みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#13 生活指針 Why Christians Submit to the Government, NO.7

2024年04月12日 | 生活指針

Why Christians Submit to the Government wirh John MacArthur


41分43秒から最後まで。

◇◇

個人に報復は禁じられています。

しかしながら、神の使いとしての政府には与えられています。

私たちは統治施設に関して神に感謝すべきです。

最悪な政府は私たちを失望させ、また迫害しますが、政府が存在しなければ、私たちはお互いを殺し合うことになるでしょう。

また、刑罰がなされなければ、やましい血がつねに存在します。

カインがアベルを殺した後、アベルの血が地から叫んだと創世記4章に書かれています。

多くの聖書箇所で、そのことが示されています。

命を守るために、神は死刑を要求します。

民数記35:33に、「あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。 

血を流した者たちの死によってのみ静けることができる報われない血が、殺人国家にはつねに存在します。

犯罪の多発するこの世界において、非常の多くの囚人が死刑を待っている。

生まれ出てこなかった胎児を殺害した人々の数は数えきれない。

命の尊厳に対する関心の欠落や、命を奪った人々に対する即時的死刑執行など、明らかにモラルのレベルは地に落ちています。

ところで、死刑に反対する人々が堕胎を促進したり、クジラや実験用ネズミの救済に賛成するのは何か変だと思いませんか。

受動的な考え方では、新約聖書から勇気をもらうことはできない。

キリストが来て売春婦はこれ以上罪を犯さないように命じられるが、兵士は兵役から引退するようには言われません。

政府に従うべき最後の理由は、第5節。

「以上のことに、もうひとつ付け加えます。ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも従うべきです。 」

その日の最後に正しいことを行なう理由は、神がそうするように命じているからです。

正しいことを行なうメリットは明らかです。

何でしょうか。

良心ゆえにです。

今朝、教会を終えた後、私はパトロシアと亡くなりそうなご婦人に会いに行きました。

彼女の家を見つけることができませんでした。

細い脇道の通りすがら、車に乗っている警察官を見つけました。

彼を通り過ぎましたが、振り返って、再び通り過ぎました。

実際に振り返って、通り過ぎて、彼を見ました。

私は恐ろしいと思ったでしょうか。

いいえ。

彼と話をして愉快になり、握手して、彼がしてくれたことに感謝しました。

怖いことなどありません。

こんな風に楽しく生きることができるのではないでしょうか。

これが、従順なクリスチャンにやって来る平安です。

理解できたでしょうか。

もうひとつ言っておきたいことがありますが、2週間後に戻ってきたら納税の必要性についてお話ししようと思います。

第6節と7節にあります。

(祈り)

 

 


#12 生活指針 Why Christians Submit to the Government, NO.6

2024年04月09日 | 生活指針

Why Christians Submit to the Government wirh John MacArthur


33分40秒から41分43秒まで。

◇◇

私たちは、路上で革命を起こしたことはありませんが、それは福音派クリスチャンから起こるでしょう。

長きに渡って、政府や大統領、そして上院、州や地方の指導者に対して口汚い誹謗中傷が行われてきました。

政府は保護してくれます。

つつがなく暮らしている時、政府は安全を与えてくれます。

政府の性格がどうあれ、私たちの責任は、静かで平穏な暮らしに預かることです。

パウロとペテロは、「良い評判は私たちを批判する人たちの口を黙らせるであろう」と言います。

つまり、私たちを支配する人たちに対して従順な態度を保ち、静かで、平穏、平安な生活を送っていない時、この証言は失効します。

使徒の言明は無効になります。

信心深いクリスチャンに起こるであろう最悪の事態は、統治権威が彼らを敵と認識することであります。

政府を運営している人たちは敵ではありません。

彼らは任務を遂行する立場にあります。

彼らはどのように任務を遂行するのでしょうか。

彼らの最終手段はあなたがたを敵とみなすことです。

事実、これによりあなたがたは震え上がるでしょう。

4節にあるように、権威にある人たちは神の使いです。

神の使い。

その通りです、何故なら彼らは敬虔な施設である政府内で働いているからです。

彼らは神を知らないかもしれません。

しかしながら、健康かつこの世の平穏という一般恩恵を与えるための神の施設の中で働いているのです。

この事に関して、イスラム教の世界が如何に神から疎遠であるかを教えましょう。

彼らにはアジェンダ(協議事項)があります。

それは、世界全体を恐怖に落とし、破壊することです。

それは何処から来るのか。

サタンのアジェンダです。

政府をサポートし、市民のモデルとなり、良いことをするために、私たちクリスチャンはできる限りのことをします。

ロバート・ホールディンは、「世の政府という施設は慈悲の配剤であり、その存在は不可欠であるため、ある形において終了すると別の形として再構築される」と述べました。

人がどれ程までに堕落しているかを知りたいなら、抑制の取れた振る舞いを見ればよい。

凄まじい大混乱に対抗できる警察や政府が存在しないならば、この町が徹底的に破壊されるまでに対して時間を要さないでしょう。

ロバート・ホールディンは、「ある人種が他の人種を支配することが次々に行われるこの世界は、それほどまでに退廃し堕落しているので、わがままで質の悪い人の感情に対して世の政府による強力な障壁がなければ、そんな冷酷な社会で生きるよりも、森の獣たちとともに生きる方がましである」と述べている。

