みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

God as the Life of the Body, #12

2017年09月28日 | 聖書研究・信仰
カレブの肉体的状態についても聖書には書かれている。

イスラエル人がカナンに入った後、カレブがこう証言した。

あの日モーゼは誓って言った。

「確かに、あなたがたの足が踏み入れたその地は、あなたがたと子孫のための相続地となろう」

「何故なら、あなたがたが私の神ヤハウエに従い通したからだ」

「さあ今や、見よ、主ヤハウエは45年もの間、私を生かし続けてきた」

「主ヤハウエがモーゼにこのことばを語ってからこれまでの間、イスラエル人は荒れ野をさまよい歩いた」

「ああ、私は今日で88歳となる」

「モーゼが私を送ったあの時と同じように、いまだに体力に溢れている」

「今もわたしの体力はあの時と同じだ」

「戦さのために出ていき、また帰ってきたあの時のまま(ヨシュア14:9~11)」




Coffee Break, #104

2017年09月25日 | コーヒーブレイク
箴言23章7節a
彼は心のうちでは勘定ずくだから
・・

この日本語の意味は何。こんな日本語見たこともなければ聞いたこともない。

良く分からないので英語訳を見てみる。


as he thinketh in his heart, so is he
・・
(KJV)

これなら分かる。

人は心で思っているように、その身になる。

つまり

思っている通りになる
予想は当たる
予感は的中する

と言う意味だ。

旧約に関しても、やはり頼りになるのは日本語訳ではなく英語訳の方だ。




Coffee Break, #103

2017年09月24日 | コーヒーブレイク
マタイ9章36節
また
群衆を見て
羊飼いのない羊のように
弱り果てて倒れている彼らを
かわいそうに思われた

「かわいそうに思われた」という意味を持つ単語はσπλαγχνίζομαιで

σπλαγχνίζομαι:
Middle voice from G4698; to have the bowels yearn, that is, (figuratively) feel sympathy, to pity: - have (be moved with) compassion.

*to have the bowels yearnとは、断腸の思いという意味のイディオム

次の聖句でも同じ単語が使われている。

マタイ14章14節
イエスは舟から上がられると
多くの群衆を見られ
彼らを深くあわれんで
彼らの病気を直された

「深くあわれんで」と訳されている単語が、やはりσπλαγχνίζομαιだ。

この単語の意味は、上の説明を見れば分かるように「はらわたのちぎれる思いをする」であり、いずれの聖句においてもこの訳が良い。

マタイ9:36
主はこれらの群れを見て
彼らのために
はらわたのちぎれる思いをした
というのは
彼らに生気がなく
散らされていた
羊たちのように
羊飼いを持たない

マタイ14:14
イエスは出ていった
多くの群れを見た
彼らに対して
はらわたのちぎれる思いをした
彼らの病気を癒した




God as the Life of the Body, #11

2017年09月23日 | 聖書研究・信仰
旧約の聖者たちが肉体の力として神を認識したり、体を貫く神の命を経験することはごくありふれた出来事であった。

その最初の例がアブラハムだ。

「およそ百歳となりほぼ死んだも同然となった自分の体のことをよくよく考えた時も」

「サラの胎が不毛であることをよくよく考えた時も」

「信仰において弱められることはなかった(ローマ4:19)」

信仰によって、彼はイサクをもうけた。

神の力が死んだも同然の体において現われた。

この点における事の要点とは我々の体の状態ではない。

この体における神の力なのだ。

モーゼの命について、聖書にはこう書かれている。

「彼は120歳で死んだ」

「彼の眼はかすむことなく、生まれながらの力も弱まることはなかった(申命記34:7)」

この聖書の記載において、モーゼの体に現れた神の力については疑う余地がない。




God as the Life of the Body, #10

2017年09月21日 | 聖書研究・信仰
旧約の聖徒たちの経験

神は決して子らが弱くて良いと思っていない。

神の思いは子らが元気で健康なことだ。

みことばにこうある通り。

「あなたの日々があるように、あなたの力があるように(申命記33:25)」

当然のことながら、これは体のことを指し示している。

地上で生きていく限り、主は力を与えて下さると約束している。

寿命に追加される一日があれば、そのために必要なスタミナを与えようと神が考えているのではない。

神の子らが信仰によってこの貴重な約束をものにできない理由がある。

それは、子らが地上での日々の活動とは比例しない活力を得ようとすることだ。

神の子らのために日々の生活に見合うエネルギーを供給するために、ご自身を子らのためのエネルギーとすることを約束なさった。

神は生きており、我々の生活があって、我々の力がある。

神の約束は生きている。

毎朝日の出を見ながら、我々はこのように言うことができる。

神が生きているので、我々はその日の必要、霊的のみならず、肉体的な必要をも満たすことができる。




Coffee Break, #102

2017年09月20日 | コーヒーブレイク
第1ペテロ1章21節
あなたがたは
死者の中からこのキリストを
よみがえらせて彼に栄光を与えられた神を
キリストによって信じる人々です
このようにして
あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです

この聖句もかなり難解だ。

KJV訳を頼りに読み込んでいく。


Who by him do believe in God
that raised him up from the dead
and gave him glory
that your faith and hope might be in God
(KJV)

この英語訳および原典を読んで分かることは、上の日本語訳で「キリストによって」と訳された語句(KJVだとby him)の訳出上の位置が良くないことが分かる。これを文頭に持ってくれば原典に近い文意を再現できる。

