みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Coffee break, #39

2015年11月30日 | コーヒーブレイク
http://www.youtube.com/watch?v=S9OGGj7mb7Y&sns=em




Christ Our Life, #6

2015年11月29日 | 聖書研究・信仰
このように、キリストをさらに知るにはどうしたらよいのだろうか。

これは、必要の意識を高めることによってのみ可能となる。

自身の欠陥を見い出すことに恐れを抱く者は決して成長しない。

神の恵みにある成長こそ、我々が唯一感じ取ることのできる成長である。

恵みとは神が我々のために何かをすること。

我々は皆、うちにキリストを宿している。

しかし、新しい必要の啓示があれば、その特別な時こそ、我々は主を信頼して、我々の中で主の命が全うされるように自然と導かれるだろう。

我々の度量が大きいほど、神によって与えられる楽しみもより大きくなる。

ある事が解かれると、新しいキリストへの信頼が生まれ、別の領域を手に入れることができる。

「キリスト、わが命」が、さらにキリストを知るための秘訣だ。




Christ Our Life, #5

2015年11月26日 | 聖書研究・信仰
神の恵みとキリストの違いを見い出すことはひとつの祝福だ。

柔和とキリストの違いを知ること。

忍耐とキリストの違いを知ること。

愛とキリストの違いを知ること。

第Ⅰコリントに次のように書かれている。

第Ⅰコリント1:30
キリストは・・・になった
我々のために
神からの知恵に
義と聖と贖いに
(Nee訳)

聖化の基本概念は、歩みのすべての面が聖であるということ。

しかし、この聖句の意味は、聖ということではなく御霊の実という意味だ。

聖とはキリストのこと。

主イエスは、我々のために、聖たるように創造された。

だから、我々はそこに何でも入れることができる。

愛、謙遜、力、自制。

今日の主の要求は忍耐。

キリストが我々の忍耐となってくれる。

明日の主の要求は純粋かもしれない。

キリストが我々の純粋となって下さる。

主がすべての必要に対する答えだ。

それ故、パウロは御霊の実をひとつとして宣言する(ガラテア5:22)。

「御霊の実々」、つまり分離されたいくつかのアイテムではない。

神は我々に主の聖霊を与え給うた。

愛が必要な時は、御霊の実は愛となる。

喜びが必要な時は、御霊の実は喜びとなる。

それは常に真実である。

我々の側に何か性格上の問題があるとか、異なる人格が101通りあるとかはどうでも良いこと。

神はひとつの十分な答えを持っている。

御子イエスキリスト。

イエスは、人の必要のすべてに対する答えだ。




Christ Our Life, #4

2015年11月23日 | 聖書研究・信仰
神は、我々に恵みの賜物-謙遜、忍耐、聖、愛-を別個に与えるのではない。

一種の資産として、我々が受け取ったり、うまく運用する量に応じて

忍耐のない者にいくらかの忍耐、愛のない者にいくらかの愛、奢った者にいくらかの謙遜を分配する。

違う。

神は小売商ではない。

神は、すべての必要を満たすことのできるただ一つの恵みを我々に与えた。

御子イエスキリストだ。

キリストの命が私の中で息吹いているのを仰ぎ見る時、キリストが私の代りとなって、謙遜となり、忍耐となり、愛となり、その他私が必要とするすべてとなって下さる。

ヨハネ第1の手紙にこうある。

第1ヨハネ5:11、12
神は我々に永遠の命を与えた
この命は御子の中にある
御子を持っている者はその命を持っている
神の御子を持っていない者はその命を持っていない

