みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#70 基礎教理 Do You Bear Fruit? NO.3 

2024年06月29日 | 基礎教理

Do You Bear Fruit? - Paul Washer (John 15)

20分28秒から28分8秒まで。

耳に痛いことが宣べられている・・。

◇◇


神はあなたのすべての汚れを清められ、あなたのすべての偶像の汚れを清められる。

そして、私が死ぬまで、神はこれを成し遂げ続ける。

何故なら、栄光化とは、私たちが完成に至る時だからです。

しかし、かん違いしてはならない。

あなたがたは変容されうるのです。

1970年代、80年代、90年代にわたり、聖によって光り輝く多くの聖人たちと会いました。

私たちは変わり得るという多くの約束を聖書は与えてくれています。

私の今朝の証言を思い出して下さい。

神が如何に私のような大嘘付きを救って下さったのかあなたがたに話しました。

改心した後も、真理と格闘し続けました。

容赦なく、神は死の渕まで私を叩き続けました。

御覧の通り、私たちの中で善き業を開始した神はそれを完成されます。

必ず完成させます。

そして、罪を超えて勝利があるのです。

あなたは罪を超えた勝利を得ていますか。

さて、次のように言い換えてみます。

クリスチャンライフとは、「救われる。そして、直線的に聖化される」というわけではありません。

そうではない。

しかし、平坦な直線でもない。

平坦な直線の意味は、あなたは死んでいるということです。

その意味は、あなたが新生されていないということ。

では、どんな感じでしょうか、パウロ兄弟。

こんな感じです。

私は、ここ、海面の高さにいるとしましょう。

これから、私はバージニアの美しい山々の中を昇って行きます。

直線的に昇るのでしょうか。

いいえ、違います。

平坦な直線上を昇るのでしょうか。

違います。

平坦な直線上を昇り、それから垂直に昇るのでしょうか。

これも違います。

飛行機でもこれは無理です。

では、私はどのように昇っていくのでしょうか。

上がったり、下がったり、また上がり、そして平坦な道を、それから上がる・・。

私がどんどん進んでいくのを見ることもあるでしょう。

そして、「これが何よりの証拠だ」と言うかもしれない。

しばらくの間、私が立ち往生しているのを見ることもあるでしょう。

すでに得たレベルまでもが目減りしてしまうこともあるでしょう。

もちろん、あり得ることです。

しかし、生涯を通してみると、私がクリスチャンならば、確実に前進しているのが確認されます。

ただし、落ち込む瞬間もあります。

しかし、人生全体を通して、神の事々において私は前進していきます。

改心して以来、神の事々においてあなたは前進しているでしょうか。

自分は祝福の中で成長していると正直に言えますか。

あなたを義とされたお方は、今やあなたを聖化しているでしょうか。

これは大変重要な問題です。

神が成して下さっているこの業に関して私たちが学ぶ理由は、神が御子を愛しているからであり、神が御子を高く上げようとしているからです。

神は御子の満足と喜びを求めておられます。

この満足と喜びが純粋な花嫁です。

ぶどうの木である御子が、歪んだ、実を結ばない、死んでいる枝と結ばれることを神は望んではいません。

そんなわけで、私や牧師たちのように、新生されているあなたがたの中に、弟子訓練を経るクリスチャンがいるのです。

神はさまざまな方法であなたがたを取り扱います。

神の御力によって、祝福の中で神があなたを大きく成長させて下さる時があります。

罰を与えることによって神はあなたを成長させる時もあります。

そのようにして、神はぶどうの木を美しくするのです。

ぶどうの木を美しくするために、神はあなたがたの幾人かを取り除くでしょう。

さて、神はどのようにそれをなさるのでしょうか。

新約聖書には、殺すことによってと書いてあります。

そのようにして、神はアナニアとサッピラを取り去りました。

何故。

彼らは、ぶどうの木を大変見にくいものにしたからです。

神はそれを忍耐できなかった。

このようにして、神はあなたがたの幾人かを取り除くでしょう。

そして、あなたは両親、つまりあなたの権威から自由になります。

その教会から出て行きます。

他の教会に加わるかもしれません。

未信者である限り、宗教的な事々に参加するのもまた容易なことです。

本当の教会、真の教会からあなたは取り除かれます。

そして、あなたを取り去るために、偽りの何かへとあなたを閉じ込めます。

それはおそろしいことですが、真実です。

神はつねにそれを実行してします。

私たちが実り多き存在となるために、これらのことをなさっているのです。

昨日読み終えたばかりですが、おさらいをしましょう。

元気をもらいたいので、もう一度読もうと思います。

あなたが実を結ぶために、神はあなたを任命しました。