「一度抑制が解かれると、人は本来の性格を顕わす。」

「イスラエルに王がおらず、人々が自分の目に正しいことを行なっていた時、士師記の最後の3章にあるように、悲惨な結果が待ち構えていた。」

そこで、パウロはこのような場合を基礎に置きました。

私たちが政府に服従する理由は、神が政府の源であるからです。

政府に反抗することは、神に抵抗すること。

神に抵抗することは、裁きをもたらす。

政府は悪を抑止し、善を助長するために働く。

第6に、支配者は神によって権限を与えられ、強い刑罰を課すことができる。

支配者は神によって権限を与えられ、強い刑罰を課すことができる。

4節に戻って、悪を行なう者は、政府、権威、支配者、統治機構を恐れる。

「支配者は無意味に剣を帯びてはいない。彼は神の使いであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。」

世の政府は、単なるお飾りではありません。

単なるシンボルでもない。 

口先だけの脅威ではない。

政府は命を奪う権力を有している。

政府は力を持つ必要がある。

政府は強力な抑止力を持つ必要がある。

創世記9章にこうあります、「人の血を流す者の血は、流された者によって流されなければならない。」

「殺人に対しては、死刑。」

マタイ26:52で、イエスは、「剣によって生きる者は剣によって死ぬ。」

かくして、イエスは死刑を肯定しました。

使徒25:11で、パウロは死に値する罪について言及しています。

イエスは創世記にさかのぼり神の啓示を明確化したとパウロは断言します。

統治機構、支配者、政府の権威を行使する人は神の使いであって、悪を行なう者に怒りをもって報復します。

死刑は神の御心であり、死刑執行人は神のしもべ。

ロバート・カルバーは、「刑務官の責務は不快であるが、むちや独房、輪縄、ギロチンなどのようなものは、社会の安定化を支援し、存在する必要がある」と述べています。

何故なら、神は、変質者の意見を聞くのではなくて、現実との調和において、そのような宣言をされるのです。

強制力を持つ政府は社会的必要であり、創造主によって決定されたものです。

ある大学の統計学的検索や社会学研究者らによって決定されたのではない

社会が人間の悲惨な現実から逃避し、刑罰から逃避する時、その社会は死滅します。

ローマ書12章と13章は、個人には禁じられている報復について述べています。

ローマ書12章最後の節を覚えていますか。

「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」

 

 

 