キリストを通して、神を信じている者たち

続いて、どんな神かについての説明が書いてある。

キリストを死者から甦らせ、彼に栄光を与えた神

さて、問題となるのが最後の文章だ。

あなたがたの信仰と希望は神にかかっている

と訳出しているが、原典には「神にかかっている」とは書いていない。こういったところに日本語訳のテキトー性がある。神にかかっているとはどういう意味か。神次第だとでも言いたいのか。

ここの意味は、KJVにあるとおりだ。より正確を記するなら

あなたがたの信仰と希望は神の中へと存在する

上の日本語訳で、「このようにして」と訳された単語は、ὥστεで

ὥστε:
From G5613 and G5037; so too, that is, thus therefore (in various relations of consecution, as shown): - (insomuch) as, so that (then), (insomuch) that, therefore, to, wherefore.

つまり、「かくして」「それ故」。


キリストを通して
神を信じている者たち
死者の中から彼をよみがえらせた
彼に栄光を与えた
それ故
あなたがたの信仰や希望は
神の中へと在る

ポイントは、文頭の「キリストを通して」。

キリストを通して、我々は神を信じている。

それ故「キリストを通して」でなければ、我々の信仰も希望も神の中へと入っていくことはできない。





Coffee Break, #101

2017年09月18日 | コーヒーブレイク
ローマ3章26節
それは
今の時にご自身の義を現わすためであり
こうして神ご自身が義であり
また
イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです

なかなか難しい聖句だ。

この聖句において指摘しておきたい箇所がここ。

>イエスを信じる者を義と

下に2つの英語訳を掲げる。

同3:26
To declare
I say
at this time his righteousness
that he might be just
and the justifier of him which believeth in Jesus
(KJV)

同3:26
for the shewing forth of His righteousness in the present time
for His being righteous
and declaring him righteous who is of the faith of Jesus
(YLT)

どこが違うのか。

KJV:him which believeth in Jesus

YLT:him who is of the faith of Jesus

では、原典にはどのように書いてあるのか。

τον εκ πιστεως ιησου

英語に直訳すると

him (who is) out of faith of Jesus

つまり、原典に忠実に訳されているのはYLT訳の方だと分かる。

従って、YLT訳を参考にしながらこの聖句を直訳する。


ローマ3章26節
神の忍耐において
彼の義の宣言のもとで
この世の物理的時間において
彼ご自身が義である結果
その者が義となる
イエスの信仰から出た

難しいことはさておき、文意は何となく理解できる。それでよい。

義とされるのは、「イエスを信じる者」ではなく「イエスの信仰から出た者」と原典には書いてある。

つまり「イエスの信仰」という家系出身者が義とされるのだ。

血筋、家系で決まるのなら私が決めるのではない。

「イエスの信仰」を与えて下さるのは義なる神、すなわち一方的な恵みによって決定されるということ。







Coffee Break, #100

2017年09月16日 | コーヒーブレイク
ローマ3章22節
すなわち
イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって
それはすべての信じる人に与えられ
何の差別もありません

この訳もウソ。

下の英語訳を見れば一目瞭然。


Even the righteousness of God
which is by faith of Jesus Christ unto all
and upon all them that believe
for there is no difference
(KJV)


神の義は
イエスキリストの信仰によって
すべての中へと(入り込んでいく)
そして
すべての上に
信じている者たちの
区別はない
(直訳)





God as the Life of the Body, #9

2017年09月13日 | 聖書研究・信仰
神はご自身のことばの中にご自身の命を隠される。

神ご自身が命であるように、神のことばもまた命だ。

神のことばを、単なる教え、信条、道徳的基準などと見なすのなら、それは我々の中で、大いなる効果を発するものとはならない。

そうではない。

神のことばは、食物と同じように、消化されて我々と一体となる必要がある。

飢え渇いている信徒は、神のことばを食物のように取り込む。

信仰を以てそれを受けるなら、ことばは命となる。

主のことばは我々の命を支えると神は言う。

天然の栄養がうまく働かない時も、みことばに従って神を信じることができる。

神は我々の霊にとっての命だけではない。

我々の体にとっても命である。

今日のキリスト者は大きな損失を被っている。

この地上の幕屋のために、神が如何に多くの備えをして下さってるかを知らない。

神の約束を内なる霊にのみ制限し、外なる肉への適用を見逃している。

肉体的要求は霊的要求ほど強くはないと考えてはいないか。




God as the Life of the Body, #8

2017年09月12日 | 聖書研究・信仰
神のレーマは我々の体の命となる。

「人はパンのみで生きるのではない、神の口から出るひとつひとつのレーマによる(マタイ4:4)」

この聖句は、神のレーマが我々の体を支援できるという考えを実体化する。

言うまでもないが、人はパンによって生きていかなければならない。

しかし、神のレーマがパワーを解き放つ時、人はそれによっても生きることができる。

つまり、我々はナチュラルな生き方とスーパナチュラルな生き方の2つの方法を持つ。

もはや食事を取る必要はないと神が言っているのではない。

神のレーマは食べ物からでは得られない命を供給することができると教えているのだ。

食べ物が我々の体に有効性を発揮できない時、神のレーマが我々に必要なものを与えてくれる。

ある者はパンのみによって生きる。

ある者はパンと神のレーマによって生きる。

パンは時にうまく働かないが、神のレーマは決して変わることがない。