詩篇1:3
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。 

イエスはこう言いました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです(ヨハネ14:12)。」

「わたしが父のもとに行くから」とイエスは言います。

そして、神は聖霊を教会に注ぐ。

つまり、教会はそのような素晴らしい業の数々を行なうのです。

教会のメンバーは、そのような素晴らしい業の数々を行なうのです。

彼らは実を結びます。

結実と言うことばに関して注意する必要があると言いました。

単なる単語の学習であれば、このことばのあらゆる語義を見出すことができます。

必要なのは、このことばの基本的意味を見出すことです。

結実するためには、キリストの命で処理すべきものはすべて処理する必要があります。

敬虔なる性質、すなわち御霊の実は、私たちの命(生活)を通して、キリストがご自身の命を生きることです。

御霊の実とは、私たちを通してご自身の責務を成し遂げるキリストご自身のこと。

この世の人たちがあなたを見て、あなたの人生に意義を認めるだろうか。

あなたを見て、あなたの話しを聞いて、あなたの回りにいる人たちは天の趣きを感じることができるだろうか。

あなたの思いが永遠に置かれているがゆえに、この世の人たちも永遠に触れているだろうか。

あなたと触れ合う時、この世の人たちは聖書的何かに衝撃を受けているだろうか。

信仰が前進するにつれ、人々は助けられているだろうか。

あなたと触れ合う時、罪人は罪を認めているだろうか。

あなたは実り多きぶどうの木ですか。

教えて下さい、あなたの実を指し示して下さい。

ちょっと考えてみて下さい、今この時。

心で考えて下さい。

どれ位私は実を結んでいるだろうか。

多くの福音派の人たちが次のように言うのを知っていますか。

「私は毎週日曜日教会に行きます。」

本当ですか。

どれ位あなたは実を結んでいますか。

もし実りを見出すことができないのなら、恐れた方がよい。

 

 

 


#24 The Days of Vengeance, NO.24

2024年06月28日 | 報復の日々

p89~
The Structure of Revelation Foreshadowed
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

黙示録2-3

予示的黙示録の構造


結局のところ、7つの教会へのメッセージは、預言書全体の縮小版と言えよう。

すでに注目したように、序文(1章)に続く黙示録の4つのセッションは、レビ記26:18, 21, 24, 28において明らかにされている、契約における4つの7倍の呪いによって構成されている。

Lev 26:18  もし、これらのことの後でも、あなたがたがわたしに聞かないなら、わたしはさらに、あなたがたの罪に対して七倍も重く懲らしめる。

Lev 26:21  また、もしあなたがたが、わたしに反抗して歩み、わたしに聞こうとしないなら、わたしはさらにあなたがたの罪によって、七倍も激しくあなたがたを打ちたたく

Lev 26:24  わたしもまた、あなたがたに反抗して歩もう。わたしはまた、あなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを打とう。 

Lev 26:28  わたしは怒ってあなたがたに反抗して歩み、またわたしはあなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを懲らしめよう。 

黙示録における裁きの4形は以下のように要約される。

1.偽使徒に対する裁き (2-3)

偽教理を喧伝する異端教師らが曝け出され、非難され、ヨハネや真の使途たちの伝統に忠実である人たちによって破門される。

2.偽イスラエルに対する裁き (4-7)

聖徒たちを迫害している背教のイスラエルが非難され、処罰される。

信仰に厚いレムナントたちは裁きを免れ、契約の祝福を受け継ぎ、信仰の果実で地上を埋め尽くす。

3.邪悪な王と偽預言者(8-14)

獣と偽預言者は教会に対して戦争を仕掛け、真の王と信心深い証人によって打ち負かされる。

4.大淫婦に対する裁き(15-22)

バビロンと偽花嫁が非難され、焼かれる。

真の花嫁は子羊の晩餐を祝う。

この構造は、各教会へ宛てたメッセージと同じパターン。

1.エペソにある教会:偽預言者に対する裁き(2:1-7)

7つの教会における闘争は、ニコライ派に対するこの教会内での紛争という形で明らかとなる。

ニコライ派は自身を使徒と呼んでいるが、そうではない。

2.スミルナにある教会:偽イスラエルに対する裁き(2:8-11)

スミルナの人々は、イスラエル人であると名のる人たちとそうでない人たちとの間の対立で苦しんでいた。

彼らはサタン崇拝者。

3.ペルガモにある教会:邪悪な王と偽預言者(2:12-17).

