みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#2 宗教とイデオロギー クリスマス・ツリーの意味

2023年12月02日 | イデオロギー

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。(黙示2・7)
 

クリスマス・ツリーはいのちの木、すなわち、キリストを象徴している。ツリーにつける飾り物のピカピカ光る玉は、いのちの木の実を象徴している。ラッシュドゥーニーが子供の頃は、実際に果物を吊るしたという。

アダムは神の戒めを完全に守ることによって、いのちの木の実を食べることができたはずであった。いのちの木の実は、永遠のいのちを象徴しているのである(創世記3・22)。

しかし、戒めを破ったことによって、彼はそれをゆるされず、エデンの園から追放され、その東には、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣が置かれた。

「神である主は仰せられた。『見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。』」(創世記3・22)

「こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」(同24)
 
これ以来、人間は、永遠のいのちを失って、死を経験することになった。

「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6・23)
 
しかし、キリストを自分の救い主として信じる者には永遠のいのちが与えられる。

「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(同)
 
クリスマスは、永遠のいのちを与えるキリストの誕生を祝う日である。実際にキリストが誕生したのは、9月から10月頃であるが、キリスト教会は歴史的にクリスマスを12月25日として祝ってきた。

キリストを信じる者には、自由にエデンの園に入り、いのちの木からとって食べる権利が与えられている。クリスマス・ツリーはこのことを象徴している。

 

 

 


#2 宗教とイデオロギー  相続財産は悪か?

2023年12月01日 | イデオロギー

共産主義は、進化論から派生したイデオロギー。

劣化した公教育を経て、私たちは進化論と共産主義の両者に毒され、体の隅々まで沁み込んでしまっている。

いずれも反聖書、反キリスト的思想。

クリスチャンになっても、古い体に残存するこれらの影に影響され続ける。

できるだけ早期に徹底的に断ち切る必要がある。

みことばによって。

◇◇

マルクス主義者やその思想に影響を受けた人々は、相続財産を認めるならば、不労所得を認めることになり社会的不平等を生み出すことになるという。

しかし、聖書は、相続財産は親から子供が受け取る正当な権利であると述べている。もし子供が相続財産を受け取ることができなければ、神の国は発展しないからだ。

神の御国は、信仰によって親が築き上げた資産を子供に相続させて、子供がそれに基づいてさらに大きな仕事をすることによって発展する。しかし、相続財産が認められなければ、子供は1からやり直さなければならなくなってしまう。そして、その財産は国家の手に渡り、信仰とは無関係なことに使われてどぶに捨てられる。

今日の相続税は、家庭や個人から力を奪い、神の御国の発展を妨害しているので、我々は断固として反対すべきである。

しかし、問題は法律だけにあるのではない。今日のクリスチャンは、「子孫に美田を買わず」と言うことわざを用いて、相続に実質的に反対している。相続財産を不労所得と考え、相続に罪悪感を持っている。

このような罪悪感は、マルクス主義の教育によって植えつけられたものだ。聖書のどこにおいて相続は罪悪視されているだろうか?聖書においては、相続は中心的な概念である。

「柔和な者は地を相続する。」
クリスチャンは、キリストの功徳によって相続を得た。クリスチャンは、不労所得を認められた者たちなのだ。クリスチャンは一切神に対して誇れることをしたことがないのにもかかわらず、キリストが代わりにやってくれたおかげで相続に与っている。

もし相続が罪悪であるならば、キリストの贖いという聖書の根本原理を否定することになる。

聖書において、相続は信仰によって受けることができる。相続を受ける者にとって必須条件は信仰である。我々は、信仰によってキリストの功績を無代価で相続する。これと同じように、我々は信仰によってクリスチャンの両親から相続を受け取る。

信仰のない兄エサウは退けられ、信仰のある弟ヤコブに相続が渡った。カレブは、子供にではなく、信仰の人、婿オテニエルに財産を与えた。

なぜ相続が信仰に基づくかは、神の目的から明らかである。神の目的は、信仰によって世界を神の国に変えることにあるからである。不信仰な者、俗物が遺産を相続しても何にもならない。

神の御国は、血縁によって発展するのではなく、信仰によって発展する。霊的なことが理解できない俗物に御金を渡しても無駄に使うだけである。しかし、霊的なことを理解できる人に渡せば、彼は御国のためにそれを有効に使う。もしクリスチャン家庭が信仰に固く立ち、子孫を信仰によって教育し、しっかりとした家庭を作ることができるならば、彼の家庭は、神の国の発展に大きく貢献する。その財産によって大勢の宣教師を海外に派遣し、伝道を促進できるだろう。多くの牧師や働き人を養い、御国の発展に貢献できるだろう。

しかし今日、教会において「相続」が「不労所得」として罪悪視されているため、御国は毎世代一からやり直さねばならない。国家の相続税による搾取もあいまって、日本におけるクリスチャン人口は、かえって減る傾向にある。