#11 生活指針 Why Christians Submit to the Government, NO.5

2024年04月05日 | 生活指針

Why Christians Submit to the Government wirh John MacArthur


25分29秒から33分40秒まで。

◇◇

これが破綻すると、悪が罰せられることなく、犯罪者は盗んだものとともに消え去り、賠償の機会もなく、品位の回復もない。

加えて、結婚は破綻し、教会は背教に走り、あらゆる神の施設は汚され、罪がさらに罪を生む。

結局、社会の最後に至る。

あなたがたはそれを見ているのです。

政治はそれを変えることはできません。

唯一福音のみが人を変えることができ、変えられた人たちが社会を変えることができるのです。

政府は神に由来する。

政府に逆らうことは神に反抗すること。

神に逆らうことは刑罰をもたらす。

私たちの服従の背後には4つ目の動機があります。

政府は悪を抑止するために働きます。

第3節、「 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。」

明らかに、これは最後の節と密接に連結されています。

「支配者は恐れの原因ではない。」

恐れは恐怖症から来る。

支配者が私たちを恐れさせることはない。

善い行ないに対して彼らが恐怖を引き起こすことはない、しかし悪い行ないに対して(彼らは恐怖となる)。」

政府は悪を抑止するために働く。

政府を恐れるのは善良な人たちではなく、悪人たちである。

法律を守っている限りにおいて、支配者を恐れることは何もない。

「では、その法律とは、皆が知っているような良いこと悪いことを定める普遍的なものなのか」と言うかもしれない。

そうです、その通りです。

しかし、皆が聖書を信じているわけではないし、皆が聖書を持っているわけではありません。

ローマ書2章14,15節によると、「彼らは書かれた神の法をもっている。」

何処に持っているのでしょうか。

心の中に、です。

そして、自分を非難したり、言い訳をする良心の中に、です。

道徳の基本的感覚を持っているのが人間です。

それが人です。

全惑星をみな超えて、宇宙的法の中で人は映えるのです。

万人、非信仰者さえも、自然啓示、道理、一般恩恵によって、基本的道徳を理解しています。

支配者は、神によって定められた基本的道徳を行使します。

あらゆる社会は、それを正しいものとして理解しています。

自国のそれらの法律に従い、良いことを行なう人は、恐れる理由など全くありません。

暴動を起こす人たち、社会を恐怖に落とす人たちは、エジプトで行われているようなことをするのでしょう。

彼らには恐れる理由が無数にあります。

法に従わない人、自分の判断で暴力を振るう人は恐れるべきです。

何故なら、悪行を抑止するために権力を用いる者は直ちに罰則を発動するからです。

迅速な刑罰。

旧約聖書に刑罰の仕方が書いています。

申命記19章13節から19節。

憐れみをかけてはならない。

憐れみをかけてはならない。

申命記13章6節から11節。

えこひいきがあってはならない。

申命記25章2節によれば、直ちに、憐れみなしに、えこひいきなしに、待つことなく。

このような刑罰は犯罪を阻止します。

このような刑罰は、悪人の心に恐れを置きます。

3年後、4年後、10年後、15年後の刑罰ではなく。

しかし、法に従う人は恐れることは何もない。

今日のような社会において、クリスチャンはどうすればよいのでしょうか。

従い、服従すれば、権威を恐れることは全くありません。

ところで、この手紙を書いた人は、権威によってひどい扱いを受けました。

彼は不当に投獄されました。

不当に鞭打たれ、ひどい扱いを受けました。

しかし、原則はそれでも変わりません。

迫害があっても、武力で報復せず、犯罪行為により報復しない。

ペテロは言います、「あなたの心を忠実な創造主に委ねなさい。そうすれば、来ることを受け入れることができます。」

迫害する政府はあります。

私たちのものはそこにはありません。

迫害にあっても、武力を携え政府に立ち向かうことはない。

第5に、政府への服従に関する動機の小さなリストの中に、スキップしてしまった多くの事柄があります。

しかし、大体の状況を伝えることはできたと思います。

ポジティブな面に関して見ていこうと思います。

悪を抑止する目的についてお話をしましたが、ポジティブなこととして、政府は善を促進するために働きます。

3節に戻ります。

権威を恐れたくないと思いませんか。

「善を行ないなさい。そうすれば、あなたは支配者から褒められます。というのは、彼はあなたにとって益となる神の使いだからです。」

恐れたくないと思いませんか。

もちろん、恐れたくはない。

善を行ないなさい。

第1テモテ2章にパウロの心の内が書いてあります。

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。  」

政府の役割は悪を抑止することです。

それが主な役割であります。

それが、悪を抑止するための、聖書的に与えられた、委任された政府の役割です。

もうひとつポジティブな点があります。

善を行ないなさい、本質的に善いことを。

そうすれば、支配者によって褒められるであろう。

第1ペテロ2:14に書いています。

正しいことをすれば、批判する者は黙る。

福音派クリスチャンは、この証言を失う瀬戸際に立たされています。

 

 

 