1世紀の対立軸であるバラク、すなわちモアブの悪王と偽預言者バラムによる迫害と誘惑を経験した。

4.ティラテアにある教会:大淫婦に対する裁き (2:18-29)

神のしもべたちを偶像礼拝や姦淫へと誘う異端の首謀者がイゼベルであり、古代イスラエルの姦淫女王。

 

 


#69 基礎教理 Do You Bear Fruit? NO.2 

2024年06月26日 | 基礎教理

Do You Bear Fruit? - Paul Washer (John 15)

10分から20分28秒まで。

◇◇

知っておいて欲しいことがあります。

当時何か恐るべきものがあったとすれば、それはローマ軍でした。

それは、彼らが十分訓練された軍隊であっただけでなく、悪辣だったからです。

彼らは野蛮で、人を殺害することに喜びを感じていました。

もしもあなたがたがカエサルの時代に、パレスチナにいるユダヤ人だったとすれば、確実に恐れなければならないのは、ローマ軍の兵士であり軍隊でした。

卑劣、残虐、殺人鬼、袋叩き、強姦、虐待。

イエスは言いました、「彼らを恐れるな。彼らは体しか殺せない。」

こうも言いました、「誰を恐れるべきか教えましょう。御父です。」

神はあなたの体を殺すことができるだけでなく、最終的に、あなたを地獄に投げ入れることができます。

その日、死ぬ日のことを理解していますか。

あなたの体を殺すのは神です。

あなたが地獄に入れられる時、そこにあなたを投げ入れるのは神です。

今日この世の人々は、実際に神の裁きがあることを知りません。

あなたがたは違うと信じたい。

死は自然的だと思いますか。

死は自然的ではありません。

生まれも死亡も自然現象と人々は言います。

違います。

誕生は自然ですが、死は違います。

死は超自然現象です。

それは、生ける神の裁きです。

では、神の怒りがこの地上に現れていると思いますか。

日々、神の怒りはこの地上において現れ、何千万もの人々が死んで、地獄に投げ込まれているのです。

あなたがたの中に、それに加えられる人たちがいます。

警戒して下さい。

耳に痛いことばですが、真実です。

いわゆる教会は、多くの改心していない人たちで溢れています。

特に、若い人たち、私の子どもたちもそうではないかと恐れています。

クリスチャンファミリーの中で育つということは大変危険なことです。

完成された両親ではなくて、神を追い求める敬虔な両親とともに育った子供たち。

この世においてあまり華々しくはない教会に行くことは危険です。

神を知るために育てたいという正当な理由からとはいえ、ホームスクーリングは恐ろしいことです。

全てを献げた後、そこから離れることは恐ろしい。

それが主の御心であることを願うばかりです。

私の大いなる希望です、あなたがたの多くが今日恐れを抱いていると切に思いたい。

あなたがたがおののいていることを切に願う。

自分の状況に恐怖を抱いていることを希望します。

あなたがたが目覚めることを。

起きるか、寝ているか。

あなたがたはひどい状態にあります。

ヨハネ15章3節から。

あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。 
Joh 15:12  わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。 

