みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Coffee Break, #49

2016年07月31日 | コーヒーブレイク


Do not fear, small assembly of God.
It is God's pleasure to give you His Kingdom.





The Light Of God And Knowledge, #5

2016年07月31日 | 聖書研究・信仰
今ここに、異なるふたつの光がある。

第1の光は客観的で、第2の光は主観的な光。

第1の光は、神に属する光。

我々を照らしている。

第2の光は、第1の光によって与えられる知恵だ。

「あなたの光の中で、我らは見る」

我々は何かを悟る。

その何かについて確信する。

そして、はっきりと見る。

自分の中を振り返らず。

自分をあれこれ詮索せず。

そうすれば、あの透き通った領域へ誘われる。

我々がはっきりと見るのは、神から放たれる光が我々の中にある時だ。




The Light Of God And Knowledge, #4

2016年07月30日 | 聖書研究・信仰
詩編に、このテーマを明るく照らす聖句がいくつかある。

最初に、詩編36:9.

「あなたの光の中で、我らは光を見る」

旧約聖書の中で、ベストの聖句の一つだと思う。

そこには、2つの光がある。

ひとつは「あなたの光」。

それから、その光の中に入ると

我らは「光を見る」。






The Light Of God And Knowledge, #3

2016年07月29日 | 聖書研究・信仰
自分の内部を調べよと聖書には書いていない。

そんなことをしても、結局、不確か、動揺、絶望に終わる。

もちろん、自分を知っておく必要はある。

内部で何が起こっているのか知るべきだ。

バカ野郎のパラダイスに住もうとは思わない。

誤った道を歩んでいるのに、何が悪いのか分からない。

頑固な自我を持っているのに、神の意志を追及していると思い込んでいる。

内に向きを変えても、己れのことは分からないのだ。

自分の感情、動機、うちで働いているすべてのことを分析しても無駄である。

肉によって歩んでいるか、御霊によって歩んでいるかを声高に言い放っても無駄だ。




The Light Of God And Knowledge, #2

2016年07月28日 | 聖書研究・信仰
若い兄弟姉妹と話すたびに、繰り返し出てくる疑問がある。

これだ。

御霊によって歩んでいるのかどうかをどのように知ることができるか。

自分の中で急き立てているものが、御霊から出ているものなのか、自分から出ているものなのか、どうやって区別すればいいのか。

すべては恐らく次のようなことであろうと思われる。

しかし、あることはさらに根が深い。

あの者たちが我々の内部を覗き込んでくる。

違いを見つけようとする。

差別しようとする。

分析しようとする。

そうすることで、我々はその者たちとさらに深い関係を築いていく。

信仰生活において、これは大変危険な事態だ。

自分自身を知ることは、自己分析という不毛な道に沿って歩むことによっては完徹できない。











The Light Of God And Knowledge, #1

2016年07月27日 | 聖書研究・信仰
もちろん、真心から主に仕えようと思わないなら、光の必要性を感じないだろう。

人が光の必要性を感じるのは、神によって捉えられ、主とともに前進したいと思う時だけだ。

光をどうしても必要とする時がある。

神の思いを知りたいと思う時。

霊から出たものか、魂から出たものか知りたい時。

神由来であるか、単に人由来であるか知りたい時。

霊的な事柄と肉的事柄の違いを知りたい時。

神が本当に主導しているのか、或いは己れの感情、五感、想像で歩んでいないかどうか知りたい時。

信仰生活において光が最も必要であると思う時とは何時か。

それは、我々が真心から神に従いたいと思う地点に到達した時だ。




Natural Energy In The Work Of God, #15

2016年07月26日 | 聖書研究・信仰
言われればそうだと、このことを単純に理解することはできない。

神は、その意味するところを教えてくれる。

見るものに指を置き、そして言うだろう。

「これは生まれながらのもの」

「その源は旧創造にある」

「それは残されることはない」

神が動いてくださって初めて、我々はそのことが分かる。

しかし、実際それを理解できない。

キリスト教の教理に同意し、むしろ楽しむかもしれない。

正直言って、自分を否むことはできない。

神が我々の眼を開いて下さる時、その時は来るだろう。

ある問題に直面して、我々は啓示によって必然的に言うことになるだろう。

「これは汚れている」

「これは不純だ」

「主よ、ついに知ることができました」

「純粋」ということばは、祝福されたことばだ。

私はいつも、そのことばと御霊を関連づける。

純粋とは御霊のともにある何かを意味する。

不純とは混合である。

神が我々の眼を開いて下さり、ご自身の業において生まれながらの命はを全く必要ではないことを神ご自身が教えて下さる時、我々はキリスト教教理などにどっぷりと浸かっている時ではないことを知る。

そんなことより、我々は自分の中にある不純ゆえに自分自身に憤りを感じる。

このような地点に達すると、神は解放の御業を開始する。

神が解放のために為している備えを、じきに見ることになるだろう。

しかし、我々は、もうしばらくこの啓示の事実とともにじっとしている必要がある。




Natural Energy In The Work Of God, #14

2016年07月25日 | 聖書研究・信仰
出発点は終着点を決定する。

始めに肉から出たものは、いくら改善しても決して霊的なものにはならない。

肉から生まれるものは肉。

決して他のものにはならない。

我々が自身において十分であるとするものは何であれ、神の評価においては無。

まずは主の評価を受け入れる必要がある。

それはチリあくたと書き記せ。

「肉には何も良いものはない」

耐えうるもの、それは上から来るものだけだ。




Coffee Break, #48

2016年07月24日 | コーヒーブレイク
https://www.youtube.com/watch?v=ifpOnqYEkBs

Natural Energy In The Work Of God, #13

2016年07月24日 | 聖書研究・信仰
我々は、この判断に到達する必要がある。

やれることに多大な制限がかかるということではない。

いや、やってもよい。

集会を持つのもよい。

教会を建てるのもよい。

地の果てまで行って、宣教団を創設するのもよい。

実を結ぶようであってもよい。

しかし、次の主のことばを覚えておいて欲しい。

天の父が植えなかった植物は皆、根こそぎにされるであろう(マタイ15:13)。

神は、宇宙における唯一の合法的創始者だ(創世記1:1)。

人が計画し着手することは何であれ、その原点は肉にある。

どれだけ熱心に神の祝福を追い求めても、御霊の領域に到達することはできない。

その労苦は何年も続くだろう。

これを修正し、あれを改善しようかと思うだろう。

いくらか良くなるかもしれない。

しかし、決してその計画は達成されることはない。