#10 生活指針 Why Christians Submit to the Government, NO.4

2024年04月04日 | 生活指針

Why Christians Submit to the Government wirh John MacArthur


18分52秒から25分29秒まで。

◇◇

現行の政府を通して、神はご自身の意志や目的を貫かれます。

大統領、首長、警察は、剣を有する人々であり、剣とは社会の善のために奉仕するために神から委任された権威であります。

サウロに災いを加えたいと考えた時に、ダビデが受けた恐怖を覚えているだろうか。

旧約聖書は、不従順な子に対して死刑を定めています。

権威に対して従順であることが如何に重要であるかが分かると思います。

両親に従うことを教えられていない非行の子らは、政府に対しても決して従おうとはしません。

これが社会を破壊するのです。

以上、政府は神によって定められているので、それに逆らうことは神に逆らうことを意味するのです。

さらにもう一点付け加えましょう。

抵抗する者は罰せられるということ。

抵抗する者は罰を受ける。

これも同様にその通り行われます。

エジプトにおける反乱において、何人傷つき、何人死んだのか分かりませんが、これは避けられない事態です。

第2節に戻ります。

「反抗した人は自分の身に有罪判決、つまり裁きを受けます。 」

反乱の結果は裁き。

第1コリント11:29で使われていることばkrimaは、神の裁きに関係しています。

実際に、このことばは、権力を持つ人による処罰という概念を有しています。

罰せられることなくして、このことをすることはできない。

政府は罰する権力を有していて、これは神によって付与されている。

旧約聖書の中、出エジプト記、申命記、民数記に書いてあります。

確認して下さい。

目には目、歯には歯、という法です。

犯罪に対する同等の処罰。

罰則にはいくつかの目的があります。

第1に、何が正義かを宣言すること。

つまり、義の要素を持っている。

第2に、罰則は迅速はつ直ちに施行される必要があること。

何故なら、それは犯罪抑止として働くから。

第3に、罰則は悪を抑止する脅威を与えること。

第4に、罰則はリハビリテーションの手段と考えられること。

第5に、政府による罰則によって、個人的な報復を防止すること。

ちなみに、旧約聖書ユダヤ教には刑務所はありませんでした。

新約聖書においても、ユダヤ人は刑務所を持っていませんでした。

異邦人にはありました。

パウロも投獄されました。

ユダヤ人は刑務所を持ってはいませんでした。

旧約聖書には刑務所は存在しなかったので、それはローマ社会的秩序だったのでしょう。

間に合わせ的な収容所のことが、エレミア書37章15,16節に書いてあるが、それは誰かを貯水池に保護するといった一時的な場所に過ぎませんでした。

初期のアメリカにおける刑務所、ピューリタンでさえ、別の処罰形式を持っていました。

軽い犯罪に対しては労働を通して犯罪を賠償し、また、重大な犯罪に対しては処刑による賠償です。

彼らは私たちが監獄と呼んでいる特殊な場所を持っていましたが、それは、肉体的罰則を科して賠償のために労務させている間、犯罪者を一時的に拘束するための場所でした。

重大犯罪の場合には、犯罪者は流刑または処刑されました。

これを変えたのはクエーカー教徒たちでした。

ペンシルバニア州で刑務所を導入したのがクエーカー教徒です。

アメリカにおける最初の刑務所はウオールナッツ刑務所で、1790年に投獄に関する法律が制定されました。

それは、州刑務所penitentiaryと呼ばれましたが、その理由は、その中に閉じ込められると後悔するpenitentするからというものでした。

しかし、それは全く機能していません。

考え方が良くない。

この国は、世界で最も犯罪者の多い国であり、犯罪率も極めて高い国です。

犯罪者というのは、さらに犯罪を犯し、さらに不道徳を助長します。

ある作家は次のように言っています。

「アメリカの刑務所は、非聖書的で、非人間的で、非効率で、不十分であり、馬鹿げている」と。

最新の統計によると、犯罪を犯す500人のうち25人が処罰の対象となっています。

刑務所内には、賠償のための手段は存在しません。

旧約聖書、出エジプト記21章と22章をみると、労働によって、泥棒は盗んだものを返すことができました。

申命記25章、罪を犯した者は、40回のむち打ちを受け、その場を離れることができました。

神は、政府による罰則を定めましたが、同時に、政府が賠償を提供できるようにしました。

政府には罰する権利があるのです。

人による権威が法を破った者を罰する時、神はその罰則を承認します。

さらに神ご自身もその者を処理されます。

罰則の手段は、人の権威によるのですが、罰則の源は神によります。

 

 

 


#7 生活指針 Why Christians Submit to the Government, NO.1

2024年03月27日 | 生活指針

続いて、John MacArthur師の見解を聴く。師はプレミレを信じている。

Why Christians Submit to the Government wirh John MacArthur


最初から7分7秒まで。

◇◇

ローマ書13章が、クリスチャンと政府というタイトルで本日見ていくテキストです。

やや遅れて、税金に関してお話をします。

第1節から始めて、この本当に重要なテキスト全体を学んでいこうと思います。

ローマ書13章。

1節による始めのことばについては、前回考察しました。

この節だけで、すっかりと時間を要してしまいました。

万人は統治権威に服さなければならない。

これは、いわれのない陳述です。

統治権威とは誰なのか定かではないし、服従とはどういう意味かも定かではありません。

それ故、それが如何なる権威であろうとそれに対して服従しなければならないという穏やかではない命令を受けているのです。

これは使徒パウロとペテロから発せられました。

彼らは類似した指導を私たちに与えています。

第1ペテロ2:12~15
異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、 また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。 というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。 

つまり、使徒パウロも使徒ペテロも、私たちの責務は統治権威に従うべきであることを明確に示しています。

前回このことを検証しました。

パウロは第1節から開始して、何故私たちがこのことをすべきなのか7つの理由を掲げています。

理解し易いように部分部分に分けて、それらを分解する方法を取りました。

この箇所は注目すべき聖句です。

主が「これをしなさい」というのなら、説明なしでも十分です。

しかし、パウロは説明をしながら、政府に関して、神が与えたもうた責任を明らかにします。

歴史的に見ても、政府は、私たちの社会のみならず私たちを取り巻く世界に対しても、過剰と思えるほどの権限を持っています。

神によって遂行するように定められている政府の事々があります。

そして、私たちには政府の権力に従う義務があります。

第1に、政府は敬虔なる法令によっているとパウロは言います。

政府は敬虔なる法令による、とは。

第1節に戻ります。

「神に由来しない権威はない。」

「存在する権威は、権威(複数形)、何処の権威だろうと、どのような権威であれ、神によって確立されている。」

「世の権威、政府の権威は、直接神から来る。」

神によって設置された施設が社会にはもう2つあります。

ひとつは結婚によるもの、もうひとつは教会、

神は社会的単位、社会的構成要素を定めました。

人間の幸福のために。

政府、教会、そして結婚。

健全な結婚は悪を食い止める。

健全な教会は悪を食い止める。

健全な政府も同様です。

神に由来しない権威は存在しません。

神から離れて存在する世の政府はありません。

詩篇62篇11節、「力は神のもの。」

政府を確立する力は神に属しています。

使徒17章、「国民の時代は神によって決定される。神は国民の始めと終わりを決定する。」

ダニエル4章17節、「いと高き方が人間の領域を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最もへりくだった者をその上に立てる。」