これまで、イエスが真のぶどうの木であることを学んできました。

イエスから離れて、真の霊的命はありません。

外には多くの泉があります。

しかし、それらすべては偽の水槽であり、壊れた水槽であると神は指摘します。

それらは命を生む泉ではありません。

キリストのみです。

すべての霊的命は彼から流れます。

もうひとつ考慮すべきことは御父がぶどう園の農夫であるということ。

あなたが本当に改心しているかどうかの最大の証拠は、あなたの生き方において、神による神命を惜しげもなく、首尾一貫して実現しているかどうかです。

正直に言いますが、ある意味で、私は囚人のような気持ちでいます。

神を、私の御父として、私は知っています。

神は私を閉じ込めています。

私はある事々を行なうであろうことは分かっていますが、それから逃げようとは思わない。

神は絶えず私を守って下さり、見守って下さり、神命の業を行ない、私の人生に試練をもたらし、私の人生に弟子訓練をもたらし、教え、指導し、働きかけて下さいます。

大いなる忍耐と愛をもって、しかし極めて強固な御手をもって、神はそうして下さいます。

犬のように野山を走り回ることはできません。

神が私の後に付いてきているのが分かります。

あなたはこの世を元気に走り回ることのできる人でしょうか。

十分に配慮することなくこの世を歩んではいないでしょうか。

ノンクリスチャンがしていることができますか。

ノンクリスチャンの楽しみを楽しむことができますか。

ノンクリスチャンが歩むように歩むことができますか。

ノンクリスチャンの遊興に加わることができますか。

日曜日の朝、宗教の仮面をつけることができますか。

そのようなことができますか。

これが、御父はあなたのぶどう園農夫ではないということの証拠です。

神はあなたの御父ではない。

弟子訓練を避けて、この世の暗やみの御業に参加するなら、あなたは不法の子であり、兄弟姉妹ではないという証拠であります。

若い女性は聞いて下さい。

あなたがたも地獄に行きます。

さて、御父はぶどう園の農夫であるということを学びました。

そして、3節で、イエスは、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです」と言いました。

この聖句の意味はこうです。

私たちの人生における神の働きにはある要素がある、御子の働きがあるということ。

神の教えを通して、聖書の研究を通して、学び、暗記、主の教えの適応を通して、私たちは清められ、実を結ぶ器となる。

健康的な身を結ぶことのできる清い枝となる。

もちろん、御父も働いておられます。

私たちはキリストの教えを吸収し、御父が私たちの命の中で統括してきた経験を通して、私たちはそれらを生活に適応します。

これが試練や弟子訓練です。

加えて、私たちには三位一体の第3のお方がおられます。

このお方は、これらすべてのことにおいて常に働いておられます。

枝という比ゆ表現は大変重要です。

何故か。

何故なら、枝はぶどうの木に繋がれていなければならないからです。

命を育むぶどうの木の樹液が、枝へと流れ込んでいくように。

命を育むぶどうの木の樹液とは聖霊です。

「キリストが私の中に宿っている」ということ。

同様に、御父も私の中に宿っている。

その一方、御父は天におられ、キリストは神の右に座しておられる。

御父と御子が私たちの中に宿っているとはどういうことか。

聖霊の働きを通してであります。

事実、この地上におけるあらゆる神の業は、生ける神の霊によって成し遂げられています。

そういうことで、私たちは三位一体の神を有しているのです。

御子はあなたに教えます。

御父はその教えを適応します。

聖霊はあなたを力づけます。

一例を挙げましょう。

ガラテア書5章は、クリスチャンライフとは格闘であり、常に格闘となるであろうと証ししています。

宗教改革には問題がいくつかあります。

改革派神学の問題ではなく、現代の改革派信者に関する問題。

自分たちをを打ち負かしている罪の事実を彼らは自慢しているように思えるのです。

自分たちが超自然的存在であり、聖の重要性を理解していると思い込んでいるようです。

「私は何て惨めな人間なんだろう、そして罪人だ」と彼らは言います。

このことばにはおかしなところがあります。

もしも真のクリスチャンなら、あなたにはキリストの教えがあり、御父の神命があり、あなたの命の中で働く神の霊があります。

嗚呼、わが友よ。

あなたには罪を超えている勝利があるはずです。

もちろん、私たちは罪と格闘します。

3歩前進しては4歩後退することもあるでしょう。

これは激闘です。

しかし、もしも人生の過程を終えたところで罪に対する勝利が見えてこないとすれば、それは、あなたは神を知らない、神はあなたを知らないということの良い指標です。

主のことばを思い起こして下さい。

「私はあなたのすべての不義と偶像からあなたを洗い流そう。」

エゼキエル36:25-26
わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。

Eze 36:25  Then will I sprinkle clean water upon you, and ye shall be clean: from all your filthiness, and from all your idols, will I cleanse you. 

