

人間は法の上位に位置し、それ故正義の上位に存在しなければならない。

以上から、正義は(自己)正当化と組織的な憎悪へと(その価値を)引き下げられる。

コメント:

ヒューマニズムが創造教理を否定したいわけ

人間教は絶望と妄想のはざまで揺れ動く

マイナス思考に導く陰謀論にご注意

マイナス思考に導く陰謀論にご注意 2


*最後の記事「マイナス思考に導く陰謀論にご注意 2」にこうある。

>プレ・ミレを捨てない限り、自信を持つことができないので、人を恨む以外に逃げ道はなくなります。

せっかく改心して、主イエスを信じて救われたにもかかわらず

クリスチャン→プレミレ→古い人→進化論→適者生存→共産主義哲学→
→組織的憎悪(上の記事The Death Penalty参照)→ヒューマニスト→ノンクリスチャン→???

という破滅の波に押し流されることになる。

プレミレ教を徹底的に排除しなければ、多くのクリスチャンが信仰を奪い取られるであろう。

この流れを作っているのはサタン以外にあり得ない。



#603 神の法第六戒

2020年09月22日 | 神の法
第6戒
死刑

225~
The Death Penalty
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

人は自分の信仰(信念)に基づいて行動する。

もしその人の信仰(信念)が人間教的であれば、基本となるスタンダードは人であり、神の法ではない。

その人は、神の作品としてではなく、自分自身の作品として、世界を眺めるだろう。

The Death of God Schoolの神学者であるWilliam Hamiltonは、今や人は神に対する畏敬の念をもって星空を見上げることはめったにないという事実に注意を向けさせた。

これまでに存在しなかった考えの例として、自身の息子との経験を取り上げる。

先日、私は子どもの一人と一緒に家の裏庭に出た。理科の宿題のために、彼はいくつかの星座を見つけなけらばならなかった。この子は今の時代のまさに申し子的存在。必要な星座の位置を突き止めた後、私にこう言った。「僕たちが飾りつけた星座はどれなの、パパ?」彼はすっかり科学者となっていた。彼の言い分は何か宗教的な臭いのすることばだった!

この子の反応は明らかに論理的だった。

もし聖書の神が存在しないのなら、人が神であり、主であり、創造主となる。

さらに、人が神なら、人とその命は最も高価。

よって、最も大きな罪は命を取り去ること。

このようなことから、劇作家Arthur Millerは、次のように宣言する。

「命は神の最も貴重な贈り物。如何に素晴らしい原則であれ、命を取り去ることを正当化する原則は存在しない。」

最悪の罪は死刑、すなわち国家による意図的命の取り去りであるとする考えは、このような信仰から来る。

これは、1960年5月3日、ニューヨークヘラルド紙編集部によって、Caryl Chessmanの死刑執行に抗議するために書かれた記事「野蛮な処罰の形式」。

コメント:

未来志向ではない神学から離れるべきだ

現代人はフリーメイソンによって洗脳されてきた

光を与える聖霊がなければ世界は見えてこない

「地を従えよ」の命令はキリストにおいて成就した



#602 神の法第六戒

2020年09月19日 | 神の法
第6戒
殺してはならない

224~
Thou Shalt Not Kill
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

神を前提とする法と秩序よりも古典経済学の方が上位にあるとする自由意志論経済学者の中で、完全相対主義を支持する者が増えつつある。

彼らは全ての信仰と実践のための自由市場を要求する。

何故なら、正しいものは皆無であり、真実は存在しない(と彼らは信じている)からだ。

新自由意志論者の大敵は聖書信仰。

聖書信仰は絶対真理を固く守り、このような相対主義的自由意志論者を名乗ったことのある者の多くが
クリスチャンと戦うために、マルクス主義者のような誰かと手を組む意志があると公言している。

人は自分の信仰(信念)に基づいて行動する。

人には逃れることができない整合性(言行一致)がある。

何故なら、人は「意味がある」という単一かつ完全な世界の中へと創造されたからだ。

罪はもちろん、他の如何なる世界において生きていくことはできない。

マタイ7:16~18
あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。 
同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。 
良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。

成熟の過程があり、時に良い木を侵す病いがある。

しかし、その本質において、木は木。

基本となる信仰(信念)によって、人は行動する。

神の最上の恵みによって、人の方向性が神へと向かうなら、その人は命へと方向づけられ、命の法言(law-word)に対して従順となる。

しかし、人の前提が聖書的でないなら、基本となる信仰(信念)が人間教的であるなら、その人の方向性は罪と死へと向かうであろう。

命に対する強烈なる畏敬の念をもって、その人は死の恐怖を語るであろう。

しかし、彼の本質は死を生み出す。

「殺してはならない」という戒めは自殺を禁止する。
 
何故なら、われわれは自分のものではなく、自分のことばによって自分の命を使ったり取り去ったりできない。

しかし、神とその法領域の外にいる者たちは自殺しうる。

自身にも大いに当てはまり、また落伍者に適切なことばで、Oscar Wildeは、著作「The Ballade of Reading Gsaol」の中で、次にように述べている。

すべての人は自分が愛する物を殺す。

ちょうどすべての落伍者が自分の信仰に基づいて行動するように、すべての人は、程度の差はあれ自分を殺し、同様に自分の属する社会をも殺す。

神の祝福と神の法言によって、すべての人とすべての社会は、より豊かに命へと向かう。

コメント:

御霊を受けている人は聖書が教える来世や終末を理解する

ほいほいと異端に嵌らないためには

レフトビハインドの脅威

切迫再臨や世界の終末を唱える教会は悪魔を助けている