政府とその中で権力を行使する人間は、神によって選ばれている。

政府の権力と政府の権威の賜物は、神の賜物である。

神の許可なしに、権力を握ったた暴君はいないと結論することができます。

施設としての政府は神によって定められたのであり、神のご計画とは別に運営される政府は存在しない。

神の目的に反して運営される証印のない政府は存在しない。

政府理論が何であれ、政府形態がどうであれ、神の目的とは無関係の政府は存在しない。

ひとつ付け加えておきます。

政府理論について聖書は何も語っていません。

数世紀にわたりヨーロッパを支配した君主政治を聖書は支持していない。

民主政治も聖書は支持していない。

民主的社会構造なるものを聖書に見出すことはできません。

共和国制やあらゆる形態の君主政も聖書には書いていません。

 

 


#6 生活指針 The Bible & Politics, NO.6

2024年03月20日 | 生活指針

Government: Christian Worldview with R.C. Sproul

20分8秒から最後まで。

◇◇

勝手にまとめます。

師の結論:
1.治安などの理由から、国家は無い(無政府状態)よりはまし。
2.国家も教会も共に神の支配下にある。
3.国家と教会は敵対関係にあるのではない。
4.国家は必要悪。
5.神のことばを否定する行為を強要された場合、それに従ってはならない。

◇◇


政府ということばの最も単純な定義をお話ししましょう。

社会的なものであれ、共同体的なものであれ、あるいは少数独裁的なものであれ、富裕層によるものであれ、民主的であれ、君主的であれ、何であれ存在する政府とは、すなわち権力であります。

政府(統治機構)とは権力である。

悪を抑制するための権力として、神の下に政府は存在する。

どんな目的のためにそれは存在するのか。

最低基準として、競争を生き残るためであり、保全・維持のためであり、また人間の生活と繁栄のために存在する。

神は、政府に権威を与え、権威を支えるための権力を与える。

それ故、政府は法を持つだけでなく、法を執行するための機関を有する。

数年前に、ある上院議員と話す機会がありました。

ランチを食べながら、私に次のようなことを言いました。

「市民に何かを強制してやらせるような権利を持つ政府なんて存在しないと思う。」

「それは気高い意見ですね、先生。あなたの言っていることは、統治する権利を有する政府は存在しないということですよ」と、私は返した。

「もしも政府に強制執行権がないとすれば、政府はどう対処すればよいのでしょうか。あなたの言っていることは、執行できない法を持っているという意味です。」

「武力は旧約聖書で確立されていますし、ローマ書13章にもくり返し書かれています。3節からお読みします。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。」 

つまり、パウロは、神が行政長官に武力を与えていると言っているのです。

神は教会に武力を付与してはいない。

ゲッセマネの園において、イエスはペテロと彼の仲間から剣を取り上げました。

教会は政治的強制力を持っていませんが、国家は持っています。

剣の機能や計画、目的は、善良な市民を守るため、悪人を抑止するためにあります。

善人を抑圧し、悪人を守るために、政府は剣を使ううことはあり得るでしょうか。

ありえます。

もちろん、そのような政府は堕落しており、悪魔的で、神の民の預言的批判に耳を貸すべきです。

政府が邪悪であるということは、それを確立し、定め、第1位に任命した神の上に影を落とすことになります。

オ-ガスティンの「私たちクリスチャンはどのような態度であるべきか」という本質を捉えた手短なコメントを紹介しましょう。

オーガスティンはこう述べています。

「政府とは必要悪である。すべての政府が悪ではないが、悪である必要があるという事実によって政府は悪なのだ。」

たとえ、政府が抑圧的で、搾取的、堕落しているとしても、最も悪い政府でも・・よりはましだ。

何よりまし、か。

無政府よりはまし。

絶対的自由を保証する無政府症候群は、力や堕落を振り回す不義なる人々にも絶対的自由を与えるため、善良な人や弱者に対する保護は期待できない。

完全なる無政府状態とは、望みのないジャングルの中にいるようなもの。

この世の政府の背後におられる神は、ご自身の目的と栄光のために、それらを利用しておられる。

原則として、悪の力を抑圧する道具として、世の政府を利用している。

その政府が如何に善(の言い間違いか)であろうとも、事態はさらに悪くなることもあるだろう。

神がすべての人間の抑圧を取り除くなら、生命は存続不可能。

それ故、神が政府を設けた時、可能な時は何時でも、私たちが義に服するように剣を与えたのです。

ひとつの最終地点。

クリスチャンが政府に奉仕するように召し出されているとすれば、どうでしょうか。

それは軍隊や州議事堂などを含みます。

もしも、神がするように命じている仕事を政府がしているとするならば、クリスチャンは参与してはいけないのかという疑問を持ちます。

とすれば、教会は神と関係を持ち、国家は神との関係を持たないという考え方を受け入れることはできません。

重要な点は、歴史的に、この国において、教会と国家はそれぞれ独立しているが、両者は神の下にあるという考え方を私たちは持っています。

教会には教会の役割があり、国家には国家として果たすべき役割があります。

神が要求する役割を国家が果たす時、神に従属する私たちもそれに抵抗してはいけないし、むしろ参加すべきだと思います。

現代において起こっていることは、教会と国家の独立という考え方が、多くの人たちにとって、国家と神の独立を意味するようになってしまっている、内在する権威に基いて、国家が自動的に支配しているかの如くになっていることです。