もしも私自身のクリスチャンライフを説明するならば、そして、もしも過去30年間の私自身のクリスチャンライフを回想するならば、他のどんな聖句よりも、この聖句がまさにぴったり当てはまります。

 

 

 


#23 The Days of Vengeance, NO.23

2024年06月25日 | 報復の日々

p88~
Recapitulation of Covenantal History
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

黙示録2-3


7.ラオデキアにある教会(3:14-22)

イスラエル終焉の時期(紀元30‐70年)に、7番目かつ最後のメッセージが与えられる。

「ぬるま湯」の教会、すなわち富と自己充足感を豪語するが、実際には貧しく、裸であることが見えていない教会は、1世紀の偽善的パリサイ派ユダヤ教に相応しいイメージ (Luke 18:9-14; cf,Rev. 18:7)。

ルカ18:9-14
Luk 18:9  自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。 
Luk 18:10  「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 
Luk 18:11  パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 
Luk 18:12  私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 
Luk 18:13  ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 
Luk 18:14  あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」 

この教会は、その地から吐き出されようとしていると警告された(the curse of Lev. 18:24-28; cf. Luke 21:24)。

イスラエル人は悔い改めて、キリストを受け入れ、聖餐式の食事を提供するように迫られた。

勝利する者たちは、新しい契約、キリストの支配によってもたらされる、その時代の祝福を保証される(cf. Eph. 1:20-22; 2:6; Rev. 1:6)。

エペソ1:20-22
Eph 1:20  神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、 
Eph 1:21  すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。 
Eph 1:22  また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

 

 


#22 The Days of Vengeance, NO.22

2024年06月24日 | 報復の日々

p88~
Recapitulation of Covenantal History
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

黙示録2-3

5.サルディスにある教会(3 :l-6)

この箇所のイメージは、後半の預言的期間から王国の終わりまでの期間に由来する。

この間、不従順な契約の民は打ち負かされて、捕囚に捕られた。

この教会の「生きている」という評判は、実は「死んでいる」というものだった。

「目を覚ませ」「とどまっている者たちに力を与えよ」という激励。

信仰心のある少数の者たちは皆、背教の時にあって、残されし者たちという預言的ことばの記憶 (Isa. 1:5-23; 6:9-13; 65:8-16; Jer. 7:1-7; 8:11-12; Ezek. 37:1-14)。

エレミア8:11-12
Jer 8:11  彼らは、わたしの民の娘の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。 
Jer 8:12  彼らは忌みきらうべきことをして、恥を見ただろうか。彼らは少しも恥じず、恥じることも知らない。だから、彼らは、倒れる者の中に倒れ、彼らの刑罰の時、よろめき倒れる。」と主は仰せられる。 


身近に迫る裁きに対する警告 (Isa. 1:24-31; 2:12-21; 26:20-21; Jer. 4:5-31; 7:12-15; 11:9-13; Mic. 1:2-7; Zeph. 1)。

イザヤ26:20-21
Isa 26:20  さあ、わが民よ。あなたの部屋にはいり、うしろの戸を閉じよ。憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ。 
Isa 26:21  見よ。主はご自分の住まいから出て来て、地に住む者の罪を罰せられるからだ。地はその上に流された血を現わし、その上で殺された者たちを、もう、おおうことをしない。

6.フィラデルフィアにある教会(3:7-13) 

エズラとネヘミアの下でバビロン捕囚から生還したことが、このメッセージに反映されている。

礼拝堂とエルサレムの再建、そして神殿のイメージが書かれている(cf. the prophecies of Haggai, Zechariah, and Malachi)。

捕囚から生還したユダヤ人のようなフィラデルフィア人は、少しばかりの権力しかなかった。

ユダヤ人か、ユダヤ人ではないとする、サタンの礼拝堂に関する記載は、偽ユダヤ人との闘いを思い起こさせる(エズラ記4章、ネヘミア記4,6,13章)。

来たるべき「試練の時」(それは全世界に到来しつつあったが)への警戒は、その地に住む者たちに対するものだった。

アンティオコス4世エピファネスの下で苦しめられていた艱難を思い起こす (cf. Dan. 8 and 11)。

しかし、キリストは勝利者に約束する。

彼を神殿における柱とし、新エルサレムの祝福を共有する者とすることを。

 

 


#21 The Days of Vengeance, NO.21

2024年06月23日 | 報復の日々

p87~
Recapitulation of Covenantal History
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

黙示録2-3


4. ティアテラにある教会(2:18-29)

ヨハネは、イスラエル君主制とダビデ契約の時期へとイメージを向ける。

キリストは、ご自身を「神の子」、ダビデより偉大な王であると宣言する(cf. Ps. 2:7; 89:19-37; Jer. 30:9; Ezek. 34:23-24; 37:24-28; Hos. 3:5; Acts 2:24-36; 13:22-23)。