神の命は細分されて与えられているのではない。

神の命は御子の中にあり、それが我々に与えられている。

ローマ6:23
我らの主キリストイエス(の中)にある永遠の命

我々と御子との関係は、御子の命との関係と同一である。




Coffee Break, #38

2015年11月22日 | コーヒーブレイク
https://www.youtube.com/watch?v=C6rS_V0TTeY




Christ Our Life, #3

2015年11月20日 | 聖書研究・信仰
分かりやすい例を提示したい。

かつてアメリカのクリスチャン夫妻の家を訪れたことがある。

私は自分たちのために祈ってくれるように頼まれた。

理由を尋ねてみた。

「Neeさん、最近良くないことが続いているんです」

「子どもたちにイライラし過ぎて、この数週間一日に数回癇癪起こしています」

「本当に主を汚していると思う」

「お願いですから私たちに忍耐を与えて下さるように主に祈って頂けますか」

私は答えて言った。

「それはできない相談のひとつです」

彼らは聞いた。

「どういうことでしょうか」

私は答えた。

「確かなことがひとつあります」

「神はあなたがたの祈りに答えるつもりがないと言うことです」

彼らは驚いて言った。

「私たちがやりすぎたので、神は私たちが願っても聞き入れないとでもいうのですか」

「いいえ、全然違います」

「ひとつお尋ねしたいのですが、あなたがたはこの点についてお祈りしましたか」

「ええ、もちろん祈りましたよ」

「で、神は答えて下さいましたか」

「いいえ、答えてくれませんでした」

「どうしてか分かりますか」

「なぜなら、あなたがたに忍耐の必要がなかったからです」

そのとき、妻の目が燃え上がった。

彼女は言った。

「どういう意味ですか」

「忍耐が要らないのに、一日中イライラしているとは」

「何故ですか」

「必要なのは忍耐ではない」

私は答えた。

「キリストです」




Christ Our Life, #2

2015年11月19日 | 聖書研究・信仰
どれくらいのキリスト者が、新生以上に重要な何かという意味で「再生」を信じているだろうか。

新生とは、我々が新しく生まれる時、聖霊によってキリストの命が植えられることを言う。

「再生」がそれに続く。

再生とは、新しい命が成長し、我々の中に次第に現出してくることを言う。

そして、ついにキリストの似姿そのものが、我々の命(生きざま)の中に再生され始める。

つまり、パウロがガラテア人に対して労苦した時に語ったとおりだ。

「キリストがあなたがたのうちに形造られるまで」(ガラテア4:19)





Coffee Break, #37

2015年11月18日 | コーヒーブレイク
https://www.youtube.com/watch?v=7BuquFCyOzk&feature=youtu.be




Christ Our Life, #1

2015年11月17日 | 聖書研究・信仰
「イエスキリストを通して、神に感謝します」

パウロの叫びは、ガラテア2:20に見られるみことばと基本的に同じ意味だ。

キリスト者の標準を生きる者にとっての鍵。

「私は生きている。しかし、もはや私ではなくキリストが」

ローマ書7章を通して使われている「私」ということばの卓越性は、あの苦悩の叫びで頂点に達する。

「嗚呼、なんと惨めな男だ、私は」

そして、解放の叫びへと至る。

「我が神に感謝します・・・イエスキリストを通して」

パウロの発見したことはこうだ。

我々が生きる命は、キリストの命そのものだ。

キリストの命を「替えられた命」あるいは「身代わりの命」と考える。

キリストは我々の内なる人の身代りとなった。

「私は生きる、しかしもはや私ではなく、私の中にいるキリストが」

この命は、我々が自分でなんとかして産み出すようなものではない。

この命は、我々の中で新生された、キリストご自身の命だ。




The Flesh And The Spirit, #11

2015年11月16日 | 聖書研究・信仰
このガラテア5:17は、しばしば誤って理解されてきたように思われる。

その意味を再考してみたい。

生まれながらに「我々がするであろうこと」は何か。

本能によって命ぜられる行動の方向性において、我々は神から立ち去り、神の御旨から遠く離れようとする。

自分で何とかしようとすることを止めると、聖霊が自由となり、肉に対抗して、それを処理することが可能となる。

その結果、我々が生まれながらにするであろうことを我々はしなくなるはずだ。

すなわち、生まれながらの傾向に従って行動しなくなる。

自分の方向性や計画から離れて、神の完璧なご計画に満足することになるのだ。

次のような原則に至るわけだ。

ガラテア5:16
御霊に従って歩め
そうすれば、あなたがたは肉の欲を完成しないであろう。
(Nee)

もし我々が御霊にあって生きて、復活したキリストにある信仰によって歩むのなら

日々御霊が肉の上に新たなる勝利をもたらすので、我々は本当の意味での傍観者たりうる。

聖霊はこのために与えられたのだ。

キリストの中に隠れてそこに留まるところに勝利がある。

聖霊に信頼を置き、神の新たなる願いのために肉の欲に打ち勝つ。

十字架は、我々が救いを受け入れるために与えられた。

聖霊は、我々の中に救いが完成するために与えられた。

キリストの復活と昇天が我々の救いの土台。

我々の心におられるキリストが御霊によって生きるための動力だ。