クリスチャンはそれを受け入れてはなりません。

私たちは、神に対して責任のある、神によって立てられたものとして、国家を見る必要があります。

神に仕える、神の民のための法的乗り物として、国家を捉えるべきです。

休暇中、政府の同胞として世に仕える機会があっても、キリストに敵対するのではない。

私たちクリスチャンと政府との関係とは、義を訴える証人として召し出されている競技場のようなものであり、またキリストご自身が証しされる場としての政府となるべきではないかと思います。

教会を国家の中へと組み入れるのではなく、クリスチャンを国家の中へと組み入れるのです。

何故なら、神は教会と国家の上におられるが、クリスチャンは教会と国家の中で生きています。

そして、クリスチャンは教会に対して一種の責務を負っている一方、権力を有する国家に対してもある種の責務を負っています。

 

 


#5 生活指針 The Bible & Politics, NO.5

2024年03月18日 | 生活指針

Government: Christian Worldview with R.C. Sproul

15分50秒からまで20分8秒まで。

◇◇

「私たちは税を納めるために召し出され、あなたを敬うために召し出されました。」

「私たちは、制限速度内で二輪戦車を運転していますが、それにも限界があります。」

「私たちはあなた様を礼拝できません。」

「市民的従順という日頃の行ないの話になれば、あなたの帝国にとって私たちは模範のような市民です。」

初期の教会は、新約聖書におけるそのようなクセを理解していました。

彼らは無政府活動や改革運動に身を捧げることはありませんでした。

剣の力によって邪悪な政府を転覆させようとする熱狂者を、イエスは叱りつけました。

それ故、クリスチャンは、世俗の権力に決して背いてはならないという結論に至ったのです。

しかしながら、そのような結論に至るのは聖書的なのでしょうか。

もちろん、そうではありません。

権威がペテロやヨハネに対して宣教を禁じた時、使徒伝にあるように、「私たちは人ではなく神に従うべきだ」と彼らは証言しています。

つまり、世俗権威があなたに命令したら、この低次元の権力があなたに神が禁じていることを命じたり、あるいは神が命じることを禁ずるならば、単にそれに背くだけでなくて、絶対に従ってはならない。

私たちクリスチャンは、常に人ではなく神に従順でなければなりません。

単にその政策が嫌であるという理由で、その政策が自分に都合の悪いものだからという理由で、それによって苦しめられるからという理由で、権力に背いてよい理由にはなりません。

何故なら、苦痛のない人生を歩むように神は命じてはいません。

世の行政長官が何かをするように命じた場合、例えば、キリストを否定するように命じた場合には、あなたはその長官の命令に従ってはなりません。

しかし、神に対する服従を中断するようなことがなければ、時と場所を選ばすに、謙遜の霊にあって従順であるべきだということが基本的姿勢であることを覚えておいてください。

この事に対するもうひとつの理由は、背後に神がおられるということだけでなく、第一に神が政府を定めているということです。

第一に神が政府を定めている。

地上の政府はどこから始まるのでしょうか。

聖書のどこに、そのことについて書いてあるでしょうか。

創造において立つ権威構造はあります。

しかし、創造において立つ権威構造の中に、政府は存在しません。

何故政府は存在しないのか。

エデンの園になかったものは何でしょうか。

悪はなかった。

罪もなかった。

その通り。

人間の政府が樹立されたのは、人間の堕落以降です。

人間ではなく、被造物ということばを使います・・。

アダムとエヴァがエデンの園を追い出されて、エデンの東で生きることを余儀なくされると、彼らはホームシックになったと思いますか。

彼らはエデンの園に戻りたかったと思いますか。

彼らが戻りたかったのなら、何が起こっていたのでしょうか。

彼らはエデンの園に入ることはできたのでしょうか。

聴衆:いいえ。

何故でしょう。

エデンの園の門を見張る天使がいたからです。

天使は何を持っていましたか。

炎の剣です。

何故炎の剣を持っていたのでしょうか。

その剣の目的は何ですか。

彼らが入れないようにするためです。

抑制の道具として、その剣を使うために。

或いは、力の道具として、必要なら、武力の道具として使うために。

 

 