エゼキエル37:24—28
Eze 37:24  わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行なう。 
Eze 37:25  彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた国、あなたがたの先祖が住んだ国に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちとがとこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。 
Eze 37:26  わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。 
Eze 37:27  わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 
Eze 37:28  わたしの聖所が永遠に彼らのうちにあるとき、諸国の民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知ろう。」 

キリストは、ティアテラの天使を嗜める。 

彼の妻であるイゼベルの信仰の自由が、神の民の背教へと導いている (cf. 1 Kings 16:29-34; 21:25-26)。

彼女と彼女と姦淫した者たちは艱難に苛まれる。

イゼベルの日に、3年半の艱難がイスラエルに注がれる(1 Kings 17:1; James 5:17)。

第1列王記17:1
1Ki 17:1  ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」 

ヤコブ5:17
Jas 5:17  エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。 

イゼベルとその子孫は死に絶える (cf. 2 Kings 9:22-37)。

しかし、ダビデのように、民を支配する権威として、打ち勝つ者は認められる (cf. 2 Sam. 7:19; 8:1-14; Ps. 18:37-50; 89:27-29)。

結果としての約束は、ダビデの救世主的支配を予見する。

私が御父から受けたように

詩篇2:9
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』」 

 

 


#68 基礎教理 Do You Bear Fruit? NO.1 

2024年06月22日 | 基礎教理

Do You Bear Fruit? - Paul Washer (John 15)

初めから10分まで。

◇◇

ヨハネ福音書15章3節~


ヨハネ福音書15章をお開きください。

今日の聖書箇所を読む前に、これまでも言われてきましたが、大変重要なことに注目したいと思います。

単純にこうです。

今朝、恐ろしい裁きに関する箇所が読まれました。

イエスキリストの再臨の前に、地上に下る、あるいは下り続けるであろう裁きのことです。

今朝あなたの心が打ち震えるほどに、神のことばに対するあなたがたの信仰が明らかとなります。

今朝読まれた箇所を聞いた人は多いと思いますが、不快に思わなかった人はいるでしょうか。

不快ではなかったという理由は、あなたに信仰の確信があるからではなくて、あなたがたの心に無感覚が芽生えているからではないでしょうか。

あなたがたは恐ろしいことを聞きました。

今日あなたがたにお話しすることは、生死に関する重大な事柄、すなわちクリスチャンライフに関することです。

このことは大変重い事柄なのですが、右の耳から入ると左の耳から出て行ってしまいます。

今よりもさらに敬虔となるための方法を、今日お話ししようと思います。

さらに大いなる確信をもって、神の御座の御前に立つためであります。

あなたがたは、そのことを証明しようと口にすることも、そういう生き方をすることもないと思います。

この手のことに関心はあるでしょうか。

あなたがたにとってあまり重要なことではない。

腹が立つというのであれば、その前にひとつ質問します。

一日のうち何時間、自分のことを考えていますか。

一日のうち何時間、一時(この世)的なことを考えていますか。

健康のことや美容のこと、着るもののこと、あるいは人間関係、この世の楽しみや道楽といったこと。

このようなことを考えている時間はどれくらいですか。

そして、神の事々について考えている時間はどれくらいですか。

さらに純粋となるために、さらに潔白となるために、さらにキリストのようになるために、どれ位の時間を費やしていますか。

さらなる救いの確信に向かって、如何なる努力をしていますか。

今私がこうして話している時でさえ、頭を下げて、私が言っていることを聞いていない人がいるのではないでしょうか。

神のことばに従うことは大変危険なことであると知っておいて欲しい。

同じ太陽の光がバターを溶かしたり、粘土を固めます。

鈍感であってはなりません。

この世のことに警戒して下さい。

自分の心に警戒して下さい。

自問して下さい。

あなたが新生しているという証拠はありますか。

今日が日曜だからここにいるのですか。

ここにいることがあなたの家族にとって都合が良いから、ここにいるのですか。

強制されてここにいるのですか。

神の霊によって新生されているのであれば、神の家に来ることは喜びのはずです。

主を愛する人であっても退屈な説教に耐えなければならないことが時おりありますが、神のことばを聞きたいがゆえにここに集うのです。

しかし、新生された心が教会を離れても、その新生された心は神の家への願いを置き去りにすることはありません。

その人の人生において神がなさったことは、弱さを通して反映されます。

あなたの生活をカメラで追いかけてみるなら、どれほどあなたが自分自身に心を占拠されているかが分かります。

一時的なものに心を奪われている自分。

永遠に続くことのない物事に夢中になっている自分。

虚栄、鏡、化粧、筋肉、車、家、ブランドものの衣服に心奪われている自分。

あなたの生活を追いかけて、心の中を覗いてみるなら、自分についての数多くのこと、心の中にある数多くのこと、他人が自分についてどう思っているのかをあれこれ思い詰めて、彼らを魅了したり、彼らの注目を浴びるためにあらゆる努力を惜しまない。