今日、ヒューマニズムは、世界のクリスチャンホームを飲み込んで、「御国なんて関係ない」「人間だけでうまくやっていける」「相続など必要はない。国家に捧げて、公共のために利用してもらおう」という偽の教えを吹き込んでいる。そして、クリスチャンは、その教えを鵜呑みにして、子供たちに力を相続させていない。このような状況が続けば、後100年たってもキリスト教徒の数は増えない。いや、むしろ、かえって減るのではないだろうか。

目を覚まさなければならない。

相続に対する罪悪感を植え付けた張本人はサタンであることに気づくべきだ。サタンはクリスチャンホームが強くなることを最も恐れている。なぜならば、もしクリスチャンホームが強くなれば、サタンの活動は大きく制限されることになるからだ。

 

 

 


#1 宗教とイデオロギー ヒューマニズムの宿命論から解放されるには

2023年11月09日 | イデオロギー

 

 神が契約を結ばれたのは、人間とだけではない。

 神は、人間と契約を結ぶ前に、太陽及び月・星と契約を結ばれている。

 

ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神は見て、それをよしとされた(創世記1・14-18)。
 

 聖書契約の形式は中近東古代国家の宗主契約または支配契約の形式と類似していることが近年明らかになっている。中近東古代国家の宗主契約の形式には、必ず「委任」の項目が含まれており、主権者が、属国の支配を誰に委ねるか(つまり、ヒエラルキー)が明示されている。

 創世記1・28で、人間には地の支配が委ねられた。そして、このことをホセアは契約と呼んでいる(ホセア6・7)。同様に、太陽には昼を支配させ、月星には夜を支配させた、と記されている。

 

 第一日目に光が創造され、すでに昼と夜の区別が行われていた。太陽や天体は、第三日目に創造され、このすでに存在していた昼と夜をそれぞれ支配するように命じられた。つまり、太陽があるから昼夜があるとは考えられていない。太陽は、すでに存在していた光と闇の交替によって作られていた昼と夜を支配するために特別に選び出され、任された権力代行者なのだ。

 

 これは、人間と同じである。まず動植物が作られ、舞台は整えられている。そこに、人間が特別に選ばれて、それらを任される。

 

 このように、創世記の創造の記述は、聖書契約の形式に従っている。これは、太陽も天体も人間も、主権者なる神の権力代行者であり、自律的存在ではないという事実を明確にするためなのだ。

 

 さて、ヒューマニズムの世界観によれば、自然は、超越者の介入を一切拒否する「自律的・自存的世界」であり、閉じられた系である。この世界の中において働いているのは、唯一、自然の法則だけであり、その法則を超越して働く神の力など一切存在しない。

 

 ヒューマニズムにおいて、「法則」とは「決定論的概念」であり、この世界に存在するあらゆるものは、自然法則からけっして自由になれず、その定められた道を進む以外にはない。例えば、生物の世界においては、進化論の自然淘汰、適者生存の法則から逃れることはできない。弱者は滅びる以外にはなく、強者は生き残る以外にはない。どんなに人間が福祉を強調しても、社会的弱者が淘汰されるのは不可避であり、社会的強者が生存するのは必然である。

 

 このように、ヒューマニズムにおいては、神が主権者ではなく、それゆえ、自然法則は自律的存在になるので、それは、人間をがんじがらめに縛り付け、自由を奪う拘束衣でしかなくなってしまう。

 

 しかし、キリスト教においては、自然法則は、けっして人間を縛り付けるものではない。なぜならば、自然法則そのものは、神が自然と結んだ契約において定められた規則でしかなく、それ自体が神と無関係に自律的に存在しているものではないからである。つまり、自然法則は、神のしもべであるから、時と場合によっては、神がそれらに働くのを止めさせて、直に対象に働きかけられることがある。例えば、ヨシュアが祈ったときに、地球の自転が止まった。また、ヨルダン川が堰きとめられてイスラエル人は自由に川を渡ることができた。

 

 ヒューマニズムは、神の首を切り落としたために、決定論、宿命論に堕してしまった。この宿命論の罠から逃れることができた思想は一つもない。ヒューマニズムは、神から自由になろうとして、かえって自然法則の奴隷になってしまった。

 

 しかし、もしキリスト教に立ち帰るならば、自由への希望がある。なぜならば、人間は、神において、自然法則の拘束から解放されるからである。自然法則を創造された神に依存するときに、人間は、自然法則を越えたことを行うことができる。ペテロは、水の上を歩くことができた。しかし、波を見たときに恐れが出て、ぶくぶくと沈んでしまった。人間は信仰によって、宿命論から脱出して、超自然的な力を獲得することができる。

 

 「自由」対「自然(=宿命)」の対立は、近代ヒューマニズムの根底に横たわる最も基本的なジレンマである。そして、それはこれまで解決されてこなかった。聖書的創造論だけが、これを解決することができる。もし人間が神を創造者、超越者として認めるならば、人間は、宿命論に陥らずにすむ。