#4 生活指針 The Bible & Politics, NO.4

2024年03月16日 | 生活指針

Government: Christian Worldview with R.C. Sproul

11分54秒から15分50秒まで。

◇◇

すでに学んだオリーブ山の説教の最後に、イエスは警告します。

最後の日に、多くの人が私のところにやって来て、「主よ、主よ、あなたの御名によってこれをしたではないですか、あなたの御名によってあれをしたでないですか、などなど。

そこで、私は彼らに言う、私から離れていけ、不法をなす者ども。

あなたがた、不従順の子らよ。

私がやろうとしていることの意味がここにあります。

要点を言うと、人の最大の問題、私たちが生きている全創造をもだえ苦しめているものが不法の霊。

それは、罪の本質から生じます。

事実、万人が、権威すなわち神の権威に対して遵法的であり従順であるなら、この世には死もなく、殺人もなく、戦争もなく、人格に関連する犯罪もありません。

つまり、私たちがここで見ているものというのは、持ち越しのようなもの、神に従うことを拒むことから始まる人間の霊の流出であります。

他のすべての権威を拒否するという、基本的な、自然な、堕落した私たちの性質が流れ出たものがこの霊なのです。

権威に接した時、それに敬意を払うために、前後に腰をかがめるように、クリスチャンは召し出されています。

不法の霊にではなく、従順の霊のための証人となるのです。

迫害が勃発した時、初期キリスト教会にこのことが起きました。

初期の頃の教会の偉大な弁証者の行ないを考えてみましょう。

ジャスティン・マーター、彼は全生涯を信仰のために捧げました。

ジャスティン・マーターを知っている人は何人いますか。

最初に、彼がいわゆる「apologia(弁明書)」つまり返事、弁証論を書き上げました。

ジャスティンは、ローマ皇帝アントニヌス・ピウスに自身のエッセイを語りました。

そして、クリスチャンに科せられた告発に返答しました。

ネロでさえ、法的な根拠もなしにライオンの檻に人を送り込んだり、クリスチャンを人間たいまつにしませんでした。

クリスチャンが告発された理由は、彼らが無神論者だからというものでした。

何故クリスチャンが無神論者なのか。

彼らがローマ・パンテオンの神々を信じていなかったからです。

ジュピターに腰をかがめなかった。

彼らは人食い人種として告発されました。

何ゆえに人食い人種。

何故なら、ともに集って、誰かの体を食べ、その血を飲んだからです。

それで、災難に巻き込まれたのです。

クリスチャンは扇動的であり、暴動扇動者であるということが、ローマによる迫害の根拠でした。

彼らは、ローマ帝国に対する忠誠を公けに誓うことを拒み続けました。

つまり、ローマ帝国を神の如くに崇めることを拒んだ。

彼らは「カエサルは主」と唱えることを強要されたが、拒否した。

私たちクリスチャンは「イエスは主」と宣言すると彼らは言いました。

絶対的忠誠に従うことを要求されたが、これを拒否したために、彼らは不従順であると告発された。

そして、ライオンの檻に放り投げられたのです。

ジャスティン・マーターはローマ皇帝宛てに手紙を書いて、クリスチャンとはどういった集団なのか、クリスチャンの立場とは何かを皇帝に説明しようとしました。

「私たちを見て下さい」と彼は皇帝に言いました。

「私たちは手本のような市民であり、私たちの宗教は皇帝のために祈り、皇帝を敬い、従順であるように教えています」と。

 

 


#3 生活指針 The Bible & Politics, NO.3

2024年03月14日 | 生活指針

Government: Christian Worldview with R.C. Sproul

6分23秒から11分54秒まで。

◇◇

市民的服従に関して、教会の責任と奮闘している人々にとって大変厄介な問題がこれでした。

この聖句は新約聖書において孤立している聖句ではありません。

くり返しますが、私たちは王を敬い、行政長官に服従するように言われています。

ペテロは次にように言っています(第1ペテロ2:13-17)。

キリストが敬われるために、 行政長官に服従しなさい。

さて、良く理解しておくべきことが2つあります。

第1に、すべての地上の政府は、聖書的に言うと、ある意味ヒエラルキー(階級制度)的です。

すべての人間社会の権威というのは、底辺の野犬捕獲人から、その上の知事、上院議員、王子や王、大統領など、すべては神とキリストの権威下にいます。

しかしながら、これら人間社会の権威は皆、神の規則を実践しているのでしょうか。

もちろん、実践してはいません。

パウロがどこか他の箇所で話しているように、高位の人たちに、そして政府に霊的邪悪が存在することはあり得るのです。

オスカー・クルマン( Oscar Cullman)、スイスの神学者は次のように示唆しています。

この世の政府は、恐ろしいほど悪魔的になり得るし、イエスキリストの統治に激しく抵抗する姿勢を示すことがある。

しかしながら、クリスチャンは行政長官に従うことが新約聖書の原則です。

何故なら、人間社会の権威をほめそやすためではなく、それらの権威の背後にキリストの権威と神の権威があることを私たちクリスチャンは認めているからです。

もう一度言いますが、ペテロの声明は「キリストが栄光化されるために、行政長官に従いなさい。」

政治的機関や行政長官に対する従順が、何故キリストに名誉をもたらすことになるのでしょうか。

私たちが理解すべき重要な概念があります。

新約聖書にもありますし、旧約聖書にもあります。

罪というのは、個々の、かみ砕くことのできる程度の罪のことや、特殊な罪ある人たちのことだけを言うのではありません。

国民全体の罪という、連帯責任的考え方もあるのです。

つまり、聖書的に組織的な罪というのもあるということ。

罪に関する広い意味での解釈において、聖書的に、罪とは、特殊な、微細な、個人的な罪だけでなく、いわゆる、この世における邪悪複合体なるものも存在します。

邪悪複合体。

この邪悪複合体の背後に立っているのは誰でしょうか。

神学的に。

この世の君、聖書的には反キリストとして同定されている者、サタンです。

キリストより自分を高く上げる者、キリストの御業に対抗し、敵対して動き回る者。

称号のantiとは、ギリシャ語のantiを英語にすると、意味は「代わりに」「敵対して」。

聖書的に、両者は反キリストの性状と関連する行為を意味します。

キリストに敵対するだけではなくて、キリストに取って代わろうとする者、キリストの場所を占拠しようとする者。

反キリストの基本行動、サタンの宇宙的闘争とは、不従順の霊への誘導であり、聖書はこれを不法(lawlessness)と呼びます。

歴史的啓示による反キリストは、テサロニケの手紙に書かれています。

何という人ですか。

不法の人(the man of lawlessness)(第2テサロニケ2章)。

 