一方、神の心を惹こうとは思わない。

つまり、まだ悔い改めていないなど、何かあるのです。

そして、地獄に落ちます、必ず。

その大いなる日に驚愕するでしょう。

「ここから出て行け。悪をなす者。私はあなたを知らない」と言うのを聞きます。

「ここから出て行け」においてイエスの言わんとすることは、イエスと関係があると言いながら、従うべき法がまるでないかの如くに生きているということ。

毎週日曜日、私があなたがたの前に提示した重要事項を真剣に受け止めない人がいます。

そういう人は鈍感であり、世俗的であり、肉的です。

「あなたは私のものではない。」

それを言うのはいやなことです。

だから、穏やかに話しているのです。

しかし、それは事実です。

今から敬虔となる方法を教えます。

しかし、ここにいる人の中に全く関心のない人がいます。

敬敬になるなんて興味がないという人。

私と議論したいのであれば、「証拠を見せろ」と私は言いたい。

どれ位の時間を、鏡の前で使っているのか教えて欲しい。

どれ位の時間を、神のことばの前で使っているか教えて欲しい。

どれ位の時間を、人間関係を保つために使っているか教えて欲しい。

一方で、神を満足させるため、主の御前で自分を磨き上げるために時間を全く使わない。

よくよく注意して欲しい。

この主日が終わるのを只々待っている人がいます。

この後のお楽しみの時間のために。

恐れて欲しい。

これは素晴らしいことであり、重要なことです。

あなたがこれまで受け入れてきた中で最悪なもののひとつは、評判を得るためのしきたりを与える見栄えのよい宗教を引き受けたことです。

しかし、あなたの心にはキリストに対する愛がない。

大いに恐れなさい。

ヨハネの福音書15章1節を始めます。

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

先の箇所(マタイ7章)に関してはすでに話しましたが、もう一度話させてください。

私にはこのことに関して負い目があります。

この聖書箇所の言わんとすることが分かりますか。

イエスは、「私を言葉で否定する者が皆除かれる」とは言っていない。

「公けの場で私に敵対する者が皆取り除かれる」とも言っていない。

主は、自分を主と告白する人たちについて話しています。

ぶどうの木につながっている枝のふりをしている人たち。

「真に私に属しているという証拠は、実を結ぶことであると主は言います。

あなたがたに聞きたい。

「あなたは実を結んでいますか。」

「あなたは実を結んでいますか。」

何故このように強調して言っているのでしょうか。

何故なら、外に追い出されて、地獄に落ちる日が来るからです。

最後にこう言われるでしょう、「あなたは実を結ばなかった。」

あなたは実を結んでいますか。

さあ、答えて下さい。

もしもそうでないなら、どうなるでしょうか。

彼、すなわち神は、あなたを取り除くでしょう。

神が取り除くとはどういう意味でしょうか。

あなたはひとりの人間です。

あなたの父も母もクリスチャンかもしれない。

彼らは教会では目立つ存在かもしれない。

しかし、あなたの心は闇の中にあり、この世を望んでいる。

あなたは枝であると言い張るかもしれない。

自分はちょっとした道徳心がある人だと言うかもしれない。

しかし、大いなる日に、あなたに何が起こるでしょうか。

取り除かれるとはどういう意味でしょうか。

6節、「私に止まらない者はだれでも、枝のように投げ捨てられて、干上がる。そして、集められて、火の中に放り込まれて、焼かれる。」

「神はひとりも地獄に落とさない」と言うことが今日の福音主義に共通する考え方です。

この考え方は、われらの主救い主イエスキリストのことばとは真逆であることを知って欲しい。

主は弟子たちに警告しました、「ローマ軍を恐れてはいけない。」

それが、弟子たちに話したことです。

 

 

 


#67 基礎教理 

2024年06月19日 | 基礎教理

Paul Washer師とSinclair Ferguson師による基礎教理に関するメッセージを拝聴する。

救いを達成するための手引書的な内容であり、内容が一部重複するように動画を選んだ。

時間が許す限り丁寧に拝聴していきたい。


◇◇

Do You Bear Fruit? - Paul Washer (John 15)

How to Abide in Christ - Paul Washer

United with Christ

Hidden in Christ: Union with Christ

Union with Christ: Life-Transforming Implications

The Vine and the Branches: Union with Christ

Walking in the Spirit: Who Is the Holy Spirit?