 


#2 生活指針 The Bible & Politics, NO.2

2024年03月13日 | 生活指針

Does Romans 13 Say We Have to Obey the Government?

・・・聴き取れない、また、文意が分かりずらい、文脈から予想される意味とは異なることばが次に発せられるなど、要領を得ないので日本語訳を中止する。神の命・配剤ではないかと思われる。

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次のR.C. Sproul師の動画に移ります。

◇◇

Government: Christian Worldview with R.C. Sproul

最初から6分23秒まで。

◇◇

このセッションにおいて、この世の統治機構と関連する対象としてのクリスチャンについて考えてみたいと思います。

このことは、クリスチャンにとって大変議論の多い領域であります。

別の世界、すなわち神の国、天の御国に属しているクリスチャンは、この世の権力や支配者とは何の関係もないと思っている人もいます。

今日は時間を取って、パウロのローマ人への手紙13章を見たいと思います。

この手紙の最初の箇所において、政府(統治機構)を理解する上で、新約聖書の中で重要な訓令が与えられています。

13章は、使徒パウロからの熱心な勧め、訓告で始まります。

その中で、パウロは「万人を支配権威に服従させなさい。神に由来しない権威はない」と書いています。

ここで、一言付け加えておきたい。

神に由来しない権威はない。

これが基本中の基本であり、宇宙におけるすべての権威の土台は神の特性の中にあります。

それは、人の意志、或いは、人の制度の意の中にはありません。

その権威は、結局、万物の創始者、すなわち神のご自身から誘導されます。

この時点で、新約聖書で、御父との関係に関してイエスが言ったことばを思い出して下さい。

イエスは「天においても地においても、天における一切の権威は私に与えられている」と言いました。

挿入句として、私は次のように付け加えたいと思う。

私の言うことは、少しとっぴに聞こえるかもしれませんが、良く咀嚼して考えてもらいたい。

つまり、命として、世界観として、生きた信仰としてのキリスト教とは、単に人間生活の他の面から切り離された宗教ではありません。

それ故、私たちはこのような様々な関心事を取り扱っているのです。

基本的メッセージにおいて、キリスト教は政治的であります。

キリスト教は政治的であるが故に普及しているのです。

あなたはショックで耳を塞ぎたくなるかもしれませんが、くり返しくり返し聞いている新約聖書のテーマというのは、神の国、神の規則、神の支配がこの世へ到来することの告知であるということを話しているのです。

そう言った意味において、新約聖書というのは、イエスキリストの王権に焦点を当てているという範疇において、聖書は政治的声明文であると言えます。

聖書は、この世における命の権威と規則に関する陳述書ですが、人間の制度という意味において政治的ということではありません。

13章にあるように、人間の政治的事項に触れてはいるけれども、人の制度という点において政治的という意味ではありません。

「神と存在する権威に由来する以外の権威はない。すなわち、存在するそれらの権威は神によって確立されている。それ故、権威に抵抗する者たちは、神の法令に逆らっている。逆らっている者たちは、自分たちの上に裁きを受けている。」

つまり、この箇所の内容は、市民の従順に関係しているのです。

地上の権威に服従するクリスチャンの責務、神ご自身から誘導された権威に服従するクリスチャンの責務に関係している。

再度、パウロのことばは、「神によって確立され、神によって制定され、神によって法令化された権威以外の権威は存在しない。」

この聖句は、新約聖書の中で聞くに堪えないメッセージのひとつです。

パウロのこのような言動は極めて問題です。

パウロはどのような人たちに話しているのですか。

何処に住んでいる人たちですか。

エルサレムですか。

サンヘドリンの宗教的権威に服従せよとパウロは言っているのでしょうか。

イスラエル国家の神聖的権威に服従せよと言っているのでしょうか。

彼はローマ人のために手紙を書いています。

世俗政府
堕落した政府
クリスチャンの原則を踏みにじる政府
世界史上自由に解放されてきたキリスト教会に対して最も残忍な迫害を明かにした政府
これらの手紙を書いた使徒パウロを処刑した政府

の下で暮らしている人々に話しかけているのです。

その政府に服従せよとパウロは言っているのです。

何故か。

政治的権道という点からではなく、政府の背後に立っておられる神に対する敬意と栄光をもたらすという点からです。

さて、無神の政府と、神はどのように関わっているのでしょうか。

神は、どのように神を信じない政治的機構を制定しているのでしょうか。