 

 


#20 The Days of Vengeance, NO.20

2024年06月18日 | 報復の日々

p87~
Recapitulation of Covenantal History
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

黙示録2-3

3. ペルガモにある教会 (2:12-17)

この箇所のイメージは、悪魔の住処である荒れ野におけるイスラエルの寄留から取られている(Lev. 16:10; 17:7; Deut. 8:15; Matt. 4:1; 12:43)。

ペルガモのクリスチャンたちは、サタンの座があるところ、すなわちサタンが住むところに住まなければならなかった。

教会の敵は、バラムやバラクと記されている。

偶像礼拝や淫行を行なわせることによって、偽預言者や邪悪な王はイスラエルの民を破壊しようと試みる(Num. 25:1-3; 31:16)。

民数記25:1-3
イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。 
娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。 
こうしてイスラエルは、バアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りはイスラエルに対して燃え上がった。 

主のみ使いや祭司ピネハスのように、キリストは、剣をもってバラム信仰者たちを打ち滅ぼそうと言われる(cf. Num. 22:31; 24:7-8)。

打ち勝つ者たちのために、キリストは契約の箱から隠されたマナ、新しい名前が掘られた白い石、契約の民の贖いのために大祭司が着る記章 (Ex. 28:9-12)のシェアを約束をする(Heb. 9:4)。

ヘブル9:4
そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。 

 


#19 The Days of Vengeance, NO.19

2024年06月14日 | 報復の日々

p86~
Recapitulation of Covenantal History
The Letters to The Seven Churches  
Part Two: The Seven Letters 
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

黙示録2-3


契約の歴史の要約


以前に、7つの教会は抽象的に教会史の7つの時代を表すという誤謬について論じた。

7つの教会とは、教会史(旧約聖書教会史)の7つの期間と関連するという別の見解もある。

アジアの7つの教会を記述するために用いられるイメージは、エデンの園から紀元1世紀の状況に至るまでの年代に従って進んで行く。

1.エペソにある教会(2:1-7)。

パラダイスということばが、この箇所全体を通して明らかにされる。

キリストはご自分が創造主であることを宣言する。

7つの星を持つ。

神が、裁きのために (Gen. 3:8)、エデンの園を歩き回ったように、評価のために燭台の間を歩き回る。

アダムがエデンの園を守り、妻エヴァを敵であるサタンから守ったように (Gen. 2:15)、エペソ教会の天使は、敵から教会を適格に守るように奨励される。

しかし、エペソ教会の天使は、アダムのように、最初の愛から離れてしまった。

それ故、裁きのために、キリストは彼のもとへ行き、そこから燭台を取り除いてしまうと脅した。

ちょうどアダムとエヴァをエデンの園から追放したように。

にもかかわらず、エデンの園の門は、誘惑者に打ち勝つ者たちのために開かれている。

打ち勝つ者のために、私は、わが神のパラダイスの中にある命の木から食べることを認めよう。

2.スミルナにある教会 (2:8-11)。

家長(アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ)とエジプトにいるイスラエルの子らの状況が、このメッセージのことばに反映されているように思われる。

キリストは、イサクの命 (Gen. 22:1-14; Heb. 11:17-19)において、そしてヨセフの命 (Gen. 37:18-36; 39:20- 41:45; 45:4-8; 50:20)において予示された贖罪の業、すなわち「死んだが、生き返った」者と、ご自身を記述する。

同様に、奴隷の家からのイスラエル救出において予示された贖罪の業として、ご自身を宣言する。

スミルナ人が一見貧乏であり、実際には富んでいるという状態は、約束の地において、異邦人として生きた家長たちの経験と類似する (Heb. 1 1 :9)。

イサクを迫害したイシュマエルに似ている(Gen. 21:9; cf. Gal. 4:22-31)。

誹謗中傷による扇動のために投獄の危険に晒されていることは、ヨセフの人生に似ている(Gen. 39:13-20)。

勝利の前の10日間の艱難は、解放の前の10の疫病を経るイスラエルの話しを投影する。